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序章 月夜の終焉

「まだ、こんなところにいたのか」


 悲嘆するような、悔恨の混じったような、小さなため息とともに響く低い声。

 聞き覚えのある、というか、それは聞き飽きた声で、一秒もあれば優に誰なのかは想像できる。

 ゆっくりと振り返れば、ふわりと微かな薔薇の香りが優しくわたしを包み込んだ。


「月を見ていたの。いい夜じゃない?」


 夜空にぽっかり浮かぶ月は、この世界に平等に優しい光を投げかけ、ゆらゆらと揺らめいている。

 そんな様子が、わたしにはとても綺麗に見えた。

 けれど声の主は、そんなわたしの言葉には答えずに、またため息を吐く。


「殺されると分かっていて、逃げなかったのか?」


 背景の闇に同化するような、全身黒を纏ったその男は、陰鬱な声で呟いた。

 青白い月光に照らされ、何とか確認出来るその表情はまるで、安らかに眠る死人のよう。

 それが可笑しくて、わたしは小さく笑った。


「どうして、貴方がそんな顔をするのよ。殺されるのはわたしじゃなくって?」

「……だからこそ、だろ」


 だからこそ、とはどういう意味か。

 聞くまでもない。それは、彼が勝手に話してくれるだろうし――わたしだって、同じ気持ちだから。


「愛しい者を手に掛けるほど、辛いこともないだろう?」


 あくまで問い掛け、確認するような口調で彼は言う。

 何故、わたしにもそんなことを聞くのかしら? 思っても、口に出しはしなかったけれど。

 ただわたしは、彼にも分からない程小さく頷くと、くすりと笑った。


「愛しい者、だなんて。恥ずかしいこと言うのね。それにわたしも、随分偉くなったみたい」


 わたしのその言葉に、彼は心外だとでもいうように顔をしかめる。

 月明かりでようやく浮かぶその表情は、絶望にも似た色を纏っていた。


「そんな顔をしないで、鴉さん? 仕方ないわ。狼側につくと決めたのは、薔薇女王おかあさまなんですもの」

「だからって――許せると思うか」

「いいえ、思わないわ」


 底抜けに明るい声で、わたしは返す。

 それに彼は、返す言葉もなかったようで、ただ視線を宙に彷徨わせていた。

 我ながら意地悪ね。彼が何も言い返せないのを分かっていて、そんなことを言うなんて。


「わたしは高貴な薔薇の民。女王の決定は絶対ですもの」


 そう言ってにっこりと微笑むとほら、彼が使える言葉はもう何もない。

 ただ悔しそうに歯を食い縛って、俯くしかないんだろう。


「貴方はわたしを殺すしかなくてよ? それ以外に選択肢はないの。残念だけれど、わたしはここで死に逝くしかない」

「――随分と、理不尽な世界だ」


 掠れた低い声が、小さく呻く。


 ――わたしだって、そう思うわ。


 そうは、言えずに。


「殺してよ。見知らぬ誰かの手に掛かるくらいならわたし、貴方がいいわ」


 そう静かに微笑めば、恐怖さえも忘れられると思っていた。

 愛しい人の手に掛かるんだもの。そう思えば、別れの悲しみすら振り切れると思っていたの。


「……本当に、いいのか?」

「何よ。鴉さん、貴方ってそんなに弱虫だったかしら? 失うのが怖いなら、わたしを連れて逃げればいいじゃない。選択肢なら、貴方が捨てただけじゃなくて?」


 それは、と彼が小さく呟く。

 勿論出来るはずはない。それを分かっていて、わたしはそう言ったのだから。

 彼の立場じゃ、そんなこと無理に決まってるわよね。

 ――微かな望みが、打ち砕かれた気がした。

 でもいいの。彼は、選べる立場にいなかったのだから。


「――月が、綺麗ね。もし死ぬ時が来るのなら、こんな日がいいって小さい頃夢見てたわ」


 幻想的な空間、シチュエーションはいくらかロマンチックかしら。

 仄蒼い満月は静かにわたし達を照らして、哀しみの色に染め上げていく。

 幼い頃は、死なんて何も知らなかったの。こんな穏やかな終焉があることも、怯える必要などないことも。


「……そうだな。今更、引き返すことも許されないか」


 彼はようやく覚悟を決めたようで、何処からか鈍く光るナイフを取り出すと、わたしをじっと見つめた。

 ああ、その凶器――狂気は、どんな冷たい痛みを宿しているのかしら?

 ナイフには一切の刃毀れがなく、銀の煌きがただ目に痛かった。

 けれど、恐怖よりも、安堵の方が少し大きい。これで終わらせられるからかしら。それとも、彼がそこまで強かったことに? 弱かったことに?


「覚悟が出来たのね。それで、いいの」


 ――少し悲しいだなんて、言わない。

 寂しいだなんて、独り残される彼の方が、孤独の痛みを知っているだろう。

 別離の傷は、いつしか癒えるものかしら。生という苦痛の世界に、ただ独り残された者は。


 ナイフが、きらりと月光を反射して輝く。

 ついに終わる。わたしの、正に全てが終わる時。

 ――わたしも覚悟を決めなければ。彼の言う通り、今更引き返せやしないのだから。

 彼が覚悟を決めたのに、わたしだけが縋るなんてみっともないわ。


「――なあ、ロゼ」

「え、なあに?」


 人生最大かつ最悪であろう痛みを今か今かと待ち構えていると、降ってきたのは鋭いナイフではなく、彼の言葉だった。

 思わず顔を上げると、彼はいつになく真剣な表情で。


「俺は、お前のことを愛していた」


 不意打ちの告白。予定不調和の約束事。

 思わず顔が熱くなりそうなのを抑えて、わたしは眉をひそめる。


「何、どうしたの? 今更、そんなこと」

「知っておいて欲しかった――それだけだ」


 彼はそう言って、ナイフを握り直す。

 もう何も言わなかった。何も言わなくても、伝わった。


 ――そうね、わたしも――


 次生まれ変わったなら、今度は、敵同士じゃなくて、敵国の王子と王女なんかじゃなくて――

 貴方のお嫁さんに、してくれるかしら?

 今度は貴方に似合う、可愛い薔薇のような女の子がいいわ。

 綿菓子みたいな、蜂蜜味の女の子。


 そうなれたら、もしまた巡り会えたなら、きっとお嫁さんにしてね。


 そう願って、目を閉じる。


 月が綺麗ね。

 そんな今宵に、わたしは果てる。




 最期に感じたのは、最愛の人あなたの匂い。


 薔薇の香りが、ふわりとわたしを包み込んだ―――。




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