① 一陽来福
俺の名前は、古雲 誠直。取り立てて秀でている部分もない、どこにでもいる普通の学生だ。
この春、俺は中学校を卒業して、悪友とも呼べる付き合いの友達と同じ高校へ進学した。
学力が危うい彼と一緒にしてもらっては困るので、ささやかな弁明をさせてもらうが、その高校を選んだ理由は、ただ単に家から一番近いからというものだった。
その県立桐間々高等学校は、然程偏差値が高くない高校であり、学力に微塵も自信が無い悪友でも無事に受かったくらいなので、模試でA判定が出ていた俺は、受験勉強もせずに遊び呆けることができたのも、勉強そっちのけで遊びたい盛りの年頃として尚良かった。
同じ中学にいた連中の中には、都内の高校まで通うという道を選んだ者もいたらしいが、将来特にやりたいこともなければ、就きたい職もない俺としては、どこの高校へ通おうと大差無いと思い、それならば、気の合う友達と近くの高校へ行くというのがベストな考えだったわけだ。
「いやぁ、しっかし…、もうオイラたちも今日から高校生かぁー。あんまり実感ないなぁ」
「そうだなー。そう言われても、ピンと来ない気はする」
中学も高校も、廊下や教室など校内の造りは似たようなものに思えるが、今足を踏み入れている場所は通い慣れた学校と何かが違う気がした。
おそらく、似たような場所であっても、そこに通う生徒たちの心境の差、あるいは精神年齢の差が、この雰囲気の違いをもたらしているのだろう。
入学初日ということもあって、どこかそわそわした雰囲気も漂っており、辺りを窺っている生徒も多数見られる。
「あれかな。同じ高校に入学して、また一緒のクラスになったから、余計変わり映えしない気がすんのかも」
「んー、知らない奴らばかりの中に放り込まれるよりは、見知った奴が一人でもいた方が楽そうだけどな」
「それもそうか。じゃあ、改めて…高校でもよろしくな、ノブ」
「あぁ」
珍しく改まった挨拶をしたかと思えば、堅苦しく握手を交わすわけでもなく、裏手を合わせてぶつけ合うという男臭いやり取りだった。
「新しいクラスに新しい学園生活、かわいい子がいると良いなー」
「そりゃそうだけど、その子と仲良くなれるかは、また別問題だぜ」
「それを言っちゃあ、おしめぇよ」
おちゃらけている彼の言うように、これから訪れる新たな出会いに胸を躍らせているのは、俺も同じだった。
期待と不安がごちゃ混ぜになっている心境ではあったが、どちらかといえば期待の方が大きく割合を占めている。
中学では、結局男ばかりとつるんで、全く色恋沙汰の浮いた話が無かった俺たちにも、春が訪れるのではないかという淡い期待。それは、もしかしたら、漫画やアニメ、ドラマなどの影響かもしれない。ああいった学園モノや青春モノの作品の多くは、高校を舞台に巻き起こるのだ。
だからこそ、高校へ進学した自分たちにも、そんなドラマチックな展開が起こり得るのではないかと思ってしまう。
それらが、フィクションであると明記されていても、実は同じようなことが起こるのではないか。そう思ってしまうのは、若さ故のものなのだろうか。
「えぇっと、確かオイラたちC組だったよな?」
「そうだよ。おいおい、もうボケが始まってんのか? そんな大事なこと忘れるなよ」
「ボケじゃねーよ、確認しただけだって」
1-Cと記された教室が見えて、いざ新たなクラスメイトが待ち受けるその場所に入ろうとした時、それは突然やって来た。
「きゃぁっ!!」
「うぉっ!」
勢い良く教室から出てきた少女は、そのままの勢いで廊下を進もうとして、正面から俺とぶつかり、そのまま雪崩れ込んできた。
長年待ち焦がれた恋人へ抱き着くにしても、これほど勢い良く走ってくることは無いだろうというような勢いだったので、ガタイが良いわけでもない俺が当然受け止められるはずもなく、彼女諸共廊下へ倒れ込んだ。
「イィッっ!?」
こんなに激しいハグは人生で初めてのことだったが、そんなことを気にしている余裕もなく、少女の重みと背負っていたリュックに詰め込まれた教科書の板挟みに遭い、背中や腰の辺りから聞こえてはいけないような鈍い音が身体中に響いた。
「おい、ノブ! 大丈夫か!? しっかりしろ!」
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「う…ぅぅ……」
隣にいた悪友は無事だったらしく、心配している様子は窺えたが、彼の声に返事をすることも叶わない。
朦朧として薄れゆく意識の中で、かわいい少女に押し倒されて腹上死するのも悪くないと思いながら、普段嗅いだことのないフローラルな香りと共に、俺の意識は遠くへ運ばれていった。
「……」
「あぁっ! だめぇ! 誰だかわかんないけど、逝っちゃダメだよぉっ! 私、人殺しになっちゃうぅ!」
「え? そこ…?」
彼女は返事の無い男の制服を掴み、ぐわんぐわん揺らして意識を取り戻そうとするが、既に気を失った男の頭が大きく揺さぶられるばかりで、まるで好転しない。
それどころか、勢い余って頭を床にぶつけてしまっていたので、悪化してしまいそうなほどだった。
「ちょ、ちょっと待って! キミ、落ち着いて。そんな風にしたら、ホントに死んじゃうって!!」
「え…、あっ…!? す、すいません……ぁ…」
指摘されたことで自分の過ちに気づき、意識の無い人間をパッと離すと、またも鈍い音を立ててしまい、罰が悪そうに声を漏らした。
「と、とりあえず、保健室…、あ、救急車を呼んだ方が良いんでしょうか!?」
「保健室行って、先生に判断を仰ごう。悪いけど、ちょっと手伝ってもらえる?」
「はい、もちろんです!」
ふと目が覚めると、見知らぬ白い天井が目に入った。
「イっ…、つつぅ……」
意識が飛んでいて、何が起こったのか思い返そうと身体を起こすが、後頭部と腰に痛みを覚えて、その場に戻されてしまった。
「だ、大丈夫ですか? まだ安静にしていた方が…」
心配する声が近くから聞こえたことで、すぐ隣で少女が見守ってくれていたことに気づかされる。
そして、ツヤサラのキレイな長い髪を下した彼女を見たら、何があったのかをおおよそ思い出した。
「キミは…、確か……」
「同じクラスの雅君 志音です。さっきは、本当にごめんなさい。私が慌てて飛び出したから…」
長い睫毛が伸びる瞳に、薄っすら涙を浮かべている姿を見ていると、こちらが悪いような気がしてしまうのだから、女の涙は卑怯だとはよく言ったものだ。
「いいって。わざとじゃないのは、わかってるから。それより、…えーっと、雅君さんの方は怪我とかしてない?」
「はい…。私は全然、何ともないです」
「そう、なら良かった」
女の子に傷を付けたら、一生モノの傷になると親からもキツく言われていたので、彼女の将来が閉ざされたわけでもないと分かり、ホッとした。
いや、むしろ、そそっかしい部分はともかく、それ以外の性格に難があるようにも思えないので、かわいい女の子の責任を取らされるのであれば、それはそれで俺の将来が安泰だったのかもしれない。
「ベッドに寝ているのは自分の方なのに、他人の心配をするとは、お優しいことだ」
彼女の可愛らしい声とは違い、色気のある大人の声で皮肉めいたことを言いながら近寄って来たのは、白衣を着た女性だった。
「しかし、入学早々保健室送りとは、なかなか破天荒な学園ライフの幕開けだな、少年」
妙にスタイルが良いその女性は、悪びれた様子もなく面白そうに笑っていた。
「まぁ、確かに…。それで、あなたは?」
「あぁ、そうか。今年度から入った生徒だから、まだ知らないのか。私は、養護教諭の小森だ。要は、保健室の先生っていえば、分かりやすいかな?」
先月まで中学生だった相手にも分かりやすく言ってくれたおかげで、すぐに立場を理解し、彼女の言葉に頷いた。
「さて、意識が戻ったのなら、まずは…背中や腰もそうだが、頭も打ってるみたいだから、先にそっちを調べておかないとな」
「キミ、自分の名前は分かるか?」
「古雲 誠直です」
「ふむ、キミの友人から聞いた通りだな。じゃあ、次。はい、これ握って。…あ、私の手じゃないよ」
徐に胸ポケットから取り出されたボールペンを彼女の手から受け取り、次いで小さなメモ帳まで渡された。
「そこに、自分の名前書いてみて。あぁ、漢字で書いて、ふりがなも振ってね。平仮名とカタカナ、両方」
「はい…?」
若干バカにされてるのかと思いながらも、普通に書いて見せると、平然とした顔で眺めた後、ペンとメモ帳を返された。
「それじゃあ、私の手を見て。今から動かすから、立ってる指の数を数字で言ってみて」
よく分からないまま、先生の言う通り、その手の動きを見つめながら、数字を口にしていった。
「1,2,3,4,5,6,7,8,9,…4,5,4,5……1,9,1,9……」
両手を使って数を変えていく先生の姿を真面目に見ている俺の横では、雅君と名乗った少女も同じようにその様子をジッと見つめていた。
「…ふむ。一応、頭の方は大丈夫そうだね。じゃあ…服脱いでくれるかな?」
「え?」
唐突な指示に驚いたのは、彼女にも雅君さんとは違った方向性の女性的魅力があったからだ。
かわいい系ではなくキレイ系の先生は、一見まだ20代と思しき年齢ながら、学生にはない大人の女性を想起させる落ち着きがあったり、服の上からでも分かるほど豊満な女性の象徴が見受けられ、さっきから目のやり場に困っていたほどである。
「聴診だよ。心臓の音を聞きたいから、服を脱いでくれと言ったんだ。…それとも、何か他の意味に聞こえたのかな?」
「あ、…いえ、そういうわけでは……」
「あぁ、先生に脱がせて欲しかったのか。それは、気が利かなくて済まなかった」
「いやいやいや、そういう話でも無いですから」
「だって、身体を起こすのも辛いんだろう? なら、寝たままでいいし、ついでに脱がしてやっても…」
「じゃあ、私がしましょうか…?」
「いいって、自分でできるから」
変に気を遣われて話がこじれてきたこともあり、気恥ずかしくなった俺は、二人の手を制しつつ、さっさとワイシャツのボタンを外して、上半身を曝け出した。
「あ、わ、私は、あっち向いてますね!」
待機時の下半身ならともかく、上半身を女子に見られたところで恥ずかしくもないのだが、妙に慌てた雅君さんは、急に目を逸らして背を向けた。
「はい、吸って…、吐いて…。……、そのまま揉んで…」
「うぉっ!?」
聴診器を当てて心音を聞こうとしているお姉さんに見つめられるだけでドキドキしてしまい、その高鳴った心音を聞かれれば、胸の内を見透かされてしまう気がして、必死に平静を装って心を穏やかに保とうとしていたのに、突然手を掴まれて、そのまま彼女の胸に押し付けられたことで、その努力はあっけなく崩壊した。
「ふふっ…、良い反応だ。異常なし」
それは、一瞬の出来事だったが、柔らかなボールの中に指が沈み込むような感覚がしたのは、よく覚えている。
しかも、それが手に納まりきらないほどのサイズだった上に、覗き込むようにしていた彼女の体勢もあって、手の平にずっしりとその重みまで感じられたのだ。
もはや、冷静に努めるどころか、気が気ではない。
「お、終わりました…?」
「ああ、もういいよ。服も直したまえ。…ん? やっぱり、先生がした方が良いかい?」
「あ、いえ……」
今のは、一体何だったのか。
先生の気まぐれか、あるいはサービスか。それとも、ただ単に揶揄っていただけだったのか。
何にせよ、同じクラスになった女子生徒が傍にいるのに、現場を見られなかったことは幸いだった。
しかし、それ以上追及するわけにもいかないので、真実は彼女のみが知ることとなり、そのことばかりに気を取られて呆けてしまった。
「それじゃあ、頭の方も大丈夫みたいだから、一応キミがここにいる経緯を伝えた方が良いかな」
「廊下で、雅君さんとぶつかったことは覚えてますけど…」
「……」
「そう、あれから一年…」
「え? そんなに??」
「いや、冗談だ」
「…はぁ?」
この小森という女は、冗談も真顔で言うものだから質が悪い。というか、よく考えたら、さっき「今年度から入った生徒だから~」とか言っていた気がする。
「あの後、キミの友人で桐灯 大耀と名乗った少年が、彼女と一緒にキミを運び込んできた。一通り怪我の具合を私が診たが、救急車を呼ぶほどでもないと判断して、ここにいるわけだ」
「あれ…、でもあいつの姿が見えないけど?」
「ああ、それなら…、キミが起きた時にかわいい女の子が最初に目に映った方が喜ぶからと言って出ていったよ。今頃は、体育館で長話を聞かされている頃ではないかな」
「じゃあ、雅君さんはずっと残っててくれたのか」
「はい…。私の所為ですし、心配だったので…」
今日初めて会った相手ではあるが、事故とはいえ、自分の所為で他人を傷つけてしまったということに罪悪感を覚えて、反省している様子が見て取れた。
女の子の俯いて気落ちしている姿を見るのは、何とも忍びない。やはり、かわいい子であればあるほど、そんな顔をしないで笑っていて欲しいと思えた。
「私も残っていたわけだが…? キミの容体を診たり、キミたちの監督をしておかなければいけなかったからね」
私にも感謝をしろと言いたいのなら、随分厚かましい先生だと思いきや、その後に続く言葉を聞いたら、そんなこともなかった。
「まあ、おかげで退屈な長話を延々と聞かされながら突っ立っていなければならない、という拷問から解放されたわけだし…、私としてはキミたちに僅かばかりの感謝はしている」
「生徒が怪我したってのに、何を言ってるんだあんたは…」
聞けば聞くほど、先生という肩書からはかけ離れた変わった人だ。
これで、容姿まで異常者だったら、さらに手に負えない存在だっただろう。いや、むしろ変に見てくれが良いからこそ、質が悪いのではないか。
「ごめんなさい、私の所為で…入学早々、こんなことになっちゃって…嫌な思いをさせちゃいましたよね…?」
「いやぁ…? 身体は、…まぁちょっと痛むけど、悪いことばかりじゃないよ。だから、そんなに気にしなくても…」
「でも……」
当人が気にしなくてもいいと言っているのに、彼女自身がそれを許そうとしていないようだった。
おそらく、罪の意識が消えず、このまま許されたとしても、ずっと負い目を感じて、罪悪感が尾を引くことだろう。
「その…。私に、何かできることはありませんか?」
償う機会をくれと言わんばかりに言い寄ってこられたが、思春期真っ只中の健全な男子高校生にそんなことを言ってしまっては、あれやこれやといけない妄想が捗って仕方ない。
しかし、他の女性であり、先生でもある養護教諭の目がある中、それをただ欲望のままに言うこともできず、そんなことしてしまっては、早くもこの高校での俺の立場も危ういものとなるだろう。
なので、良識的な範囲で、彼女に一つだけお願いをすることにした。
「じゃあ、そうだな…。今回のことは、忘れてくれないか?」
「え…??」
予想だにしない答えに、彼女は驚いて小さく声を漏らした。
「俺はさ、高校生になって新しい学校生活を送ることに、少し期待していたんだ。それは、所謂リア充みたいなかわいい彼女ができたりすることに限った話じゃなくて、学校での楽しい時間を過ごしたいってことね」
「でも、それはきっと俺に限った話じゃない。俺の友達もそうだったし、もしかしたら、雅君さんもそういう気持ちがあったんじゃない?」
「それなのに、入学初日に嫌な思いをして、これから先ずっと負い目を感じて過ごすことになってしまったら、楽しむこともできないでしょ? だから、今回のことは忘れて欲しいんだ」
「古雲くん…っ」
改めて理由を話すのは少し気恥ずかしい思いもあったが、それだけの価値はあったようで、彼女の罪の意識も浄化されたみたいに、その瞳に宿る光が、未来の明るさを物語っているようだった。
「ありがとう、優しいんだね。でも、本当にそれだけで良いの…?」
「あぁ。でも、これはそんなに簡単なことじゃないぜ。並大抵の人間にはできないような難しい課題だ。雅君さんは、大丈夫かな?」
「…うんっ! もちろんだよ。絶対、約束は守ってみせるからね」
多少目頭が熱くなっていたものの、この時初めて彼女の笑顔を見た気がする。
いつの間にか、負い目と共に敬語も無くなったらしく、入学早々かわいいクラスメイトとお近づきに慣れた自分を誇らしく思えた。後で、大耀の奴にも、お礼と共に自慢してやろう。
彼女の前でだらしない顔をしないように気を付けながら、内心ほくそ笑んでいると、静かだった空間へ茶々を入れるように辺りが騒がしくなってきた。
足音や話し声が遠くで聞こえ始めたかと思えば、それがいくつも重なって動いている。
「どうやら、あっちも事が済んだみたいだな。校長の長話も終わって、みんな戻ってきたんだろう」
「なら、今から行けば、教室で合流できそうだな。俺もすぐ行くから、雅君さんも先に教室行ってていいよ」
「あ、うん…。じゃあ、そうしよっかな。私、先行くね。先生たちにも、すぐ来るって伝えとくから」
「あぁ、頼むわ」
「うん。また後でね」
ずっと隣に座っていた彼女は、去り際に小さく手を振ってから、短いスカートを翻して行ってしまった。
「(うーむ。やっぱり、中学の時と違って、スカート短いなぁ…)」
すぐに後を追うようなことを言ってしまった手前、まだ身体が痛むものの、無理にでも起きて向かわなければならない。
大事なかったと思えば、彼女の罪の意識もより薄まるのは簡単に予想できるので、ここが男の見せ所だろう。
痛みを堪えて身体を起こしていると、うら若き男女が二人きりになって何も起きないはずもなく、養護教諭の小森先生が口を開いた。
「青春だねぇ。それにしても、随分優しいじゃないか。先生の前だから遠慮したのかい? 男だったら、あのままエッチなお願いをしてみても良かっただろうに。ああいう子なら、もしかしたら、受け入れてくれたかもしれないよ」
当人が去ったことを確認した後とはいえ、すごい言われようだった。
「…本当に先生ですか? 先生なら、間違ってもそんなことを生徒に勧めないでくださいよ」
「まあまあ、そう硬いこと言わないの。男が硬くするべきは、もっと別のところだけなんだから」
「あのですね…」
「そんなこと言って、ただ単に頭には浮かんでも、それを言う勇気が無かっただけなんじゃないかい?童貞クン」
「ど、どど、童貞ちゃうわ!」
さっきから他人を見透かしたような目で見つめて来るので、実にやりにくい。しかも、その言葉があながち間違っていない辺り、余計質が悪い。
「へぇ…? とてもそうは思えないけど?」
もはや、生徒と先生の距離ではないほど顔を近づけて来るので、彼女の息遣いまで聞こえてきそうだ。
「ひ、人を見かけで判断するようじゃ、先生も男を見る目が無いですね」
「ほぅ、言うじゃないか。まあ、近年の若者が進んでいるといっても、この年頃の子なら、そうでなくとも半数以上は童貞だろうし、当てずっぽうだったんだがね」
「あの…、余計なお世話かもしれないですけど、あんまり、その…童貞童貞言わない方が良いんじゃないですか?」
「へぇ、心配してくれるの? あの子に限らず紳士的な対応だこと。でも、大丈夫よ。まだ20代とはいえ、キミたちの年代からしたら、私なんてもうオバサンだしね。独り身も慣れちゃったから、寂しいわけでもないし」
彼女がポロっとこぼした言葉を聞いて、「20代で独り身…、ほぅ」と心の中にメモしておいた。
「オバサンってのは、大袈裟な気もしますけど…」
「ふふっ…。まあ、そうよねぇ…。キミの視線も、そう言ってるし」
「え!? な、何のことですか…?」
ややだらしなく白衣を着ている彼女からは、ふくよかな谷間がチラチラと覗けていたので、多感な少年の目を釘付けにするには十分であり、図星を突かれて動揺した。
「へぇ、恍けちゃうんだ。意気地なし。もし正直に言えたなら、このまま童貞卒業させてあげようかと思ったのになぁ…」
「なっ…!?」
急に自らの服へ指を掛け、大人の色気を見せてきた彼女から、獲物を捕らえるような目つきで誘われ、一瞬その光景を妄想してしまった。
「ふふっ、冗談よ冗談。本気にしちゃった? くくっ、これだから年頃の純情ボーイを揶揄うのは、やめられないのよね」
「(こ、こいつ…)」
思わず、彼女へ聞こえない程度に悪態をついてしまった。
「期待させちゃったのなら、ごめんなさい。でもね、そんな勢いに任せてしちゃうのもどうかと思うわよ」
「え?」
色気を振りまいて揶揄ってきたかと思えば、急に真面目なトーンで話すので、完全に彼女の掌で踊らされているような感覚すら覚えた。
「一般的に、処女は大切なものでも、童貞は恥みたいに捉われて、すぐにでも捨てたいって思うみたいだけど、どちらもその人にとって大事な初体験であることには変わらないの。それは、一生に一度しか味わえない貴重な出来事。それこそ、男女とも良し悪しに関わらず、一生脳裏に焼き付くような思い出でもある」
「だから、男であるキミにとって初めての経験も、できればちゃんと想い人と添い遂げて、良い思い出にして欲しいの」
自分から誘うようなことをしてきた癖に何を言ってるんだと思う一方、その真面目な顔つきの影には、薄っすら哀愁すら漂っていたので、彼女の過去を想起させた。
「先生の初めては、良い思い出だったんですか…?」
思わず出てしまった言葉を聞いても、動揺こそ見せなかったものの、返答には少しの間があった。
「好奇心が旺盛なのは結構だけど、人間知らない方が良いこともある。一度知ってしまうと、もう知らなかった頃には戻れないからね。それでも、キミは私の過去を聞く勇気があるかい?」
意味深な発言を聞いて、そこまでの覚悟が無いことを自覚し、大人しく引き下がる。
「…興味本位で聞いてすみませんでした。ちょっと、踏み込み過ぎました」
「まあ、別にいいさ。人間誰しも失敗はするし、若いうちは特にね。…ちなみに、だけど…キミはどっちだと思ったんだい?」
はぐらかす彼女からそう聞かれて、誤魔化すでもなく真剣に答えた方が良いと考え、思ったままを伝えた。
「良い思い出、であって欲しい…けど、もっと言うなら、まだであって欲しい、かな」
「え…えへぇ? まだ誰のものでもあって欲しくないってこと? ははっ、キミはませてるなぁ」
「ただ、自分で言った傍からあれだけど、この歳で処女はちょっと…他人には言えないかもねぇ。でも、そう言ってくれるってことは、もしかして私のこと抱きたくなっちゃった?」
「だ、抱き…って、いや…その…」
「ははっ、キミ面白いねぇ。気に入った。また保健室に遊びにおいでよ。そうしたら、今度は腰じゃなくて、前の方も擦ってあげるからさ」
「前って…え? あっ…!?」
何のことを言ってるんだと思ってみれば、指で輪っかを作って意味深な上下運動をして見せたものだから、すぐに察することができた。
「ほら、また来たくなったでしょ?」
「あの、そろそろ行かないといけないんで。それじゃ!」
彼女から妙な言葉が発せられたのと同時に、ようやく揶揄われたのだと気づき、童貞丸出しだった自分が恥ずかしく思えて早々に保健室を抜け出した。
「んー? あの様子だと、望み薄かなぁ…? 誤解してそうだし」
背中に張られた湿布を頼りに、まだ痛みの残る身体を動かして自分のクラスがある廊下まで戻って来たが、そこには誰一人いなかった。
悠長に養護教諭の先生と話していた所為で、もう既にクラスでの話が始まってしまったのかもしれない。俺は、なるべく急いで足を進めた。
「すいません、ちょっと遅くなりました」
ガラガラという引き戸の音に気づいて一斉に振り返った生徒たちから、脚光を浴びる。
初手から明らかに悪目立ちしている自覚はあったが、心配していたらしい大耀と雅君さんの顔をみれば、それも然程気にならなくなった。
「ノブ! 席はそこの空いてるとこだ。リュックも置いといたから」
「おぅ、悪いな」
廊下側から二列目の真ん中辺りに一つだけ空席があり、嫌でもよく分かる場所へ向かいながら、教壇に立つ先生の言葉に耳を傾けていた。
「ああっ、良かったわぁ。ちょうどいいところに戻ってきてくれたし。先生、最初聞いたときはビックリしたのよ。入学初日から、保健室に行ったって話を聞いて。先生の青春時代みたいに、暴力的な問題児を抱えることになるかと思っちゃったわぁ」
「いやいや、ただの接触事故ですから、喧嘩じゃないっす」
「そうみたいね。粗方、事情は聞いているわ。彼も無事みたいだし、全員揃ったところで、改めて挨拶をしておきましょうか」
「私が、このクラスの担任になった新井です。これから一年間よろしくね。担当科目は、現国。つまり、現代国語ね。年齢とスリーサイズは内緒だけど、それ以外なら、ぁバンバン聞いてくれて良いからね。ちなみに、既婚者だから、その辺は期待しちゃダメよ」
親しみやすそうな先生ではあるが、さっきの養護教諭といい、この学校の先生はこんなに癖が強い先生ばかりなのだろうか。
既婚者という割には、わりと若い見た目をしているが、小森先生ほどはいかなくても立派な胸をしており、スーツの上からでも何となくわかる。
スタイルは良くても、これだけ癖が強いと、この先生と結婚しようなどとはなかなか思わないだろうが、世の中にはそれが良いと思った男もいたというわけだ。
他の男子生徒も似たような反応らしく、スタイルの良い女教師が担任なのは良いが、苦笑いを隠せていない者が何人も見受けられた。
「じゃあ、次は皆の番よ。出席番号順に、名前と簡単な自己紹介よろしくね。はい、まずは雅君さん」
先生に言われて立ち上がったのは、先程も見た少女だ。
「はい。雅君 志音です。桐間々中学から来ました。楽しい高校生活を過ごしたいと思うので、皆も仲良くしてくれると嬉しいな」
簡潔な自己紹介と挨拶だったが、かわいい女の子がニコリと微笑んでくれただけで、クラス内で小さなどよめきが起こった。
もちろん、それは第二次成長期を迎えた野太い声ばかりだったが、彼女がそれだけ男を惹き付ける容姿や雰囲気を持っていることの表れでもある。
彼女にさっき伝えた意図と同じような内容を喋っていたことが気掛かりだったが、それ以上に自分の方へ言葉や笑顔も向けられていたように思えたことの方が気になった。
「(まさか、な…)」
とはいえ、長年、彼女どころか、女の子と出かけたこともない非モテ男子の俺が、そう簡単に自惚れるはずもなく、きっと気のせいだろうと高を括っていた。
そうしている間にも、次々と男女が立っては座ってを繰り返し、自己紹介の波が続く。
何を言うかまるで考えていなかったことを思い出し、いずれ訪れる自分の番に備えて、頭を捻ることになった。
自分の自己紹介については、もう覚えていない。
なぜ覚えていないのかは想像がつく。大したことを言わなかったからか、あるいは盛大にスベったので忘れたかったからだろう。
もしくは、もっと他のことに気が向いていたからかもしれない。
「うーん…。目ぼしいところは、雅君ちゃんと佐出ちゃんの二人ってところかなー? ノブは、どうだ? 頭打って、少しは趣向が変わったかい?」
「どうだろうな。でも、明らかに浮いてたのは、その二人かな」
「そうそう、もう別格よな。二人とも、スタイルも良いしさ。雅君ちゃんが優し気な感じで、佐出ちゃんの方は、ちょっと強気な感じ? どっちも良いねぇ」
今日は半日で終わり、明日から本格的に授業がスタートするというわけで、新たなクラスメイトとの交流もそこそこに、早々と立ち去って新たな通学路をいつもの友達と帰っていた。
慣れない新鮮な空気から一変して、慣れ親しんだ安心感のあるやり取りは、心をホッと落ち着かせるが、青春の煌めきを生み出す刺激は全くない。
「そういえば、あれからどうなったんだよ? なんかイイことあった?」
いやらしく笑いながら問いかける彼の様子から、おそらく保健室に運ばれた後のことを言っているのだろうが、その期待に応えられるような浮いた話は無かったはずだ。
「いや…、特には」
雅君さんのことはもちろん、小森先生のことまで一瞬脳裏に過ぎったが、あれは揶揄われただけだろうし、話すのも恥ずかしかったので、黙っておいた。
「なんだよ、連絡先くらい聞けなかったのか?」
「あ、そういえばそうだ…。でも、また改めて聞くのも、なんかハズいな…」
学校からの連絡網を回す関係で、出席番号が前後している二人の連絡先は大義名分の元に聞くことはできたが、それは雅君さんでも佐出さんでもない橋本さんという女の子と、後ろの席の男子生徒だった。
連絡先の交換自体は、スマホのメッセージアプリでサクッとやるだけなので、簡単だしすぐに終わるものの、そこへ行きつくまでがその何十倍も大変なのである。
「せっかくのチャンスをよぉ…。入学早々、明るい学園生活が幕を開けたかと思ったのに…まあ、中学を卒業してから一か月も経ってないもんな。人間、そう簡単に変わらないか」
「だったら、お前が聞いといてくれても良かったんじゃないか?」
「それが出来たら、最初から苦労しないっしょ。ノブが知ってたら、オイラにも教えてもらおうと思ってただけだからな、へへへ」
「なんだよそれ。他人のこと言えねえじゃねーか」
「はははっ、そう怒るなって。アタイは、なんだかんだで優しいノブちゃんが好きよ」
気色悪いオカマみたいな声を出して告白されたが、どうせ同じことを言われるなら、もっとかわいいちゃんとした女の子が良いと心底思った。
「そ。んで、今日はどうする?」
「あぁ、昼飯食ったらノブんち行こうかな。今日は時間あるし」
「わかった」
そうして、高校生になっても、中学生の時と何ら変わらない相手と同じような時間を過ごした。
もちろん、男同士で集まってバカを言いながら遊ぶのも、これはこれで楽しいのだが、高校生活への期待がちょっぴり薄まった気がした。