カンパニュラの咲く朝
朝の港北は、少し騒がしくて、少しだけ静かだ。
工事現場のクレーンが動く金属音、通勤バスのブレーキ音、そして何より、歩きスマホしながら会話する若者たちの声。それらをすべて飲み込むように、青い空がどこまでも広がっている。私はそれを見上げながら、今日も「5分前」にオフィスのビルに入った。
勤めているのは、港北の中堅広告代理店、◯△メディア。中規模ながら、最近はSNS周りの案件で業績を伸ばしている。私はその制作部で、進行管理という“真面目な人間しか続かない仕事”をしている。
毎朝ルーティンのように先輩社員たちの机の周りを軽くチェックする。誰が出社していて、誰の机が散らかっているか、どのポストイットが貼りっぱなしになっているか。私にとって、それが落ち着く時間だった。
けれど——今日は、少し違った。
コピーライターの倉田さんの机の引き出しが、半開きになっていた。いや、正確に言えば「壊されたように」開いていた。鍵付きのはずなのに。
引き出しの中は空っぽ。ノートPCも、外付けSSDも、社員証もない。見間違いじゃない。私はそっとため息を吐いた。
「また……こういうの、私が気づいちゃうんだよね」
ドアの外から足音が近づいてくる。イヤな予感がした。まるで呼ばれたかのように——
「うわっ、今朝の智子さん、めっちゃ綺麗。いやマジで。映画の登場人物かと思った」
案の定だ。背後で声がした瞬間、私の肩はわずかに震えた。
振り返ると、そこにはいつもの彼。
ネクタイを曲げたまま、目元に寝癖を残したままの男——大輔が、片手に缶コーヒーを持って立っていた。
「でさ、その綺麗な智子さんに、ちょっとだけ、お願いが……」
あー、来た。来た来た。
この人は、何か面倒なことを頼むときに、必ず“よいしょ”を入れてくる。
そして私は、何だかんだ断れない。
「大輔……あなた、盗難事件が起きたこと、知ってたの?」
私が問いかけると、彼は驚いたように目を丸くした。ほんの一瞬。
そのあと、にやりと笑う。
「……また誰かのイタズラじゃないの?」
缶コーヒーを一口飲みながら、大輔は無責任な口ぶりで言った。
本人に悪気がないのはわかっている。彼はいつもこうだ。物事を大きく捉えず、余計な火に近づかず、できれば日常の端っこに丸く収まっていたい人間。
「鍵付きの引き出しが壊れてて、機材も社員証も消えてるのに? イタズラって……どんな?」
私がジト目で詰めると、大輔はすぐに両手を上げた。
「わかったわかった。真面目な智子さん、今日も冴えてるね〜。そういうとこ、ほんと好き」
「褒めてから頼むの、やめなさいって言ったでしょ」
「褒めてるだけで頼んでないよ。……まだ」
まだ。言いやがった。
ほら、もう次の面倒事が、口の端まで来てるじゃない。
私は大きく息をついて、椅子に腰を下ろす。
朝から盗難事件、そして大輔。仕事モードに入る前に、すでに気力を使い切った感がある。
「……で、本気でどうする気?」
「んー……犯人探しは、まぁ……誰かやるでしょ。そのうち」
「あなた以外の“誰か”ね」
「俺の専門じゃないし。なんか、警察とかに回す感じじゃない? 会社的に」
その言いぐさに、私は眉をひそめる。
この人はいつもそう。事件やトラブルに関わりたくないくせに、なぜか一番情報が集まってくる。社内の噂話も、妙に正確に把握してる。
「……ねえ、大輔。もしかして何か、もう聞いてるんじゃないの?」
「え? なんの話?」
目を泳がせながら、スーツのポケットを探るふり。明らかに動揺してる。でも答えはくれない。
多分、何か知ってる。でも自分からは言わない。そういうときは——
「ほんとに今日、綺麗だなって思ったんだけどなあ」
——出た。
“逃げ”のよいしょ。
「情報、出すまで許さないから」
「鬼……いや、そこがまた素敵」
大輔はそう言って、机に肘をついた。
彼の目元には、うっすらと本気の気配が見える。やる気はないけれど、好奇心はある。
そして何より、私に対しての“信頼”だけはある。それがわかるから、私は彼を完全に突き放すことができない。
……やっぱり。
今日も、またこの人に巻き込まれるんだろうな。
会議室の扉が、バタンと雑に閉じられた。
あの軽い足音、そしてドアの閉め方。後輩の芹沢くんだ。
「おはようございます〜。あれ? なんか雰囲気ピリピリしてません?」
彼は人の空気を読むのが壊滅的に苦手だ。そのくせ、やたら明るい。
そしてやたら机の引き出しがガチャガチャうるさい。今日も鍵がうまく開かないのか、手間取っていた。
「ちょっと芹沢くん、騒がしいよ。こっち来てみて」
私が呼ぶと、彼はのそのそとやってきた。
倉田さんの机の前に立った瞬間、表情が凍る。
「え……これ、壊されてますよね?」
「ええ。今朝見つけたところ」
「倉田さん、昨日早退してましたよね。体調不良って言ってたけど……」
その瞬間、大輔の表情が一瞬だけ変わったのを私は見逃さなかった。
その目は、まるで“何か”と繋がったような、そんな目だった。
「……俺、ちょっと上行ってくるわ。総務に鍵の件、報告してきてあげる」
「え?」
「いや、マジで今日の智子さん綺麗すぎて、役に立ちたい気分になったっていうか……」
「は?」
「嘘。めんどいけど、このままだと君が勝手に全部やるでしょ。だから、仕方なく」
缶コーヒーを飲み干して、彼はゆるい足取りでオフィスを出ていった。
その背中は、やる気があるんだかないんだか、さっぱりわからない。
私は少しだけ笑った。
面倒くさがりの天才。
人を褒めて誤魔化す名人。
でも、いざというときには、必ず動く。私が動く前に。
それが、大輔だった。
「……にしても、倉田さんの引き出しって、社員証まで入ってたよね?」
私はふと、足元の床を見つめた。
引き出しの中身がなくなっただけなら、事件と断言するのは早い。けれど——
「……ちょっと、変ね」
私の指先が、机の脚の下に挟まった“あるもの”をそっと拾い上げた。
それは、小さく丸められた薄い青い紙片だった。
どこかで見たことがあるような色。けれど、思い出せない。
後ろで芹沢くんが、また引き出しをガチャガチャやっている。
「うわっ、マジか……」
不意に上がる驚きの声。
「俺のUSB、ない……」
——被害者は、倉田さんだけじゃなかった。
私の中で、冷たい線が一本、背筋にすっと伸びた。
これは“偶然”ではない。誰かが、何かのために動いている。
でも、いちばん気になるのは。
……大輔は、何を知っていたんだろう。
カンパニュラの鉢植えが置かれた窓際に、夏の陽射しが差し込んでいた。
その小さな花が、かすかに風に揺れている。