馬鹿のほうが人生は楽しい
やはり馬鹿のほうが人生は楽しい。
馬鹿とは真実を求めようとせず、己のために感情的に過ごしていき、嫌なことがあれば自分に都合の良い解釈によって信じ込んで進んでいくもののことをここでは指している。
この世にはあらゆる法則が存在し、それに従って世界は動いている。
これにおいてどんな存在も逆らうことはできず、できたとしてもその現象を確率的に説明できる。
この原理によれば人の思想、感情、自我、その魂においても説明可能と言えなければならない。
すなわち人は機械と変わらず、法則によって動かされているに過ぎない。
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人それぞれ好みがある。
小説、音楽、漫画、アニメ、学問など。
恐らくそれには分野を問わず触れる過程が存在する。
以下はそれに基づいたものである。
好きになったもの、憧れたものに没頭して触れ初め、次第に自分もやってみようと動き始めれば、その仕組みについて感じ取ることさえもできるようになり、感動していたものが実に機械的であることに気づく。
万物にはその仕組みが存在し、全ての物事は説明できる。
それゆえに感動した、素晴らしいと称賛したものにも仕組みがあり、それがわかってきてしまうとあの時の感情が洗脳に似たものと感じる。これが悲しい。
ならばその物事を何も考えずに純粋に楽しもうと試みる。
しかしてそれも無意味なのだ。手に取るように感じとれてしまう、その仕組みが。
あの時の感動が脳裏に焼き付いているせいで、それと照らし合わされ、自然とわかってしまう。
これは実に人間に対する虐めのようだ。
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真実を求めようとすればするほど、人の仕組みがわかってきて、感動した出来事がそこまで特別なものではないと感じてしまう。
知れば知るほどつまらなくなっていくのだ。
ならば真実を求めず、生きていくことが楽しめることなのか。
それは確かにそうであるといえる。
何事に対しても表面的に接していれば、感情を優先していれば、人は楽に生きられるだろう。
ただその代わり、困難に直面した時に対処がしにくくなる。
この世の仕組みがわからなければ、学問は進歩せず、災害に対して人類が生き残れなくなる。
つまり生きるためには真実と向き合う必要がある。
そしてそのように生きたものこそが生存しやすくなるのだ。
ただそれは人生が楽しいものだという事を保証できない。
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実を言うとここまでのことは一つの定義づけの下に成立している。
それは矛盾を許さないとする思想である。
間違っていることを認めすぎるがゆえに、矛盾を許せない。
これは真理というものに対して個人の考えがあったとき、間違わないようにと真理を優先して、個人の考えを捨て去ってしまうということだ。
必ず正しくあろうとするがために、間違うことを認めない。真理に対する矛盾を許さない。
真理に従って生きることが幸福などという考えなど知りもせずに、矛盾を嫌うがためにそうやって苦しんでしまう。
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ここまでくるとわかることがある。
楽しむために生きるのであれば、その方法を考えることこそ逆の行動である。
なぜなら人は考えるがゆえに悲観してしまうからだ。