傍観の遊歩者
自分にはなにもない、と感じるようになったのはいつからだろう。保育園に通っていた時分にはすでに、運動でも頭の良さでも自分は一番でないことを自覚していた。小学生の時は、その小さな無力感は抱えていたけれど、特にこれといって特徴のない子どもだったと思う。
中学生の時には、とある先生が勉強の意義や大切さ、それをしないことで被る損失についてあまりにも熱心に、押しつけがましく語るものだから、成績が然程良くなかった僕は学校の勉強をしなくなった。所謂若気の至りだ。とはいえ、幼馴染みのお兄さんが僕に学問の面白さを教えようといろいろな角度からアプローチしてくれたおかげで、学ぶこと自体は嫌いではなくなった。
高校進学とともに、それまで比較的仲の良かった友人たちとの交流がなくなり、高校では話の合う人を見つけることができなかった。入学後すぐは何人かのクラスメイトと一緒に駄弁るくらいはしていたのだが、いつからか話を合わせることが面倒になり、終には一人でいることが多くなった。
コミュニケーションの欠如からか、僕は主体的に言動することをしなくなった。休み時間などに人との交流がないと、却って周囲の人間の言動、特にお喋りが意識の中に入ってくる。同時に、自分がここに存在するのだという意識が薄れては消えてしまう。そんな時間を過ごしていると、他者の人生は主人公的で、自分のそれは脇役そのものだと感じる。本を読んだり音楽を聴いたりしているとそんなことはないが、なにもする気が起きずにぼーっとしているとそんな風に思えてくるのだ。
僕は傍観の遊歩者だ。
主人公たちを少し離れたところからただ眺めているだけ。積極的には関わらず、必要とあらば場の駒として役割を演じる。当然、他者を導くことなどあるはずもない。
でもこんな在り方も悪くない。なんとも僕らしい人生じゃないか。なんて、最近ではなんとなくそう感じるようになった。主人公になりたかった時代は終わったし、今は自分というものを弁えているつもりだ。「これでいい」が「これがいい」に変わるまで、気長に待つとしよう。