一時の市松
戻ってきた〇△メディアのフロアは、蛍光灯の白が少しだけ青い。
エアコンの音が夜用に落とされて、紙の擦れる気配だけが廊下に残る。
旧企画室の前で、腕時計は〇〇時五十九分を指していた。
「一分」
大輔が小声で言う。
「……可愛い智子にお願い」
「はいはい」
「俺が焦って見に行きそうになったら、袖つかんで止めて」
「二回まで」
「ケチ」
ドアの隙間の空気が、わずかに温い。
躊躇いを一度だけ飲み込んで、扉を押す。
部屋の奥、古い複合機のランプが暗がりの中でじっと光っていた。
〇一時。
ピッ、と短い音。
自動給紙が震え、白い紙が一枚、静かに吐き出される。
印刷面は下。インクの匂いが遅れて届く。
私は息を止め、指先だけで角を持ち上げた。
表に現れたのは、市松模様。九十対十の濃淡。
隅に、小さな数字が三つだけ並ぶ。
> 90/10
Y:1.35 K:0.95
A7=SYS/CUPS:00:51:28
手の甲の「現」を親指でなぞって、声に出す。
「九十対十、市松。Y一・三五、Kゼロ・九五……A7は——」
大輔が続ける。「さっきのコンビニのジョブ。二十三時五十一分二十八秒」
私は頷いた。「桁が合う。誰かが、骨を置いてくれた」
机の端に青い紙片が一枚、また風もないのに揺れた。
見ない。
視線を市松の白黒に固定する。
白の“白さ”が均一じゃない。わざと残したムラ。
——灰は嫌う。面倒に寄った手がかりの作法だ。
「これ、持ち出す?」
「コピーを一枚。原紙は残す」
大輔は複合機の手動トレイを開け、給紙を一枚だけ入れる。
ボタンを押す前に、私の袖をちらりと見て、苦笑いする。
「止めなくて平気?」
「今は押していい」
カシャン、と軽い音。
吐き出された二枚目も市松、同じ数字、同じムラ。
レシートの代わりに、複合機のジョブログの番号を走り書きして添える。
面倒くさい記録は、灰より強い。
ふと、部屋の外で足音。
大輔の指が私の袖をつまんで、手首を軽く引いた。
止まる。呼吸だけを続ける。
足音はドアの前で一度緩んで、また遠ざかった。
夜勤の清掃か、ただの廊下の風か——どちらでもいい“絵”。
「ルール更新」私は小声で言う。「“拾わない”。青も灰も。貼る」
「貼る?」
「貼って、見えない場所で保存する。市松の裏に、私たちのメモをテープで。剥がす手間が残るように」
大輔が笑う。「面倒は味方だ、ね」
市松の裏に、小さく折ったメモを貼る。
『二十三時五十一分二十八秒(A7) ⇄ 〇一時〇〇分:市松(SYS/CUPS)』
『言葉先行/青灰非接触/アンカー=手・袖・重さ』
テープを一度指で温め、しっかり圧着する。
重さを加えるため、レシートの半分をもう一片、重ねた。
「智子」
「何」
「綺麗。——もう一件だけ、面倒」
「どうぞ」
「市松の原紙はここへ戻す。コピーは、◯△駅のロッカーに二分割で入れる。鍵は二人で一つずつ」
「了解。花の名前で合図する?」
「君の好きなやつ」
「“カンパニュラ”。」
「長い」
「鈴の花。鳴らすためにある」
私が言うと、大輔は肩で笑って、目を伏せた。
複合機の横、長年使われていないサーバラックのスリットから、弱い送風音。
そこに何かが生きている。
私は市松を持ったまま、ラックの扉の隙間に目を落とした。
中で、緑のLEDが一つだけ点っている。
——監査用スプーラ。
背筋が冷たくなると同時に、どこかで安心もした。
誰かが、まだ“検証”を捨てていない。
「行こう」
市松をクリアファイルに挟み、原紙は最初の位置に戻す。
ドアの前で一度だけ振り返って、青い紙片を視界の外へ押しやる。
青は同意、灰は既成。
今夜は——どちらにも触れない。
廊下に出ると、港北の夜風が窓の隙間を鳴らした。
大輔が歩幅を合わせ、何気ない声で言う。
「◯△駅、ロッカー“カンパニュラ”に二分割。片方は君。——その前に、コーヒー」
「また?」
「普通を挟む。絵を選ばせない」
私は頷き、手の甲の「現」をなぞった。
アンカーは増えた。
Bellflower_∞の輪郭は、少しだけ遅れてついてくる。
エレベーターホールの鏡に、私たちが二人並んだ。
向こう側の映像は、もう“指示”をしない。
代わりに、こちらの言葉を待っている。
だったら、先に言う。
私は小さく、独り言みたいに呟いた。
「——鳴らすための、花」
鈴の形の輪郭が、鏡の中でほんのわずか揺れた気がした。
それでも、足は前へ出る。
面倒ごとは、二人で割れば——半分になる。




