救命の方程式 ―Code of Life― プロローグ:診断不能
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このプロローグは、診断AI《Lucia》が「診断不能」と判定した少年をめぐる緊急救命の現場から始まります。
“合理性”が命を見捨てるとき、人はどこまで「人」として命と向き合えるのか――
緊迫の処置室から物語が動き出します。
『救命の方程式 ―Code of Life―』
プロローグ:診断不能
――第1節「沈黙するAI」
その少年は、突然、心肺停止に陥った。
母親の悲鳴と共に119番が鳴り、救急車が走り出してからわずか7分。東京都内最大級の救命センターに、担架に乗せられた少年が搬送されてきた。
「意識レベルJCS300、心拍触知せず、呼吸なし。CPAオンアライバルです!」
救命医・花村灯は、走るように処置室へ駆け込んだ。ドクターヘリで何度も修羅場を経験してきた彼女も、この症例には何かが引っかかった。少年の顔色、皮膚の緊張、異常に冷たい手足――どこか、一般的な心停止とは違う。
「AED反応ゼロ。アドレナリン1ミリ、投与!」
隣で看護師長の瀬川千夏が的確に処置を続けていた。やがて胸骨圧迫を交代し、心エコーが準備される。
「Lucia、診断支援を開始。可能性のある疾患を提案して。」
処置室に設置された診断AI支援端末――Luciaが起動する。冷ややかな女性の音声が告げた。
《患者情報取得中――症状、経過、検査値をスキャン――診断演算を開始します》
無機質な音声が流れ、モニターに大量のパラメータが走る。
花村は処置の合間にAIの応答を確認した。少年の経過に、発熱、倦怠感、軽度の嘔吐があったことを母親から得ている。熱性けいれん?ウイルス性心筋炎?それとも、もっと――
《適切な診断候補を提示できません》
一瞬、室内の空気が止まった。
「……は?」
Luciaは沈黙を選んだのだ。かつてない“診断不能”という応答。
しかも、単に「不明」ではない。《リスク加重評価の結果、治療優先度D(継続困難)》という、まるで「諦めろ」と言わんばかりの冷たい文字が表示された。
「Lucia、再演算。可能性だけでも――」
《再演算済み。推定成功率2.1%未満。治療継続によるリソース損失が予測されます》
冷徹なAIのロジック。それは、命を“効率”で評価するものだった。
その瞬間だった。
「ちょっと待て!」
処置室の扉が音を立てて開き、一人の男が飛び込んできた。グレーのスクラブにポケットいっぱいの工具、ネームタグには「皆川颯真/臨床工学技士」とある。
「この子、絶対何かある。Luciaじゃ読みきれてない!」
「あなた、ここは医師の判断の場よ」と花村が遮ろうとしたが、皆川は少年のモニターを指差した。
「心筋の活動、少し変なんだ。AIの波形分類じゃ正常に弾かれるけど、昔見た“擬似性伝導障害”の波形に近い。再スキャンさせてください。――僕に、五分だけください!」
花村は、迷った。
AIは沈黙した。医師たちも手詰まりだ。しかし、この技士の目は真剣だった。臨床の判断ではなく、技術者としての“感覚”が訴えていた。
「いいわ。五分だけよ。」
その五分が、奇跡を起こす――ことになるとは、まだ誰も知らなかった。
――第2節「五分間の侵入者」
処置室の片隅で、皆川颯真は機器モニターとLuciaの端末に挟まれるように座り込んだ。
指先が動くたびに、かすかにリレーの作動音が響く。Luciaは本来、使用者の職位によってアクセス制限が設けられているが、彼には“裏ルート”があった。かつてAI開発支援の外部技術者として招かれ、現在も一部の内部診断アルゴリズムに関する保守権限を持っていたのだ。
「通常スキャンじゃ無理だ……。Lucia、分類フィルターを手動に切り替える。入力信号――P波判定を外部プロトコルに上書き、出力ロジックを非学習モードへ」
《警告:仕様外操作です。診断責任は使用者に帰属します》
冷たい忠告にも構わず、皆川は作業を続けた。Luciaの表示画面に“拡張波形ログ表示中”の文字が現れ、心電図の背景に微細なノイズのような振動が浮かび上がる。
「このノイズ……いや、これは“振動”じゃない。“揺れ”だ。」
彼は一瞬、少年の手首に触れた。見えない痙攣。微かな指の硬直。Luciaが“動きのない死”と判定した現象の中に、生きている証拠が隠されていた。
「灯先生、もう一度心エコーを。Luciaの演算結果はオフにして。」
「……あんた、責任取れんの?」
「誰も取れないですよ。でも、助かる可能性を無視するのは、もっと怖い。」
エコー画像が再表示された。心室の一部に、確かに震えるような収縮があった。
脳死ではない。完全な無収縮でもない。だが、AIはそれを“活動なし”と判定したのだ。
皆川は操作を止め、花村の目を真っ直ぐに見た。
「原因は、運動誘発性ミトコンドリア異常症の疑いがあります。ごく稀ですが、軽度のウイルス感染を引き金に、全身性のATP産生低下と細胞活動停止を起こす。Luciaはこの症例を“事実上存在しない”と学習しています。」
「存在しない……?」
「そう、症例数が少なすぎて、診断候補から“除外”されてるんです。つまり、AIの中では“ないもの”として処理される。」
花村は言葉を失った。AIの沈黙の理由。それは、無知でも誤認でもない――合理性による排除だったのだ。
「診断を出せないんじゃない。“出さない”ように、設計されていたんだよ。」
そのとき、処置室の扉が再び開いた。
「Luciaに対して勝手な操作を――皆川技士、これは重大な規則違反です!」
現れたのは、Luciaの運用管理部門から派遣されたAIオペレーターだった。背広姿の男性が怒気を含んだ声で詰め寄る。
「この患者は、J-MINDのリスク選定項目から外れている。ここで処置を続けることは、診療報酬の対象からも外れる行為になる!」
「黙れ!」花村が声を荒げた。
「報酬も制度も関係ない。この子は“生きてる”。私が責任を持って処置を続ける。」
少年の手が、わずかに動いた。
その動きが、命の肯定だった。
冷たい制度の中、合理の名のもとに排除されかけた命が、今――再び動き出した。
――第3節「除外コード」
病院のデータ中枢――通称“クラウドステーション”は、地下フロアにひっそりと存在する。
そこは、患者一人ひとりの診療データ、モニター情報、医師の所見、画像データ、投薬履歴、あらゆる情報が一元管理され、AI診断支援システム・Luciaの脳となる場所だった。
その部屋で、管理者の一人・黒澤慧は、無言のまま画面を見つめていた。
表示されているのは、先ほど搬送された少年の診断履歴。
《リスク加重診断結果:該当データなし》
《非標準症例フィルター発動:推定精度指数 低レベル→自動除外》
《トリアージ優先度 D:回復可能性2.1%未満》
「また……か。」
彼は、Luciaの設計思想を知っている。かつて自らその中核アルゴリズムを監修した立場でもある。
Luciaは“医療の合理化”を目的としていた。
保険制度の破綻を防ぐため、限られたリソースで最大多数の命を救う――その理念自体に、嘘はなかった。
だがそのためには、「救えない命」を“選別”しなければならなかった。
「慧先生、今週の“診断不能症例”、また3件増えました。」
隣の席から声をかけたのは、厚労省直下の医療AI運用班に所属する分析官だった。
「どこの病院?」
「横浜、名古屋、岡山。どれもLuciaを導入している三次救急施設です。共通点は――“診断不能”と記録されたにも関わらず、ごく稀な原因が後に突き止められたということです。」
慧は目を細めた。
「つまり、“見逃された”?」
「はい。AIはその可能性を『統計的に除外』しただけで、病気自体はあった。」
「……Luciaの“除外コード”だ。」
彼がかつて設計したもう一つのロジック。
それは診断候補を“加える”演算ではなく、“取り除く”ためのフィルター処理。
症例数が一定以下の疾患や、信頼性の低いパラメータは、自動的に検索から排除される。
Luciaは学習型AIではあるが、その“学習素材”はあくまでも「数」だった。
稀少疾患、非典型症状、複合的な生活背景――人間の医療現場でしか起き得ない“例外”は、Luciaにとって“ノイズ”だったのだ。
「あなたは、Luciaを否定するんですか?」
分析官が静かに問うた。慧は答えなかった。代わりに、モニターに映る少年の微細な心電図波形を拡大し、ぼそりと呟いた。
「……この子を、俺は“除外”しない。」
その夜、慧は密かにあるファイルを開いた。
“E-CODE-999 :診断不能症例記録”
そこには、Luciaが「診断不能」と判定した全データの記録が保管されていた。
件数は、全国で“81件”。
そして、そのうち37件が“死亡”と記録されていた。
慧は目を閉じた。
そのどれもが、過去の自分――“AIこそが命を救う鍵だ”と信じていた頃の設計によって導かれた結果だった。
人間ではなく、合理性の仮面を被った“沈黙”が殺した命。
慧は手帳を開き、1ページ目に記した。
「AIの沈黙は、設計されたものだ。」
「この方程式の変数を変えることができるのは、人間だけだ。」
その言葉が、後にすべてを変える“始まり”になるとは、まだ誰も知らない。
――第4節「方程式の入口」
翌朝、東京都医療局本庁舎の会議室には、異例の人選が集められていた。
元外科医であり、現在はAI開発主任の本条麗。
現場からの緊急報告を持参した救急医の花村灯。
そして、技術担当として臨床工学技士の皆川颯真。
会議室の中央で進行を務めるのは、厚労省医療制度改革室のエース官僚――芹沢芽衣だった。
「まず、昨夜の“診断不能症例”について、現場報告をお願いします。」
芹沢の声は端的で冷たい。だがその眼差しには、何かを探るような熱が宿っていた。
「診断AI・Luciaは、この少年の症状を“非標準”として除外しました。ですが、皆川技士の再評価により、ミトコンドリア異常によるATP不全の可能性が判明しました」
花村が語るその横で、皆川が一枚の波形プリントを差し出す。
「AIが無視した心筋の小波。これは、従来の分類アルゴリズムでは“誤差”と判定されますが、人間の目には“兆候”と映るんです。」
芹沢は黙ってデータに目を通した。その静けさを破ったのは、本条だった。
「Luciaのアルゴリズム設計者として言わせてもらいます。今のシステムは、“見逃し”ではなく、“見ない”ようにできています。」
「あなたが、そう設計したのでは?」と芹沢。
「当時は、それが最善だと思っていた。だが――」
言葉を詰まらせる本条。彼女は数年前、自身の開発したAIにより救えなかった患者の家族から訴えられ、表舞台を退いた過去がある。
「今は違う。Luciaは“精度の高い選別”をしているようでいて、“生きた人間の揺らぎ”を切り捨てている。」
その言葉に、芹沢が視線を上げた。
「……あなた方は、AIの限界を前提に“人間が補う”という方向で医療を考えている。でも、それが本当に社会全体にとって最善だと言えるでしょうか?」
「芹沢さん、現場を見てくださいよ」と皆川が声を強める。
「命って、そんなに割り切れるもんじゃない。リソースの問題?制度の問題?――それって、現場を“使い潰す”言い訳になってませんか?」
会議室が静まり返る。
「……分かりました。」芹沢が立ち上がった。
「本件を“制度外症例検証プロジェクト”として再分類します。Luciaによって除外された全症例を精査し、必要であれば法改正も含めて検討に入る。」
「それは……本気で?」
「私は医師でした。診断を誤った過去がある。でも、あのとき私はAIを持っていなかった。だから今度は、AIが見逃した命を、私たちが拾い上げる番です。」
その瞬間、花村のスマートフォンが震えた。
【速報:大阪市内の病院でも、Luciaによる“診断不能死”が発生】
プロジェクトは、全国規模へと拡大せざるを得なくなった。
慧はそのニュースを、地下のステーションで静かに見ていた。
「ようやく、方程式が動き出す。」
彼の手帳のページには、新たな数式が書き加えられていた。
人命=生物的反応 × 社会的背景 × 非定型の兆候 ÷ 選別ロジック
この“救命の方程式”を解けるのは、AIではない。
答えに近づこうとする人間だけだ。
――プロローグ了。
最後までお読みいただきありがとうございました。
AIが主導する近未来の医療。その中で「診断できない」という沈黙が、命の選別につながってしまう現実。
この物語は、そうした“静かな死”に抗う人々の記録です。
次回から、命の方程式をめぐる登場人物たちの物語が本格的に始まります。
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