9
薄暗い部屋の中、男は本を読んでいた。ぺらり、とページをめくる。手袋をしていないせいか紙のざらざらとした感触を指先に感じる。このページを捲る時の紙の感触が彼はとても好きだった。
普段、夜になるとやってくる少女はいない。ルーチェの話だと、体調が悪いらしい。何やら顔が曇っていると聞いた。昨日の少女の様子が、エリックの頭の中に浮かぶ。彼女は、自身の身の振り方に悩んでいるのだろうか。
はじめは唯の気紛れだった。大叔母を探してやると言ったのも、「お友達」になってくれという提案に乗ったのも、何の気なしだった。例えるのなら、その場の気分で道端に生えていた花を避けて歩いてやるようなものだ。その優しさが、いつまで続くのかも分からない。花を塀で囲って守ってやるのかもしれないし、避けた直後に踏み潰すのかもしれない。
けれども、と彼は思う。少なくとも、今は違うのだ。
そんなことを考えながら次のページを捲ろうとしたまさにその時、指先に鋭い痛みを感じて彼は顔を顰めた。ちらりとそこを見ると、青白い肌の表面が切れてしまっていた。柘榴石のように鮮やかな色の血が傷口からにじみ出ている。おそらく紙で指先を切ってしまったのだろう。傷口が深めなのか、血が滴っている。
「ご主人様、新しい本が届いたのですが」
執事の声に傷口を見つめていた男は顔を上げた。燭台の執事が袋に入れたそれを抱えて室内に入ってくる。蝋が本に滴らないようにするためか、頭にはガラスケースが被せてあった。
「っご主人様!」
エリックが指先を怪我していることに気付いた瞬間、ルーチェは慌てて駆け寄った。懐からハンカチを取り出し、傷口にそっとあてがう。真っ白なハンカチに、ぼんやりとした赤色の染みが広がっていった。
「ルーチェ、大げさだ」
「しかし」
「大事ない」
翠の眼が、ルーチェをいさめるような視線を送った。ルーチェは食い下がる様子を見せたが、やがてハンカチを傷口から離した。
「ご主人様」
「何だ」
「……貴方、一体いつから『お食事』を取られていないのです?」
執事の言葉に男は返事を返さない。普段のやわらかな口調はどこかになりを潜め、執事はさらに続ける。
「『外』にも出かけていらっしゃらないですし、ボトルにも口を付けていらっしゃらないですよね」
橙色をした執事の炎が徐々に透き通った蒼に染まっていく。
「もしや、あの娘が屋敷へとやってきた後一度も取られていないのですか」
男は黙ったままだ。燭台の炎が、一瞬大きくなった。
「どうして『食事』をとられないのですか」
語気を強め、執事は尋ねる。
「このままだと本当に倒れてしまいますよ。それなのに何故です」
「……大事ないと言っているだろう」
殆ど感情をあらわにしない彼にしては珍しく、どこか厭うような口調で男は言う。執事は男の様子を無視して更に続けた。
「あの娘が、関係していますか?」
一瞬、エリックの眉がぴくりと動いた。
「もしや、あの娘に嫌われたくないだとか、そういう理由で血を拒んでいるわけではありますまい」
「ルーチェ」
「ご主人様。こう申すのもあれですが、彼女は人です。貴方とは違います。彼女は昼を往くことが出来ますが、貴方は夜を往く者です」
男の目に、一瞬嫌悪とも諦観ともつかない感情が浮かぶ。しかしそれは一瞬のことだった。男は、どこか皮肉げに笑う。普段の彼が、滅多に浮かべない表情である。
「その位、知っている」
そんなこと、とっくの昔から知っている。彼女は人であり、自分は人ではない。それは分かりきった事実だ。神に祝福された彼女と、見放された自分。関わる筈のない存在が関わりあっていること自体が異常なのだ。
「彼女の面倒を、いつまで見るのですか」
「前に言った筈だが。彼女が、きちんと暮らしていける目途が立つまでだ」
「……わたくし個人の見解としては、このまま彼女と関わり続けるのはおすすめ出来ません。この先ずっとご主人様が『お食事』を取られないと言う訳にもいきませんし、いつかはご主人様の事実も露見するでしょう。その場合、彼女がどういう対応を取るのか予想がつかないからです」
燭台は言葉を紡ぐ。蒼色の炎は、彼が静かな怒りを訴えている証だ。穏やかな口調を保ちながらも、燭台は怒りと苛立ちを覚えているのだろう。彼にとって、主は誰よりも尊ぶべき存在であり、同時に守るべき存在なのだから。
「ご主人様のことを知った彼女が、肯定的な態度を取るとは思えません。それならばいっそ、彼女を閉じ込めて生き餌にでも」
「ルーチェ」
静かな声が、室内に響いた。普段から無愛想な印象を他者に与える主人であるが、ことさらに表情が冷たくなっている。一瞬、執事の炎が消えそうなほどに揺らいだ。
「……互いに頭に血が上っているようだ。一度頭を冷やした方がいい」
「しかし、ご主人様」
「……命令を変える。今すぐ部屋を去れ」
燭台の執事は返事の代わりに炎を軽く揺らし、部屋から出て行った。扉の閉まる音が背後から聞こえたが、部屋の主は振り返らなかった。
指先から溢れている血を、エリックはじっと見た。傷口は開いたままであり、切れた表皮の下からは色あせた紅色の内皮がのぞいていた。本来なら一瞬で治癒するはずのそれが塞がる様子はない。
ルーチェの言うことは一理あるのだと、男は理解している。本来なら交わらないはずの存在が交わってしまった今こそがおかしいのだということも。宙ぶらりんである状態をなんとかしなくてはいけないということも、彼は分かっていた。
けれども、心のどこかで望んでいるのだ。自分が、彼女と違う存在ではないということを。それが到底ありえないことだと知りながらも、彼は少しだけ夢想している。この飢えも渇きも、自分と彼女の境界線も、全てが嘘であったらどれだけ幸せだろうか、と。
なぜなら、少女と関わっている夜は、彼にとっても幸福であったのだから。
随分と、馬鹿馬鹿しい考えを持つようになってしまったものだ。男は自身を自嘲する。その目はどこか悲壮を帯びた紅に染まっていた。
主の部屋の扉を閉めた後、ルーチェは小さく炎を揺らがせた。炎の色は、弱弱しい黄色がかった橙である。そのままとぼとぼと、彼は主の部屋を後にした。陶器人形や日用品の姿をしたメイドたちがすれ違いざまにちらちらとこちらを見ているようだったが、彼はそれを無視する。
長い廊下を抜け、彼は螺旋階段を下りた。そのまま玄関ホールを突っ切り、扉を開けて庭園へと出る。冷たい夜風が炎を揺らしたのを、ルーチェは感じた。
夜の庭園は静かだ。いつもなら庭園にいる小鳥や蝶、様々な虫たちも、日が沈んでしまえば皆ねぐらへと帰ってしまう。冷えた空気と、藍色を帯びた空、澄んだ星の光だけが庭園を見守っている。
近くに置かれているベンチに彼は腰かけた。人間であるのならここで深いため息をつくところであるが、生憎彼は燭台だ。ため息の代わりに、蝋受け皿の上の炎が小さくなった。
彼とて、ご主人様の気持ちが分からないわけではない。実際あの娘は非常に愛らしい。彼女が屋敷にやってきてから、屋敷の中の雰囲気が明るいものになったのは事実だ。
「おや、こんな夜に珍しいな」
声を掛けられ、ルーチェは俯けていた蝋受け皿を上げる。知らない間に、如雨露頭の庭師が近くにいた。
「普段は屋敷の中にいるお前がこんなところにいるなんて。ご主人様と何か喧嘩でもしたかね」
「……喧嘩、というわけではありませんよ。アロゾワール」
「へえ、そうかい」
金属が擦れる音を響かせながら、アロゾワールはルーチェの横にやってきた。そのまま彼の隣に腰かける。
「わたくしは助言をしようとしただけです。あのお方が、以前にもまして『お食事』を取られなくなってきてしまいましたから」
「ご主人様が『お食事』を好まれないのは以前からだった気がするんだが」
「まあ、そうですが。ただ、再生力が人間以上に落ちていらっしゃる状態を放置するわけにもいかないでしょう?」
ルーチェは先ほどの主の様子を思い出す。本来ならあの程度の傷は、一瞬にして治癒するはずだ。けれども、傷が塞がる様子はなかった。
「……これだから、あの娘を拾ってくるのはどうかと思ったのです」
炎が、一瞬大きく揺れる。アロゾワールはというと、ルーチェの話を黙って聞いていた。
「ご主人様も、いつまでも自身を偽ることは出来ないでしょう。あの娘が悲鳴を上げて出ていくか、ご主人様が我を失うかの二択でしょうね」
「それが、そうでもないかもしれないぜ」
それまで黙っていたアロゾワールが唐突に口を開いた。それに驚いたのか、ルーチェの身体が一瞬びくりと震える。
「確かにお前が言う様に、あの子はご主人様に驚くかもしれない。けれども、ご主人様のことをあの子は否定しないよ」
「確証はあるんですか?」
「ない」
きっぱりとアロゾワールは断言する。そのあまりの無責任さに、ルーチェは思わずベンチからすべり落ちそうになった。
「確証はない。ただ、俺の勘はよく当たるのさ」
金属音を軽く立てて、庭師は笑ってみせた。
この一ヶ月のステラの様子を、ルーチェは思い出す。初めて目を覚ました時の怯えた様子、それから少しずつ、屋敷の皆々に対して自分から歩み寄ろうとしていった様子。屋敷の主に対して「友達になってほしい」と言っていたこと。自分たち『人形』に対しても柔らかな笑顔を見せる姿。
ルーチェは軽く蝋受け皿を振った。炎の色は暖かな橙色へと変わっている。
「随分と適当ですね。けれども、悪くはない気がします」
「だろ?」
もしかしたら、最悪の事態を免れることは出来るだろうか。ルーチェは少しだけ期待する。彼女は、ご主人様の本当の姿を知っても逃げないでいてくれるだろうか。傍にいて、あの方の哀しみを癒してくれるだろうか。
ルーチェはベンチから立ち上がった。そのままアロゾワールに対して軽く一礼する。蝋受け皿から融けた蝋が二雫程落ちたことは、気にしないことにする。
「ありがとうございます。気が晴れました」
「おお、そうかい。そりゃあよかった」
「もうそろそろ屋敷に戻ります。あなたも、いい夜を」
そう言った後、彼は踵を返して屋敷へと歩いて行った。アロゾワールが軽く手を振るのを認識した後、彼は燭台の炎を軽く揺らしてみせた。
玄関のドアを閉め、廊下を歩こうとしたその時だった。陶器人形のメイドがやや急ぎ足でこちらに近づいてくることに、ルーチェは気づいた。メイドの様子は、やや困惑しているようにも見受けられる。
「そんなに急いでどうしました、何かあったのですか」
ルーチェの問いに答えず、陶器人形は右手を差し出した。彼女の右手には、見慣れないものが握られている。訝しげな様子でそれに手を伸ばそうとしたところで、ルーチェはそれの纏っている雰囲気に気が付いた。
それは、純銀の手鏡だった。裏面には奇妙な紋様が彫られている。
手鏡は、異様な雰囲気を纏っていた。近くにあるだけで、嫌な気分になるものだ。例えるのなら、あらゆる生物が住めない程に澄み切った水、もしくは研ぎ澄まされた刃。美しくも、ルーチェを本質的に拒絶しているものだ。
聖遺物。確か、魔を拒絶しその正体を明らかにするためのものだ。それが、何故こんなところにあるのか。
「…………これは?」
「ステラ様のお部屋に。リネンを仕舞おうとしたところ、チェストの中にありました」
その言葉を聞き、燭台の炎が大きく揺らいだ。炎の色は、黄色がかった緑色である。
「彼女に尋ねたりはしましたか」
「いえ、お休みになっていたものですから……」
「……元の場所に戻しておきなさい」
陶器人形は少し驚いたような様子を見せたが、彼の言葉に従った。くるりと踵を返し、階段を駆け上っていく。
先ほどのアロゾワールの言葉は、外れたのだろうか。ルーチェは軽く頭を振る。融けた蝋が、床に飛び散る。彼女がこれを持っていた理由は? 考えれば考える程に、思考が嫌な方向へと向かいそうになる。
あの笑顔は、嘘だったのだろうか。それとも。
混乱した思いを抱えたまま、ルーチェはただその場に立ち尽くしていた。