見えない鍵
俺の名前は芹沢圭。社会人3年目、〇△メディアの制作部所属。
職場では“ムードメーカー”とか言われてるけど、正直それ、便利に使われてるだけだと思ってる。俺が明るく振る舞えば、みんなちょっと楽になる。だから俺は笑う。うまくやってるふりをしてる。……それが正しいのかどうかは、わかんないけど。
朝、いつも通り会社に着いたら、なんか空気が重かった。
特に先輩の智子さんの目が、ちょっとキツい。あの人、普段は優しいけど、何かトラブルがあると鬼のような集中力を発揮する。俺はそのモードに入る前の気配に、いつも気づいてる。
だからこそ、こう言うしかなかった。
「おはようございます〜。あれ? なんか雰囲気ピリピリしてません?」
ああ、失敗したな。言わないほうがよかった。
空気がピリついてるって、言葉に出した瞬間にもっとピリつく。先輩の目が、こっちに向いた。
「芹沢くん、ちょっと来てみて」
うわ、やばいやばい。完全に巻き込まれるやつ。
言われるがままに倉田さんの机の前へ行くと、引き出しが……こりゃあ、完全にアウトだ。鍵の部分がバキッて壊されてるし、中身がない。どういうこと?
「倉田さん、昨日早退してたよね? 体調不良って聞いたけど……」
そのときだった。
後ろにいた大輔さんの顔が、ちょっとだけ変わった。ほんの一瞬、目に火がついたような。
普段あんなにやる気なさそうなのに、あのときだけ、何かを“思い出した”ように見えた。
「……俺、ちょっと上行ってくるわ。総務に鍵の件、報告してきてあげる」
そう言って、ふわっと出ていったけど、あれはただの報告じゃない気がする。
大輔さんって、口では面倒くさがってても、動くときは絶対“何か狙い”がある。たぶん、自分に関係ある情報を拾いにいったんじゃないかな。
……まあ俺には関係ない、と思ったんだけど。
「うわっ、マジか……」
引き出しを開けた俺は、声を出していた。
自分のUSBメモリが、消えていた。
確かに昨日ここに入れておいた。黒いカバーの64GB。動画のバックアップと、プレゼン資料の案も入れてた。仕事のやつはクラウドにも残ってるけど、個人用のは……あれだけ。
“あれだけ”。
その言葉が頭に残る。
——まずい。
正直に言うと、あのUSBにはちょっとだけ「会社に言えない情報」が入ってた。
それはほんの遊び心……いや、軽率だった。
でも、もしそれが誰かに見られたら——
「芹沢くん、何かなくなってた?」
智子さんの声に、俺はビクッと肩を揺らした。
「あ、いや、USBが……あはは……予備のやつなんで、大丈夫っす」
「本当に?」
「はいっ」
嘘をついた。
なんでかって? 先輩に本当のことを言ったら、ぜったい掘り下げられる。あの人、疑問に思ったら止まらないタイプだし。俺が隠したいって思ってることにも、必ず気づく。あのUSBの中身を、誰かに知られたら——俺だけじゃなくて、別の人にも迷惑がかかる。
だから、何も言わなかった。
そして、俺は静かに決めた。
この件は、会社の誰よりも先に、俺自身で調べる。
大輔さんがサボってる間に、俺なりのやり方で。
それが、最初のきっかけだった。
午後になっても、誰一人“あの件”には触れようとしなかった。
昼休みの食堂ですら、みんな口をつぐんでスマホをいじるだけ。静かな緊張感がフロアに漂ってる。
それでも、俺は周囲をよく観察していた。
たとえば、経理の二宮さんが何度も自分のロッカーを開け閉めしてたとか。
庶務の鈴木さんが、引き出しに小型の南京錠を付けてたとか。
誰もが「自分のモノが盗られるかも」と疑心暗鬼になってる。
でも、俺は違う。
俺はもう、「誰かが盗られた」のではなく——「誰かが盗った」という視点で見ていた。
……それにしても、誰がなんのために?
盗まれたものが金目の物なら分かる。けどUSBとか社員証とかって、ただの物じゃない。
中身に意味がある。情報に価値がある。
俺のUSBには、それなりの“もの”が入ってた。
誰にも言ってない情報。それを使えば、少なくとも会社の中の人間に対して、ちょっとした優位性が得られるような……いや、使い方を間違えたら脅迫まがいにもなる代物。
もしかして——それを知ってて、狙って盗られた?
……だったら。
そのとき、ひとつの可能性が頭に浮かんだ。
社内じゃない。社外だ。
毎週金曜日の午後3時、ビル清掃の業者が事務所の一角を通る。それは、俺がコーヒー休憩に出るタイミングとちょうどかぶってる。
そして、昨日の午後も、俺はその業者とすれ違っていた。
「……一応、聞いてみるか」
俺はマグカップを片手に、エレベーターホールに向かった。
そこには、タバコの煙をくゆらせながら携帯をいじる中年の男がいた。
いつも見る顔。年齢は50代くらい。笑顔は柔らかいけど、目の奥は笑ってない。名札には「桑田」とある。
「こんにちはー。暑いですね、今日」
「おう、芹沢くんだっけ。相変わらず元気だねぇ」
「いや〜、まあまあっすよ。てか桑田さん、昨日ってうちのフロア来ました?」
「来たよ。金曜だしね。なんか、机の下にUSB落ちてたけど、あれ君の?」
「……え?」
桑田さんは、さも無関心そうに言った。
「黒くて、64って書いてあるやつ。引き出しの奥に転がっててね。最初は置いてこうかと思ったけど、なんか妙な気がして」
「……それ、今どこに?」
「うーん。どうだったかな。誰かに渡したかもね」
そう言って、にやっと笑った。
冗談とも本気ともつかない、その笑い方が、妙に引っかかった。
「渡したって……誰に?」
「覚えてないなぁ。ま、若い男だったとは思うけど。白シャツ、黒いリュック。髪がちょっと長めで、名札はしてなかったな」
その人物像に、心当たりはなかった。
「気になるか?」
「……ちょっとだけ」
桑田さんは、煙草を灰皿に押しつけた。
「じゃあ、こうしようか。次、金曜にまた来る。そのときまでに、君が何を“隠してたか”教えてくれたら——俺も、少し思い出すかもな」
それだけ言って、フロアに背を向けた。
俺は、残ったマグカップを握りしめる。
手の中が汗で湿っている。
——まずい。
あのUSB、誰かの手に渡ってる。しかも、“見る目”のある人間のところへ。
そして俺は、ようやく気づいた。
これは“盗難事件”なんかじゃない。
誰かが、誰かを試してるんだ。
そのとき、俺のスマホが震えた。
画面には「非通知」の文字。
そして、ワンコールで切れた。
……やばい。
これは、単なる始まりにすぎない。