⑧ 箱の中の男、世界を知らず
一日だけ彼女にして欲しい。そう言われて、約束通り過ごした日から、数日。怜空は、一度も学校へ来ていない。
最初は、あんなことをした手前、学校に来づらかったり、俺に会うのが辛いのかと思っていたが、連絡を取ろうとしても、全く応答が無い。
ならば、直接会ってみようと考えた時、彼女の自宅を知らないことに気づいた。
そして、妙な既視感を感じた。それは、テストや怜空、志音のことが重なり、有耶無耶になっていた田村の件だ。
まさかと思っていた翌日、その嫌な予感は現実となり、彼女が転校したと担任の新井先生から伝えられた。
親の仕事の都合で急な転勤をすることになり、彼女も一緒に行ってしまったという話らしいが、どうも腑に落ちない。
一応、転校することが決まっていたから、この間のような思い出作りの為に、一日彼女という名目を設けたと考えられなくもない。
しかし、仮にそうだったとしても、転校すること自体もそうだが、今も連絡くらい寄越しても良いだろう。
志音や大耀のとこにも、何の連絡も届いていないそうなので、ますます疑問が残る。
そして、それらはあの日、あの意味深な発言をした後に起こっていることに気づき、最後に怜空が言っていたあの話が、妙に頭に残って離れなかった。
「…って話を、怜空がいなくなる前に聞いててさ。二人はどう思う?」
「どうって言われても、話が難しくてよく分かんないかも」
「正直、オイラもそんな感じ。考え過ぎだと思うけどなー」
学力で言えば、高い方の怜空が抜け、低い方の二人に相談することになったので、小難しい話では理解できないのも無理はない。
第一、俺自身信じきれない眉唾物の話なのだ。他人に教えるには、そのことについて三倍理解していないといけないという話も聞いたことがあるが、それ以前の問題である。
「何言ってんだよ、古雲。どうせ、お前がなんかやらかしたんだろ?」
「そうでなくても、あんだけ慕ってくれてた怜空ちゃんを棒に振って志音ちゃんと付き合いだしたんだから、気まずかっただろうよ」
周りで聞いていたらしいクラスメイトたちも野次を飛ばし、俺の考えを非難してきた。
「まぁ、心当たりが無いわけじゃないけどさ…」
「ほれ見ろ。お前は、自分の所為だって思い込みたくないだけなんだよ」
「今の妙な話を真に受ける奴なんて、オカルト好きでもなければ、いないだろうさ」
彼らが、悪意を持って言っているのかは分からない。しかし、その根底には嫉妬というものもあるだろう。
「ノブくん。あんまり変なこと言ってると、変な人だって思われちゃうよ。…私、嫌だな。ノブくんが、そんな風に思われるの」
あまり彼女に心配を掛けさせるものでもない。志音は、そう思わせるのに十分な表情を浮かべていた。
「……」
「きっと、あんなに仲が良かった怜空ちゃんが突然いなくなっちゃったから、受け入れられなかっただけだよね。それは、私も同じだもん」
「それなら、ノブくんの彼女さんとして、私が心のケアをしてあげないと、だね?」
「あーあー、羨ましい」
「志音ちゃんみたいなかわいい彼女がいるってのに、何を悩むことがあるんだか」
彼女が度が過ぎるほどお人好しなのも、いつものことだ。自分のことを棚に上げて、他人のことを心配している。
でも、今の俺には、純粋にそうだと言い切れない違和感があった。
それはおそらく、同調圧力に似た、周囲からの思考誘導。
まるで、志音や大耀も含めたクラスメイトが、知らなくてもいい事実から思考を逸らさせようとしているように思えたのだ。
それは、誰も自分の意見に賛同してくれなかったことへの孤独感からくる反感が、そう思わせたものかもしれない。
しかし、もしそれが間違いじゃなかったとしたら、あの二人までグルになって、俺に言えない隠し事を秘めている可能性がある。
その思考が導く先に、知られては困るようなことがあるから――。
そう思い始めると、親しい二人のことでさえも、どこか不可解な存在に思えてきて、不信感が芽生えてくる。
まさか、とは思う一方で、その思考はどんどん加速していった。
まず、怜空が言いたかったことは、一体何だったのだろうか。
急に変な話を振られたと思った時に聞かれたことは、確か…この世界が好きかどうか。
そして、次にこの世界がどこまで広がっていると思うか。
それに続いて、シュレディンガーの猫。さらに、フィクションがフィクションではない可能性。覚えている限りでは、この辺りのはずだ。
一つ目の質問については、俺に答えを強いたわりに、彼女は自分の考えを言っていなかったが、以前一夫一婦制の話が出て、この国の在り方を憎んでいるような発言があったので、この世界を嫌っていた可能性は高い。
二つ目の質問の答えを聞いた後、彼女は「そう教えられているから」と俺の答えに頷いていた。
つまり、彼女にとって理解できる答えか、あるいは予想していた答えだった可能性がある。
それに続くのが、三つ目のシュレディンガーの猫だ。
彼女は、それについて「観測してみないと、その事実が確定しないこと」と言っていた気がする。
この言い分を基に考えれば、疑問に思うことは無数にある。
今も学校で教えているような歴史の授業が、その最たるものだ。
過去の偉人や社会的に大きな出来事の話をされても、人間はせいぜい百年しか生きられないと仮定すると、何百年も前の事柄を誰も実際に見聞きしたわけではない。
それでも、その歴史が確立されているのは、その当時の出来事を示唆する文献か何かが見つかった、あるいは残っていたことで、歴史学者などの専門家がそれに基づいて出した答えなのだろう。
現に、今でも過去の歴史が塗り替えられたこともある。俺の親の世代の話では、鎌倉幕府が開かれた年が、今まで伝えられていたものと違い、改正されたなどの事例もあったらしい。
要は、他人が他人のことを記された文献を基に歴史を構築したところで、そんなことを確かめる術がない。つまり、それを証明できないといえる。
歴史学者が誤った解読をしたり、そもそもの文献が間違っていれば、今語り継がれている歴史も嘘の積み重ねでしかない。もっといえば、フィクションともいえるだろう。
正史であるものがフィクションだとすれば、そもそもの前提が崩れ去り、世界がたった5秒前に作られたという説も、あながち間違っていないのかもしれない。
とすると、極論をいえば、逆にフィクションだとされてきたものが、現実に起こっていることだと考えることもできる。
そうなれば、もはや何を信じて良いのかわからない状態に陥る。
しかし、もしそうだとすると、この思考から逸らそうとしたクラスメイトたちの言動も、説明がつくことになる。
だが、所詮この考えも机上の空論。根拠もなければ、証拠もないのだ。
どちらともいえない状況の中、この押し問答を解決したくても、両親や担任の新井はもちろん、大耀や志音でさえも疑わしく思える今、こんなことを相談できる相手などいない。
そう思っていた俺の頭に、たった一人だけ思い当たる人物がいた。
目には目を、歯には歯を。そして、奇人には奇人を。
その考えを基に、変わり者の養護教諭を訪ね、保健室へやってきた。
「それで、私に白羽の矢が立ったというわけか。久しぶりに顔を出したかと思えば、これでは素直に喜べないな」
顔をしかめて冷めた様子を見せる彼女は、俺の気を逆立てるのに十分だった。
「アンタも、まともに取り合ってくれるつもりは無いのか?」
「まあまあ、そう急くな、少年。小学生のうちは足が速ければモテたかもしれないが、大人になると、早い男はモテないぞ」
「今はそんな話してません」
「おー、怖い怖い。それで、結局のところ、キミは私にどうして欲しいと言うんだい?」
「怜空…佐出怜空のこともそうだけど、田村愛中についても、転校後の消息が知りたい。一応、あれからSNSやネットを通じて、ここ数か月で都内に転校してきた生徒の情報を募っているけど、全く入ってこないんだ」
「ふむ。仮に…そう、カリに、キミの言うような世界の成り立ちをしているとしたら、それを私が調べたところで隠蔽されているだろうから、調べるだけ無駄な気もするがね」
「でも、逆に隠蔽されて無いなら――つまり、俺の考えが杞憂だったら、記録が残っているはずでしょう。どこかの学校へ転校し、編入した記録が」
「なるほどね…。まあ、やるだけやってみても良いが、その代わりキミに頼みたいことがあるだ」
「引き受けてくれるなら、それくらい構わない。俺にできることなんて、高が知れてるだろうけどな」
「ああ、大丈夫。そんなに難しいことじゃない。実は、ここのところ、座ってばかりで尻が凝っていてね。ちょっと揉んでほぐして欲しいんだ」
「なんだ、そんなことか……。え? 今、サラッとすごいこと言わなかったか?」
聞き直そうとする俺を無視して、彼女は机に置いてあったノートパソコンを空いていたベッドに置くと、その場で白衣を脱ぎ捨て、さらにスカートまで手に掛ける。
「お、おい…何しれっと脱いでんだよ…?」
「ん? 脱がないとスカートが皺になるだろう。それに、糸くずが付くことも多いからな。こうする方が賢明だと思わんかね?」
「いや、そうだとしても、一介の男子生徒の前で平気で脱ぎだす痴女っぷりはどうなんだ?」
「何を言っている。それなら、平気で大人の女性の着替えを見ているキミの方にも、非があるとは思わないかね?」
「まぁ、それはそうだが…」
しかし、それにしても大胆な下着を履いている。紫色をした派手なTバックとは、なかなか学生では着用しない物ではないだろうか。
「さ。じゃあ、私は少し調べてみるから、その間お尻を揉み揉みしておいてくれ」
「その言い方よ…」
教師と生徒であることや、年齢差が災いして、もはや俺のことを男として見ていないのではないかと思う行動だ。
それはそれで少し悔しい気持ちを抱きながらも、彼女から言いつけられた通りにしないと、ヘソを曲げられてしまうだろう。
仕方なく靴を脱いでからベッドに乗ると、無防備に晒された下半身が嫌でも目に付く。
スカートを脱いだ今、彼女の下半身は薄くて細い紐みたいなパンツで守られているくらいで、ほとんど裸同然だ。
「ちょっとくらいの悪戯なら許してあげるから、早く揉んでおくれよ、少年」
「っ、分かってる…」
パンツを履いていても、全く守られていない生尻を掴み、優しく揉み解し始める。
「ぁ…、そうそう…その調子……んぁっ…」
ちょっと外側に尻肉を引っ張るだけで、細い布で守られた秘部の側が見えた気がして、目を見張る。
危なかった。もし、俺が童貞だったら、彼女が悩ましい声を上げることも相まって、興奮のあまり鼻血を出してしまってもおかしくは無い。
だが、そう思っていたのも束の間。お互いの姿勢から、志音と同じような体勢で情事を行ったことを思い出してしまい、ヤろうと思えば、5秒もあればヤれると思うと、下半身に血が上ってくる。
「あぁ…、ちょっと暑くなってきたな…。どれ…」
人の気も知らない彼女は、また平然と服を脱ぎだした。
ついには、下着だけをまとった姿に成り果てた彼女の胸を見て、戦慄する。
志音と怜空の胸を直に見た経験のある俺には、すぐに分かった。彼女が、二人をも凌ぐ存在であると。
「…何か、分かったのか?」
「まだまだ、これからだよ。今、都内の学校のデータが集まっている場所を調べているところだ」
またうつ伏せになった彼女は、再び無防備に身体を預けた。
俺も尻のマッサージを続けるが、海に行ってビキニの女にオイルを塗ってくれと頼まれるシチュエーションは、今と似た生き地獄なのかと幻想を壊される。
「…キミが雅君志音と恋人関係になったのは聞いていたが、どうやら随分進んだようだね」
「付き合ってること、知ってたのか」
「まあね。以前、保健室に来た生徒から耳にしただけだが、入学してまだ半年も経ってないのに、最近の子は手が早いものだ」
「あのな…、だったらこんなことをさせるなよ。今の状況を見られでもしたら、ややこしいことになるのが分かり切ってるんだから」
「そう、正にその通り。彼女や友人との生活が楽しいなら、それで良いんじゃないのかい? 世の中には、知らない方が良いこともある」
「友達のことを心配するのは、そんなにおかしなことか? それに、その言い分だと、知ってしまうことで不利益があるような言い草じゃないか」
「……。さっきから、悪戯も仕掛けてこないキミに、今私を襲う度胸はあるかい?」
「…アホか。俺とアンタは、生徒と教師。ましてや、志音もいるんだぞ」
「強姦に、浮気、そして私にも青少年保護育成条例違反などの罪が課せられるだろう。だが、それだけのことを背負うくらいの覚悟が無いと、この先へは進めないと言っているんだ」
「なんだと…?」
突然身体を起こした彼女は、そのまま俺に覆いかぶさってきた。襲ってくれないなら、襲ってやろうとばかりに。
「キミに、その覚悟があるかい?」
俺の顔に迫る彼女の迫力は、これまでに無いほど大きかった。
「あぁ…」
「もう、これまでの生活に戻れないとしても?」
「…あぁ、俺は嘘が嫌いだからな。本当のことが知りたい」
「好奇心は猫をも殺す、か。…良いだろう」
彼女は、下着に支えられた胸に手を伸ばしたかと思えば、さらに顔を近づけてきた。
このまま年上の養護教諭に襲われてしまうのかと思い、思わず目を瞑る。
しかし、唇に感触が伝わる前に、耳元で囁く彼女の声が脳に響いた。
「…キミに骨伝導スピーカーを付けた。詳しい話は、そちらでするから、外さないように」
「ん…、んっ、んぅ……」
結果として唇を奪われたのは予想通りだったが、顔を離した彼女がしてやったりと言わんばかりの表情を浮かべていることが、どうにも癇に障った。
「さあ、お愉しみはこれからだよ。んっふふ…」
養護教諭の小森にこってりと搾られた後、ふわふわする頭のまま家に帰ったことは覚えている。
そして、夕食も終えて、一人部屋でいる時に、またその女の声が聞こえた。
「まず、最初に言っておこう。私の声に反応してはいけない。そうだな、ゲームでもやりながら聞くと良い」
彼女の指示に従い、作業的な要素が多く、ろくに頭を使わなくてもできるゲームを静かに始めた。
「そうそう、私との甘いひと時はどうだったかな? 気が乗らなかった…という風には見えなかったが、おかげでカモフラージュには一役買っただろう」
「さて、わざわざなぜこんな回りくどいことをして、コソコソしなければいけないのかは、もう想像がつき始めているだろうから、詳しくは言わない」
つまり、そうでもしなければいけない理由があったということだ。
妙な話をした後、すぐに会うことが叶わなくなった怜空も、それに似た理由なのかもしれない。
「それより、キミが聞きたいのは、彼女たちの所在だったね。結論から言えば、もう彼女たちはこの世界から姿を消している可能性が高い」
衝撃的な発言を耳にして、思わずコントローラーを落としそうになった。
「ショックを受けるのは無理もないが、手を休めずにゲームをしたまえ。下手をすれば、私の存在も危うくなる」
「彼女たちは転校した先で行方不明になっているわけでもなく、死んでいるわけでもない。消された可能性が高いんだ。もう役割を終えていたし、妙な吹込みをしたなら尚更だ」
「聞きたいことも教えたから、もう話は終わり…と言いたいところだが、キミもそれでは納得しないだろう」
「それに、先程聞いたキミの考えは、この世界の核心にかなり近いところまで迫っている」
「この世のものは、自分の目で見るまで実在してるとは言えないという考え方を“非実在性”と言うんだが、今のキミの考えにもよく似ている」
「今ではネット回線を用いたりして、世界中の多くと繋がっているように思えるが、キミが行ったことのある場所を思い浮かべてみたまえ」
「県外、国外、そして宇宙…。実際に見たことが無い景色がほとんどだろう。テレビやパソコン、スマホの画面を通して見たそれは、果して本当に実在すると言えるのか」
「…答えは、ノーだ。そして、それらを通じて見た人物も同じで、実在していない」
「それらを見た人がいる、というのも証明にはならない。人や物を介して伝わった情報であれば、それらを介して操作することができるからだ」
「今までのキミなら、そんなバカげた話があるものかと一蹴していただろう。でも、今はそうも言えないんじゃないか? 物であれ、人であれ、何者かの思惑によって、全てが操作されている可能性を否定できる証拠もないからだろうね」
「キミは、隣人が昼夜何をしているのか知っているかい? 四六時中、彼らの様子を見ることもできなければ、知ることもないのだから、実は空き家だったりするんだ。キミが、そう思わないように錯覚させた上でね」
「人間ってのは、随分大雑把な造りをしているんだ。何かわからない不測の事態が起きた場合、自分が持ちうる限りの情報を用いて曲解を生み出し、それを信じ込むようなことが往々にしてある」
「要は、都合が良いように解釈をするってことさ。キミにも、覚えがあるんじゃないかい?」
「それを利用されているんだ。キミを騙す為に、この世界中を嘘で塗り固めてね」
「私の話を信じるか信じないかは、キミの自由だ。そして、嘘だと知った上で、この世界に居続けたいと思うか、あるいは真実を追い求めるか。それも、キミの自由だ」
「もし、真実を追い求めるのであれば、ちゃんと彼女にも話してあげると良い。彼女は、キミの理解者でもあるんだから」
「では、キミの健闘と賢明な判断を祈るよ。せいぜい、後悔しないことだ」
一方的に言いたいことだけ言っていた彼女の話は、突然終わりを迎えた。
俄かには信じがたい話だが、これが事実だとすれば、この世界そのものの定義が変わる。
もしかしたら、怜空はそのことを教えようとしてたのかもしれない。