クローゼット
萩原が自宅に戻って妻の部屋のドアを開けたとき、既に彼の妻はベッドの上で事切れていた。
ひゅう、とどこからか空気の漏れる音がする。
それが自分の吐息だと理解するのに少し時間がかかった。
開け放たれた窓から人の吐息のような生ぬるい風が頬をなでる。
萩原はそれがきっかけになったかのように妻に駆け寄った。
たった十分。それだけで人は死ぬのだ。もしかしたら妻が死んだのは一瞬だったのかもしれないが、家を空けていた十分で最愛の人間が死ぬなど思ってもいなかった。
信じられない。嘘だと思いたい。しかし生気のない、蝋人形のような白い妻の顔は、萩原の中に妻はもう死んでいる、もう戻ってはこないという気持ちを芽生えさせる。
ベッドの上の妻を見る。左胸から鈍く銀に光るナイフを生やした妻はもう動かない、喋らない、誰にも笑いかけることはない。
純白のシーツの上にまだ鮮やかな赤色の血が染み込んでいた。
新しいシーツを買わなければならない。ぼんやりする頭でただ、そう思った。
机の上の煙草を手に取り、火をつけた。ぷかりと浮いた紫煙が窓から澄み切った青空に浮かぶ雲のひとつとなるように消えてゆく。
藤田は口にくわえた煙草をくゆらせたまま、本棚から一冊本を手に取りベランダへ向かった。
ベランダに用意しておいた椅子に座り、本を開く。
タイトルは「死神の精度」だ。そろそろ50に近い中年が読んでいて良いのか悪いのか。
だが藤田は好きだった。好きならば年齢など関係ない。そこに良し悪しなど関係ないのだ。
本を読みながら煙草をふかし、ときたま空を眺める。とても良い。充実している。休日はこうでなくては。
藤田が一人休日を満喫していると、ベランダに干してあったタオルがひとつ風に飛ばされていることに気づいた。ちゃんと洗濯ばさみではさんでなかったことを悔いながら藤田はタオルを取りに立ち上がった。
タオルはベランダの手すりに引っ掛かっていた。しかしそれは藤田が手を伸ばした瞬間、藤田の手から逃れるようにふわりと風に乗せられて空中にその身を躍らせる。
しかしぎりぎり手は届く。ベランダから身を乗り出し、最近気になりだした腹の肉を手摺りに乗せて手を伸ばした。
瞬間、体が前のめりになる。視界は一気に下界を映し、体はそのまま重力に引かれ、足が宙に浮いた。
終わった。
藤田の身体が宙を舞う瞬間、ただその一言が藤田の頭の中に浮かびあがっていた。
タオルは宙を舞っていた。雨は降っていなかった。
誰が妻を殺したか。暫くの間呆然としていた萩原が我に返ったとき、頭に浮かんだのはこの疑問だけだった。
強盗ならまだしも妻の命を奪った犯人を許すことはできない。下手に警察に任せるよりもこの手で殺してやりたい。どんな方法を使ってでも。
妻が死んでいるのを見つけてからまだそう時間はたっていなかった。もしかしたらまだ近くに居るのかもしれない。萩原はそう考えてマンションから近隣を見渡すためにベランダに続く部屋の窓をあけた。
そして萩原が手摺りに近寄ると、その手摺りに男がぶら下がっていた。
刹那の思考停止。白に染まる頭の中。そこに一つの疑念が浮かび上がった。
――妻を殺したのはこいつか?
この状況で妻を殺しえたのはこの男しかいない。一瞬の思考の後、萩原は冷静とは言いがたい頭でそう結論を出した。
結論を下した後の萩原の動きはすばやかった。廃棄するためにベランダに出しておいた小さめのクローゼットを持ち上げる。
ぶら下がっている男はぼんやりとした目で萩原を眺めていた。そして男は何かを言おうと口を開きかけ、萩原はそれを待たずにクローゼットを男に渾身の力で叩きつけた。
男はクローゼットの一撃で気を失ったのか、叫び声も上げずに落ちて行き、グシャリという音と共に、地面にぶつかって首をありえない方向に曲げながら動かなくなった。
それから萩原もベッドの上に横たわる妻を一瞥した後、手摺りを越えて宙に身を投げ出した。
前のめりになる身体。反転する視界。そして宙を舞うタオル。そこから人生を遡るかのようにさまざまな記憶が現れる。
昨日の晩飯。一昨日の上司。5日前の電車の中に一ヶ月前の飲み会。どうでもいいようなことばかり思い出される。
俺の人生こんなもんか。自分の人生のくだらなさに口元が自嘲の笑みに歪んだ。
しかし人生がくだらないからといって死ぬつもりは藤田には毛頭なかった。
無我夢中で手を伸ばす。もしかしたら手摺りに掴まる事ができるかもしれない。ただその一心でひたすら腕を伸ばす。
――死んでたまるか!
その想いが功を奏したのか藤田の伸ばした腕は手摺りをしっかり握っていた。
身の安全が確保されたわけではないが、死なずにすんだという安堵が藤田の中に湧き上がってきた。
助けを呼ぼうとするが頭がぼんやりして何を喋ればいいか分からない。
そうこうするうちにベランダに続く部屋から足音が聞こえてくる。手摺りに近づいてきたのはまだ若い男だった。泣いていたのか目は充血し、虚ろな瞳は藤田を映しているのかどうかも怪しい。
男は藤田を見つけた瞬間、目を大きく見開き親の仇でも見るかのように睨んできた。 藤田はとりあえず男に助けを求めようと口を開きかけ、止めた。
頭上にクローゼットが迫っていた。
何じゃそりゃ。それが藤田の人生最後の言葉だった。
ひらひら舞い落ちてきたタオルが地に伏した藤田の顔を覆った。
「千葉警部殿!お疲れ様です!」
「そんなに力まなくてもいいのにねぇ。まったく」
「私は千葉警部を尊敬しておりますので!失礼な態度は取れません!」
「はいはい。……じゃあとりあえず被害者…でいいのかなこれ。誰が被害者で誰が加害者かわからないじゃないかねぇ、これじゃ」
「自分にも!把握できておりません!」
「はいはい。しかし飛び降りの男二人に刺殺の女一人。これだけなら痴情のもつれってやつで解決できそうだけど…ねぇ」
「このクローゼットの中の男はいったい何処の誰だい?」
はじめまして。黒糖雨と申します。
本当は黒糖なんですけどね。ペンネーム。
打ち辛かったら黒糖でお願いします。
このお話はとあるアメリカンジョークのSS化です。
知っている人にはオチが見えてしまっていたかもしれません。そればっかりはしょうがないのでご容赦願います。
伊坂作品が好きです。これを書いたのは結構前なのでおそらく「死神の精度」でも読んでいたんだと思います。
小ネタでクスッとでも笑ってくれると嬉しいです。
感想よろしくお願いします。