この世には神は存在しない
この世には神は存在しない。
するとしてもその者は目的を持たないだろう。
過去の哲学者がすでに説いた問題かもしれないが、自論を述べる。
しかし宗教系の人が憤怒するのは理解できているし、その人々を馬鹿にして書いてるわけではない。
それは最後まで読めばわかる。
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我々は何のためにこの世に生まれたのか。
こういう疑問は苦しいときほど考えたくなるものだ。
そしてその理由があれば迷うことが無くなり、救われると無意識に理解しているものだろう。
この答えが何なのかと人はそれぞれ考えていき、正しき生き方を示してきた。
それは科学的かもしれないし、悟りなど説明しがたいことかもしれないし、神の言葉かもしれない。
しかし私はこの答えは存在しないとおもっている。
つまり、正しき生き方など存在しないと言っている。
何のためにこの世に生まれたのか。
その答えがあるのであれば、それに従って生きることが正しく、それこそが正しい生き方。
ただ我々はまず考えねばならない、正しいとは何なのか。
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正しいとは何をもって正しいと言えるか。
倫理的とか人道的とかの善悪についても、思想についても、科学においても。
それは目的に対する行動があっているかで示せると私は考えた。
”任意の目的に対して、その行動が目的を果たすものならば、その行動は正しい。”
例えば平面の世界があったとして、北を目指すという目的がある。
これに対して南に行くことは正しくない。
なぜならば永遠に北へ辿りつかないためだ。
このように目的というものを定めれば、それを果たす行動が見えてくる。
何が正しい行動かわかるのだ。
逆に目的に対して逆を行くような行動をすれば、目的は達成されない。
そのような行動は正しくない行動だとわかる。
これは善悪などにおいて用いると、何かしらの善という目的があり、それに対して行動することを善行としよう。
科学であれば、真理を求める目的があり、それに対して行動することが科学において正しい。
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この世界に絶対的に正しいことが存在するのであれば、それは誰かが決めたことである。
大方それを神とする。
つまりこの世界を作ったものを神と私は呼び、神にも目的があり、我々はその目的のために行動することが正しいはずだ。
ならば神は我々をそのように行動させるはずである。
なぜならばこの世界を作ったものが神であり、人間がどう動くかも規定できるはずだ。
しかしてそれは矛盾している。もしも神が馬鹿でないのなら。
神ならば目的を果たす最短の行動を知っており、それを人へさせるのは容易なことであるはずだ。
なのになぜだ。なぜ人には思考が存在する。
あらゆる行動に対する逆の行動が存在して、それを選べてしまう。
もしも絶対的な目的があれば、人のする行動は規定されており、決まったことしかできない。
それはその目的に反することができないはずだ。
そうでなければあまりにも非効率的すぎてしまう。
なのに我々はあらゆる行動に対して、その逆の行動を取れてしまう。
これは絶対的な目的があることに矛盾する。
”ゆえに神が賢いのであれば、絶対的に正しい目的は存在しない。”
仮に神が馬鹿であって存在するとしたら、最終的に我々を強制的に力を持って支配するしかなく、私の感想としては、そのような存在は尊敬できるものではない。
しかして神が善良であり、何かしらの困難を人に与えることで目的を果たそうとするのであれば、存在できるかもしれない。
その他にも同じようにまだ当てはまる神の目的は存在するのかもしれない。
それに対して信仰するのは個人の自由である。
しかしてこの自由とは、絶対的に正しい目的は存在しないとする上の自由であり、信仰しない自由も保証している。
そしてその自由を保証する世界を作ったのも神なのであるともいえる。
それこそ私にとってすれば、善良であるともとれる。
(ただそのような神は結局、干渉してこれないので、苦しんでいる人に知らんぷりだが。)
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では善悪はどうだろうか。
絶対的に正しいことは存在しないのであれば、善悪も存在しないのか。
答えとしては正しい。
ただ、善を目的とする行動がかなり多いがために、正しいように我々は錯覚する。
では善とは何によって起こるか。
これは予想の域を出ないかもしれないが、生きるという目的の上に密接に関係すると思われる。
多くの生物は、生存を目的として行動する。
その中で善とは、その集団におけるルールや生存する上でのいざこざを回避するものである。
ゆえにその集団を破壊する行動は悪であり、それは死を目的とするとも取れてしまうのだ。
生きるという目的を持つと生物は、行動を大きく制限される。
その集大成こそが善や厳しい法律だろう。
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さて、ここまで考えてきたことだが、あまり役に立たない。
なぜならばここに書いてきた答えは、いわば答えなどないと言っているようなものでもあり、全てが答えともとれる。
なにかしらの行動や目的を示すものではない。
だから役に立たない。
これを元にしても結局は自分の行動は、目的は、自分で決めるしかない。
このような真実はさらに混乱させるだけだろう。
だから無視しても構わない。
なぜならばそれすらも、この法に矛盾してはいないのだから。