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法則の証明、科学と哲学の違い

根本的科学の原理。


観測できることに対して研究していき、再現可能だと証明しようとし、その仮説が実験によって成立しない場合は、その仮説を間違っていたと認めることが科学の行いである。


これをどう証明するか。

この考えによって真理が追求されてきているが、なぜこれが正しいと言えるのか。

(前回の正しさではなく、矛盾がないという意味の正しさ。基本的に科学はそうであり、思想は前回のものだと置く)


この疑問についても哲学者が考えている気がする。

というか、考えています。(そうでなくては科学が保証されない)


そのセオリーとは異なるかもしれないが、自分の考えを書いていく。

たぶん同じことになるが。

―――

例えば鉄球を手に持ったとする。

これを手から離せば、落下して床にぶつかるはずだ。

そしてこのような結果は何度繰り返しても同じである。


つまりこの世には法則が存在する。

何かしらの決まりがあるのだ。

(ただそれに思想が当てはまらないことは、前回説明した)


しかし法則とは様々であり、一つ一つはシンプルでも複数の法則が混在するために、どのような法則が働いているのかを見つけるのが難しい。

それを暴いていくのが科学である。


その手法として、この世に法則があるのだから

”観測された事象とは複数の法則が混在し、その条件を厳密に満たしさえすれば、必ず再現される。”

と言える。


それ利用して

ある事象が解明されたとは、その条件を予想し、その条件をいじった事象の再現を試み、その結果が予想通りであったならば、そのある事象は解明されたと述べていい。

その上でさらに実験を繰り返し、その理論通りに結果が起こるならば、その理論は正しいと言える。


ただ厳密に正しいものなどそんなにはなく、現状として矛盾がないだけだろう。

しかしそれでも運用まで行けていれば、実用性があるので困ることは少ない。

もしあれば新たな法則が発見されるようになり、科学が進歩する。


結局科学が保証するのは、

”ある事象から理論を導き、別の事象の再現までを行う。”

ことである。


いわば、適用範囲を広げるようなものだ。

厳密な理論がわかれば、再現可能な事象が増える。

―――

ここまでは基本だが。

では幽霊やUFO、あの世など、その存在について科学が役割を果たせるかというものがある。


答えは不明である。

あるともないとも言えない。

なぜならば現状として観測不可能だからだ。


ある人が見たとして誰かが理論を立てたしても、その正しさが確認されていない。

実験によって確認されていない。


ただそれだけである。


ゆえに幽霊がいるとかいないとか、UFOがあるとかいないとか、あの世があるとかないとか。

全ては今のところ不明。

―――

幽霊やUFOについて、それらがあるとすれば、我々が生きていてわかることだと予想される。

しかしてあの世はそうではない。


死後の世界については主観的と客観的の観測というものが関わる。


人が死んだ状態とはどのようなものか。

それは動かなくなった状態であることだろう。

しかしそれは死んだ人本人が確認できることかはわからず、周りにいる人がその状態を見ている。


ゆえに死後の世界があるとは、死んだ人にとって観測しているかどうかの主観的なものである。

これは今のところ、死んだ人と交信できていないことを前提とする。


つまり客観的に、この世界にいる我々にとって、死んだ人の視点へ今のところ立つことはできない。

ゆえに死後の世界があるとしても、それは死んだ張本人しかわからない現状にある。

なぜならば一般的に死んだ人と交信できてないからだ。


だから議論ができない。

死後の世界が存在するかは不明なのだ。

―――

だがここで一つ疑問がある。

我々はそもそも主観的にしか物事を見ていない。

相手の視点とか言っておいて、本当にそれが相手の視点であるかわからないのだ。

自分の視点しか持てないからだ。


例えば実際に死んだ知人が現れ、その知人にしか知らないことを幽霊が話した場合で、それは死後の世界の存在を証明してしまう。


しかし我々は相手の視点に立つことができず、その存在が本当にあるのかを示せない。

これは自己が存在していても、相手が存在しているという道理になれないということになる。


なぜならばあらゆる証明は主観的にしか解明できない、自己の存在も主観的に示される。

それは自分が存在していても、相手は存在しているかがわからないということになってしまう。


自分自身が相手そのものになることは決してできない。

その中身がそもそも存在しているかがわからないのだ。


でもこれがわからないことは科学的には困らない。

関係なく事象が再現されているためである。


他人が存在しようとしまいが、どちらでもいい人にとっても、ここについて考える意味はないだろう。

そもそもどう考えようが自分の主観で物事を見ているにしかない。


やはり他者の存在そのものも不明だろう。


ただ幽霊がそのように現れた場合、科学的には存在するとする。なぜならば事実だからだ。

しかして哲学的にはどうしたって不明になる。

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