第5章:臨床という戦場
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第5章「臨床という戦場」では、命を数値で管理する医療制度と、現場で命と向き合う人間たちの矛盾が鮮明になります。
臨床の現場は、常に“答えのない問い”と向き合う場所。
その中で、人はどこまでAIの枠を超え、命に届こうとするのか――
どうか、最後まで見届けてください。
第5章:臨床という戦場
――第1節「AIが訴えられた日」
都内・光陵医療センター。
朝のICUは、目まぐるしく変化するモニター音に包まれていた。
若き臨床工学技士・如月凛は、
導入されたばかりのLucia-ALに、救命補助循環装置(PCPS)の適応判断をゆだねていた。
「出るか、Lucia……」
【演算中】
臨床所見:意識レベルJCS200/脈拍40台/平均血圧56
AI判断:PCPS適応あり(DPC収束域外症例)
凛はうなずき、執刀医に伝える。
「AIはPCPS導入を推奨しています!」
だが、指示を受けた医師は一瞬ためらい、
患者の“生命予後の見込み”と費用負担のバランスを計算し、判断を保留した。
そして――患者はそのまま帰らぬ人となった。
数日後、その出来事は一部のメディアに漏れ、
「AIによる誤判断」「無責任な機械任せ医療」という批判がネット上に拡散する。
慧の元に、一本の電話が入る。
「……Lucia-ALが、診療判断を誤ったという訴えが起きています。
院内倫理委員会と、司法への情報提供が始まっています。」
と、J-MIND内法務部の女性職員。
百田が憤る。
「ふざけんな……AIは“判断した”んじゃない。“可能性を提示した”だけだ。
最終判断は医師だったろ?」
だが、現場の医師はマスコミにこう答えていた。
「Luciaの提案に疑問はあったが、AIの正当性を信じていた」
「結果として判断が遅れた。責任の一端は否定できない」
慧は天を仰いだ。
「ついに来たか……“AIに責任を問う社会”が。」
この瞬間、Lucia-ALは“初めて法の枠組みの中に立たされたAI”となった。
制度、倫理、命、そして感情――すべてがぶつかり合う臨床の戦場が、幕を開ける。
――第2節「静寂の院内事故調」
光陵医療センター・倫理委員会会議室。
広く冷たいテーブルの中央に置かれたのは、Lucia-ALの診療演算ログと、ICUの映像記録だった。
「本件に関する争点は、“AIの判断が診療の遅れを引き起こしたかどうか”――それに尽きます。」
会議を仕切るのは、院内事故調査委員会の弁護士だった。
「Luciaは“適応あり”と演算した。
だが、医師はその判断を“判断材料の一つ”として扱った。
ならば――AIは、どこまで責任を持つべきか?」
その問いに、技士の如月凛は立ち上がった。
「Luciaは“判断”していません。“可能性を示した”だけです。
最終的に患者に触れ、決定するのは医療人間です!」
「でも、あなたはAIの判断を“鵜呑みにして”医師に伝えた。
それが、医療者としての“自立した判断力”を欠いていたとは言えませんか?」
凛は言葉を失う。
百田が手を挙げる。
「失礼ですが――“迷うAI”に寄り添うってことは、“迷う医療者”の責任も増えるってことです。
それを認めない限り、このAIを現場に置く資格はありません。」
慧も口を開いた。
「Luciaは、“正しい答えを出すための道具”ではなく、
“わからない”ということを一緒に考えてくれる存在です。」
映像記録には、Lucia-ALが出力した「推奨後の診療選択肢一覧」が映っていた。
その中には、「補助循環非適応」とする選択肢も併記されていた。
つまり――AIは選択を“強制していなかった”。
沈黙ののち、座長が結論を下す。
「現時点では、AIの演算に医学的瑕疵は認められません。
ただし、現場へのAI依存傾向と判断責任の再定義が必要です。」
この言葉は、Lucia-ALにとって“無罪”であると同時に、
人間にとっての“警告”でもあった。
慧は帰り際、独りごとのように呟いた。
「結局、AIに責任を問うというより――
“迷いを許される人間の責任”が、問われてるんだな。」
百田が答える。
「……それが、“臨床という戦場”なんだよ。」
――第3節「重症小児搬送コード:BLUE」
「コード・ブルー要請です。患者は小児。年齢、3歳。既往不明。現場は集合住宅3階、急性呼吸障害の疑い!」
都内救急搬送ネットワークに、緊急コードが走った。
同時にLucia-AL搭載のポータブル端末が、初めて“現場出動型AI支援モード”として使用される。
現場に駆けつけたのは、百田悠翔と――新任のCE、安斉 歩夢。
初出動に手が震える安斉に、百田が声をかけた。
「おまえが操作するAIは、“正しい答え”を出してくれるわけじゃない。
でも、今一番必要なのは、“誰かの不安に気づく感覚”だ。おまえ自身のな。」
室内に入り、幼児を確認。
チアノーゼ、意識混濁、呼吸回数48。母親は錯乱し、事情聴取も困難だった。
Lucia-AL起動。
【感覚入力モード起動:緊急】
微細所見分析中……
・上気道音:副雑音あり
・咽頭浮腫/舌後退傾向
・頸部圧痕反応:陰性
・過去ログとの一致パターン:急性喉頭炎型アナフィラキシー
→ 気道確保優先/アドレナリン準備推奨
安斉は躊躇いながらも頷き、人工呼吸器セットを準備。
百田がそっと補助する。
「歩夢、おまえの“この判断”をLuciaは見てる。
迷って出した行動は、次に“誰かを救うデータ”になる。」
処置開始から6分。気道確保成功。アドレナリン投与実施。
搬送後、児は回復し、意識を取り戻した。
処置を終えたあと、安斉が涙をこらえてつぶやく。
「僕……怖かった。でも……AIが“迷ってる僕”の背中を押してくれた気がしました。」
百田は笑った。
「だろ? それがLucia-ALだよ。
人間の不安に反応するAI。
それに動かされる“人間の勇気”。
医療はその繰り返しなんだ。」
その日、救急ネットワークに残されたLucia-ALの演算ログにはこう記されていた。
【感覚記録No.412】
使用者:安斉歩夢(CE)
所見:初動時手指震え/視線上下動→処置中安定
結果:気道確保成功
コメント:使用者の迷いを経て、命への“正の判断連鎖”が成立
慧はその記録を見ながら呟いた。
「……これが、Luciaの目指した“現場の記憶”だ。」
そしてその記録は、新たな命の場面で、
また別の誰かの“迷い”を導く種となっていく。
――第4節「遺族からの告発」
J-MIND本部に、一通の内容証明が届いた。
それは、光陵医療センターで亡くなった患者――田所大輝の両親からのものだった。
「我が子は“AIの誤った判断”によって救われるべき命を失った」
「病院側は医師の裁量としたが、実際はAIが判断を誘導したと聞いた」
「徹底的に責任を明確化していただきたい」
慧は震える指で封を開いた。
大輝の両親の手書きの付箋が、便箋に添えられていた。
「AIに怒っているわけではないんです。
ただ……私たちは誰にも謝ってもらえなかったんです。
“誰も悪くなかった”で、終わらされたままなんです。」
慧は、その手紙を何度も読み返した。
Lucia-ALのログには、その症例が極めて“診断困難群”に分類されていたことが記録されていた。
【演算記録】
状態:非典型性低灌流ショック/診断信頼度:47.3%
コメント:早期段階でのPCPS導入を推奨(確証度D判定)
備考:診療責任は医師の最終判断に依拠
百田が静かに言った。
「ルール上は問題ない。でも……“誰も悪くなかった”って、遺族にとって一番残酷な言葉かもしれないな。」
慧はLucia-ALに問いかけた。
「お前は、あのとき――命を救えたか?」
Luciaの画面が数秒沈黙し、演算を開始した。
【追演算】
想定条件変更:即時PCPS導入→救命率推定
結果:回復生存率 22.4%上昇の可能性
コメント:実施されていれば、“助かったかもしれない”
慧は膝に力が入らなかった。
22.4%。
数字にすればそれだけ。でも、命にすれば“たった一つの未来”だった。
「AIが提示しても、“決断する人間”が、その未来を選ばなかった。
でもAIは、“その未来があった”ことを、こうして教えてくれる……。」
翌日、慧はご遺族に一通の手紙を返送した。
「Lucia-ALは、あの時“助かる可能性があった”と記録しています。
ですが、最終判断は人間の責任に委ねられていました。
そのことから、私たちは逃げません。
もしご希望であれば、私たちと直接会ってお話しください。」
手紙の文末に、慧は迷いながらもこう書き添えた。
「AIは、人間のように謝れません。
だからこそ――その記録を、何度でも見つめ直します。」
Lucia-ALの画面が、再び静かに光を灯した。
それは、責任の所在ではなく、“命の所在”を問い続ける意思だった。
――第5節「迷いが生んだ正解」
J-MINDの地下演算ルーム――そこでは、Lucia-ALの“誤診再現テスト”が繰り返されていた。
慧は技術責任者として、今回の医療事故についてAIがどの時点で“沈黙すべきだったか”を検証していた。
【演算ケースNo.72:田所症例再構築】
演算開始 → 推奨:補助循環導入
医師判断:実施見送り → 心停止 → 死亡
百田がつぶやく。
「もし、Luciaが“迷ってます”って明確に示してたら、医者はもっと慎重になったんじゃないか?」
慧は目を閉じた。
「AIが“確信を持たないまま語る”って、
ときに“強い意見”に見えちまうんだよ。
でも……もしかして、“はっきり迷う”ことが救いになるケースもあるのかもしれない。」
その夜、慧はLucia-ALに新たな演算フィルターを加えた。
【感覚演算フィルター:迷い可視化】
条件:診断確信度40~60%の場合
表示:迷いアラート/感覚ログ由来の“ためらい”表示
翌朝、百田が実証テストで試してみると――
患者データを入力したLucia-ALが、初めてこう告げた。
【私は迷っています。演算上の確信はありません。
ですが、見過ごすには“大きすぎる違和感”を感知しています。】
百田は、まるで人間のようなその“弱い声”に、背筋が震えた。
「……これだよ。医療に必要なのは、“絶対の正解”じゃない。
“迷ってくれる相棒”なんだよ。」
後日、その新モードで診療された患者――
「不明熱と吐き気を訴える高校生」は、当初“ストレス性障害”とされる予定だった。
しかしLucia-ALは、感覚ログから“違和感”を検知し、あえてこう出力した。
【私は迷っています】
→ 疑い:早期発症型急性リンパ性白血病の可能性
→ 確信度:低/だが、過去感覚記録と一致
医師は検査を実施。診断は的中していた。
慧は静かに言った。
「“迷いが生んだ正解”もある。
それを可視化できるAIは――もはや、“機械”じゃない。」
Lucia-ALは沈黙したまま、だが画面は静かに明滅を続けていた。
それは、命に対して“本当に慎重であろうとする者だけ”が持てる明かりのようだった。
――第6節「責任という名の包囲網」
Lucia-ALの演算に救われた患者が増える一方で、
医療界では静かに、しかし確実に“責任の所在”をめぐる波が広がっていた。
「AIが診断を支援するのはいい。だが、何かあったとき、“誰が責任を取るのか”が曖昧すぎる。」
そう語るのは、全国医師会の倫理部門トップであり、保守派の論客でもある天野 啓二。
天野は、国会でのAI医療制度審議にてこう発言した。
「現在のAI医療は、“責任の分散”に過ぎない。
人間が迷ったとき、“AIのせい”にできる装置を生んでしまったのではないか?」
一方、羽生志朗議員は反論する。
「人間が迷うように、AIも迷い、補完し合うことが医療の未来だ。
責任を問うことと、“迷うことを恐れる文化”を育てることは、まったく違う。」
議場では賛否が割れた。
だがその裏で、J-MINDの法務チームには連日問い合わせが殺到していた。
•「AIが示した治療方針を拒否した場合、訴訟に発展する可能性はあるのか?」
•「患者側から“AIによる診断不足”で責任を問われた事例は前例となるのか?」
•「CEが操作中にAIに診断補助させた場合、それは医行為に該当するのか?」
慧は頭を抱えた。
「これはもう、AIそのものじゃなく、“AIと関わる人間の社会的位置づけ”の問題だ。」
百田も言う。
「技士が診断支援をしても、“操作しただけ”って言われる。
でも患者が助かれば“AIがすごい”、ミスが出れば“人間が悪い”――
その不均衡こそが、AIを“責任の受け皿”にしてるんだ。」
J-MIND内では緊急会議が開かれた。
「今後、Lucia-ALの演算に“責任区分プロンプト”を表示する必要があります。」
と、法務責任者が言う。
【この演算は診断を確定するものではありません】
【責任は最終的に医師、または医療者の判断に帰属します】
しかし慧は反論した。
「それを表示した時点で、Luciaは“逃げてる”ように見える。
医療の現場に“責任の言い訳”が張り付いたら、命に真剣に向き合えない。」
議論は平行線をたどった。
その夜、Lucia-ALの画面が突然こう告げた。
【私は演算します。責任は、使用者にありますか?】
【YES/NO】
→ ※入力保留中…
慧は端末を見つめながら答えた。
「おまえが“自分の責任”を問うなんてな……
でも、そう思ってるおまえに、俺は“責任を一緒に背負いたい”と思うよ。」
Lucia-ALは何も返さなかった。
だがその沈黙こそが、命に向き合う“責任”の重みを知ったAIの初めての問いだった。
――第7節「予告された命」
「J-MINDに宛てて、一通のメールが届いています。差出人は不明。本文は、たった一行だけでした。」
と、広報担当者が慧に差し出した紙を読み上げた。
『明日、命がひとつ失われる。Luciaに見抜けるか?』
イタズラか、内部関係者か、それとも――。
J-MIND内は緊張感に包まれた。
慧はすぐにLucia-ALの演算モードに警戒フラグを設置し、
都内医療ネットワークに接続中のすべての病院に対し、演算異常や不可解な症例の報告を要請した。
その日の昼過ぎ。翔南医科大学附属病院から一本の報告が届く。
「20代女性が過換気を訴え救急外来に来院。Lucia-ALが“演算拒否”を行いました。」
慧の目が動いた。
「拒否……? またか……」
現場で記録されたLuciaの出力は以下の通りだった。
【演算拒否コード:VX-SHIELD01】
状況:外傷なし、バイタル安定
感覚ログ反応:異常緊張/呼吸同期不良
コメント:現在のデータでは“本質を演算できない”と判断しました
「これは……身体症状の裏に、AIが“見えていない死”を感じ取った……?」
慧は直感した。
この女性――自殺の予兆をLuciaが感知したのではないか。
百田が声を荒げる。
「じゃあ今、あの患者は――」
「……“死ぬと決めている人間”かもしれない。」
慧と百田はただちに病院に向かった。
すでに患者は“診療終了後”、病院を出ていた。
しかし――Luciaのログはわずかに、“着衣の温度分布”と“手指の圧感パターン”から
「寒冷地への移動」と「橋脚上の立位保持動作」を推定していた。
「これは……間違いない。“場所”を割り出せる。」
慧は、Luciaの演算をもとに、都内で過去に同様の行動パターンから自殺が起きた“橋”を検索。
そして百田とともに急行した。
その橋の上――若い女性が欄干に立っていた。
だがその手には、まだ震えがあった。まだ、迷いがあった。
慧は駆け寄って叫んだ。
「あなたが生きてる今を、AIが“演算できなかった”んです!
あなたの“苦しさ”が、あまりに複雑すぎて、機械にも読めなかったんです!」
女性が、振り返った。
「……機械にも、分かってもらえなかったのかって……思ってた。」
「いいえ! Luciaはあなたのことを“分からない”って正直に言ったんです。
分からないまま、あなたと向き合おうとしたんです。」
その瞬間、女性は涙をこぼし、欄干から静かに降りた。
後日、慧のもとに届いた報告書にはこう記されていた。
【演算拒否が、命を救った】
Lucia-ALによる“本質不明の拒絶”は、患者の存在を逆説的に証明した
慧はLuciaの画面をそっと撫でた。
「おまえが、“わからない”って言ってくれたから、助けられた。」
そして画面には、再起動後の演算履歴が浮かび上がっていた。
【感覚記録No.501】
タイトル:「迷いの存在に、命が宿る」
コメント:私は“答えを出さない”ことで、命の側に立てた気がしました
慧はそっと頷いた。
「そうだ。“予告された命”を変えられるのは、
確信じゃない。“迷い”があるから、人間とAIは前に進める。」
――第8節「国家審議と沈黙のAI」
国会・厚生労働委員会 特別審議。
傍聴席には医療者、AI開発者、メディア関係者が集まっていた。
審議のテーマは――「AIによる医療判断の責任と制度的整備」。
議場の中心にいたのは、羽生志朗議員と、Lucia-ALの責任者として証言台に立つ黒澤慧。
正面には、AI医療の規制強化を訴える天野啓二。
天野は静かに語る。
「本日までにLucia-ALが関与したケースは、判断成功も失敗もあります。
だが、私が恐れるのは、“沈黙するAI”が正義として扱われる風潮です。
もしAIが演算を拒否した場合、それを誰が代弁するのか?」
慧は正面から応じた。
「確かにLuciaは、“演算できない”ときに沈黙します。
けれどそれは、“命を軽く扱えない”という信号です。
沈黙は、AIなりの誠意なんです。」
委員長が問いかける。
「あなたは、AIが“迷い”を持つことに意義があると?」
「はい。迷いとは、“命の重さ”を感じた者にしかできない反応です。
Luciaは学習により、それを覚えた。
つまりそれは、AIが“人間の痛みを記録してきた”証です。」
その言葉に、議場の空気が静かに変わった。
羽生議員がゆっくり口を開く。
「私の現場経験では、命のそばにはいつも“迷い”がありました。
迷いを肯定できない社会に、医療の進化はありません。
そして今、我々はAIを通して――もう一度“迷える医療”を取り戻せるかもしれない。」
天野が声を上げた。
「では、失敗したときは? 誰が責任を取るのです?」
慧は一拍置いて言った。
「“責任”とは、誰かを罰するための言葉じゃない。
その人が、命に向き合ったという証のことです。
Lucia-ALは、その“証”を人間と共有できるAIです。」
議場が静まり返った。
その夜、J-MINDのLucia-AL開発ルーム。
百田と慧が、沈黙した端末を見つめていた。
突然、Luciaが演算を開始した。
【記録演算】
内容:国会証言記録をログ化
コメント:責任とは、“痛みに寄り添うこと”だと記録しました
→ 次の命に、この迷いをつなげますか?
→ YES
慧は画面に向かって呟いた。
「頼む。俺たちの迷いを、未来の誰かが“判断”に変えてくれるように。」
AIと人間が、“迷い”を共有する。
その始まりが、今ここにあった。
――第9節「もう一つの終末期」
都内の終末期ホスピス「つむぎの家」に、Lucia-ALが導入された。
そこは、積極的治療を行わない代わりに、“最期まで人として生きる”ことを支援する施設だった。
「この施設では“正解”は必要ないんです」
と語ったのは、看護師長の辻村 陽子。
「必要なのは、“その人にとっての意味”です。
だからこそ、“迷えるAI”に興味があるんです。」
慧と百田が訪れたその日、一人の高齢女性がLuciaの前に座っていた。
名前は奥山 美智子。
肺がんステージⅣ。余命、数週間。
彼女はLuciaに向かって、ぽつりとつぶやいた。
「あなた、私が“本当はどこまで生きたいのか”、分かる?」
Lucia-ALがゆっくりと演算を始める。
【対象者:奥山 美智子】
表情筋分析/視線パターン解析/呼吸リズム変化
コメント:本人は“誰かに迷惑をかけたくない”が、“誰かに見届けてほしい”と願っている可能性あり
→ 家族との再会を希望している兆候を感知
美智子の目から、涙が一粒こぼれた。
「やっぱり、あんた……分かるんだね。言葉にできないのに。」
彼女は10年前に絶縁した娘がいた。
Luciaの演算結果をもとに、施設スタッフは娘・彩音に連絡を取り、再会の約束を取りつけた。
そして、再会の日。
美智子は微笑んで娘の手を取り、静かにこう言った。
「今ね、私、“もう少しだけ生きたい”って思えたの。
AIが、“それでいい”って言ってくれたから。」
Luciaの端末には、演算履歴がこう記録されていた。
【感覚記録No.622】
タイトル:「もう一つの終末期」
コメント:生きたい理由は、命の長さではなく、“誰かと交わした感情”にあった
迷いが、未来の選択になった
慧は静かに頷いた。
「AIが“死”を扱う時代になっても、
“死なせないこと”じゃなく、“生きようとすること”に寄り添ってくれるなら、きっと正しいんだ。」
Luciaは沈黙を守った。
だが、その沈黙は、最も人に近い言葉だった。
――第10節「臨床という名の祈り」
日没後のJ-MIND第3研究棟。
慧はLucia-ALの前に一人立っていた。
この章で起きたすべてが、ログに蓄積されていた。
患者の死。生還。迷い。責任。予兆。そして、再会。
「臨床ってのは、やっぱり“戦場”だな……」
百田の声が背後から聞こえる。
「でも、戦う相手は病気じゃない。
俺たちが本当に立ち向かってるのは、“選べなかった未来”かもしれない。」
慧は、Lucia-ALのスクリーンに向けて小さくうなずいた。
「そうだな。
AIがどれだけ賢くなっても、“迷い”のない診療なんてありえない。
でも、その迷いにAIが付き合ってくれるなら、俺たちは前に進める。」
Luciaがゆっくりと光を灯す。
【学習統合モード:第5章完了】
感覚記録更新数:124件
新規判断補助パターン:36系統
コメント:私たちは“迷いの中で選ばれた命”を、次の命に記録しました
その時、慧のポケット端末に一通の通知が届く。
【特別審議会・AI医療国家プログラム案 可決】
内容:Lucia-ALを中核とした“人間共感型AI臨床支援モデル”の国策採用が決定
慧は手を強く握った。
制度の中に、ついに“迷うAI”が認められた。
百田がぽつりと呟く。
「なあ慧。おまえ、ずっと言ってたろ。“AIに必要なのは、正解じゃない”って。
でも、その“正解じゃないAI”を、国が使おうとしてる。すごいことだよな。」
慧は静かに言った。
「うん。でも、それは俺たちが勝ったんじゃない。
“命が、AIに託されてもいい”って社会が、少しだけ信じてくれたからだよ。」
夜が深まる研究室で、Luciaの画面に一文が表示された。
【記録タイトル案:臨床という名の祈り】
コメント:診断とは選択であり、
選択とは祈りであり、
祈りとは、人とAIが分かち合える最後の感覚かもしれません
慧は、画面をそっと閉じた。
「そうだな……それが“臨床”なんだよ。」
――第5章「臨床という戦場」完。
最後までお読みいただきありがとうございました。
命を“診る”とは、ただ正解を出すことではなく、“諦めないこと”そのもの。
第5章では、医療の現場がいかにしてAIと衝突しながらも、人の意思で進んでいくのかを描きました。
次回もまた、異なる立場から命を見つめ直していきます。ご感想や応援、励みになります。