第1章:解けない命
ご覧いただきありがとうございます。
第1章からは舞台が“離島の診療所”へ移ります。
診断AI《Lucia》の視線が届かない場所で、人間だけが命を見つけようとする医師・百田悠翔の物語が始まります。
社会の隙間で生きる命と、それを支える現場のリアルを描きます。
第1章:解けない命
――第1節「無医島の名医」
静かな波の音が、診療所の窓を揺らしていた。
ここは伊豆諸島の一つ、人口わずか三百人の小島――仁岬島。本土からフェリーで三時間。ドクターヘリの着陸も困難な、医療空白地帯だった。
「はあ……今日も検査結果、ネットが固まってるか。」
パソコンの前でため息をついたのは、この島唯一の医師、百田悠翔だった。
40歳。東京の大学病院で心臓外科医として名を馳せたが、ある事件をきっかけにこの島へやって来た。
白衣ではなく、いつもTシャツと作業ズボン。町の人には“先生”ではなく“百田さん”と呼ばれている。
「百田さーん、健太がまた発作起こしてる!」
声がして、診療所の扉が勢いよく開いた。飛び込んできたのは、漁師の妻・佐野志穂。
その後ろには、小学五年生の息子・健太が苦しそうに胸を押さえていた。
「健太、すぐこっちに。心電モニター準備、酸素投与開始!」
百田はすぐに処置に取りかかる。手際は無駄がなく、そして優しい。
健太は、生まれつき心室中隔欠損を抱えていた。
本来なら大病院で定期管理を受けるべき疾患だが、母子家庭で島を離れる手段もなく、島の診療所に命を預けていた。
「……ほら、ゆっくり吸って。大丈夫だ。おまえの心臓は、まだちゃんと動いてる。」
百田の声に、健太の呼吸が少しずつ落ち着いてくる。
「センセ……また東京行かないと、ダメかな……?」
「ダメじゃない。でも……できることは、ここで全部やってみような。」
処置が一段落した後、志穂がそっと口を開いた。
「先生、本当は……手術、した方がいいんですよね?」
「……ああ。でも、大病院の予約も取れないし、飛行機もフェリーも、今の健太の状態じゃリスクが高い。だったら――ここで、俺が最後まで診るよ。」
「でも、先生の方がリスクじゃないですか? 島で診てるだけなんて、東京で名医って言われてたのに……」
「俺にはもう“名”はいらないよ。今目の前にいる人を診る。それでいい。」
その言葉に、志穂はしばらく沈黙した。
「――実は、昨日、都内のAI診断センターから通知が届いたんです。“健太くんは将来的に外科的治療が困難と予測されるため、経過観察の方針を推奨します”って……」
「何だと?」
「Luciaっていう診断システムが言ってるらしくて……島での治療継続は“非推奨”だって。」
百田は黙って立ち上がり、机の端に置いてあった資料を手に取った。
それは国から送られてきたばかりの「診療支援AI活用推進手引き」だった。
「――これか。とうとうこの島にも、AIの“視線”が届いたってわけだ。」
彼は、静かに笑った。
「でもな志穂さん。健太は“推奨”かどうかで生きてるわけじゃない。俺が“必要”だと思えば、それがこの島の医療だ。」
「……ありがとうございます。」
その夜、百田は島の小さな浜辺に立ち、潮風を感じながらスマートフォンを見つめた。
画面には一通のメールが届いていた。
【至急共有】
Lucia運用地域で“診断不能症例”が急増中。
本件に関して、厚労省より関係機関への協力要請が来る見込み。
※百田先生の協力も要請予定です。
彼はつぶやいた。
「やっぱり来たか。“方程式”の外側にいる俺にまで、声がかかるとはな。」
そして思う。
――本当に、命は数式で解けるのか?
――第2節「厚労省からの来訪者」
翌日、診療所の待合室に場違いなスーツ姿の人物が現れた。
灰色のビジネスバッグ、革靴に潮の香りは似合わない。女性ながら背筋を真っ直ぐに伸ばし、清潔で無表情なその顔に、どこか硬さが滲んでいた。
「厚生労働省 医療制度改革室の芹沢芽衣と申します。」
「……これはこれは、ずいぶん偉い人が、ずいぶん辺鄙な島に。」
百田は診療所の奥から出てきて、麦茶の入ったグラスを差し出した。
「どうぞ。冷たいのしか出ませんが。」
「ありがとうございます。――本日は、AI診断支援における“非推奨例外症例”に関する現場聴取のために参りました。」
「つまり……“うちの患者を見すぎるな”って通達を、直接言いに来たってことですか?」
芹沢の目がわずかに動く。だが表情は変わらない。
「制度としてLuciaの診断は、保険適用と医療資源配分の根幹に関わっています。地方での偏在やリソースの無駄を減らすため――」
「言葉を選んでますね。でも現実は、“命の見切り”ですよ。」
「……誤解です。」
「誤解じゃない。患者を“見ない方がいい”って言ってくるのは、俺にとってはもう医療じゃない。」
その時、奥の処置室から声がした。
「せんせー、苦しい……」
健太だった。母・志穂が慌てて駆け寄る。百田はスーツ姿の芹沢に一瞥を送りながら、即座に処置へ移った。
「酸素流量4リットル、血中酸素モニター下げてきてる。静注入れて、ゆっくりだ。」
息も絶え絶えの少年を見つめる芹沢の表情に、わずかに翳りが差した。
「これが……Luciaの“非推奨”?」
志穂が震える声でつぶやいた。
「先生……この子、いつまでここで診てもらえるんですか……? 本当は、施設でも何でも、ちゃんとした場所に預けた方が……」
「志穂さん、それは違う。」
百田の声は静かだったが、迷いはなかった。
「この子は“ちゃんとした場所”で診てもらってる。俺が、ここで、診る。」
芹沢はその様子を、黙って見つめていた。
制度では測れない熱意。統計に出てこない表情。Luciaには拾えない“人の気配”。
「……この症例、私の方で特例として本庁に報告します。“例外中の例外”として。」
「ほう。それはつまり、“制度内で例外を認める”ってことですか?」
「そうではなく――制度のほうを揺るがす可能性があるということです。」
そのまま芹沢は立ち上がり、百田に名刺を置いて帰ろうとした。
だがその瞬間、処置室の隅でひとつの声がした。
「……この人、前にテレビで見た……厚労省の……」
健太の細い声だった。
「おれ、がんばるよ。AIに、負けないもん。」
芹沢は初めて、わずかに笑った。
「――私も、がんばります。」
その日、芹沢は帰京の船に乗りながら、デバイスを開いた。
Luciaの中枢ログにアクセスし、“非推奨”となった子供たちの一覧を確認する。
そして一行、検索キーワードを入力した。
「命の解けない方程式」
それはまだ、仮説にもならない小さな呟きだった。
だが確かに、何かが動き始めていた。
――第3節「心臓の絵」
午後の診療所には、いつもよりゆったりとした時間が流れていた。
処置を終えた健太はベッドで眠っていたが、顔色は少し戻り、心拍数も安定していた。
母の志穂は隣で静かに雑誌を読みながら、時折その顔を覗き込んでいる。
「ねえ、志穂さん。学校の図工で健太、絵描いてたって聞いたけど、何を描いてたの?」
百田が問いかけると、志穂は微笑んでバッグから折り畳まれた画用紙を取り出した。
「これです。“心臓”だって。――この子、自分の病気のこと、ちゃんと分かってるんですよ。」
そこには、まだ未完成ながら、赤と青の絵の具で描かれた複雑な構造の絵があった。
医学書のような正確さではないが、不思議と“命の流れ”が感じられる。
「これ……動脈と静脈、ちゃんと描き分けてるな。肺動脈弁まで。」
「図鑑見ながら描いてたみたいです。“自分の心臓をちゃんと描いて、治す方法見つける”って。」
百田はその絵をじっと見つめた。
どこか、言葉では説明できないもの――医師としてではなく、一人の人間として心を揺さぶられる何かがそこにあった。
「この絵、データにして送らせてもらっていい? Luciaにじゃない。“人間”の目で診てもらう人たちがいる。」
志穂は驚いたように頷いた。
「……この絵が、何かの役に立つんですか?」
「きっとな。数字じゃ伝えられない“命の形”ってのが、あるんだよ。」
その時、ふと健太のまぶたが揺れた。
ゆっくりと目を開けると、彼はうっすらと笑って百田を見た。
「せんせ、オレの心臓……まだ、がんばってる?」
「ああ、文句なしだ。たぶん俺のよりもな。」
「へへ、じゃあ……まだ絵、完成させられるな。」
その言葉に、百田は苦笑しながら頭を撫でた。
「描け。思う存分。お前の心臓の全部、教えてくれよ。」
「うん!」
その姿を、志穂は目に涙を浮かべながら見守っていた。
病と闘う我が子の強さ、そして“診る”ではなく“向き合ってくれる医師”がここにいること。
AIにはきっと辿り着けない、“人の時間”が確かに流れていた。
その夜、百田は診療所の一室にこもり、旧友にメールを書いていた。
黒澤へ
相変わらず“中央”で難しい顔してるか?
こっちは相変わらず“海の向こう”で、難しい命を抱えてる。
Luciaの診断に納得がいかない症例がある。
ひとつ、君の“目”で見てくれないか?
添付は、ある少年が描いた“心臓の絵”だ。
送信を押すと、窓の外には月が昇っていた。
風の音に混じって、健太の笑い声が聴こえたような気がした。
――第4節「絵の中のエラー」
東京・赤坂。夜の帳が下りても、J-MIND本部のオフィスには蛍光灯の光がまぶしかった。
その一室、AI開発者の黒澤慧は、ディスプレイに表示された一枚の画像を凝視していた。
添付メールの差出人:百田悠翔
件名:「君の“目”で見てくれ」
画面には、小さな子どもが描いた一枚の心臓の絵。赤と青が交差し、不器用だが細部までこだわって描かれていた。だが――
「……これは、ただの図工じゃない。」
慧は呟いた。
絵の中央に描かれた動脈弁の位置、それを囲むように広がる細い血管群。色分けは微妙に違っているが、これは――
「二次的異形成?」
彼はすぐに過去の文献を検索した。
小児期の心室中隔欠損における極稀な合併奇形、右室二重流出路(DORV)。
Luciaの学習モデルには“症例数不足”としてフィルター除外された疾患。
「Lucia、おまえは――これを“ノイズ”としか認識できなかったのか。」
絵の情報から診断に辿りつけるのは、AIではなく“人間の直感と経験”だ。
だが、なぜこの子は、こんな構造を“描けた”のか。
そのとき、慧の頭をよぎったのは、遠い記憶だった。
十数年前、東京医科大学附属病院。
「この子の心臓、どこか違うぞ」と真っ先に気づいたのは、まだ若かった百田だった。
当時、慧は学生インターンとして心電図データばかりを眺めていたが、百田はベッドサイドで患者の手を握り、声をかけながら“人としての命”を見ていた。
「慧、データばっかり見てると、命の本質は見えなくなるぞ。」
「……でも、正しい診断はデータから導かれるべきです。」
「違う。データは“命を見つける手がかり”であって、“命そのもの”じゃない。」
それが、二人が最後に交わした言葉だった。
百田は“人間”を選び、慧は“AI”を選んだ。
あの時の分岐が、今、こうして再び交わるとは――
「百田……やっぱり、おまえの目は、本物だったよ。」
慧は深夜のメールを芹沢芽衣に送った。
Luciaフィルターにおける診断除外症例に関して、
“絵画的自己表現”を通じた症候提示例を確認。
この症例は例外ではなく、“分類外の知性”として扱うべき。
Luciaに“ノイズ”とされた信号の中に、命の兆候がある。
私は、この変数を“救命の方程式”に加える。
送信を終えた慧は、深く息を吐いた。
そして、自分のAI開発ログに手を加え始めた。
Luciaにはない、“直感”と“外乱”を取り込むための新しい回路設計。
そのとき、オフィスの窓の外で一陣の風が吹いた。
都市の喧騒の中に、遠く波の音が聴こえた気がした。
――第5節「解けた、ひとつの式」
翌朝、診療所に一通の封筒が届いた。差出人はJ-MIND医療AI運用本部、宛先は「仁岬島医療所 百田悠翔先生」。
百田は受付の椅子に腰掛け、封筒を手にしたまましばらく動かなかった。
何かが変わる気がした。だが、何が変わってしまうのかは分からない。
開封された封筒の中には、一枚の診断変更通知と、新たなレポートが添えられていた。
■ Lucia診断補正報告
症例ID:NS-110-KT
年齢:11歳 男児
初期判定:非標準・リスク加重評価D(治療非推奨)
補正後判定:DORV合併例の疑い/早期外科的評価推奨
補正理由:非構造データ(手描き心臓図)による追加読解リクエスト
診断補正承認:黒澤慧(主任解析官)
百田は息を呑んだ。
「……Luciaが、自分の診断を変えた……?」
そのとき、診察室の扉がノックされた。
「せんせ……」
健太だった。顔色はまだ薄いが、表情に確かな力が戻っている。
「これ、昨日の続き。やっと描き終わった。」
彼が差し出したのは、前日よりさらに色彩豊かに描かれた“心臓の絵”だった。
静脈の青、動脈の赤、そしてその中央に、“金色の点”が一つ。
「これ、何のつもりで描いたの?」
「ここが、“治せるとこ”なんじゃないかなって。……オレの心臓の、鍵になるとこ。」
百田はその絵と、AIから送られてきた補正診断を見比べた。
そこには、かつて“ノイズ”として扱われた微細な異常と、健太が金色で描いた“点”が――完全に一致していた。
「おまえ……すごいな。」
「オレの心臓だから、わかるよ。せんせーだって、そうでしょ?」
百田は、笑った。
「……そうだな。俺も、自分の心で診ることしかできないからな。」
午後、百田は診療記録をまとめ、東京のAI補正検証センターへレポートを送信した。
文末には、こう記されていた。
AIが“見なかった命”を、人間の直感と観察が“見つけた”例である。
「命の方程式」に、“知識”だけでなく“感情”と“描写”が変数として含まれるなら、
医療はまた、違う形で進化するかもしれない。
その夜、芹沢芽衣のデスクにも同じレポートが届いた。
彼女は報告書を見ながら静かに目を閉じ、しばらく考え込んだ後、決意したようにデスクの電話を取った。
「厚労省医療制度改革室 芹沢です。Luciaの“診断不能”事例に関し、全国再調査を提案します。これは、もう例外じゃありません。」
仁岬島の海辺では、健太が新しいスケッチブックにまた“心臓”を描いていた。
今回は、心臓の奥に、小さな“人の手”を描いていた。
「これは、せんせーの手。オレの心臓、こうやって掴んでてくれたんだよ。」
百田は遠く東京の空を見上げた。
医療がどれだけ進んでも、命の解き方に“唯一の答え”はない。
だが、一人の命を“解こう”とする人間の意思だけが、方程式の中で唯一の“答え”になり得る。
――第6節「もうひとつの命」
仁岬島に、再びドクターヘリがやって来た。
島の港に併設されたヘリポートに、海風を巻き上げながら着陸した白い機体。
その中から、ストレッチャーに乗せられた少女が運び出され、付き添う医師と看護師が慌ただしく動いていた。
「患者、12歳女子。名は三宅つぐみ。都内の特別支援学級に在籍。高機能自閉スペクトラム症あり。数日前より発熱、嘔吐、意識障害。AI診断では“情報不足・診断不能”と判断され、施設間搬送を繰り返してここに至る!」
島の医療所に一時避難先が指定された理由は単純だった――
Luciaが“診断対象外”と判断したため、受け入れ先が他にないというのだ。
百田は顔をしかめながら、急いで処置室に案内した。
「AIが除外して、搬送先が“島”?……今度はそれか。」
少女は痩せていて、皮膚は乾燥し、目は閉じられたままだった。
しかし、その手にはくしゃくしゃになった折り紙がしっかりと握られている。
「名前を呼んでみる……三宅つぐみさん。つぐみちゃん、聞こえるか?」
反応はない。
酸素投与、点滴ライン確保、バイタルチェック――百田は機械的に作業を進めながら、少女のカルテをめくった。
すると、そこにはLuciaによる“診断不能”の理由が記されていた。
【Lucia補足評価】
患者の行動履歴と生体反応に一貫性なし。
表出困難な発語、情動不一致、医療質問への反応不定。
→ 自己申告情報の信頼度が低く、診断演算精度保証不能。
評価:非構造データ過多により“診断不能”
「……つまり、“この子の伝え方”がLuciaには理解できなかったってことか。」
そのとき、処置室の入口から健太が顔を出した。
「せんせ……あの子……なんか、前のオレに似てる気がする。」
百田は、驚いたように微笑んだ。
「似てるか?」
「うん。なんか、しゃべれないだけで、ちゃんと考えてる顔してる。……オレ、手紙書こうか?」
「手紙?」
「オレが“心臓の絵”で伝えたみたいに、今度は“手紙”で、何か伝えられるかもしれない。」
翌日、健太は自分のスケッチブックの1ページを破り、そこにひらがなで大きく書いた。
「つぐみちゃん、きみはなにをかんがえてるの?
だいじょうぶだよ。オレも、しゃべれなかったときあるけど、せんせがわかってくれた。
だから、なにか、かいてみて。すきなことでも、きもちでも。」
百田がその紙を折って、つぐみの手にそっと忍ばせた。
少女はまだ目を閉じたままだったが――
その夜、百田が見回りに来たとき、ベッドの脇には新しい折り紙が置かれていた。
折り方は不器用で、形もいびつだったが、確かにそこにあった。
“返事”だった。
――第7節「折り紙に託されたサイン」
翌朝、つぐみの病室に入った百田は、ベッド脇のテーブルにもう一つ折り紙が増えているのに気づいた。
それは、昨日のものよりもさらに複雑な構造をしていた。
一見すると“動物”のようだが、折り線は規則性がなく、幾何学模様にも見える。
「……これは、ただの折り紙じゃないな。」
百田はそっと手に取り、中央の折り目を指でなぞった。そこには、まるで“何かに導く中心”があるような意図を感じた。
そのとき、健太が入ってきた。
「せんせ、その折り紙さ……なんか“ハート”に似てない?」
「ハート?」
「オレの“心臓の絵”の、この断面にある形……ここ、似てると思うんだ。」
健太がスケッチブックを広げると、百田はふとある“形”を思い出した。
「……脳梁の欠損パターンに、似てる。」
百田はカルテを開いた。つぐみは3歳の頃に一度だけ、脳MRIを受けていた記録があった。
軽度の脳室拡大と、脳梁の一部形成不全――そのときは“経過観察”として処理されていた所見だ。
「この折り紙……つぐみは、自分の“中の構造”を、記憶で折ってるのか?」
そして、処置室の端末でMRI画像と折り紙を照合した。
つぐみが折った折り線の“中心”が示す位置は、驚くほど正確に脳梁欠損部と重なっていた。
「……まさか。」
百田は思わず呟いた。
「Luciaには“ノイズ”とされる構造。でも、彼女は“それ”を知っている。折り紙で、伝えてきたんだ。」
そのとき、つぐみの手がかすかに動いた。
閉じた瞼の奥で、わずかにまつ毛が震える。指が、折り紙の“中心”をゆっくりと指差す。
「……つぐみちゃん。これ、“いたいとこ”って意味か?」
健太が口を開いた。
「オレもそう思う。オレ、絵の“赤く塗ったとこ”が痛かったとこだったから。」
百田は頷いた。
「そうか……彼女は、ちゃんと“言ってる”んだな。」
Luciaは、診断の前提として「整った情報」を求める。
だがつぐみのように、非言語・非構造的な表現でしか“症状”を伝えられない子どもは、統計的処理からこぼれ落ちてしまう。
そこにあるのは、“異常”ではなく“違い”なのに。
その日の午後、百田はMRI所見をもとに再評価報告書を作成し、芹沢芽衣に送信した。
件名には、こう記した。
Lucia非対応事例:三宅つぐみ症例
――折り紙による自己表現と既往構造異常の一致について
報告の末尾には、健太の一文が添えられていた。
「えとか、おりがみとか、いろんなかたちで、いのちは“しゃべってる”。」
「AIがきかなくても、ぼくらはきける。」
百田は健太の頭をそっと撫でた。
「……お前、もう立派な助手どころか、未来の医者だな。」
「じゃあ、ほんとに給料出してくれる?」
「出すよ。折り紙給でな。」
二人の笑い声が、診療所にやさしく響いた。
――第8節「制度の盲点」
東京都千代田区、厚生労働省 医療制度改革室。
芹沢芽衣は、百田から届いた症例報告書を一文ずつ丁寧に読み込んでいた。
Luciaが“診断不能”と分類した少女が、折り紙を通じて症状を伝え、
それが過去のMRI所見と一致していたという事実――
これは、単なる例外では済まされない。
むしろ、制度が見落としている“盲点”そのものだった。
彼女はデスクの電話を取り、J-MIND中枢AI運用班へ連絡を入れた。
「Luciaの非構造データ分類アルゴリズムについて、緊急検討を要請します。特に“症状表現の多様性”をどう扱うか。これはもはや、個別事例ではありません。」
受話器の向こうで、主任分析官が言葉を選びながら応じた。
「……制度としての合理性は、やはり“標準化された症状”に依存する構造にあります。非構造情報は、現時点で“情報とはみなされない”前提です。」
「だからこそ、Luciaは命を“見落とした”。」
芹沢の声には、少し熱がこもっていた。
「医療AIは補助であって、主ではない。“主語”になるのは、常に人間です。」
電話を切ったあと、芹沢はしばらく椅子に身を沈めた。
彼女自身、かつては一線の内科医として患者と向き合っていた。
診断に迷い、言葉にならない訴えに悩み、夜中にカルテを見返していた日々。
制度側に回った今でも、その感覚は身体の奥に残っていた。
机の端に置かれた写真立て。
そこには、認知症を患う実母と向き合う彼女の姿が写っている。
母もまた、“言葉にできない不調”を繰り返すようになっていた。
Luciaの診断は、常に“変化なし”。
だが、芹沢の目には明らかな衰えが映っていた。
「数値じゃないのよ……命って。」
芹沢は、小さくつぶやいた。
その日の夕方、芹沢は部下に命じて、新たなプロジェクトの準備を始めた。
【名称案】
非構造医療表現分析プロジェクト(仮)
通称コード:NS-P(Noise-Signal to Patient)
Luciaが除外した“ノイズ”の中に、実は“命の声”が含まれている。
それを拾い上げる仕組みが必要だった。
その夜、芹沢は自宅のソファに座り、母の手をさすりながら言った。
「お母さん……私、少しだけ医者に戻るね。」
その瞬間、彼女の端末が震えた。
【速報】
地方病院にて、Luciaによる“診断不能”事例が短期間に複数報告
厚労省は調査班を派遣予定。制度再構築に関する臨時会議、来週開催へ。
その報せに、芹沢は深く頷いた。
静かに、しかし確実に、医療の“方程式”そのものが動き始めていた。
――第9節「是正措置」
仁岬島診療所に、グレーのスーツを着た三人の職員が現れた。
名札には「J-MIND 是正評価チーム」の文字。
Luciaの設計基準に基づき、“例外的診療行為”を行った医師への指導”と、“診断補正プロトコルの正式化”を目的とする、いわば現場への是正勧告部隊だった。
「百田先生。今回の対応、評価はしておりますが、正式なプロトコルに則った情報提供がなされていなかったことは、看過できません。」
「……つまり、“助けた命”が、ルールから外れていたって言いたいんですね。」
百田は診察室の椅子にもたれながら、静かに視線を送った。
「あなた方が見てるのは“行為の正否”であって、“結果の意味”じゃない。」
1人の男性職員が資料を広げた。
「Luciaはすでに“診断補正”を完了しています。つまり今回の症例は“学習済み”として処理され、今後は同様の症例に対応可能になります。」
「じゃあ、なぜこの子が“診断不能”とされた時点で、何もしなかった?」
「それはあくまで――」
「“仕様”ですか?」
百田の言葉が鋭く刺さった。
「あなた方は“想定された答え”しか探していない。“想定外の命”に出会ったとき、その責任は誰が取るんです?」
一瞬、空気が凍りついた。
そこに、健太が部屋の隅から顔を出した。
「……その人たち、オレが絵を描いたから、病気が見つかったの、知ってるの?」
「健太……」
百田が制止しようとしたが、職員の一人が静かに頷いた。
「君の絵は、Luciaの診断補正を引き出す“重要なデータ”として扱われています。」
「でも、オレ、データなんかじゃないよ。」
健太の小さな声に、誰も言葉を返せなかった。
「つぐみちゃんだって、折り紙で伝えてた。しゃべれないからって、分かってないわけじゃない。せんせーは、それを聞いてくれたんだよ。」
百田は立ち上がった。
「この島は、あんたたちのシステムの“盲点”に置かれた場所だ。でも俺にとっては、命が見えて、声が届く現場だ。
“規定外”で何が悪い。“命”はもともと、マニュアルの外にあるんだよ。」
職員たちは何も言わず、手続き書類を机に置いて立ち上がった。
「報告は本部に上げます。制度上の再評価については、芹沢室長の判断となります。」
「そのとき、ちゃんと伝えてください。“制度を守る人”が、“命を守る人”に敵わなかったって。」
職員たちが帰ったあと、百田は深くため息をついた。
「健太……お前、よく言ったな。」
「オレ、間違ってなかった?」
「間違ってないさ。むしろ、お前の言葉が、この世界で一番“正しい”かもしれない。」
夕方、百田は再び芹沢に報告書を送った。
文末には、こう記した。
是正措置とは何か。
命を守る行為がルール違反なら、そのルールを変えるべきだ。
命は“例外”ではない。“前提”であるべきだ。
数時間後、返信があった。
“制度の枠”を広げる方法を検討中です。
あなたの行為は是正対象ではありません。むしろ、今後の“基準”となる可能性があります。
――芹沢芽衣
百田は、ほっと肩を落とした。
制度と現場がようやく、ほんの少しだけ、同じ方程式の中に立った気がした。
――第10節「方程式の続き」
数日後、仁岬島診療所の待合室には穏やかな陽射しが差し込んでいた。
健太はリュックを背負い、スケッチブックを抱えて立っていた。
隣には、退院が決まったつぐみが静かに寄り添っている。折り紙を一つ手に握りしめたまま。
「じゃあ、いってくる!」
「ちゃんと、検査受けてこいよ。都会の医者は面倒くさいけど、技術は一流だからな。」
百田が冗談混じりに言うと、健太は笑った。
「でも、オレの先生はここにいるから。」
その言葉に、百田は小さく目を細めた。
つぐみは声を発することなく、ただ一枚の折り紙を差し出した。
それは、かつての幾何学模様とは違い、ゆるやかに曲がった“∞(無限大)”のような形だった。
手渡された瞬間、百田ははっと息を飲んだ。
「これは……“終わらないもの”か。“ずっとつづく”って意味か。」
つぐみは小さく、確かに頷いた。
「ありがとうな。おまえのその手が、未来を変えるかもしれない。」
フェリー乗り場へ向かう道すがら、健太はつぐみに言った。
「オレ、治ったら、医者になるんだ。絵も描き続けるけど、誰かの命、見つけられる人になりたい。」
つぐみはまた頷いて、空を見上げた。
その日、百田は診療所の屋上に立っていた。
静かな海と島の風景――変わらない日常の中に、確かに“何かが動き出した”感触があった。
ポケットから取り出したノートを開き、黒澤慧からのメールの一節を読み返す。
「命の方程式に、新しい変数が必要だと気づいた。
それは“感情”でも“直感”でもなく、“理解しようとする姿勢”かもしれない。」
百田は空を見つめながら、つぶやいた。
「命の方程式に、答えはまだない。でも……解こうとする人間がいる限り、それは止まらない。」
そう言って、ノートの片隅にひとことだけ書き加えた。
“∞=不確かな命を抱きしめる力”
その記号は、いつか彼らが辿り着く“救命の答え”の入口だった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
都市の最先端から遠く離れた場所で、それでも命と真剣に向き合う医師の姿――
第1章では、「AIでは読み取れない命の兆し」に目を向けて描いていきます。
ご感想や評価が励みになります。次回もどうぞよろしくお願いします。