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第一章 消えてくれ、この世の果てまで 1

 呼び出しを受けたのは真冬の夜。指定されたダンススタジオに赴くと、入り口で雇い主が待っていた。


「……っス」


 目深にかぶったフードを少し上げて、御剣みつるぎ翔矢しょうやは軽く会釈した。


「隣が依頼主っスか、隼人さん」

「うん。知人から教えてもらったそうだよ」


 現在翔矢がバイトで入っている、とある事務所のオーナー。


 名を、池添いけぞえ隼人はやとという。口調も性格も柔和なのだが、体は服越しに分かるほどの屈強で、体と心の印象がちぐはぐだ。


「さて、集まったから仕事にしよう。準備、よろしいですね?」


 隼人が依頼主に促し、ダンススタジオの扉を開けた。


 事前に聞いた話では、こうだ。


 依頼主は三十台女性。バレエ教室を経営するダンサーであり、主に児童や学生へ指導をしている。


 数か月前から、レッスン中に意識が飛ぶようになったのだという。


 酷い時にはスタジオに居る間の記憶がごっそり無く、しかし学生や保護者達に聞いても普段通りに指導していただいていた、とのこと。


 記憶がないのは決まってダンススタジオの中でだけ。一歩外に出れば意識ははっきりしているし、夢遊病も疑ってみたが寝不足なわけでもない。意識がなくなる日数は日に日に多くなり、今では教室を開いている週五日の内、一日記憶があれば良い方らしい。


 あまりに奇妙で、恐ろしい。意識がない間、自分が何をしているのかと思って監視カメラの映像を見ても、特段異変らしい異変は起こっておらず、いつも通りに学生たちとコミュニケーションをとる姿が映っていたのが、尚の事背筋を凍らせた。


 その日も、スタジオに足を踏み入れた瞬間から、出るまでの記憶がなかった。何も覚えていないのに、いつも通りの日常を送っている。


 ──この映像に映っている、〝私〟は誰だ?


 腸を綿で締め潰されるような、得も言われぬ不快感が駆け上がったそうだ。そこで、ある都市伝説が頭を過ぎったため、池添の事務所に連絡を取ったのだという。


「話を聞く限り、九割がた幻光げんこうちゅうの仕業でしょう。もう相当食われていると考えていいかな」

「……ほんとにいるんですか? オカルトじゃなくって?」

「いるのですよ、これが本当に。何がきっかけになったのかは分からないし、追及も致しませんが……ちなみに、意識がなくなるピンポイントな場所はどこか、分かったりしますか?」

「いつもは、この玄関に置いた姿見を通ったあたりで……いつもここなんですけど、今日は大丈夫みたい……?」

「それはそうだ。我々がいますからな。おいそれと、向こうも動けないのでしょう」


 今日は翔矢たちがやってくるため、ダンススタジオは臨時休業。薄暗い玄関を潜って、翔矢は懐から朱色のサングラスを取り出した。


 レンズ越しに玄関を眺める。真っ暗なはずなのに、ちらほらと細かな光が漂っている。


 色は黄色の警戒色。赤でないなら、怒ってはいない。困惑と警戒が半々なのだろう。


「どうだね、翔矢君」

「よく意識が飛ぶくらいで済んでたっすね。これ、相当いるっすよ」


 飛蚊症のようになった視界が眩しくて、瞬きを繰り返す。ツンと目の奥を突いた刺激に顔をしかめた瞬間、玄関先に灯りがついた。


 瞬間、チラついていた細かな光が、弾かれたように動き出す。集まった強烈な光が向かった先は、スタジオ内に張り巡らされた鏡だった。


「さて、改めて種明かしを致しましょうか。貴方の意識を奪っている元凶をね、我々は〝幻光蟲〟と呼んでいる。彼らは限りなく同じ場所にあり、しかし完全に重なってはいない別の次元にいます。便宜上、我々は裏世界と呼んでいますが……近いからこそ、互いに干渉はできる」


 歩を進め、スタジオの中に入る。サングラスを押し下げて裸眼で見た鏡は、いつも通りに己の姿を映していた。


 カーキ色のモッズコートに、ゆったりとした黒のカーゴパンツ。日本人にしては珍しい紫水晶の瞳に、あせた金髪。眠たそうに半分伏せった眼差しは、あまり生気を感じさせていない。


 一度目を閉じて、サングラスをかけ直し、鏡を見る。


「時に──鏡に写ったものを、自分であると認識したことはありますかな?」


 隼人の唐突な問いに、依頼主は首を傾げた。


「鏡は左右反転してるだけで、自分が写ってるだけでは?」

「写っているのではなく、移っているのですよ。鏡に写った瞬間、貴方の存在は、裏世界にもあるのです。その存在が反転したために、表と裏で入れ替わったあなたに表での記憶がなかった。説明としては、こんなものでしょうか」


 サングラスを重ねて見た鏡に写っているのは、依頼主の女性だけだ。翔矢の姿はない。


 理由は簡単で、既に鏡の裏側に己と同一の存在がいないからである。


 翔矢は尚も朱のスクリーン越しに周囲を観察する。


 鏡に写った、黄色と赤の群れが激しく蠢いている。サングラスを指であげ、顔を反らしながら裸眼で確認すると、鏡に写った女性はじっとこちらを見つめていた。


「でも、その……入れ替わるだなんて、そんな」

「存在の優先度が反転しているだけですからな。鏡という入り口がありさえすれば、移動は一瞬です──ま、向こうに肉体はあったりなかったりですが」


 裏世界に住まう幻光蟲は形を真似る性質を持つ。それは有機物無機物を問わず、そして命の有無も問わない。完璧な形で、物質だけ真似るのだが──だからこそ、彼らは命たりえない。


 心がない。


 魂がない。


 蠢くだけのエネルギー体は、しかし、何かになりたい欲求だけを持っている。


 己にもち得ない物を得るために、どうするか。手段など一つしかない。


 誰かからの略奪である。


「いや、移動してさえいない。幻光蟲は今まさにここに居ます。異なる次元、異なる世界で、今確かにあなたと重なっているのですよ」

「そろそろ怒りそうっすよ」

「では準備を。いつも通り、後始末は任せなさい」

「っす」


 翔矢は腰に下げていたランタン──篭鐘ろうしょうを掲げた。内部に吊るされた鏡が翔矢の姿を映すや否や、うねり曲がって巨大な鎌に形を変える。


 篭鐘は、幻光蟲を捕える篭であり、指示を与える鐘であり、裏世界を照らす灯りである。


 変形した篭鐘を握り、サングラスを外して懐に収める。痛まなくなった眉間の皺をほぐしながら鏡に寄り、女性がきちんと写る角度を維持しながら、そっと観察した。


 現実では、女性の後ろを守るように隼人が立っている。鏡の向こうの奥行は、左右反転しているだけで不可解なところはない。


 そのまま、じっと眺める。鏡に写った女性を睨みつけていると、不意に視線がこちらを向いた。


「えっ、今、目動いた?」


 驚いた女性の声に反応して、鏡の中の女性は翔矢を見たまま目を開いた。


 後ろにいる女性が、翔矢と視線を合わせられるはずがない。翔矢は大鎌の切っ先を鏡に当てると、幻光蟲を引きずり出すように振り抜く。


 鏡の湖面がゆらぎ、裏から表へ肉体が現れた。女性と同じ身なりの、しかし女性ではない、女性を真似たなにかだ。


 身なりも何もかも今の依頼主と同じ。けれど、明確に女性ではない。


「悪いが御用だぜ、悪さしやがってよぉ」

「必要なのは腎臓と心臓、角膜だ。それ以外は斬ってしまって構わない」

「いつもどおり達磨にしろってんでしょう? わーってますよ──あー、頭は残すのか」


 大鎌を取り回し、緩く構える。


『あれぇ、同胞が人間といっしょにいるの、めーずらしー』

「こっちで悪さしねぇでもらえるか? 仕事が増えるんでな」

『悪さ? 悪さじゃないよ? そろそろ還ろっかな~って思ってたから、ちょっとくらい遊んでもいいじゃない?』

「……模倣品が」


 女性の体を模した幻光蟲が立ち上がると、つま先を立ててポーズをとる。よくバレエで見る基本の型から一回転すると、急に突風が吹き荒れた。


「おっと、大丈夫ですかな」


 隼人がよろけた依頼主を支える。翔矢は床に大鎌を突き立てて支えにし、飛ばされないように堪えた。大鎌に吊るされている鏡を揺らすと、黒いもやが全身を覆って外套になる。


 大丈夫。床には穴が開いたが、後で詰め物をすれば元に戻る。


 台風に飛び込んだかのような暴風だ。床も鏡も剝がされかねない。鏡が剥げてしまったら──幻光蟲が裏世界に戻れなくなるため、本物と偽物、どちらか片方が殺し合う事になる。


『うっふふ! 最初はよく分かんなかったけど、踊るのって楽しいねぇ!』


 足がなければ踊れない。真っ先に斬り潰すべきなのは脚だ。けれど今回、腎臓が必要なので腰から切断するわけにもいかない。


 面倒だな、と内心で舌打ちしつつ、翔矢は幻光蟲の回転動作が緩まったタイミングで大鎌を引き抜き、接近した。


 体を反転させ、遠心力を利かせて上段からの袈裟斬りを繰り出す。風の防壁に阻まれた返す刃を、続けて下段から。


 ステップを踏み、バレエの型と共に襲う真空波を避け、追って翔矢も刃を振るう。傍から見れば、ペアでダンスを踊っているように見えただろう。


「わっ……私のスタジオが──!」

「問題ありません。後で直させましょう」

「直るんですかこれ⁉ 嘘でしょちょっとどうしてくれるんですか⁉」


 スタジオの隅では、相変わらず隼人が依頼人を被害から守ってくれている。いつの間にか右腕に紫電を散らすガントレットを装備していて、真空波を電撃で弾き返しているようだった。


 鏡はガラスになって辺りを飛び交う。黒衣で覆いきれない素肌を掠めて切り傷が増えるが、まだ模倣品を捕えきれない。


 足さえ、落とせれば。眉根を潜めて思った瞬間、握った大鎌が震えた。


 何を手間取ってる、さっさと終わらせろ。そう責め立てているように感じて、翔矢は深く息を吸い込んだ。


「うるっせぇな……」


 呟き、大鎌についた鏡を幻光蟲に向ける。揺らめき続ける鏡に相手の全身が映った瞬間、強く踏み込んで大鎌を振るった。


『みえみえなんだってば──っ⁉』


 つま先を立て、幻光蟲が足の一振りで起こした烈風をまともに受ける。振るった鎌は幻光蟲に届くことなく弾き返され──瞬間、真空波で翔矢の全身が斬り刻まれた。


 黒衣が千切れる。その中に、翔矢はいなかった。


 脱いだ衣を本体だと誤認させ、翔矢本人は直前で幻光蟲の上を飛び越えていた。真正面から切り込むと思わせて、相手を飛び越え背面から地面すれすれを斬り裂く。


「とった」


 切っ先がくるぶしを斬り裂く。払った勢いのままもう一回転して、軸になっていた脚の太ももを切断した。


 血は出ない。綺麗さっぱり、切断面の血管が脈動している。


「片足もいじまえばこっちのもんだ」


 言いながら、翔矢は隼人をちらりと見て頷いた。応じて隼人は依頼主の女性の前に立つと、幻光蟲が見えないように前を塞ぐ。


 人間の形をしたものが分解される様は、常人には耐えがたいだろう。


「さてと」

『──え、いや、ちょっと待って』

「待たねぇよ。大丈夫だ、斬って直ぐ死ぬわけじゃねぇ」


 翔矢は真っ先に首を裂いた。骨はそのまま、声帯を潰すためだ。喋られると面倒くさいし、聞いていたくない。


 ──人間でないとはいえ、ヒトの形をしてはいる。あまり同じ言葉を使われると、判断も覚悟も鈍るからだ。


 血生臭い匂いも、何もない。ただ斬ったという概念だけがそこに残る。


 続けて残っていた脚を切断し、肩から腕を切り離す。あっという間に達磨になった幻光蟲を前に、翔矢は大鎌を床に置いて、背負っていたショルダーバックの中から袋を取り出した。


 畳んでいた袋を広げて、大きさを確認する。頭もいれてギリギリ入るかどうかだ。切り落として分割してしまってもいいが、万が一の事を考えると、繋がっていた方が鮮度は保てる。


「しゃーねぇ、詰め込むか」


 鏡の半分程度が破損したダンススタジオの中、重たい胴体を広げた袋の中に放り込む。ぎゅっと口を絞れば、ひとまずの仕事は完了だ。


「隼人さーん、終わったっすよ」

「ご苦労様だ。片付けをしようか」

「ほいほい。俺がつけた傷は直すんで、この飛び散った鏡お願いしますわ」


 人間の所業ではない現場を掠め見てしまった女性が呆然として、隼人に問うた。


「あの、アレは、どうするんですか……?」


 スタジオで意識がなくなる現象の解決を依頼したら、鏡の中から自分が出てきて、しかも対処だと言って四肢を斬り落とし確保した。何が何だか分からないどころか、初見の人間は理解を拒む節がある。


「あぁ、言いそびれました。今日の事は、他言無用でお願い致します。似たような事例で、困っている人がいる以外は」


 隼人は口元に人差し指を立て、茶目っ気たっぷりにウインクをした。


 そのまま隼人はガントレットに覆われた手を大きく広げ、指先から紫電を放った。雷の一本一本が破片と繋がり、元あった場所に戻っていく。細かな作業ができるのは便利だなと思いつつ、翔矢は自分が開けた床の穴に近づいた。


 大鎌を置き、穴と鏡の位置を合わせる。鏡が真っ平な床と床を繋げるイメージで何度か擦れば、修復は完了だ。鏡の位置をずらすと、開いていた穴が綺麗さっぱりなくなっている。


 最後に転がったままの切断された手足を鏡の奥に放り込んで、後片付けは終了だ。


「よし、終わりでいいかな。明日からは、問題なくここで活動できるでしょう」


 隼人が今後の説明をしている間、翔矢は生肉が入った袋を肩にかけた。もう終わっていいぞと開いた手で大鎌を握るが、篭鐘に戻る気配がない。


 まだ終わりではない。翔矢がはっと鏡を見ると、そこまでいなかった何かが鏡から這い出ていた。


 ずるりとでてきたのは、小さな女の子。


 日本人にしては珍しい、すこしクセのある長い金髪が、セーラー服に映えている。


 姿を見て、翔矢は眼球が飛び出るほど目を見開いた。体格に見覚えがあったからだ。


「……やっと会えた、翔ちゃん」


 ぞわりと背筋を冷や汗が伝う。さっと急降下した体温に、足元の感覚がなくなっていくようだった。


 姉と似た、姉でない何かが、そこにいた。


 最後の言葉は覚えていない。いつだったのかも、覚えていない。


 ──お前は。


 姉は、自分を残して死んでしまったから。


 ──お前は──ッ。


 姉は、自分が見つけたから。


 ──お前なんか──ッ!


 姉は、首を吊って死んだから。


「……翔ちゃん?」


 姉でない何かが立ち上がり、翔矢を見上げた。紫水晶の瞳は己と同じで、目元と口元にできたほくろは姉と一緒。


 制服も、髪のウェーブの仕方も、何もかもが、姉と一緒。


 自分だけが成長して、姉は遥かに小さくなってしまった。


 こんなに小さな体で、頑張って足場を作って。


 天井のランプシェードに紐を引っかけて。


 ぷらぷらと揺れながら、死んだ姉が。


 居ていい、はずがない。


 ──お前なんか、姉ちゃんじゃ、ないッ!


 殺さなければ。


 姉の形をとること自体、姉への侮辱だ。


 冒涜だ。嘲弄だ。愚弄だ。


 死ね。


 今すぐ死ね。


 自ら命を絶った姉が、この世に居ていいはずがない。


 姉の形をして、姉の声で、自分に、姉の様に呼びかけていい、訳がない。




 だって、もう、死んだんだ。




「───ァッ!!」


 翔矢は、まだ篭に戻していなかった鎌を振り上げた。


 姉はきょとんとしながら翔矢の一挙手一投足を見守っている。


「まぁまぁ、待ちなさい」


 今まさに振り下ろそうとした大鎌が、引っ張られたように動きを止めた。


 振り向くと、隼人が片手で大鎌の柄を握り、振り下ろせないように固定している。


「止めんな! 姉ちゃんは死んだんだ! 居るはずがないだろ、居ていいはずがないだろ!」

「仕事以外で幻光蟲を使役するのは契約違反だ、止めなさい」

「止められねぇっスよ! 蟲なんかに姉ちゃん真似されて、死んだのに生きてるみたいなことされて、許せるわけねぇっしょ⁉」

「そこが問題なんだよ、翔矢君。落ち着きなさい」


 ──本当に、君の姉の姿なのかね?


 隼人は言った。


 少女は相変わらず小首を傾げて翔矢を眺めている。疑問を隠さない視線に苛立ちながら、翔矢は大きく深呼吸を繰り返した。


「……死んだときの、ままっす。服も見た目も、中学ん時のまんまで……」


 あり得ない。あり得ていいはずがない。


 力んで震えていた大鎌から力が抜ける。抵抗がなくなったのを感じた隼人が、静かに大鎌を下ろさせた。


 瞬間、大鎌は粒子に解けて篭鐘に形を戻す。受け取れもせずに落ちた篭鐘が、薄い刃物を弾いたような音を立てた。


「翔ちゃん、私達は、何か気に障ることをしましたか?」


 ──気に障るどころか気が狂いそうだぞ、クソが。


 どこか訴えるような音色に、翔矢は顔をしかめて歯を食いしばる。


 幻光蟲は死者を模倣できない。死ぬ前に模倣していたとしても、コピー元の人間がいなくなった瞬間、大概の幻光蟲は元のエネルギー体に戻ってしまう。存在を維持できるのは、コピー元の人間の感情と記憶、ほぼ丸ごと複製できた個体だけだ。


 そもそも、幻光蟲が表世界に干渉し現れるためには二つの条件がある。


 一つは、媒体として使用する鏡があること。


 もう一つは、模倣した対称がその場にいること。


 姿を映した鏡の存在あってこそ、裏と表が繋がるのであって、表にないものが、裏に存在するはずがない。


 その前提を覆して、姉の形をした幻光蟲は表に現れた。


 理由も原理も分からない。ただ、翔矢にとって許すことができないのは真実だった。


 死んだ。


 助けられなかった。


 手が届かなかった。


 助けたかったのはかつての話で、そして、本人であって複製品ではない。


「……ひとまず、彼女は預かろう。いつまでも此処にいるわけにはいかないからね、臓器の処理もあるし。それで、いいかな?」


 念を押して、隼人はしゃがみ込んだままの少女の手を取った。スッと起き上がった少女だが、手を振り払って翔矢に向き合うと、モッズコートの裾を掴む。


 こんな子供みたいな動作、姉なら、しなかった。


「おや、私では不満かな?」

「……私達は、貴方と、一緒にいます。翔ちゃん」

「翔ちゃんって呼ぶな、コピー品が」


 姉と同じ声色で、同じ見た目で、同じように己を呼ぶのが腹立たしい。くすりと笑った隼人の反応がからかっているようで尚更頭にくる。


 手を乱暴に振り払っても、諦めずに再び掴まれた。何度か同じやり取りを繰り返して、姉の形をした少女は僅かに目を細める。


「……そんなに、いやですか」

「嫌だね。失せろ。失せないのなら殺してやる」

「駄目です、死ねません。貴方に私達を殺させないし、死にもしません」

「蟲の癖に人間と似たようなこと言いやがるな、なんだよお前」

「私達は、やることが、あるからです。それまでは、この形から、変わりません」


 妙な事を言う幻光蟲だ。やることなんて、人間の真似をすることしかないだろうに。


 そもそも幻光蟲が複製できるのは、体と感情だけだ。その根底にある魂と思考までは模倣できない。だから、幻光蟲は基本的に受動的であって、能動的ではない。


 ただ、やることがあるとは。この幻光蟲は自ら、何らかの目的のために動いているようだ。


「……これは、イレギュラー対応になりそうだな」


 隼人が呟いた。しゃがみ込んで少女と視線を合わせると、そっと手を差し伸べる。


「ひとまず場所を変えよう。明日、詳しい話をしたいんだが、私の家では駄目かね?」


 が、少女は一瞥するだけで手を伸ばしはしなかった。逆に、煩わしそうに手を振り払おうとしている翔矢のモッズコートを両手で握りだす始末だ。


「駄目です。翔ちゃんと一緒に、います」

「嫌だ断る」

「断るを、断ります。私達は貴方と、一緒に居ます」

「だ、そうだぞ? 熱烈だね、翔矢君。諦めて連れ帰ったらどうだね、一人暮らしだろう?」

「制服着てるんすよ、こんな夜中に連れ出してたら不審者扱い待ったなしっしょ」

「歳の離れた兄妹には思ってもらえるだろう。違うかな?」

「いやそれにしたって……あぁもう」


 コートを握る小さな手を剥がそうと思ってもびくともしない。何度か剥がしては掴まれを繰り返した結果、少女の頑なな態度に翔矢は根を上げた。


 これは無理だ。どれだけこちらが嫌がっても話を聞きやしない。


 姉も、どこか頑固なところがあったな──そう思い出して、考えを振り払う。


 これにあるのはただ、生前の姉から略奪した感情だけだ。無に近しいエネルギー体に、皮一枚人間が作ったものを張り付けただけ。


 ──ハリボテで姉ちゃんのフリしたって、騙されないからな。


 思いつつ、この場にいつまでもいられないので、ひとまずは隼人の進言を聞くことにした。


「……今日だけっすからね」

「ハッハッハ、今日だけで済むだろうかな?」

「済みますから、済ませますから! ほら、行くから、手ぇ離せよ!」

「いいのですか。助かります。ありがとう」

「ありがとうじゃねぇよ! お前が駄々捏ねるから仕方なくだろうが!」


 真正面から告げられた感謝を斬り捨てて、幻光蟲の胴体が入った袋を肩に担ぐ。


 全く血液が出ず、現状維持に収まっているのは翔矢が契約した幻光蟲の特性故だ。彼以外が触ると、途端に切り口から流血して鮮度が落ちる。こと臓器移植に使われる素材なので、肉体の劣化は避けたい。


 翔矢が大学生ながらこんなバイトをしているのも、持ち得た特性が便利だから。その一言に尽きる。


「明日、田辺さん受け取りに来るんすよね?」

「ああ。それまでは鮮度維持を頼むよ」

「っす」

「彼女を送るのはこちらで受け持つ、安心したまえ」


 しばらく蚊帳の外だった依頼主の女性は、何かとんでもないものを見た気がすると言わんばかりに唖然として突っ立ったままだった。


 夜間は危険が多い。仕事が終わったからと言って外に放り出すこともできないので、隼人の判断は正解だ。


「んじゃ、行くぞ」


 一声かけて、翔矢はダンススタジオを出た。ぺたぺたと追いかけてくる足音だけが聞こえるが、振り返るつもりはなかった。


 どうせ幻光蟲が作った人間のまがい物。そこらで車に轢かれて死んだって構わないし、はぐれても心は痛まない。


 ──痛まないのだ。そのはずだ。


 だって、人間じゃないから。



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