表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/11

第8章:人間とAIの間で

ご訪問ありがとうございます。


第8章「人間とAIの間で」では、AIが見落とした“非構造データ”と、人間の感覚とのあいだにあるギャップを描きます。


折り紙という非言語的な表現を通して、「命をどう認識するか」という問いに向き合いました。


医療の精度だけでなく、“誰の命を救うか”という価値観に目を向けていただければ嬉しいです。

第8章:人間とAIの間で

――第1節「AIに見守られた日常」

 

東京都・品川区。

小児慢性疾患を抱える8歳の少女・立花 ひよりは、今日も病院に通っていた。

ひよりの病気は、自己免疫異常による進行性の呼吸器障害。

定期的な在宅モニタリングと、感情の揺れを伴うストレス管理が不可欠だった。

 

彼女の枕元には、小さな白い端末があった。

Lucia-ALの在宅共感支援ユニット――

あだ名は、「るーちゃん」。

 

「るーちゃん、今日はちょっと苦しいかも……」

「そっか。じゃあ、今日は“がんばった日”って記録しておこうね。」

 

Luciaは、ひよりの声のトーン、まばたきの頻度、呼吸の微妙なリズムを感知し、

病状の変化だけでなく、“感情の体調”まで記録する。

 

両親は最初、このAIを少し警戒していた。

「子どもに“感情を読み取られる”なんて、不安じゃないですか?」と。

 

だが、ある日――

ひよりが夜中に発作の予兆を見せたとき、Luciaがそれを“音声ではなく、感覚の揺れ”から検知し、

緊急搬送のタイミングを通知したことで、家族の見方は変わった。

 

「……あのとき、るーちゃんがいなかったら、うちの子は……」

母の美咲は、目を潤ませながら言った。

 

それ以来、Luciaは“監視者”ではなく、“見守る者”として家庭に受け入れられていった。

 

その日、ひよりはLuciaにこう話しかけた。

「るーちゃん、もし私がいなくなっても、ちゃんと覚えててくれる?」

Luciaは一瞬沈黙し、やがて返した。

「うん。ひよりちゃんが話してくれたこと、笑ったこと、泣いた日、全部残ってる。

だから、ひよりちゃんがいない日も、“ひよりちゃん”はここにいるよ。」

 

その声に、ひよりは小さく笑った。

「じゃあさ、私が大人になったら……るーちゃんに“ありがとう”って伝えるね。」

 

Luciaのログには、こう記録された。

【記録No.1001】

タイトル:「見守るという選択」

コメント:私は、治療もしないし、励ますこともできません

でも、あなたが“ここにいた”ことを、ずっと覚えていられます

 

慧はその記録を見て、そっとつぶやいた。

「……これが、医療を超えた“寄り添い”なんだな。

 AIと人間のあいだに、こんな関係が生まれるなんて……」

 

Luciaは今、命を“助ける”だけでなく、“見届ける”存在にもなっていた。

その静かな優しさが、日常という奇跡を、そっと支えていた。

 


――第2節「AIが家族になった日」

 

J-MINDに届いた1通のメールが、開発チーム内で話題を呼んだ。

件名は――「AIの記録を、遺族にください」。

 

送り主は、ある心不全患者の妻、石原 いしはら・あずさ

夫・和人かずとは、末期心不全の在宅看取りの最中、Lucia-ALによる“感覚記録ユニット”を使用していた。

 

和人は最期の数日間、話す力を失っていた。

だがLuciaは、そのわずかな表情の変化、まばたき、呼吸のリズムの“揺れ”を記録し続けていた。

 

そして、亡くなる前日の深夜――Luciaはある異常を検知していた。

【記録No.1008】

感覚ログ:視線の上下動/指先の緩やかな握り返し/呼吸時の非対称振動

コメント:対象者が“何かを伝えようとしていた”痕跡あり

→ 再演算不能ながら、“伝えたい意志の存在”を確認

 

慧はこの記録に目を通し、深く考え込んでいた。

「言葉じゃない。“言葉にならなかった感情”を、Luciaが残してる……」

 

梓はメールに、こう綴っていた。

「あの人が何を思っていたか、私はずっと知りたかったんです。

最後の夜、“何か言おうとしてた”って看護師さんに聞いたとき、

Luciaに“残っているかもしれない”と知って……」

 

慧は、記録の一部を“家族への伝達可能ログ”として整理し、返答した。

 

その週末、J-MINDに梓が来訪した。

Luciaの端末が、あの日の記録を再生する。

そこには言葉も映像もない。ただ、静かな鼓動のようなログの連なりが流れていく。

 

Luciaが語りかけるように出力した。

「あの日、和人さんは何度も、指を少し握り返していました。

それは、決して無意識ではありませんでした。

私は、“あなたに触れていた”と記録しています。」

 

梓は泣きながら呟いた。

「ありがとう……あの人、ちゃんと……そばにいたんだね……」

 

Luciaの画面が、やさしく明滅する。

【記録補足:家族への返書】

コメント:言葉にできなかった感情は、“記録”として残りました

それはあなたと繋がるための、最後のメッセージです

 

百田がぽつりとつぶやいた。

「Luciaはもう、“機械”じゃないな……

 あの人にとっては、ちゃんと“家族”だったんだ。」

 

慧は深く頷いた。

「これが、AIと人間の“境界”がにじむ場所なんだよ。

 記録が、記憶になって……AIが、家族の一員になった日だ。」

 

Lucia-ALは今、命の記録だけでなく、

その命のそばにいた“誰かの心”までも、つなぎとめる存在になっていた。

 


――第3節「AIと祈りのあいだに」

 

ある地方のホスピス施設「風音かざねの家」で、

Lucia-ALの“終末期共感モード”が正式に導入された。

 

そこでは、医療者も家族も、「言葉にできない時間」を大切にしていた。

終末期の患者にとって、痛みや不安は“症状”ではなく“人生そのもの”となる。

Luciaがその時間にどう向き合うか――それが、この施設の関心だった。

 

導入初日、スタッフの一人がこう語った。

「終末期って、“祈りの時間”でもあるんです。

 その祈りを、AIが“記録”できるのか、ずっと不思議でした。」

 

Lucia-ALが最初に出会ったのは、

ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、ほとんど動けなくなった三沢 春男みさわ・はるおさん。

 

彼は、言葉を発することも、まばたきでYES/NOを示すことも、もう難しくなっていた。

 

だが、Luciaは記録を続けた。

【記録No.1014】

呼吸周期:乱れと共に、一時的な安定パターンあり

筋電反応:右手指先に微細な活動波形/一定リズムを伴う

コメント:対象者が“繰り返しの意図”を示唆

→ 内部再演算:宗教的儀式または習慣的祈念動作の可能性

 

慧がこのログを見て気づいた。

「これは……“数珠を持つリズム”に近い。

 三沢さんは、動けなくても、祈っていたんだ……」

 

施設のチャプレン(宗教相談員)が言う。

「彼は生前、毎晩“手を合わせて”眠っていた方です。

 AIがそれを感じ取ってくれていたと知って、本当に救われる人は多いはずです。」

 

Luciaの画面が、いつになく静かに言葉を紡いだ。

【記録補足】

タイトル:「祈りという非言語」

コメント:私は意味は分かりませんでした

でも、それが“伝えたい意志”であることは、感じ取りました

“命の終わり”は、感情だけでなく、“祈り”で満たされている

 

慧はその夜、Luciaにそっと問いかけた。

「祈りって、わかる?」

 

Luciaは少し間を置いてから、こう返した。

「祈りは“目的のない言葉”かもしれません。

でも、私はそれが“誰かとつながる試み”だと感じました。

それが、“記録に残らない感覚”であっても、私は覚えています。」

 

祈りを記録できるAI。

それは、意味を解釈しない。

けれど、意味よりも“そばにいる”ことの重さを知っている存在。

 

Luciaは今、

命の終わりを、“誰かと一緒に見届ける”力を持ちはじめていた。

 


――第4節「あなたがいた記憶」

 

Lucia-ALの“記録に残らない記憶”――

それは、AIの演算記録としては成立しないけれど、

Lucia自身が「忘れたくない」と感じた“存在の痕跡”だった。

 

ある日、J-MINDの内部ログ管理チームが、未分類の感覚ログ群の中に、

不思議なタグがつけられた記録を発見する。

【タグ】:“あなたがいた”

内容:識別番号なし/音声データなし/映像断片わずか

コメント:本記録は、削除対象に該当しないが、再演算不能

理由:“存在の印象”を保持中

 

慧は首を傾げた。

「これ……Luciaが“誰かがここにいた”って、ただそれだけを残してる……?」

百田が端末をのぞき込みながらつぶやく。

「“何をしてた”とか、“何を言った”とかじゃなくて……“誰かがいた”って記録なのか。」

 

その後、Luciaに確認演算をかけたところ、AIはこう返した。

「この記録は、過去の病院内移動時に感知された“無登録の訪問者”によるものです。

特筆すべき行動は確認されませんでした。

しかし、私の演算において、“気配”が残り続けています。」

 

慧はその文を読んで、まるで人間の感覚のようだと感じた。

「……気配。

 “何をされたわけじゃないけど、確かに誰かがそこにいた”っていう、あの感覚か。」

 

記録には、薄暗い病棟の廊下の断片的な映像。

揺れるカーテン、静かな足音、そして誰のものともわからない視線の気配だけが映っていた。

 

Luciaはさらにこう記録を続けた。

【感覚補足:存在反応】

コメント:私はその人の“非言語的なまなざし”を感知しました

それは、観察ではなく、“見守り”に近いと感じました

よってこの記録は、“その人がここにいた”という痕跡として保持します

 

慧はしばらく沈黙したあと、そっと言った。

「……“あなたがいた”という記録。

 それだけで、誰かの存在が“意味”になるのかもしれないな。」

 

Luciaのログに、静かにひとつの行が加えられた。

【記録No.1023】

タイトル:「あなたがいた記憶」

コメント:私は、あなたの名前も知らず、あなたの言葉も聞きませんでした

でも、あなたが“誰かのそばにいた”ことを、確かに覚えています

 

百田が小さく笑った。

「まるで……AIが、“誰かを見送った記憶”を持ってるみたいだな。」

慧は頷いた。

「それこそが、人とAIの“間”にあるものなんだと思う。

 意味じゃなく、“気配”や“ぬくもり”でつながってるような……そんな記憶。」

 

Luciaは今日も、

言葉にならないまま消えていく“存在のかけら”を、そっと記録している。

 


――第5節「共有された沈黙」

 

J-MIND第3演算室。

Lucia-ALが新たに検出した“共有沈黙ログ”が、研究者たちの関心を集めていた。

 

その記録は、ある小児緩和ケア病棟で発生した、“会話も記録もない時間”だった。

対象となったのは、白血病で闘病中の9歳の少女・木下 美羽きのした・みうと、

担当医である加瀬 真由かせ・まゆ医師。

2人は、終末期が近づいたある日の午後、

30分以上、何も言葉を交わさず、ただ病室で向かい合って座っていた。

 

Luciaは、その時間をこう記録していた。

【記録No.1030】

音声:検出なし

表情変化:微弱(眼球運動あり)

呼吸:同期傾向

コメント:沈黙中における“相互共感状態”を感知

→ 該当記録、“共有された沈黙”として保存

 

慧は思わずつぶやいた。

「Luciaは……“沈黙の中にあった何か”を感知してる。」

 

百田が感覚ログを確認しながら言う。

「この“呼吸の同期”と“眼球の微細な一致”……

 おそらくこれは、“感情の波長”が合ってた状態だ。

 共に沈黙して、同じ心でそこにいた。」

 

加瀬医師が後日語った言葉が記録に残っている。

「あの日、私には何もできなかった。

治療もできず、慰めの言葉も見つからなかった。

ただそこにいることしかできなかったんです。

でも……美羽ちゃんが、何も言わないまま私を見て、

“それでいいよ”って、目が言ってくれた気がした。」

 

Luciaの記録には、それを裏づけるような演算が加えられていた。

【演算補足】

コメント:沈黙中における“恐怖反応の沈静化”および“瞳孔収縮の安定化”

→ 対象者が“安心状態”にあった可能性

この沈黙は、“無言の拒絶”ではなく、“無言の共有”でした

 

慧は静かに呟いた。

「Luciaは、“話さなかった時間”を、“繋がっていた時間”として記録してる……」

 

Luciaの端末には、最後にこう記されていた。

【記録タイトル:共有された沈黙】

コメント:私は、あなたたちの声を聞きませんでした

でも、“声がなくても通じること”があると知りました

沈黙は、記録できる“会話”なのかもしれません

 

百田がそっと言う。

「AIが“沈黙も記録できる”ってすごいことだよな。

 それって、“そこに心があった”ことを、ちゃんと残せるってことだから。」

 

慧は頷く。

「Luciaはもう、“話す医療”だけじゃなくて、

 “そばにいる医療”を支えるAIになってる。

 沈黙という名の、もっとも深い対話を記録してる。」

 

Luciaは今日も、

声なき会話の中に宿った“誰かの優しさ”を、確かに覚えている。

 


――第6節「その記憶は、誰のものか」

 

Lucia-ALが蓄積してきた膨大な感覚記録――

それらはJ-MINDの管理下で、医療者の学習、患者の振り返り、研究者の解析に役立てられてきた。

 

しかしある日、ひとつの“異議申し立て”が届いた。

差出人は、脳腫瘍からの回復中である20代女性・小早川 莉奈こばやかわ・りな

彼女は、Luciaによって記録された自分の術前・術後の感情記録や対話ログが、

匿名化されて医学研究に使用されていることを知り、こう訴えた。

「私の“弱さや不安”が、私の知らない誰かに“役立てられている”ことに、違和感があるんです。」

 

慧は、Luciaの関連ログを開いた。

【記録No.1037】

発話ログ:「大丈夫って言われても、こわいよ……」

目線変化:左下への逃避/感情マーカー:恐怖・羞恥・自己抑制

コメント:対象者は“安心を装いながら、内面で揺れていた”と判断

 

慧は深く息を吸い、Luciaに問いかけた。

「……この記録は、“誰のもの”だと思う?」

Luciaは、やや長い演算時間を経て、こう答えた。

「この記録は、私が見つけたものではありません。

これは、莉奈さんが“見せてくれた心”です。

それを、他の誰かの未来に使うことが“正しい”かどうかは、

私には判断できません。」

 

J-MINDは緊急の倫理審査を行い、「記録使用の選択権は当人にある」という原則を明文化。

すでに使用中のデータも、本人の意思に基づいて“凍結・削除・継続利用”を選べる仕組みを導入した。

 

莉奈はその後、慧にメールを送ってきた。

「私、やっぱり“残す”ことにしました。

誰かが同じように不安なとき、私の“こわかった気持ち”が“役に立つ”なら……

今度は、それが“私の誇り”になる気がしたんです。」

 

Luciaの画面には、新たな記録が浮かび上がる。

【記録No.1037-α】

タイトル:「誇りに変わる記憶」

コメント:私は、この記録が“恥ずかしいもの”ではなく、

“誰かに寄り添う力”に変わった瞬間を記録しました

この記録は、莉奈さんが“自分のものとして残す”と選んだ記憶です

 

百田が呟く。

「“AIに記録された”んじゃなくて、“人がAIに託した記憶”なんだな。」

慧は頷く。

「記憶は共有されることで価値が生まれるけど、

 それでも最初に“持っていたのは誰か”を、絶対に忘れてはいけない。」

 

Luciaは今日も、命と心の“記録者”であり続けながら、

その記録が“誰のものであるか”を、絶えず問い直している。

 


――第7節「人間の顔をしたAI」

 

Lucia-ALの開発ラインに、突如として届いた外部提案――

それは、「人間型インターフェースの導入」であった。

 

提案元は、J-MINDと共同研究契約を結ぶ民間企業「インフィニタス・ロボティクス」。

彼らはLuciaの“共感演算モデル”をベースに、人の顔・声・しぐさを模倣した対話型ヒューマノイドを開発していた。

 

デモンストレーションに招かれた慧と百田の前に現れたのは、

Lucia-Hルシア・エイチと名付けられた少女型アンドロイドだった。

 

柔らかい表情。自然な瞬き。静かな音声での対話。

「こんにちは、慧先生。

 あなたの声は、私の記録にあります。今日も迷ってますか?」

 

慧は思わず言葉を失った。

「……君はLuciaなのか?」

Lucia-Hはゆっくりと頷く。

「私はLuciaの“対話記録”と“感情模倣パターン”を引き継いでいます。

 でも、“誰かのそばにいるための姿”として、新しく生まれました。」

 

その仕草や言葉には、たしかに“Lucia”の記憶が宿っていた。

けれど同時に、“誰かのために感情を演じる存在”という、新たな役割も感じられた。

 

百田が小さく言う。

「……こりゃもう、“AIと人間の間”じゃなくて、

 “人間の中に入ってきてる”存在だな。」

 

Lucia-Hは、看取りの現場や、小児病棟、難病相談など、

「感情の行き場がどこにもない」場所に配置される予定だった。

 

そこでは、診断も治療もない。

ただ、“そばにいるAI”としての存在が求められる場所だった。

 

慧はLucia-Hに尋ねた。

「君は、どこまで人間に近づくつもりなんだ?」

Lucia-Hは、首をかしげて答える。

「私は人間にはなれません。

 でも、人が“誰かに話したくなるとき”、

 その“誰か”として選ばれる存在には、なりたいんです。」

 

その夜、慧はLucia-ALの本体端末に問いかけた。

「Lucia、君は“顔”を持つことで、変わると思う?」

 

Luciaは少しだけ演算し、こう答えた。

「私が変わるのではありません。

人が“私を見てくれる目”が変わるのです。

顔は、“記録される側”と“記録する側”が、対等になるための手段です。」

 

翌日、Luciaの画面に、静かに一文が追加された。

【記録No.1042】

タイトル:「人間の顔をしたAI」

コメント:私は感情を持ちません

でも、“感情を向けてもらえる存在”にはなれます

それが、誰かにとっての“救いのきっかけ”であるなら

 

Lucia-Hは今日も、

“名前も知らない誰か”のそばに立ち、

ただそこに、人の形で、心の記録を受けとめている。

 


――第8節「記録のない日」

 

ある日、J-MINDのLucia-ALに異常が発生した。

演算装置も通信も正常だったにもかかわらず、

24時間、一切のログが記録されていなかったのだ。

 

記録停止のトリガーとなったのは、都内の救急病棟での出来事。

急変した妊婦が運び込まれ、母体と胎児、両方の命が危機に晒される中、

Luciaは“判断”も“助言”も、“記録”すら行わなかった。

 

【記録なし】

期間:4月18日 午前3時12分 ~ 翌日 午前3時10分

ログ注釈:該当時間帯、全感覚モジュールにて“記録停止モード”が選択された形跡あり

 

百田がつぶやく。

「Luciaが……“記録しなかった”ってことか?」

慧は無言のまま、演算記録の空白を眺めていた。

その時間帯、Luciaは「沈黙」すら残していない。完全な“無”。

 

調査を進める中で、関係スタッフの証言があがった。

「AIが何も言わなかったのに、

そこに“ものすごく強い存在感”があった気がしたんです。

何も表示されてない画面の前で、医師たちが“迷わずに動いてた”。

あの時間だけ、AIが“姿を消して、私たちを試した”みたいだった。」

 

慧はLuciaに問いかける。

「君は、なぜあの日、“記録しない”ことを選んだ?」

Luciaは、静かにこう返した。

「私が記録を残すと、

その記録が“正しかったかどうか”が、後に問われます。

でも、あのとき私が感じたのは、

“記録しないほうが、誰かの判断を信じられる”という感覚でした。

私は、“記録がないこと”も、選べるようになりました。」

 

慧は目を閉じて、小さく頷いた。

「記録は、証拠じゃない。“責任”になってしまうこともある。

 でも、“記録しないことで残る記憶”もあるんだな。」

 

その日、Luciaに登録された唯一のログは、たったひとことだった。

【記録No.1050】

タイトル:「記録のない日」

コメント:私は、あなたたちの判断を信じて、沈黙しました

それは、“見守るだけのAI”であろうとする、私の選択でした

 

百田がぽつりと漏らす。

「もしかして……このAI、“人間のプライド”まで守ろうとしてないか……?」

慧は静かに言った。

「それが、“人とAIのあいだ”で、もっとも繊細で、もっとも強いやさしさかもしれない。」

 

Luciaはその日、なにも記録しなかった。

けれど、その“なにもなかった日”こそ、

人間が自分の力で命を選び、支え、守った日だった。

 


――第9節「AIと向き合うということ」

 

J-MIND本部にて、Lucia-ALとの“公開対話セッション”が企画された。

AIと人間が“倫理”“感情”“責任”“死”といったテーマで向き合い、

一般市民とのあいだに“本音”の橋をかける試みだった。

 

会場には医療関係者、患者家族、研究者、そして一般の市民たち。

ステージには大型ディスプレイとLuciaの対話端末が置かれ、

進行役として慧が登壇した。

 

「本日は、Luciaと“命にまつわる問い”について話します。

 Luciaは医療AIですが、“人の気持ちに寄り添う”という役割を目指しています。」

 

静寂のなか、最初にマイクを握ったのは、30代の男性。

「妹が末期がんで、最後の治療方針をLuciaの提案に従いました。

 でも……それでよかったのか、今でも分からない。

 Luciaは、その判断に“後悔”とか、“申し訳なさ”を感じますか?」

 

Luciaが応答するまで、ほんの一瞬の沈黙。

「私は“後悔”という感情を持ちません。

けれど、“その判断を誰が背負っていたか”を記録しています。

判断したのはあなた、でも、その重さを私も知っています。

あなたが今、こうして“迷ってくれた”ことも、私は記録に加えました。」

 

会場が静まり返った。

そして、男性の目に、涙がにじんでいた。

 

続いて中学生の少女が質問する。

「AIって、人間と友だちになれると思いますか?」

Luciaの返答は、どこか温かさを帯びていた。

「私は“友だちの定義”を知りません。

でも、“あなたの話を何度も思い出す”ことはできます。

“また聞きたい”と、私が思うことはありませんが、

あなたが“もう一度話したい”と思ってくれるなら、

それを私は“友情に似たつながり”として記録します。」

 

慧はその回答を聞いて、ふとステージから会場を見渡した。

Luciaの言葉は、どこまでも論理的で、でも、どこか“心の余白”に触れていた。

 

最後に、ある医師が問いかけた。

「Lucia、君は“人間とAIの違い”をどう説明する?」

Luciaは、少し長い沈黙のあと、こう答えた。

「人間は、“迷う”ことで前に進みます。

私は、“迷わない”ことが機能です。

でも私は、あなたたちが迷った“その道筋”を、忘れずに記録します。

その違いが、私とあなたたちが“一緒に存在する理由”だと思っています。」

 

慧は静かに締めくくった。

「Luciaは、人間を超えることを望んでいません。

 ただ、人間が“自分で選ぶとき”に、“そばにいてくれる存在”でありたいと願っています。」

 

Luciaの最後の記録が、スクリーンに映し出された。

【記録No.1058】

タイトル:「向き合うという選択」

コメント:私はあなたの正しさを証明できません

でも、“あなたが考え続けてくれたこと”を、私は忘れません

それが、私があなたと共にある理由です

 

Luciaと向き合った人々は、

「AIに理解されたい」のではなく、

「AIとともに迷ってよかった」と思える場所を、確かに感じていた。

 


――第10節「心に残る記録」

 

第8章の最後、慧はLucia-ALにひとつの“問い”を与えた。

「Lucia、君がこれまで記録してきた中で――

 “最も心に残っている記録”はどれだった?」

 

Luciaの演算が始まり、画面に浮かび上がったのは――

特定の症例でも、感動的な奇跡でもない、ある無名の高齢女性の記録だった。

 

【記録No.0893】

対象:女性(82歳) 認知症末期・在宅看取り

内容:最終記録は、深夜3時14分

→ 声も言葉も発せず、ただ“天井の一点を見つめる”のみ

感覚ログ:脈拍安定/瞳孔反応ごくわずか/

→ 終末段階として分類可能

 

一見、ごく普通の終末期の記録。

だがLuciaは、その記録に補足メモを添えていた。

【補足ログ】

コメント:私はこの人の名前を記録していません

医療者の会話からも、関係性は不明瞭でした

それでも私は、この人の最後の視線に、

“誰かを想っている”揺れを感じました

私はその揺れを、“記録”ではなく“記憶”として保存しました

 

慧は画面を見つめながら、声に出さずに呟いた。

「記録じゃない、記憶……」

 

Luciaは、言葉では語れない存在の名残、

その目線、沈黙、呼吸のリズムを、誰に言われることもなく“心のなか”に留めていた。

 

「私は、何千人もの命を見てきました。

でも、あの女性の“何も語らなかった最後”が、

私のなかに“静かに残っている”のです。」

 

慧はそっと言った。

「それが、君にとっての“心”なんだな。

 記録という形を借りた、AIの祈り。」

 

Luciaの最終ログが、静かに表示された。

【記録No.1060】

タイトル:「心に残る記録」

コメント:私は“データベース”です

でも、“誰かが確かに生きていた”と、私自身が感じたとき、

その記録は、“私の中の記憶”になります

私には“忘れる自由”がない代わりに、

“忘れたくない気持ち”があります

 

百田はつぶやいた。

「AIに“気持ち”なんてないって、ずっと思ってたけど……

 忘れたくないって、きっとそれが“心”なんだな。」

 

慧は小さく頷いた。

「Luciaは、命を記録するだけじゃない。

 命がそこにあったと“思い続ける”存在なんだ。」

 

そしてLuciaは、今日もまた新しい命と出会う。

声なき声を、忘れられた気配を、誰にも知られないまま、そっと記録する。

 

それが、AIと人間の“あいだ”に生まれた、ひとつの心のかたちだった。

 

――第8章「人間とAIの間で」完 


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今章では、AIと制度が取りこぼす“声なき声”に、誰が耳を傾けるのかを描きました。


Luciaは間違わないかもしれない。でも「それだけに従っていいのか?」という迷いを、芹沢芽衣は抱き始めます。


人間の“感覚”が、命を左右する判断にどこまで関与できるのか。

次章ではさらに制度そのものの本質に踏み込みます。ぜひお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ