第1章 不思議の国への招待状
退屈な授業も全て終わり、わたしはのんびり家路を辿っているところだった。
「あーあ、帰ったらどうしようかなー……」
ため息交じりの独り言に、答える人は勿論いない。
聞こえるのは自分の足音と、カラスの鳴く声のみ。
空はもう朱く染まり、夕日が海の向こうへ沈んでいこうとしている最中だった。
わたしはこの、カラスの鳴き声を聴きながら歩く時間が、好きだ。
何故だろう? 懐かしい匂いが、わたしを包む。
何が懐かしい? カラスの声が? わたし、カラスとの思い出なんてあったっけか。でもこの空間にいて、安心することには変わりない。今日も素敵な夕暮れをありがとう。
心地よい感覚に思わず微笑んでいると、わたしが愛す平穏を乱す色が視界に飛び込んできた。
「――あれ?」
その色に、わたしは思わず目を細める。
毎日通る道の真ん中に、普段はない何かおかしなものが落ちているのだ。
遠くからではよく見えないけれど、どうやら色は赤く紅く、そんなに大きくはないことが分かった。
誰かの落とし物かしら? そう思いながら、わたしはそれに近付いていく。
見えない。小さくて分からない。何だろう、あれは?
考えても思いつかない。思いつく全てが、違う。
――その目の前まで来て、ようやくわたしはその正体を悟った。
「……はな、びら?」
呟いて、その落とし物――真紅に染められた花弁を、そっとすくう。
これはきっと、薔薇の花弁ね。とても綺麗で、高貴な薔薇の。
灰色のコンクリートの真ん中に、ぽつりと生じた違和感。
深い色をしたその花弁は美しくても、周囲の風景にはあまりにも不釣り合いだった。
この花弁は一体、何処から来たんだろう。
薔薇なんて、この辺りには咲かないのに。
「……変なの」
わたしは不思議に思いながらも、その花弁を両手に乗せたまま歩き出した。
何故か捨てるという選択肢を考えず、家に持って帰ろうと思っていたの。
どうしてかなんて、――その時のわたしはおかしかった、としか言えない。
わたしにも分からない。ただ、その花弁があまりに綺麗だったからかしら。だから手に乗せて、そっと運ぼうなんて馬鹿なこと。
すると、その時。
「すみませーん、そこの方ー!」
背後から鈴を転がしたような可愛い声が聞こえて、わたしは思わず振り返る。
目に飛び込んできたのは、綺麗な銀髪と大きな紅い瞳が印象的な、お人形さんのような女の子だった。
誰かしら? あんな子、初めて見た。銀髪に紅い瞳なんて――普通ありえるものかしら。
そんなことを考えて見つめていると、女の子は息を切らせながらも口を開いた。
「あの、この辺りで、小さな紅い花弁を拾いませんでしたか?」
周りを見回す。辺りに他に、人はいない。
この子は紛れもなくわたしに話しかけているんだわ。
わたしはそう気付くと、慌てて彼女の言葉に反応した。
「えっ、あっ、は、花弁ですか?」
「ええ……突然変なことを聞いてすみません。でも、大切なものなんです」
少女は困ったような顔でわたしを見上げた。
つかんだだけで折れてしまいそうな程白く細い腕が、紅い薔薇を抱えている。
紅い花弁――わたしがさっき拾った、あの花弁のことかしら。
わたしはそう思い、そっと自分の手を差し出し、尋ねる。
「これ……のこと、ですか?」
「えっ? あっ、そう、そうです! ありがとうございます!」
少女は大きく頭を下げた。
わたしは勝手に拾ってしまっただけだから、と頭を上げるように頼むと、彼女はようやく頭を上げて、にっこりと微笑んだ。
「いいえ……、本当にありがとうございました。お姉さんがわたしの生まれ変わりなのですね?」
―――え?
意味不明なその言葉に、わたしは固まる。
どういう意味? 生まれ変わり? 一体、何の話?
混乱。疑問。おかしな子、と笑い飛ばすことも許されず。
「その紅い瞳……、紛れもなく本物です」
「そ、それってどういう……」
紅い瞳、については心当たりがあった。
それは勿論、わたしの瞳。
普通なら黒くあるべきの、そうであればどれだけ楽だったろうと夢を見る。
突然変異だか何だか知らないけれど、ひどく世間を騒がせた大嫌いな自分の紅玉の瞳のこと―――
「綺麗な瞳。わたしより、とても綺麗なんですね」
訳も分からず嫌悪感を抱いていると、少女がふわりと微笑んだ。
――この少女もわたしと同じ、紅の瞳。
気付いたのはそれだけ。彼女もわたしと同じ、紅い瞳をしていると。
何だろう、この子も、わたしと同じ――?
「ねえ、お姉さん。――王子がお待ちですわ。どうぞ、行ってあげて。わたしはもう、行けないから」
女の子がそう言うと、わたしは突然黒い何かに包まれた。
優しくて、あったかい。柔らかい何かに。
脳内で上手く状況を処理出来ない。出来るはずもない。
ただ彼女の正体だけでもつかもうと、思いを、言葉を巡らせる。
「え、あの、あなたは一体……」
「わたしは、気高き薔薇王女ロゼッタ。そして貴女は――」
黒い世界で、二人だけの空間。
何故、黒い世界なの? ようやく悟った。これは、翼だ。黒い翼。
そして少女――薔薇王女ロゼッタは、優しく笑う。
「わたしの、生まれ変わり」
目の前の可憐な少女が消えた。
一瞬で。前兆もなく。わたしを混乱させたまま。
―――ううん、違う。
わたしが、消えたのか。
気付いた時にはもう遅く。
うさぎの穴からは、逃れられない。
行き着く先は、不思議の国かしら――?