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白の初恋、黒の誘惑

作者: 実月アヤ

 白の扉のあのひとに恋をして。

 黒の扉のあのひとを堕としたくてたまらない。



 駅から少し離れた、閑静で、けれど人も切れない通りに佇む一軒の店『イヴェール』

 その店の両端には、二つの扉がある。

 一つは白い扉。昼の間だけOPENの札がかかる、『カフェ・イヴェール』

 もう一つは黒い扉。夜の間だけ開かれる『バー・イヴェール』

 どちらの扉から入っても、招かれるのは同じ店だ。

 けれど別の空間に入り込んでしまったかのように全く違う顔に見えるのだーーそこにいるマスターも。



 OPENの札がかかった白い扉を押し開け、冬華ふゆかはまっすぐカウンターへと向かう。

「アイスカフェオレ!」

 オーダーと共に席につきながら、大きなバッグを隣の席に置いた。ランチを終えてしばらくしたこの時間は客足も落ち着いていると知っているから、席を余分に占領するのは許してもらいたい。

 カフェ・イヴェールはいつも通り、穏やかな雰囲気に包まれていた。白木の枠の大きなガラス窓から柔らかく差し込む陽に照らされた店内は明るく、壁にかかるアンティーク風の振り子時計の金色の装飾が艶めいてテーブルに光を零す。戸棚に並べられたカップはどれも美しい一点もので、見ているだけでも楽しい。そして何よりコーヒーの香りと、立ち上る湯気。

 けれど冬華がここを心地良いと感じるのには、もうひとつ理由がある。


「冬華、試験は終わったの?」

 このイヴェールの若きマスター、ゆかりが彼女に微笑みながら問いかけた。頷く冬華に彼女が注文したアイスカフェオレと、小皿に乗ったクッキーを出す。

「お疲れ様。これはご褒美。…内緒だよ」

 口元に人差し指を当てて、クスリといたずらっぽく笑う彼に、冬華は見惚れかけてーー慌てて

「ありがとう、紫くん」

と言った。

 冬華がイヴェールを好きなのは、この青年の存在が一番の理由。

 紫は端正な顔立ちの青年だ。物腰が柔らかく、ひとつひとつの動作が丁寧で、長い指が美しい。女性と間違われそうな名前も不思議と彼にはよく似合っている。昔からモテていたし、ランチの営業時間には近くに勤めるOLや女子大生、たまに女子高生までも、彼目当てで通っていることを冬華は知っていた。

 逆に冬華はといえば、とりたてて美人というわけでもない。明るくてはきはきした性格は好まれやすく、男女問わず友人は多いが、庇護を誘うような可愛らしさとは無縁なのも自覚している。


 だから、言えないままだ。冬華にとって紫は初恋の人で、それは未だに続いているのだと。



 冬華と紫は幼馴染だ。紫の両親が元々レストランを経営していて、冬華の両親もオープン当初からそこで共に働いていたので、必然的に子供達は大人が忙しい間、ひとまとめにされて過ごしてきた。といっても、齢が6歳も離れているので、どちらかといえば冬華が一方的に紫に世話になってきたといってもいい。

 彼女が優しいお兄ちゃんに懐くのはあっという間で、それが淡い恋心になり、中学生になった紫に彼女ができた時、当時小学生だった冬華は泣き叫んで嫌がった。彼にはお兄ちゃんを取られてしまう妹分の癇癪だと思われたようだったけれど。それから同じようなことが何度かあって、一度は紫を諦めようと彼を避けたこともある。

 けれどそうしたら、今度は紫のほうが冬華に構うようになった。両親の職場が定休日の日に、一緒に料理を習おうと誘ってきたのだ。結局冬華はその誘惑に勝てなかった。両親やレストランのスタッフにあれこれと教わり楽しくなってしまったのもあるし、なによりその間だけはいつも、彼は冬華だけのものだった。

 紫が大学を卒業してからこのイヴェールを始めたのも、この時間と両親の影響が強いのだと思う。最初こそ親の手助けはあったものの、素晴らしい才能も受け継いでいるのか、カフェもバーも評判は上々だ。



「冬華、それを飲んだらもうお帰り。そろそろカフェはおしまいの時間だから」

 紫の柔らかい声に、冬華は眉を上げた。口を尖らせて反論してみる。

「たまには、バーのほうにも居たい」

「駄目だよ。お前はまだ未成年だろう?」


 そう、冬華に許されているのは『カフェ・イヴェール』のみだ。

 彼女は白い扉しかくぐったことはない。

 とはいえ、冬華も全く夜のイヴェールを知らないわけではない。以前に一度だけ、店の外から『バー・イヴェール』を覗いたことがある。

 いつも彼女を受け入れてくれる白い扉はCLOSEの札で閉ざされ、黒い扉にOPENの札がかかり、ガラスの窓の上半分は真紅のカーテンで覆われて、まるで違う店に変身したかのような、その向こう。昼は灯らないランプに照らされた紫の横顔がひどく艶っぽくて、別人のように見えて。ワイングラスを傾ける綺麗な大人の女性に微笑みかけていた姿に衝撃を受けた。


 私は、この扉の向こうには行けない。

 あんな紫くん、知らない。…でも、目が離せない。


 冬華がどんなにまとわりついても、紫はいつまでも“幼馴染のお兄ちゃん”のまま。優しいけれど、特別な距離を許されているけれど、それは彼女が望む姿ではない。

 欲しいのは、欲されたいのは、黒い扉の向こうにいる“男の紫”でーー


「私もう来週でハタチだよ、紫くん」

 冬華の言葉に、紫は軽く目を見開いてーー珍しくもその指先が滑る。カラン、と音を立ててコーヒーの缶が床に転がった。すみません、と周りに謝りながら缶を拾って、彼はカレンダーに目を向ける。

「そうか、もう…」

 小さく呟いて、冬華の顔を見つめた。急に黙ってしまった紫に、何か変なことを言ったかと冬華の心臓が跳ねる。誤魔化すように言葉を重ねて。

「そう、私ももう子供じゃないんだからねー。誕生日がきたらお酒も飲めるんだからね」

「そうだね。でも他所ではまだ飲んじゃ駄目だよ。最初のお酒は、俺が教えてあげるから」

「…っ!う、うん」

 彼の甘やかすような視線に、心臓がさらに大きな音を立てる。

 もう、言ってもいいだろうか。ずっと長い間、秘めてきたけれど、そろそろーー


「冬華。誕生日の日、空いてる?」

 紫の言葉が耳に入る直前。優しく触れた指先は、いつものように頭を撫でるのではなくーー冬華の頬をかすめて。

「夜においで、黒い扉から。…待ってるよ」

 見上げた彼の瞳は、カフェのマスターのものとも少し、違った気がした。


 うまく答えられないまま、言葉も発せられないままただ頷いて。冬華は紫に促されて立ち上がる。

 「ありがとうございました」

 そっと背を押され外に出た彼女の背後で、白い扉が閉まった。



 今日はもうすぐ行われる学祭の準備でいつもより長引いてしまった。それでも癖で冬華は『カフェ・イヴェール』へ向かう。途中走ってみたけれど、結局は間に合わず、店の前まで来て彼女は足を止めた。

 今はカフェの営業が終わって、バーの営業が始まるまでの、その僅かな休憩時間のはずだがーー準備のためだろう、紫が店の外に出ている。一人ではなく、彼の前に女性が立っていた。


「ここ、夜はバーなのね。…ひとりで、入ってもいい?」

 綺麗にスーツを着こなした、大人の女性。いかにも仕事ができそうで、きっと紫と同年代くらいの。彼女が意味ありげに見上げる視線の先で、紫がゆったりと微笑む。片手を広げて、黒い扉の向こうへ客を迎え入れた。

「ええ、もちろん」

 

「…っ」

 わかっている。営業スマイルだ。けれど冬華は胸の痛みに俯いた。今のは、『バー・イヴェール』のマスターとしての紫だった。確かにもう、カフェの営業時間ではない。今の自分には足を踏み入れることすらできないのに、簡単にあの女性はその境界線を飛び越えた。

 もやもやとしてどうしていいかわからずに、彼女は背を向けた。


「誕生日には黒い扉からおいでって、言ってくれた…よね」


 大人として、扱ってくれるということだろうか。あの黒い扉の向こうの『バー・イヴェール』のマスターの顔をして、出迎えてくれるのだろうか。

 単純に、成人したからお酒を飲ませてくれるという意味かもしれない。けれど、冬華は高鳴る胸を押さえきれなかった。

 もし、もしかすかにでも、意識してくれるのならーー



 冬華の誕生日、できるだけ大人っぽい格好をしたくて、母に事前に誕生日プレゼントとしてAラインの綺麗な赤いワンピースを買ってもらった。紫くんにお祝いしてもらうからと言ったら、訳知り顔でニヤニヤしていたけれど。

 それを着て、バーの開店時間を少し過ぎてから、イヴェールへ向かう。冬華が黒い扉から入るのは初めてで、扉の前でなんだか緊張して大きく息を吐き、思い切って扉を押し開けた。


「わ…」

 ここどこ?そんな言葉が出そうになるくらい、いつもとはまるで違った。

 カフェ・イヴェールの明るくて清潔感ある柔らかな雰囲気は、バー・イヴェールの艶めいて幻想的な雰囲気に様変わりしている。昼間見かけるお客さんも僅かには居たが、ほぼ夜は客層も違っていて、明らかに大人の空間だった。そもそもカフェの方は紫一人で経営しているのに、バーのフロアには数人スタッフもいる。


「冬華、来てくれたんだ。こっちにおいで」

 カウンターの中から呼ぶ紫も、やはり昼間とは違う。優しい声は変わらないけれど、滲む色気が見え隠れしているような気がしてならない。

「ゆ、紫くん…」

 気後れしそうになるけれど、いつもの席をちゃんと空けておいてくれた彼の心遣いに、自然と冬華の顔に笑みが浮かんだ。彼女を席に座らせると、紫が視線を走らせて口を開く。

「そのワンピース、よく似合ってるね。なんだかいつもより、大人っぽい」

「そう?ありがとう!」

 褒められたことが嬉しくて、冬華は思わず上気した頬を緩ませた。けれど紫はどこか探るように、彼女を見つめる。

「…誰に買ってもらったのかな。男?」

 冬華はびっくりして、きょとんと目を見開いた。それから頬を膨らましかけてーーあまりに子供っぽいかと止める。

「そんなわけないでしょ。ママだよ」

「ああ、夏さん…困るな、余計な虫が寄ってくるじゃないか」

 彼の口の中で呟かれた後半は冬華には聞き取れず、首をかしげる彼女に曖昧に笑って、紫はグラスを差し出した。綺麗な色のカクテルだ。

「アルコールは控えめにしてるから、ゆっくり飲んで。気分が悪くなったらすぐに言うんだよ」

「うん、ありがとう」

「眠ってもいいけど、暴れちゃ駄目だからね」

「ちょっと!私酒乱じゃない…はず!」

「初めてなんだから、わからないだろう?」

「紫くん、ひどい!」

 彼らの会話に、近くにいた女性がクスリと笑った。冬華が視線を向けると、そこにいたのは先日彼女が外で見かけた女性客で。彼女は綺麗に巻いた髪を揺らしながら冬華に向かって笑いかけた。

「ごめんなさいね、なんだか初々しくて。妹さん?」

 大人の余裕で微笑んだ彼女に笑われて、冬華は途端に恥ずかしくなる。しかも、黒い扉の中でさえ、冬華では紫とは兄妹にしか見えないのかと落ち込みかけたときーー


「いえ、俺の大事な子ですよ」


 柔らかく、けれど艶めいた声で。

 確かに彼が、愛おしそうに冬華の頬に触れて、そう言った。


「…え」

 思わず目を見開いて紫の顔を見上げれば、彼は愉しそうに微笑む。

「ずっと待ってた。お前が黒い扉から入ってくるのを」

 興が削がれたような顔をして離れていく女性客にもかまわず、紫は冬華へと囁いた。


「好きだよ、冬華」


 うそ、と呟いた気がする。けれど紫の瞳が真剣で、冗談ではないのだと気付いた。


「い、いつから…?」

 驚きのあまり、頭がまっしろになって、けれどじわじわ熱くなる頬を押さえて冬華が問いかける。

「いつからかな。昔は冬華がただ可愛くて、でもお前が向けてくれる好意がいつのまにか手放せなくなって。離れていこうとした時にはちょっと焦ったりもしたかな」

 ば、バレてる…!

 彼はとっくに冬華の気持ちなどお見通しだったのだ。恥ずかしさにさらに真っ赤になった顔を隠そうとする彼女を、紫の腕がそっと止める。


「この店の名前は知ってる?」

「イ、イヴェール…?」

 彼から発せられた急な質問に、冬華は答えるのが精一杯だ。けれど紫はさらに深く微笑んで頷いた。


「そう。“イヴェール”は、フランス語で“冬”…ここはお前のための場所なんだよ、冬華」


 ねえ、気付かなかった?

 いつかお前と二人でこの店をやりたくて、一緒に料理を習ったんだって。


 そう言いながら、紫は他のスタッフに目配せする。後はよろしくね、の合図に任された方は苦笑して頷いた。

 マスターが幼馴染を溺愛しているのは彼女本人だけが知らない事実で、他の男に会わせたくないがために、今までカフェ・イヴェールの方には従業員を置かなかったのをバーのスタッフは皆知っている。バーで紫目当ての女性客に絡まれた時には、他の男性スタッフをさっさと身代わりにして上手くかわしていることも毎度の事。

 黒い扉は開かれてしまった。今までずっと見守るしかなかった紫が本気で堕としにかかったのだから、きっと逃さない。


「ねえ冬華。ここにはもう一つ、扉があるのを知ってる?」


 カウンターから出て、冬華の傍までやって来た紫が、奥を指し示す。そこには奥に続くのであろうもう一つ黒い扉があり、鍵穴のついたノブにプライベートと書かれたプレートが下がっていて。そう、確か紫はここの2階に住んでいたはずーー。


「あの先は、カフェでもバーでもない。俺の恋人だけが入れるんだけど…」


 そう言って、彼は赤いリボンのついた鍵を冬華へと差し出した。


「誕生日おめでとう、冬華。もらってくれる?」



 ずっとーーずっと欲していた。

 白い扉の向こうの彼に恋をして、黒い扉の向こうの彼を堕としたくて。見て欲しくて、捕まえたくて、でも。

 捕まったのは、どっち…?



「うん、もらう。それが欲しい。…大好き、紫くん」



 真っ赤になった頬で、それでもやっと、そのひとことを伝えて。

 彼に手を引かれて、冬華は扉を開いたーー

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