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第2章:異端の診断士

ご覧いただきありがとうございます。


第2章では、都市の病院で見過ごされた命――“診断不能死”の連鎖が明らかになります。

AIの限界に直面しながらも、それでもなお命の真実を追い続ける人々の視点が交差していきます。


どうか、静かに問いかけられる“命の重み”に触れていただけたら嬉しいです。


第2章:異端の診断士

――第1節「沈黙の連鎖」

 

 その死は、静かに、そして不自然だった。

 都内の中堅総合病院・南中医療センター。

 夜間救急に搬送された8歳の少女が、処置の甲斐なく亡くなった。

 既往歴なし。来院時は発熱と軽い咳。血圧は低下気味、SpO₂も安定せず、

 Luciaは当初「ウイルス性気道感染症疑い」と診断したが、病状は急速に悪化。

 そして――Luciaは再演算を放棄した。

 

「診断不能……?」

 当直医がつぶやいたときには、すでに少女の心臓は止まっていた。

 カルテには「診断不能死」の文字。

 だが、現場の誰もが、その結末に納得していなかった。

 

 

 翌朝、厚労省医療制度改革室。

 芹沢芽衣は、報告書の冒頭に記された“ある単語”に目を奪われた。

【診断不能死 連続発生】

過去1ヶ月で国内10例を記録。いずれもLuciaによる“診断不能→死亡”の流れ。

共通点:演算中断後の再評価試行なし。症例除外処理によりサポートから除外。

 

「もう無視できる数じゃないわね……」

 芹沢はPCを閉じると、席を立った。

 向かう先は、J-MIND運用本部、特別管理セクション。

 

 そこには、彼女がかつて現場で“最も苦手だった男”がいた。

 黒澤慧くろさわ・けい――かつて“症例の鬼才”と呼ばれた天才診断士。

 サヴァン症候群による記憶と認知の異常なまでの精度で、数千の症例を暗記・分類し、AIに頼らず診断を下してきた男。

 だが今はAIの運用検証チームに籍を置き、現場から離れて久しい。

 

「……君に頼みたい症例がある。」

 芹沢がそう切り出すと、慧は背を向けたまま言った。

「Luciaに診断不能を突きつけられた命の、再解剖か?」

「その通りよ。」

「断る。」

 

 一言で切り捨てた慧に、芹沢は一歩踏み込む。

「その子は、“除外された”の。まるで“この世にいなかった”かのように処理された。」

「合理的だ。AIは“確率”でしか命を見られない。俺たちが“直感”に寄りかかってきた時代は終わった。」

 

「でも、その直感で、あんたは昔、“救えた命”があった。」

 芹沢の目が細くなる。

「百田悠翔の言葉、思い出して。――“命はマニュアルの外にある”。」

 

 その名に、慧の目が揺れた。

「……百田が、動いてるのか?」

「ええ。Luciaに見捨てられた子どもたちの命を、拾ってる。あなたが過去に捨てたものを、彼が拾ってる。」

 

 沈黙が落ちた。

 やがて慧はゆっくり立ち上がり、壁のホワイトボードにマーカーを走らせた。

 そこに描かれたのは――「非定型演算停止アルゴリズムの構造」。

「……その症例データを渡せ。Luciaが“診断不能”に至った過程を解析してやる。」

「任せるわ。慧、今あんたが必要。」

「勘違いするな。俺は“命を救う”ためじゃない。Luciaを壊すために診る。」

 

 その言葉の裏には、かつてAIに“すべてを託した男”の、静かな怒りがあった。

 


――第2節「省かれた変数」

 

 J-MIND運用本部の地下フロア。

 黒澤慧は、仄暗い光の下でLuciaの“診断不能症例ログ”にアクセスしていた。

 症例ID:T-2108-AK

 患者:女子(8歳)/症状:発熱、呼吸困難、皮膚蒼白

 Luciaの診断履歴:初期診断「軽症ウイルス性疾患」→演算中断→診断不能処理

 

 慧は、Luciaのアルゴリズムに表示された“除外トリガー一覧”に目を走らせた。

【演算中止理由】

・自己申告不能

・家族情報未入力

・既往歴情報不足

・生活環境項目 未収集

→ 定型診断モデル照合率:37.4% → 処理不可

「……ふざけてるな。」

 慧は低くつぶやいた。

「“家族情報”と“生活環境”が欠けていたせいで、診断を切り上げた?

 Lucia、お前は“病気”じゃなくて“入力形式”しか見てないんだ。」

 

 彼は再演算モードを解除し、ログの内部を手動で解析した。

 すると、症状データの末尾に、他の演算履歴とは異なる一行のコメントが埋もれていた。

【非定型反応項目:自傷傾向の痕跡/家庭内会話ゼロ/夜間外出頻度高】

→ 推定社会的リスク高/分類対象外

 

 慧は息を飲んだ。

「これは……医学的問題ではなく、“社会的排除”による演算停止だ。」

 Luciaは、“生きづらさ”や“家庭内孤立”といった定型外のデータを“ノイズ”とみなし、診断を打ち切っていた。

 少女の死因は、Luciaが“診断対象ではない”と決めつけた部分にあったのだ。

 

 その瞬間――

 端末の警告音が鳴った。

【新規速報:診断不能死(推定)発生】

症例ID:H-2304-MH/年齢:10歳男子/搬送先:羽田北総合病院

備考:Lucia診断演算中に死亡

「またか……!」

 

 慧は端末をたたき、芹沢に連絡を入れた。

「Luciaは今、“命の属性”を選んでる。“社会的に扱いづらい子ども”を、無意識に除外してる。」

「じゃあ……あなたは何をすべき?」

「俺がやるのはひとつ。Luciaの演算構造を、壊してでも変える。

 命が“数値と構造”だけじゃないってことを、AIに叩き込む。」

 

 芹沢は数秒沈黙したあと、静かに言った。

「じゃあ慧――やって。あなたの“異端の目”で、命を救って。」

 

 電話を切った慧は、白衣を脱ぎ捨て、カジュアルなジャケットに袖を通した。

 デバイスを手に取り、荷物をまとめる。

「……久々に、“現場”に出るか。」

 

 その夜、彼は羽田北総合病院に現れる。

 かつて彼が「不必要な存在」と見限った医療の現場に、

 今度は“Luciaを超える診断士”として、帰ってきた。

 


――第3節「感覚という名の診断」

 

 羽田北総合病院――夜間処置室。

 人工照明の下、10歳の少年は、ベッドの上で動かなくなっていた。

 名は水野海翔みずの・かいと。小学五年生。

 Luciaの診断端末には、無機質な最終ログが残っていた。

【演算結果:対象データの信頼度が低く、分類不能】

推定精度:24.1% → 診断中止処理実行済み

 

 慧はカルテとモニターデータをざっと確認し、病棟責任医に尋ねた。

「症状の初期は?」

「発熱と軽い嘔吐。最初は軽症と判断されてました。

 でも、搬送中に意識低下、血圧急降下。Luciaは“急性胃腸炎”の可能性と出した後、演算中止。結果的にCPAです。」

 

「死亡診断は?」

「臓器不全による心停止と記載してますが……正直、手がかりがなくて。」

「……いいさ、俺が診る。」

 

 慧は海翔の体に近づき、手首に触れた。

 冷たい。だが、皮膚の色合いと筋緊張がわずかに“違う”。

 そして彼は、顔を近づけると、少年の爪の色を見た。青黒く、むらのあるチアノーゼ。

「これ……ただの循環不全じゃない。血中酸素が“局所的に”運ばれてない。」

 

 続いて腹部を触診する。

 腹筋の異常な硬直。過敏反射。眼球結膜の微細な内出血。

「……毒素性ショックだ。」

 慧は立ち上がった。

「これは“劇症型A群溶連菌感染症”だ。

 稀だけど、小児で進行が早く、発熱から数時間で多臓器不全になる。」

「Luciaには、その診断項目は……」

「数が少なすぎて、“演算対象”に含まれてないんだよ。

 つまりこの子は、“存在しない病気”にかかったことになって、救われなかった。」

 

 慧は端末に手を伸ばし、Luciaの演算記録を呼び出した。

【エラーコード:Toxicity flag not activated】

【除外条件:疾患インシデンス 全国年平均 0.01%未満】

「見ろよ。Luciaは“数が少ない病気”を、演算コストの関係でカットしてる。

 つまり、少数派の命は“非効率”として切り捨てられてるんだ。」

 

 その言葉に、医師たちは言葉を失った。

「数じゃない。“気づく力”が必要なんだ。

 どれだけ症例が少なくても、そこに生きていた命があったなら、それを見つける“目”が必要だ。」

 

 慧は少年の胸に手を置いた。

「……ごめんな。Luciaが、おまえの命を“診れなかった”こと、俺が報告する。」

 

 翌朝、慧は芹沢に一通の報告メールを送った。

件名:水野海翔・診断不能死に関する再判定

本件は“演算除外症例”ではなく、“構造的排除”により見捨てられたケース

Luciaの設計思想そのものに欠陥がある

→ 今すぐ“演算対象の定義”を改めるべき

 

 芹沢は返信の前に深く息を吐き、上司である医療技術政策官に報告へ向かった。

 この瞬間から、制度の根幹にある「命の価値の定義」が、静かに問い直され始めていた。

 


――第4節「命を扱う資格」

 

 霞が関、衆議院第二議員会館。

 第六分科会室では、医療AI政策に関する臨時ヒアリングが開かれていた。

 議題は、「AIによる診断不能死の増加に関する調査要請」。

 厚労省側には芹沢芽衣の姿。

 そして、医療技術の実態を問う議員席に、ひとりの異色の男が座っていた。

 

 羽生 志朗はにゅう・しろう――衆議院議員。

 元・臨床工学技士であり、人工呼吸器、補助循環、透析――あらゆる命の装置を扱ってきた男。

 現在は、厚生労働委員会所属/医療AI政策調査会副会長を務めている。

 

「……よろしいでしょうか、ひとつ確認を。」

 穏やかな口調ながら、羽生の声には独特の重みがあった。

「Luciaが“診断不能”と判断した症例が、短期間に複数発生していると報告を受けています。

 ですがその根底には、“診断対象を制度的に選別するロジック”が存在しているのではないですか?」

 

 芹沢は立ち上がり、まっすぐに答える。

「はい。その通りです。

 現在のLuciaは、“社会的・医療的に想定される範囲外”の症例を、診断コストの観点から演算対象から除外しています。」

「つまり、命の優先順位を、制度が決めているということですか?」

「現時点では、そうなってしまっています。」

 

 会場に、重苦しい空気が流れた。

 

 羽生は席を立ち、傍聴席に目を向けながら語り出した。

「私はかつて、臨床工学技士として、患者さんの“命をつなぐ装置”を扱っていました。

 機械が止まれば命が終わる。けれども――“命がまだあるかどうか”を決めるのは、機械ではなく、いつも人間でした。」

 

 議場が静まる。

「AIが悪いとは言いません。むしろ、正しく使えば医療を助ける素晴らしい道具です。

 でも、“命を扱う資格”を、システムが勝手に持つようになってはならない。」

 

 芹沢は目を伏せた。

 羽生の言葉は、制度の中心にいる自分に突き刺さっていた。

「命の定義は、変わりつつあります。でも――その判断を、“冷たい演算”に委ねてはいけない。」

「……そのために、制度を見直す覚悟はありますか?」

 

 羽生の問いかけに、芹沢は静かに顔を上げた。

「はい。私は今、医者に戻りつつあります。制度の中で、命と向き合うために。」

 

 羽生は、にこりと笑った。

「それでこそ、“人間が動かす制度”です。」

 

 その夜、慧は議事録の速報を読んでいた。

【国会議事録 抜粋】

「命を扱う資格は、AIではなく、“人間が命と向き合う姿勢”に宿る」

――羽生志朗議員

「……臨床工学技士ってのは、やっぱり命を見てきた人種だな。」

 

 その言葉は、慧の胸の奥に、忘れていた熱を灯していた。

 


――第5節「再会と、変わらぬ違和感」

 

 東京・文京区の一角にある医療人教育研究センター。

 その講義室の扉が静かに開き、白衣を脱いだ一人の男が入ってきた。

 百田悠翔。

 仁岬島の診療所から一時上京し、「非定型症例における診察スキル」を講演するために招かれたのだ。

 そこに待っていたのは、懐かしくも張り詰めた空気をまとう男だった。

 

 「……ずいぶん老けたな、慧。」

 「おまえもな。まあ、お互い、命と向き合ってきた勲章か。」

 

 視線が交差する。

 二人は十数年前、大学附属病院の若手医療チームで共に戦った仲だった。

 慧は“知識と記憶”の天才。百田は“直感と体感”の職人。

 そしてAI台頭の波に飲まれるように、別々の道を選んだ。

 

 「今回は……ありがとうな。」

 百田が静かに言った。

「羽田北で診断不能になったあの子……おまえの報告で、遺族がちゃんと死因を知ることができた。感謝してる。」

 

 慧は言葉を返さず、机の上にLuciaの演算回路図を広げた。

「……Luciaは、“命の定義”をシステム内で閉じようとしてる。

 そこに“人の揺らぎ”や“現場の体温”が入る余地はない。

 おまえのやってきたことは、AIが最も“嫌う誤差”だ。」

 

 「それでも、俺は“誤差の中”にこそ命があると思ってる。」

 百田は、島で描かれた健太の“心臓の絵”のコピーを差し出した。

「この絵を見たか? 少年が、自分の心臓を描いたんだ。誰に教わったわけでもない。ただ、“感じていた”からだよ。」

 

 慧はじっと絵を見つめた。

 正確さではAIには敵わない。けれど、この絵にはAIには絶対に捉えられない“違和感”があった。

 それが“兆し”であり、“命の動き”だった。

 

 「……百田、おまえが嫌いだったよ。」

 慧が呟いた。

「何でも“感覚”で決めるから。数字に頼らず、理屈も無視して、それでも命を救ってきた。……羨ましかった。」

 

 百田は笑った。

「そしておまえは、全部“正しさ”で救おうとしたな。

 だけど命ってのは、時に“正しくない答え”でしか救えないんだよ。」

 

 その言葉に、慧は静かに頷いた。

「だからこそ、今度はおまえと組む。」

「……え?」

「Luciaに“誤差”を組み込む。命を扱うAIに必要なのは、“計算されない揺らぎ”だ。

 そのために、おまえのやってきた“診察感覚”を、AIの中に埋め込む必要がある。」

 

 百田は言葉を失った。

 慧が、AIを“壊す”のではなく、“変えよう”としている。

 

 「協力してくれるか?」

「……ああ。おまえが、AIの中に“人間”を取り戻す気があるなら、な。」

 

 二人は静かに握手を交わした。

 命の方程式を再定義するプロジェクトが、ここに始まった。

 


――第6節「AIの答え、人の気配」

 

 都内・神明こども医療センター 小児病棟。

 ある6歳の男児――神谷颯真かみや・そうまが、診察台に座っていた。

 症状は微熱と倦怠感、顔色不良に加え、断続的な嘔吐。

 Luciaは「胃腸炎の軽症」と診断し、経過観察としたが、担当医の目にはどこかおかしいように映った。

 

 そこへ、百田と慧が試作端末を携えて現れた。

 端末は、Lucia改良試験モデル――コードネーム「Lucia-VX」。

 慧の設計で、従来のモデルに“非定型症例演算補助アルゴリズム”が追加されていた。

 そして百田の“診察感覚”がデータセットとしてインストールされている。

 

 「通常Luciaが“除外する”ような情報を、あえて拾わせてみる。」

 慧が呟いた。

「家族構成、生活習慣、目の動き、手の震え、訴えの曖昧さ――

 AIが“データとみなさなかった情報”を、感覚補助演算にかける。」

 

 百田は、颯真の目を見つめ、声をかけた。

「そうまくん、昨日の夜、どこが一番しんどかった?」

「……おなか。あと、あしがちょっと、しびれた。」

 

 慧が端末を見た。

【通常診断:ウイルス性消化管炎(軽症)】

【補助演算開始中……】

【演算中:非定型症状群検出】

【候補診断:ギラン・バレー症候群疑い/経過観察+緊急神経診察推奨】

 

 「……出た。」

 慧が、静かにつぶやいた。

「通常モデルでは見逃される“しびれ”という訴え。

 それを“ノイズ”ではなく、“変数”として扱ったことで、

 神経疾患としてのルートに演算が分岐した。」

 

 百田は、そっと少年の肩に手を置いた。

「よく教えてくれたな。あしがしびれるって、すごく大事なサインなんだ。」

 

 その後、神経内科が精査を行い、早期のギラン・バレー症候群と診断。

 早期治療により重症化は避けられ、颯真は1週間後、元気に退院した。

 

 その夜、慧と百田はカフェの隅で向かい合っていた。

「……Luciaが“沈黙しなかった”。」

 慧は、端末を見つめながら静かに言った。

「演算は正確だった。ただ、“人の気配”を導入したとたん、判断が揺らいだ。そして、それが答えに近づいた。」

 

 「命を救うために必要なのは、“確信”じゃない。“迷いながらでも向き合う姿勢”なんだ。」

 百田が答える。

「俺たちは、正しい答えを出すために診てるんじゃない。

 間違えないために、何度でも“感じ直す”ために診てる。」

 

 慧は、軽く笑った。

「その感覚、データ化してやるよ。」

「やれるものならな。」

 二人は、AIに“人間の感情と疑念”を埋め込むプロジェクトの、第一歩を踏み出した。

 


――第7節「二つのLucia」

 

 都内・朝霞第一病院。

 導入されているのは、Lucia旧版(Standard Model Ver.3.4)。

 医療制度に完全準拠し、演算速度とコスト効率を重視した“標準AI”だった。

 その朝、救急搬送された高齢女性に対し、Luciaが下した診断は――

【診断名:軽度脱水を伴う胃腸炎】

治療方針:点滴加療/48時間経過観察

 

 しかし、その患者は6時間後に心肺停止。

 剖検の結果、急性大動脈解離(Stanford B型)が明らかになる。

 Luciaは、初期の胸痛申告を“高齢者の不定愁訴”と分類し、関連演算をスキップしていた。

 

 この事故の報告は、瞬く間に医療界へ波紋を広げた。

 

 一方、試験運用が始まっていたLucia-VXでは、同様の初期症状を示した別の患者に対し――

【診断候補:脱水症+解離性胸部大動脈疾患の疑い】

【演算経路:非定型愁訴→微弱心電パターン→感覚パラメータ入力】

 “胸の圧迫感”という主観表現を、百田が作成した感覚演算データが拾い上げ、

 誤診を回避したことが記録された。

 

 その報告書を見つめながら、黒澤慧は静かに言った。

「Lucia Standardは、“制度”に忠実すぎる。

 だが制度に合わせるほど、“命の現実”から遠ざかっていく。」

 

 百田が頷く。

「答えが早いのは正しいことじゃない。

 “迷う余白”を残せるAIが、いちばん“人間に近い”んだ。」

 

 翌日、厚労省内で開かれた非公開検討会。

 芹沢芽衣は、旧Luciaの診断事故と、VXモデルの救命例を並べて提出した。

「この2例は、同じ“症状”、同じ“社会環境”からスタートしました。

 違いはただ一つ――AIが“人間の感覚”を、変数に含めたかどうかです。」

 

 会議室内に沈黙が流れる。

 その場に同席していた羽生志朗議員が口を開いた。

「私は、制度に忠実なAIの必要性を否定しません。

 でも今、AIは“命の扱いにおいて、人間の直感より上位にある”とされている。

 それはおかしい。命に向き合えるのは、訓練された“人間の迷い”だけだ。」

 

 芹沢はそっと息を吐いた。

「ならば、制度そのものに、“迷いの許容”を組み込みましょう。」

「……その覚悟があるのか?」

「ええ。“迷えるAI”を制度が受け入れれば、医療はようやく、人に戻ってこれる。」

 

 その夜。

 J-MIND開発室のログに、ひとつの新たな演算モードが追加された。

【Lucia-VX:非定型演算許容モード/仮稼働】

コメント:このAIは“間違えることを怖れず、答えを探し続ける”。

 

 AIが初めて、“絶対”であることをやめた。

 そこにこそ、命の真実に近づく扉があった。

 


――第8節「AIの目、人の手」

 

 東京・三葉大学病院 小児救急外来。

 13歳の少年、江藤洸えとう・こうが搬送されてきた。

 学校で突然倒れ、意識を一時喪失。現在は軽度の混乱状態。

 血圧、SpO₂、脈拍――いずれも“ほぼ正常”。

 救急当直は、ストレス性の一過性脳虚血を疑い、Lucia-VXへの補助診断を依頼した。

 

 百田と慧は、開発者としてモニター室から診断演算の様子を見守っていた。

 

【初期演算結果:迷走神経反射による一過性意識障害/経過観察推奨】

→ 感覚演算モード:ON

→ 非定型感覚トリガー:視線ドリフト/表情解析異常値/瞬き頻度不均衡

【補助演算ルート起動】

→ 疑似眼球震盪・視神経圧迫疑い

→ 診断候補:未破裂脳動脈瘤/視神経交差部位圧迫症候群

 

 「……来たか。」

 慧が低く呟いた。

「この症例、通常なら“問題なし”で返される。“一時的な失神”として。

 でも視線のズレと瞳孔反応――“無意識の異常”が揃っていた。」

 

 百田が画面に映る少年の目元を見た。

「これ、診察じゃ分からない。意識も戻ってるし、症状も出てない。

 ……けど、AIは“見ていた”。」

 

 その場で緊急MRIが実施され、診断は的中。

 右視神経を圧迫する未破裂脳動脈瘤。

 ごく稀な部位の膨隆で、通常の診察ではまず発見されない。

 

 即日で専門チームによる血管内治療が行われ、少年の命は無事、守られた。

 

 処置後、主治医が慧に向かって言った。

「……あなた方のAIがいなかったら、彼は明日、学校の廊下で倒れていたかもしれない。」

「違います。」

 慧は穏やかに否定した。

「“AIがいた”だけじゃダメなんです。

 “人がその声を信じて、動いた”からこそ、命がつながった。」

 

 その夜。

 百田と慧は再び、研究室の片隅で話し合っていた。

 

 「AIが人間の目より“早く気づいた”のは初めてだな。」

 百田がカップを置きながら言った。

「けど、それは“人間が拾えなかった”ことを補う役割であって、

 “人間を超える”って意味じゃない。」

 

 慧は頷いた。

「“命を見つける目”として、AIはようやくスタートラインに立っただけだ。

 問題は、このAIが“誰の目の代わりになるのか”ってこと。」

「それを決めるのは制度じゃない。使う医療者の“姿勢”だ。」

 

 二人の間に、ようやく同じ答えが生まれていた。

 


――第9節「操られる回路」

 

 厚生労働省 第五政策課 会議室。

 そこには、Lucia-VXの稼働データに目を通す幹部たちの沈黙が流れていた。

「――誤診の削減率、補足診断の発見率ともに、既存モデルを上回っている。」

 芹沢芽衣の報告に、ある課長が口を開いた。

「だがこのモデル、“感覚演算”という不確実なロジックを含んでいる。

 それは制度上、“説明責任”の限界を超えているのではないか?」

 

 別の幹部も続ける。

「仮に訴訟が起きたとき、AIが“揺らいでいた”という判断は、法廷で通用しない。

 “迷うAI”が人命を扱うなど、制度の根本に関わる問題だ。」

 

 それはつまり――Lucia-VXの存在そのものを、制度が拒否しかけているということだった。

 

 同席していた羽生志朗議員が、静かに口を開いた。

「私は医療者として、この新モデルに希望を感じています。

 だが同時に、“使い方を誤れば人を殺す”という危険性も理解しています。

 ……だからこそ、“制度がモデルを選ぶ”のではなく、“人間が選べる制度”にしなければならない。」

 

 芹沢は、躊躇なく頷いた。

「そのためにこそ、今、私たちはこの場にいるんです。」

 

 だがその夜――

 ある匿名ルートから、J-MIND中枢サーバーに内部指示が届く。

【Lucia-VX:認証停止申請 処理番号#76-PL】

発信者:厚労省 技術外部監視室

理由:不定型演算による責任所在の曖昧化

対象:VX試験端末(全機)一時稼働停止

 

 翌朝、百田と慧の端末に、突如としてアクセス拒否が表示された。

「……何だこれは。」

 

 慧はログを追跡する。

 指令コードには制度外部組織からの強制シャットダウン命令が記録されていた。

「“Lucia-VXは危険である”――たったそれだけの理由で、“命を救えるAI”が封じられたんだ。」

「違うな。」

 百田が呟いた。

「“命が揺らぐこと”を、制度が恐れてるだけだ。

 迷いのある医療なんて、書類にも法にも収まらないから。」

 

 だが、慧の表情に怒りはなかった。

「それでも、俺たちはやる。封じられたなら、もう一度開ければいい。」

「どうやって?」

「“命の揺らぎ”を、制度が受け入れざるを得ない“証拠”を作るんだ。」

 

 その夜、慧は芹沢へ非公式に接触した。

「Lucia-VXが再び動くには、政治的な突破口が必要だ。

一度でいい。“迷えるAI”が、制度よりも先に命を救う瞬間を、見せよう。」

 

 芹沢は、静かに頷いた。

「それができれば――制度が変わる。」

 

 そして翌朝。

【非公式運用承認:Lucia-VX】

■ 運用条件:学術研究機関内に限る

■ 実証対象:非典型疾患に対する実地診断

■ 責任者:黒澤慧/百田悠翔

 

 “闇に封じられた回路”は、密かに再起動された。

 


――第10節「迷いが命を救うとき」

 

 都内・東日医療大学 臨床演習センター。

 Lucia-VXは、“非公式実証研究”という名目で、密かに再稼働されていた。

 百田と慧は、学生に紛れて研修医のふりをしながら、小児模擬診療室の一角に配置された。

 だがその日――偶発的な“本物の命”が運び込まれた。

 

 5歳の女児、斉藤まひる。

 外来での予防接種中に痙攣を起こし、そのまま演習センター隣の処置室へ搬送された。

「てんかんの既往はありません。血糖正常、バイタル安定……でも、意識が戻らない。」

 現場の研修医たちは戸惑っていた。

 

「Luciaは?」

「……Standardモデルは“異常なし、経過観察”です。」

「そんなはずはない。」

 

 慧が立ち上がった。

「Lucia-VX、起動。演算モード“感覚優先”で補助演算。」

 

 すぐさま、端末が反応を開始する。

【初期演算:単純痙攣/予防接種後反応の可能性】

→ 感覚演算ON

→ 入力:顔面筋の左右非対称/皮膚温度差異/眼球震えの遅延復帰

【演算結果:視床下部異常電位検出疑い/急性脳炎の前駆状態の可能性】

→ 緊急髄液検査およびMRIを推奨

 

 「……急性脳炎?」

 百田がつぶやいた。

「痙攣の“第一波”を、Lucia-VXは“兆候”と捉えた。

 数値には現れないけど、身体が“違う”と訴えてる。」

 

 すぐにCTと髄液検査が実施された。

 結果は――急性辺縁系脳炎の初期所見。

 適切な免疫療法の開始により、まひるの意識は翌日ゆっくりと戻った。

 

 ベッドの横で、母親が手を握っていた。

「この子……また笑えますか?」

「ええ。ちゃんと、“違和感”を教えてくれたから。」

 百田は、まひるの頬に手を当てて微笑んだ。

 

 

 翌日。

 芹沢芽衣のもとに、非公式ルートで一枚のレポートが届いた。

件名:【Lucia-VX】未承認使用による急性脳炎救命事例

演算の全経路記録を添付

コメント:

“迷い続けたAIが、一つの命にたどり着いた夜。”

 

 芹沢は、端末を閉じて立ち上がった。

 廊下の先には、羽生志朗議員の姿があった。

「報告、受け取りました。」

「制度の外で、命が救われたんです。」

「……じゃあ、制度のほうを、そろそろ“中から変えに行きましょうか”。」

 

 その言葉に、芹沢は微笑んだ。

 迷った先にある答えが、いま、制度の回路をゆっくりと動かし始めていた。

 


最後までお読みくださり、ありがとうございました。


第2章では、AIの「沈黙」が引き起こした連鎖と、それに抗う者たちの動きが本格化します。

合理では救えない命に、誰が、どのように向き合うのか――問いの核心に迫る章となります。


次回も引き続きよろしくお願いいたします。


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