バカ売れした作品がゴミに見えてしまうようになる現象について。
マイナーな作品を推す人間の心理。
それは、一般大衆の感性には届かないが、実はけっこう深いといった作品に対し、周囲にもアピールしてやりたくなるという心理の働き。
世間一般、広範に届く作品というものには「咀嚼の終わっていないパーツ」が、ほとんどない。咀嚼とは「問いへの意味づけ」であり、本来、読者自身が考えるべき命題でもある。
メジャーとなる作品のほとんどは「問いの答え」までもが、全て用意された「安心介護設計」となっている。伏線らしきものすら、ほぼすべて回収される。そうでなければ、低層の大衆までには受け入れられないためだ。残念なことだが、意外に多くの人間が、問いや謎を拒み、忌避すらする。これは保守的な思考とも繋がっており、「長い物には巻かれろ」「人気があるから人気に従う」というマインドセットにも繋がっている(「分からない=怖い」「怖い=排除」とも繋がる)。
稀に自分が初期の段階で推していた作品が、一般化されることがある。通常、マイナーなものであれば、70点もあれば推したくなるものだが、それが一般化されてしまうと、途端に冷める。彼らは手放しでそれを絶賛する。残り30点分の穴を「何もないかのように」無視して。
最近では『チ。-地球の運動について-』がそうであった。最初の主人公ラファウの「知への殉教」から火が付き始め、連載中から話題となったが、アニメ化により、爆発的なヒットを生み出した。『ひゃくえむ。』でも目を付けていた漫画家だが、別に完璧というわけでは、もちろんない(作者の年齢を考えれば当たり前だ)。「欠損」があるからこそ、粗削りで光って見えた。
しかし、大衆化ともなると性質が悪い。
なんでもかんでも「絶賛」する。
100か、ゼロか、しかないかのように。
多くの「信者」を集めると、急にきな臭くなってくる。信仰には、個人の思考や疑義は不要であり、すこし苦言を呈しただけで「異端者狩り」が始まる。バカは異物を嫌い、排除に走る。バカのバカたる所以である。―― 物語との二重構造化。
大きく数字を集めたものは、一瞬で宗教化する。それは「権威」へと変わり、「権威を信奉する俺えらい!」「大谷すげー、日本人すげー、俺すげー、誇らしい」の狂気的な思考変換を行う人間たちが、数字を掲げて、はしゃぎだす。彼らは、それが権威でさえあれば、何だって構わないからだ。
『チ。-地球の運動について-』の構造的欠陥。それはラファウが、なぜあれほどまで簡単に「知への殉教」を決めたのかである。実際の中世をベースに考えると「生命の安さ」が、その背景にはあるわけだが、あの作品に、その部分への「問い」は、いったいどのくらいあったのだろうか?
ひとの感情を揺らす装置の設置は、それほど難しくはない。こどもや弱者、小動物などの抵抗と涙、そして死。これがあれば、大抵の人間の心は揺らされる。特に子供がポロポロと涙を流し、それでも親や大人を信じ、必死に頑張っている姿などが描かれれば、揺れない人間など、ほぼいない。ここにカタルシスか悲劇的な死でも加えれば、簡単に作られた装置でも「あじわい深い」ものへと早変わりする。そして、そこへの逆説的な苦言は、人格否定にも繋がる(実際には「安易にその装置を使うな」という作者に対する苦言であっても、作品の信者たちはそれを許さない)。
そもそも、中世には「こども」という概念すらなかった。十歳にもなれば、働き手であり、それ未満は穀潰し。ペットのように愛玩的に守るという概念を中世の庶民は持ちえなかったとも指摘されている(日本でも「七歳までは神のうち(ノーカウント)」という言葉があった。現代では解釈が非常に美化されてしまっているが)。―― だが、この点は現代的尺度でのみ描く作家が多く、また「問われない問い」ともなってしまっている。
自分が70点として気に入っていた作品に、90点や100点がつく。しかし、そこに擦り付けられた加点部分は、ほとんどがウ○コである(急に汚いな、おい)。これが恐ろしく気分を萎えさせ、作品そのものを遠ざける原因ともなってくる。
―― こういうのを永遠の中二病とでも、いうのだろうか?
作品そのものが嫌いなのではなく、「ファン層が嫌い」という理由で、避けてしまう作品はけっこうある。
ノーベル文学賞の選定委員たちが、マイナーな作家ばかりをピックアップするのも、この心理が原因か。でなきゃ、「ボブ・ディラン」なんて選択は、本来なかったわけだから(候補が他にいなくても、大衆作家だけには渡すまいという矜持と抵抗あたりから)。