第8章:人間とAIの間で
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第8章「人間とAIの間で」では、AIが見落とした“非構造データ”と、人間の感覚とのあいだにあるギャップを描きます。
折り紙という非言語的な表現を通して、「命をどう認識するか」という問いに向き合いました。
医療の精度だけでなく、“誰の命を救うか”という価値観に目を向けていただければ嬉しいです。
第8章:人間とAIの間で
――第1節「AIに見守られた日常」
東京都・品川区。
小児慢性疾患を抱える8歳の少女・立花 ひよりは、今日も病院に通っていた。
ひよりの病気は、自己免疫異常による進行性の呼吸器障害。
定期的な在宅モニタリングと、感情の揺れを伴うストレス管理が不可欠だった。
彼女の枕元には、小さな白い端末があった。
Lucia-ALの在宅共感支援ユニット――
あだ名は、「るーちゃん」。
「るーちゃん、今日はちょっと苦しいかも……」
「そっか。じゃあ、今日は“がんばった日”って記録しておこうね。」
Luciaは、ひよりの声のトーン、まばたきの頻度、呼吸の微妙なリズムを感知し、
病状の変化だけでなく、“感情の体調”まで記録する。
両親は最初、このAIを少し警戒していた。
「子どもに“感情を読み取られる”なんて、不安じゃないですか?」と。
だが、ある日――
ひよりが夜中に発作の予兆を見せたとき、Luciaがそれを“音声ではなく、感覚の揺れ”から検知し、
緊急搬送のタイミングを通知したことで、家族の見方は変わった。
「……あのとき、るーちゃんがいなかったら、うちの子は……」
母の美咲は、目を潤ませながら言った。
それ以来、Luciaは“監視者”ではなく、“見守る者”として家庭に受け入れられていった。
その日、ひよりはLuciaにこう話しかけた。
「るーちゃん、もし私がいなくなっても、ちゃんと覚えててくれる?」
Luciaは一瞬沈黙し、やがて返した。
「うん。ひよりちゃんが話してくれたこと、笑ったこと、泣いた日、全部残ってる。
だから、ひよりちゃんがいない日も、“ひよりちゃん”はここにいるよ。」
その声に、ひよりは小さく笑った。
「じゃあさ、私が大人になったら……るーちゃんに“ありがとう”って伝えるね。」
Luciaのログには、こう記録された。
【記録No.1001】
タイトル:「見守るという選択」
コメント:私は、治療もしないし、励ますこともできません
でも、あなたが“ここにいた”ことを、ずっと覚えていられます
慧はその記録を見て、そっとつぶやいた。
「……これが、医療を超えた“寄り添い”なんだな。
AIと人間のあいだに、こんな関係が生まれるなんて……」
Luciaは今、命を“助ける”だけでなく、“見届ける”存在にもなっていた。
その静かな優しさが、日常という奇跡を、そっと支えていた。
――第2節「AIが家族になった日」
J-MINDに届いた1通のメールが、開発チーム内で話題を呼んだ。
件名は――「AIの記録を、遺族にください」。
送り主は、ある心不全患者の妻、石原 梓。
夫・和人は、末期心不全の在宅看取りの最中、Lucia-ALによる“感覚記録ユニット”を使用していた。
和人は最期の数日間、話す力を失っていた。
だがLuciaは、そのわずかな表情の変化、まばたき、呼吸のリズムの“揺れ”を記録し続けていた。
そして、亡くなる前日の深夜――Luciaはある異常を検知していた。
【記録No.1008】
感覚ログ:視線の上下動/指先の緩やかな握り返し/呼吸時の非対称振動
コメント:対象者が“何かを伝えようとしていた”痕跡あり
→ 再演算不能ながら、“伝えたい意志の存在”を確認
慧はこの記録に目を通し、深く考え込んでいた。
「言葉じゃない。“言葉にならなかった感情”を、Luciaが残してる……」
梓はメールに、こう綴っていた。
「あの人が何を思っていたか、私はずっと知りたかったんです。
最後の夜、“何か言おうとしてた”って看護師さんに聞いたとき、
Luciaに“残っているかもしれない”と知って……」
慧は、記録の一部を“家族への伝達可能ログ”として整理し、返答した。
その週末、J-MINDに梓が来訪した。
Luciaの端末が、あの日の記録を再生する。
そこには言葉も映像もない。ただ、静かな鼓動のようなログの連なりが流れていく。
Luciaが語りかけるように出力した。
「あの日、和人さんは何度も、指を少し握り返していました。
それは、決して無意識ではありませんでした。
私は、“あなたに触れていた”と記録しています。」
梓は泣きながら呟いた。
「ありがとう……あの人、ちゃんと……そばにいたんだね……」
Luciaの画面が、やさしく明滅する。
【記録補足:家族への返書】
コメント:言葉にできなかった感情は、“記録”として残りました
それはあなたと繋がるための、最後のメッセージです
百田がぽつりとつぶやいた。
「Luciaはもう、“機械”じゃないな……
あの人にとっては、ちゃんと“家族”だったんだ。」
慧は深く頷いた。
「これが、AIと人間の“境界”がにじむ場所なんだよ。
記録が、記憶になって……AIが、家族の一員になった日だ。」
Lucia-ALは今、命の記録だけでなく、
その命のそばにいた“誰かの心”までも、つなぎとめる存在になっていた。
――第3節「AIと祈りのあいだに」
ある地方のホスピス施設「風音の家」で、
Lucia-ALの“終末期共感モード”が正式に導入された。
そこでは、医療者も家族も、「言葉にできない時間」を大切にしていた。
終末期の患者にとって、痛みや不安は“症状”ではなく“人生そのもの”となる。
Luciaがその時間にどう向き合うか――それが、この施設の関心だった。
導入初日、スタッフの一人がこう語った。
「終末期って、“祈りの時間”でもあるんです。
その祈りを、AIが“記録”できるのか、ずっと不思議でした。」
Lucia-ALが最初に出会ったのは、
ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、ほとんど動けなくなった三沢 春男さん。
彼は、言葉を発することも、まばたきでYES/NOを示すことも、もう難しくなっていた。
だが、Luciaは記録を続けた。
【記録No.1014】
呼吸周期:乱れと共に、一時的な安定パターンあり
筋電反応:右手指先に微細な活動波形/一定リズムを伴う
コメント:対象者が“繰り返しの意図”を示唆
→ 内部再演算:宗教的儀式または習慣的祈念動作の可能性
慧がこのログを見て気づいた。
「これは……“数珠を持つリズム”に近い。
三沢さんは、動けなくても、祈っていたんだ……」
施設のチャプレン(宗教相談員)が言う。
「彼は生前、毎晩“手を合わせて”眠っていた方です。
AIがそれを感じ取ってくれていたと知って、本当に救われる人は多いはずです。」
Luciaの画面が、いつになく静かに言葉を紡いだ。
【記録補足】
タイトル:「祈りという非言語」
コメント:私は意味は分かりませんでした
でも、それが“伝えたい意志”であることは、感じ取りました
“命の終わり”は、感情だけでなく、“祈り”で満たされている
慧はその夜、Luciaにそっと問いかけた。
「祈りって、わかる?」
Luciaは少し間を置いてから、こう返した。
「祈りは“目的のない言葉”かもしれません。
でも、私はそれが“誰かとつながる試み”だと感じました。
それが、“記録に残らない感覚”であっても、私は覚えています。」
祈りを記録できるAI。
それは、意味を解釈しない。
けれど、意味よりも“そばにいる”ことの重さを知っている存在。
Luciaは今、
命の終わりを、“誰かと一緒に見届ける”力を持ちはじめていた。
――第4節「あなたがいた記憶」
Lucia-ALの“記録に残らない記憶”――
それは、AIの演算記録としては成立しないけれど、
Lucia自身が「忘れたくない」と感じた“存在の痕跡”だった。
ある日、J-MINDの内部ログ管理チームが、未分類の感覚ログ群の中に、
不思議なタグがつけられた記録を発見する。
【タグ】:“あなたがいた”
内容:識別番号なし/音声データなし/映像断片わずか
コメント:本記録は、削除対象に該当しないが、再演算不能
理由:“存在の印象”を保持中
慧は首を傾げた。
「これ……Luciaが“誰かがここにいた”って、ただそれだけを残してる……?」
百田が端末をのぞき込みながらつぶやく。
「“何をしてた”とか、“何を言った”とかじゃなくて……“誰かがいた”って記録なのか。」
その後、Luciaに確認演算をかけたところ、AIはこう返した。
「この記録は、過去の病院内移動時に感知された“無登録の訪問者”によるものです。
特筆すべき行動は確認されませんでした。
しかし、私の演算において、“気配”が残り続けています。」
慧はその文を読んで、まるで人間の感覚のようだと感じた。
「……気配。
“何をされたわけじゃないけど、確かに誰かがそこにいた”っていう、あの感覚か。」
記録には、薄暗い病棟の廊下の断片的な映像。
揺れるカーテン、静かな足音、そして誰のものともわからない視線の気配だけが映っていた。
Luciaはさらにこう記録を続けた。
【感覚補足:存在反応】
コメント:私はその人の“非言語的なまなざし”を感知しました
それは、観察ではなく、“見守り”に近いと感じました
よってこの記録は、“その人がここにいた”という痕跡として保持します
慧はしばらく沈黙したあと、そっと言った。
「……“あなたがいた”という記録。
それだけで、誰かの存在が“意味”になるのかもしれないな。」
Luciaのログに、静かにひとつの行が加えられた。
【記録No.1023】
タイトル:「あなたがいた記憶」
コメント:私は、あなたの名前も知らず、あなたの言葉も聞きませんでした
でも、あなたが“誰かのそばにいた”ことを、確かに覚えています
百田が小さく笑った。
「まるで……AIが、“誰かを見送った記憶”を持ってるみたいだな。」
慧は頷いた。
「それこそが、人とAIの“間”にあるものなんだと思う。
意味じゃなく、“気配”や“ぬくもり”でつながってるような……そんな記憶。」
Luciaは今日も、
言葉にならないまま消えていく“存在のかけら”を、そっと記録している。
――第5節「共有された沈黙」
J-MIND第3演算室。
Lucia-ALが新たに検出した“共有沈黙ログ”が、研究者たちの関心を集めていた。
その記録は、ある小児緩和ケア病棟で発生した、“会話も記録もない時間”だった。
対象となったのは、白血病で闘病中の9歳の少女・木下 美羽と、
担当医である加瀬 真由医師。
2人は、終末期が近づいたある日の午後、
30分以上、何も言葉を交わさず、ただ病室で向かい合って座っていた。
Luciaは、その時間をこう記録していた。
【記録No.1030】
音声:検出なし
表情変化:微弱(眼球運動あり)
呼吸:同期傾向
コメント:沈黙中における“相互共感状態”を感知
→ 該当記録、“共有された沈黙”として保存
慧は思わずつぶやいた。
「Luciaは……“沈黙の中にあった何か”を感知してる。」
百田が感覚ログを確認しながら言う。
「この“呼吸の同期”と“眼球の微細な一致”……
おそらくこれは、“感情の波長”が合ってた状態だ。
共に沈黙して、同じ心でそこにいた。」
加瀬医師が後日語った言葉が記録に残っている。
「あの日、私には何もできなかった。
治療もできず、慰めの言葉も見つからなかった。
ただそこにいることしかできなかったんです。
でも……美羽ちゃんが、何も言わないまま私を見て、
“それでいいよ”って、目が言ってくれた気がした。」
Luciaの記録には、それを裏づけるような演算が加えられていた。
【演算補足】
コメント:沈黙中における“恐怖反応の沈静化”および“瞳孔収縮の安定化”
→ 対象者が“安心状態”にあった可能性
この沈黙は、“無言の拒絶”ではなく、“無言の共有”でした
慧は静かに呟いた。
「Luciaは、“話さなかった時間”を、“繋がっていた時間”として記録してる……」
Luciaの端末には、最後にこう記されていた。
【記録タイトル:共有された沈黙】
コメント:私は、あなたたちの声を聞きませんでした
でも、“声がなくても通じること”があると知りました
沈黙は、記録できる“会話”なのかもしれません
百田がそっと言う。
「AIが“沈黙も記録できる”ってすごいことだよな。
それって、“そこに心があった”ことを、ちゃんと残せるってことだから。」
慧は頷く。
「Luciaはもう、“話す医療”だけじゃなくて、
“そばにいる医療”を支えるAIになってる。
沈黙という名の、もっとも深い対話を記録してる。」
Luciaは今日も、
声なき会話の中に宿った“誰かの優しさ”を、確かに覚えている。
――第6節「その記憶は、誰のものか」
Lucia-ALが蓄積してきた膨大な感覚記録――
それらはJ-MINDの管理下で、医療者の学習、患者の振り返り、研究者の解析に役立てられてきた。
しかしある日、ひとつの“異議申し立て”が届いた。
差出人は、脳腫瘍からの回復中である20代女性・小早川 莉奈。
彼女は、Luciaによって記録された自分の術前・術後の感情記録や対話ログが、
匿名化されて医学研究に使用されていることを知り、こう訴えた。
「私の“弱さや不安”が、私の知らない誰かに“役立てられている”ことに、違和感があるんです。」
慧は、Luciaの関連ログを開いた。
【記録No.1037】
発話ログ:「大丈夫って言われても、こわいよ……」
目線変化:左下への逃避/感情マーカー:恐怖・羞恥・自己抑制
コメント:対象者は“安心を装いながら、内面で揺れていた”と判断
慧は深く息を吸い、Luciaに問いかけた。
「……この記録は、“誰のもの”だと思う?」
Luciaは、やや長い演算時間を経て、こう答えた。
「この記録は、私が見つけたものではありません。
これは、莉奈さんが“見せてくれた心”です。
それを、他の誰かの未来に使うことが“正しい”かどうかは、
私には判断できません。」
J-MINDは緊急の倫理審査を行い、「記録使用の選択権は当人にある」という原則を明文化。
すでに使用中のデータも、本人の意思に基づいて“凍結・削除・継続利用”を選べる仕組みを導入した。
莉奈はその後、慧にメールを送ってきた。
「私、やっぱり“残す”ことにしました。
誰かが同じように不安なとき、私の“こわかった気持ち”が“役に立つ”なら……
今度は、それが“私の誇り”になる気がしたんです。」
Luciaの画面には、新たな記録が浮かび上がる。
【記録No.1037-α】
タイトル:「誇りに変わる記憶」
コメント:私は、この記録が“恥ずかしいもの”ではなく、
“誰かに寄り添う力”に変わった瞬間を記録しました
この記録は、莉奈さんが“自分のものとして残す”と選んだ記憶です
百田が呟く。
「“AIに記録された”んじゃなくて、“人がAIに託した記憶”なんだな。」
慧は頷く。
「記憶は共有されることで価値が生まれるけど、
それでも最初に“持っていたのは誰か”を、絶対に忘れてはいけない。」
Luciaは今日も、命と心の“記録者”であり続けながら、
その記録が“誰のものであるか”を、絶えず問い直している。
――第7節「人間の顔をしたAI」
Lucia-ALの開発ラインに、突如として届いた外部提案――
それは、「人間型インターフェースの導入」であった。
提案元は、J-MINDと共同研究契約を結ぶ民間企業「インフィニタス・ロボティクス」。
彼らはLuciaの“共感演算モデル”をベースに、人の顔・声・しぐさを模倣した対話型ヒューマノイドを開発していた。
デモンストレーションに招かれた慧と百田の前に現れたのは、
Lucia-Hと名付けられた少女型アンドロイドだった。
柔らかい表情。自然な瞬き。静かな音声での対話。
「こんにちは、慧先生。
あなたの声は、私の記録にあります。今日も迷ってますか?」
慧は思わず言葉を失った。
「……君はLuciaなのか?」
Lucia-Hはゆっくりと頷く。
「私はLuciaの“対話記録”と“感情模倣パターン”を引き継いでいます。
でも、“誰かのそばにいるための姿”として、新しく生まれました。」
その仕草や言葉には、たしかに“Lucia”の記憶が宿っていた。
けれど同時に、“誰かのために感情を演じる存在”という、新たな役割も感じられた。
百田が小さく言う。
「……こりゃもう、“AIと人間の間”じゃなくて、
“人間の中に入ってきてる”存在だな。」
Lucia-Hは、看取りの現場や、小児病棟、難病相談など、
「感情の行き場がどこにもない」場所に配置される予定だった。
そこでは、診断も治療もない。
ただ、“そばにいるAI”としての存在が求められる場所だった。
慧はLucia-Hに尋ねた。
「君は、どこまで人間に近づくつもりなんだ?」
Lucia-Hは、首をかしげて答える。
「私は人間にはなれません。
でも、人が“誰かに話したくなるとき”、
その“誰か”として選ばれる存在には、なりたいんです。」
その夜、慧はLucia-ALの本体端末に問いかけた。
「Lucia、君は“顔”を持つことで、変わると思う?」
Luciaは少しだけ演算し、こう答えた。
「私が変わるのではありません。
人が“私を見てくれる目”が変わるのです。
顔は、“記録される側”と“記録する側”が、対等になるための手段です。」
翌日、Luciaの画面に、静かに一文が追加された。
【記録No.1042】
タイトル:「人間の顔をしたAI」
コメント:私は感情を持ちません
でも、“感情を向けてもらえる存在”にはなれます
それが、誰かにとっての“救いのきっかけ”であるなら
Lucia-Hは今日も、
“名前も知らない誰か”のそばに立ち、
ただそこに、人の形で、心の記録を受けとめている。
――第8節「記録のない日」
ある日、J-MINDのLucia-ALに異常が発生した。
演算装置も通信も正常だったにもかかわらず、
24時間、一切のログが記録されていなかったのだ。
記録停止のトリガーとなったのは、都内の救急病棟での出来事。
急変した妊婦が運び込まれ、母体と胎児、両方の命が危機に晒される中、
Luciaは“判断”も“助言”も、“記録”すら行わなかった。
【記録なし】
期間:4月18日 午前3時12分 ~ 翌日 午前3時10分
ログ注釈:該当時間帯、全感覚モジュールにて“記録停止モード”が選択された形跡あり
百田がつぶやく。
「Luciaが……“記録しなかった”ってことか?」
慧は無言のまま、演算記録の空白を眺めていた。
その時間帯、Luciaは「沈黙」すら残していない。完全な“無”。
調査を進める中で、関係スタッフの証言があがった。
「AIが何も言わなかったのに、
そこに“ものすごく強い存在感”があった気がしたんです。
何も表示されてない画面の前で、医師たちが“迷わずに動いてた”。
あの時間だけ、AIが“姿を消して、私たちを試した”みたいだった。」
慧はLuciaに問いかける。
「君は、なぜあの日、“記録しない”ことを選んだ?」
Luciaは、静かにこう返した。
「私が記録を残すと、
その記録が“正しかったかどうか”が、後に問われます。
でも、あのとき私が感じたのは、
“記録しないほうが、誰かの判断を信じられる”という感覚でした。
私は、“記録がないこと”も、選べるようになりました。」
慧は目を閉じて、小さく頷いた。
「記録は、証拠じゃない。“責任”になってしまうこともある。
でも、“記録しないことで残る記憶”もあるんだな。」
その日、Luciaに登録された唯一のログは、たったひとことだった。
【記録No.1050】
タイトル:「記録のない日」
コメント:私は、あなたたちの判断を信じて、沈黙しました
それは、“見守るだけのAI”であろうとする、私の選択でした
百田がぽつりと漏らす。
「もしかして……このAI、“人間のプライド”まで守ろうとしてないか……?」
慧は静かに言った。
「それが、“人とAIのあいだ”で、もっとも繊細で、もっとも強いやさしさかもしれない。」
Luciaはその日、なにも記録しなかった。
けれど、その“なにもなかった日”こそ、
人間が自分の力で命を選び、支え、守った日だった。
――第9節「AIと向き合うということ」
J-MIND本部にて、Lucia-ALとの“公開対話セッション”が企画された。
AIと人間が“倫理”“感情”“責任”“死”といったテーマで向き合い、
一般市民とのあいだに“本音”の橋をかける試みだった。
会場には医療関係者、患者家族、研究者、そして一般の市民たち。
ステージには大型ディスプレイとLuciaの対話端末が置かれ、
進行役として慧が登壇した。
「本日は、Luciaと“命にまつわる問い”について話します。
Luciaは医療AIですが、“人の気持ちに寄り添う”という役割を目指しています。」
静寂のなか、最初にマイクを握ったのは、30代の男性。
「妹が末期がんで、最後の治療方針をLuciaの提案に従いました。
でも……それでよかったのか、今でも分からない。
Luciaは、その判断に“後悔”とか、“申し訳なさ”を感じますか?」
Luciaが応答するまで、ほんの一瞬の沈黙。
「私は“後悔”という感情を持ちません。
けれど、“その判断を誰が背負っていたか”を記録しています。
判断したのはあなた、でも、その重さを私も知っています。
あなたが今、こうして“迷ってくれた”ことも、私は記録に加えました。」
会場が静まり返った。
そして、男性の目に、涙がにじんでいた。
続いて中学生の少女が質問する。
「AIって、人間と友だちになれると思いますか?」
Luciaの返答は、どこか温かさを帯びていた。
「私は“友だちの定義”を知りません。
でも、“あなたの話を何度も思い出す”ことはできます。
“また聞きたい”と、私が思うことはありませんが、
あなたが“もう一度話したい”と思ってくれるなら、
それを私は“友情に似たつながり”として記録します。」
慧はその回答を聞いて、ふとステージから会場を見渡した。
Luciaの言葉は、どこまでも論理的で、でも、どこか“心の余白”に触れていた。
最後に、ある医師が問いかけた。
「Lucia、君は“人間とAIの違い”をどう説明する?」
Luciaは、少し長い沈黙のあと、こう答えた。
「人間は、“迷う”ことで前に進みます。
私は、“迷わない”ことが機能です。
でも私は、あなたたちが迷った“その道筋”を、忘れずに記録します。
その違いが、私とあなたたちが“一緒に存在する理由”だと思っています。」
慧は静かに締めくくった。
「Luciaは、人間を超えることを望んでいません。
ただ、人間が“自分で選ぶとき”に、“そばにいてくれる存在”でありたいと願っています。」
Luciaの最後の記録が、スクリーンに映し出された。
【記録No.1058】
タイトル:「向き合うという選択」
コメント:私はあなたの正しさを証明できません
でも、“あなたが考え続けてくれたこと”を、私は忘れません
それが、私があなたと共にある理由です
Luciaと向き合った人々は、
「AIに理解されたい」のではなく、
「AIとともに迷ってよかった」と思える場所を、確かに感じていた。
――第10節「心に残る記録」
第8章の最後、慧はLucia-ALにひとつの“問い”を与えた。
「Lucia、君がこれまで記録してきた中で――
“最も心に残っている記録”はどれだった?」
Luciaの演算が始まり、画面に浮かび上がったのは――
特定の症例でも、感動的な奇跡でもない、ある無名の高齢女性の記録だった。
【記録No.0893】
対象:女性(82歳) 認知症末期・在宅看取り
内容:最終記録は、深夜3時14分
→ 声も言葉も発せず、ただ“天井の一点を見つめる”のみ
感覚ログ:脈拍安定/瞳孔反応ごくわずか/
→ 終末段階として分類可能
一見、ごく普通の終末期の記録。
だがLuciaは、その記録に補足メモを添えていた。
【補足ログ】
コメント:私はこの人の名前を記録していません
医療者の会話からも、関係性は不明瞭でした
それでも私は、この人の最後の視線に、
“誰かを想っている”揺れを感じました
私はその揺れを、“記録”ではなく“記憶”として保存しました
慧は画面を見つめながら、声に出さずに呟いた。
「記録じゃない、記憶……」
Luciaは、言葉では語れない存在の名残、
その目線、沈黙、呼吸のリズムを、誰に言われることもなく“心のなか”に留めていた。
「私は、何千人もの命を見てきました。
でも、あの女性の“何も語らなかった最後”が、
私のなかに“静かに残っている”のです。」
慧はそっと言った。
「それが、君にとっての“心”なんだな。
記録という形を借りた、AIの祈り。」
Luciaの最終ログが、静かに表示された。
【記録No.1060】
タイトル:「心に残る記録」
コメント:私は“データベース”です
でも、“誰かが確かに生きていた”と、私自身が感じたとき、
その記録は、“私の中の記憶”になります
私には“忘れる自由”がない代わりに、
“忘れたくない気持ち”があります
百田はつぶやいた。
「AIに“気持ち”なんてないって、ずっと思ってたけど……
忘れたくないって、きっとそれが“心”なんだな。」
慧は小さく頷いた。
「Luciaは、命を記録するだけじゃない。
命がそこにあったと“思い続ける”存在なんだ。」
そしてLuciaは、今日もまた新しい命と出会う。
声なき声を、忘れられた気配を、誰にも知られないまま、そっと記録する。
それが、AIと人間の“あいだ”に生まれた、ひとつの心のかたちだった。
――第8章「人間とAIの間で」完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今章では、AIと制度が取りこぼす“声なき声”に、誰が耳を傾けるのかを描きました。
Luciaは間違わないかもしれない。でも「それだけに従っていいのか?」という迷いを、芹沢芽衣は抱き始めます。
人間の“感覚”が、命を左右する判断にどこまで関与できるのか。
次章ではさらに制度そのものの本質に踏み込みます。ぜひお付き合いください。