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ガーネット・ブラッド  作者: 寄木露美
Garnet Blood
7/11

7

 ステラが屋敷にやってきてから一ヶ月が過ぎようとしていた。最初の頃の心配とは裏腹に、屋敷での生活は楽しいものだった。

 彼女が屋敷の中で特に好きなのは図書室だった。そこには国や年代を問わない様々な本が数多く存在していた。元来読書好きであるステラからしたらまさに楽園のような場所だったのだ。本は自由に持ち出してもらって構わないとのことだったので、ステラは両腕一杯の本を抱えて自室に戻ることもあった。司書であるシェヘラザードとの関係も、悪いわけではなかった。最初の方こそ彼女が図書館にやってくるたびに騒ぎ立てる本たちにすこしうんざりしていたようだったけれども。

 ステラの一日は大体決まっている。朝起きて、身なりを整えた後に朝食をとる。午前中は大体、昨日読み切れなかった本を読んで過ごす。本を読み終えるか読み終えないかというところで昼が来るので昼食を取り、そのついでで音楽室に行ってピアノを習う。暇な時間にはアロゾワールのところに行ってお喋りをしたり、シェヘラザードの元へ読んだ本を返しに行ったりする。そして、そうしているうちに夜がやってくる。一日のうちで、一番好きな時間が。

 屋敷の主――エリックとは、夕食の後に会うのが決まりごとのようになっていた。どちらかが約束したというわけではない。けれども、自然とそうなっていた。基本的に彼の部屋で一局から二局ほど、チェスを指すのが習わしだった。

二人の間の関係は、何と言ったらいいのだろうか。ステラの言葉で言うのならば、『お友達』というものだろうか。ただ、言えることは一つ。少しずつ、少しずつ二人の距離は確実に狭まっていっていたということだった。

 エリックは、相変わらずあまり喋らなかった。けれども、ステラと交わす言葉は少しずつ増えていた。時折、彼は笑みを見せることもあった。

 最初は、怖い人だと思っていた。けれども、そんなことはなかった。表面には見えにくいだけで、とても優しい人だった。ステラの中の、エリックの肖像は徐々に変化していった。




 このように屋敷の暮らしに慣れていった一方で、ステラはいくつか不思議に思うことがあった。

 一つ目は屋敷の主人であるエリック以外に人が全く見当たらないということだ。屋敷で働く使用人たちは基本的に調度品や奇怪な姿をした『人形ゴーレム』たちである。人の姿を取っているものは誰もいない。

 また、屋敷の周りは鬱蒼とした森が広がっており、人が全く寄りつかなかった。まるで意図的に人目を避ける場所に建てられたようだ。ステラは内心そう思っていた。

 二つ目は屋敷の主人であるエリックのことだ。屋敷にやってきてから一ヶ月、ステラは一度も彼を昼間に見なかった。基本的に彼に会うのは夕食後に彼の自室であり、他の時間帯に彼を見ることはなかったのだ。ルーチェは、エリックは仕事の関係で昼間は忙しいのだと言っていた。しかしルーチェの言い分を信じたとしても、彼の言う事はあまりにも不自然だ。

 そして、三つ目はあの屋敷の外れの階段のことだ。何故か、あの階段に近寄ることを使用人たちは執拗に禁止した。老朽化して危ないから、というのが大きな理由であった。けれども、口を酸っぱくして何度も注意する使用人たちの様子はどこかおかしかった。本当に老朽化していて危ないのか、それともよっぽど見られたくないものがあるのか。

 どちらにしろ、あの階段は不気味な存在感を放っていた。普段は忘れているけれども、彼女はふとした瞬間に思い出すのだ。あの、階段近くで感じたぞっとするほどに冷たい空気を。

「あの、エリックさん」

 あくる日の夜、いつものようにチェスをしている最中に彼女は彼に問いかけた。チェス盤へと向いていた彼の目が、彼女の方へと移動する。

「何だ」

「前々から気になっていたことなんですが。エリックさんは、昼間は何をなさっているんですか」

 不審そうに、男は彼女を見る。何故そんなことを聞くのか。彼の目はそう問いたげだった。

「いえ。少し気になっていたんです。昼間に、あなたの姿を全く見かけないから。ルーチェはお仕事だって言っていたけれども、どういうことをなさっているのかなって」

 部屋の中で作業するものというと、どういうものだろうか。ステラは書き物机へと視線を向ける。何か文章を書いたりする仕事だろうか。それとも、何かを作る仕事なのだろうか。

 彼女の言葉を聞き、彼は少し眉を顰めた。その様子に気づき、少し気に障ることを聞いてしまったのだろうかと彼女は不安になる。

「あ、あの、ごめんなさい。悪いことを聞いてしまったみたいで」

「別にかまわない」

 ただ、と彼は続ける。鮮やかな翠色が彼女を見つめる。

「この世界には君は知らなくてもいい世界がある。それだけ言っておこう」

 これ以上は詮索されたくないのだろう。男は、再びチェスの盤面へと向き直った。対するステラはというと、どこか居心地悪そうに椅子に座り直した。聞いてはいけないことを聞いてしまった。そんな罪悪感が胸の奥に覆いさる。そのまま二人は、チェスを続けた。

 それから暫く経った後のことだ。次に口を開いたのはエリックだった。黒のルークを動かしながら、彼は言葉を紡ぐ。

「君の大叔母のことだが。それらしき屋敷が見つかったそうだ」

 その言葉に、思わずステラは顔を上げた。大叔母の屋敷が見つかった。頭の中で、何度もその言葉が繰り返される。

「大叔母様の、お屋敷が?」

「……まだ断定は出来ないが」

 何故だろう。本来ならば嬉しい知らせのはずなのに、全くと言っていいほど気持ちが舞いあがらない。ステラは何も言わず、エリックの言葉を聞いている。

「配下の『人形』に確認はとるつもりだが」

 そこで彼は言葉を切った。手に持っていた黒のルークを置き、膝の上で指を組む。翠の眼が、まっすぐにステラを見つめていた。

「何故、そんな顔をしている」

「え、えっと」

「随分と、不安げな顔だ」

 そこではじめて、ステラは自身の顔が強張っていることに気が付いた。慌ててかぶりを振り、自分の両頬を軽く叩く。

「だ、大丈夫ですよ。不安なんかじゃないです。だって、きっといいことですから。大叔母様だって、わたしのことを心配して」

 ステラの言葉はそこで止まる。心配? 大叔母様が、わたしのことを。本当に、心配していると言えるの?

 大叔母の、氷のように冷たい目つきをステラは思い出す。両親の葬式の時に、親戚たちが集まっていた時のことを。応接室は、見ず知らずの親戚たちで一杯だった。皆、引きつった笑みや歪んだ口元を隠そうともしなかった。冷え切った目で一瞥した後、親戚たちは皆口にしたのだ。随分と厄介なものを残していった、と。

 ステラの視界の端が急に歪んだ。目の前が暗くなり、姿勢が崩れそうになる。いやだ。悲鳴が口から洩れそうになり、少女は両手で口元を覆った。いやだ、いやだ、いやだ。厄介者だなんて。必要じゃないだなんて。

「ステラ」

 誰かが呼んでいる気がする。でも、一体誰が呼んでいるんだろう。少女はぼんやりと考える。けれども、どうでもいい。

わたしは必要じゃないのだから、全てがどうでもいい。

「ステラ、ステラ=メイウェザー!!」

 肩をゆすられる感覚で、少女は我に返った。知らないうちに、少女は床に座り込んでいる。目の前ではエリックがしゃがみ、彼女の肩を両腕で強く握っていた。男の顔はどこか強張っているようにも見えた。

「……わたし、は」

 何が起こったのか分からず、ステラは俯く。知らず知らずのうちに、目の端から涙が一粒零れた。堰を切ったかのように、次々と、涙が零れていく。

 気持ちが悪い。感情の整理が出来ない自分が、情けなくて気持ちが悪い。少女は小さな声ですすり泣き始めた。不安や恐怖で頭の中がぐちゃぐちゃになり、どうすればいいのか分からなくなる。

「……ごめん、なさい」

 何度も繰り返す。ごめんなさい。迷惑をかけて、急にこの場で泣き出して。わたしがここにいて、ごめんなさい。

 エリックは何も言わなかった。何とも言えないような顔で、彼は少女を見ていた。迷惑だと思っているのだろうか。男の目は、色々な感情が入り混じっている。

 やっぱり駄目だ。ここに居ては迷惑になる。はやく部屋に帰らなくては。彼女がそう思ったその時だった。

「何故、君が謝る」

「……だ、だって。迷惑、だから」

「何が迷惑なのだ?」

 男は静かに問いかけた。

「……以前に言ったはずだが。私は、君を迷惑だと思ったことはないと」

 その言葉を聞いて、ステラは思わず伏せていた顔を上げた。涙で歪んだ視界には、自分をまっすぐに見ている男の姿がある。表情は、分からない。普段通りの仏頂面であるように見える。

「君が昔、誰に何を言われたのかを私は知らない。だが、少なくとも私とその人々は違う筈だが」

「……違う?」

「ああ。少なくとも、私は君の『お友達』だろう」

 その言葉に、ステラは目を見開いた。涙で潤んだ琥珀色の瞳が、まっすぐにエリックを見つめる。あなたは、わたしを『お友達』だと言ってくれるの? 少女の瞳はそう問いかけていた。

緑柱石の瞳の奥が、ふっと優しくなる。それが、少女の問いに対する答えだった。

「……あの、エリックさん」

「何だ」

「……わたしは、ここにいてもいいんですか」

 厄介者ではないんですか。少女はか細い声でそう問いかけた。

「君を拒絶しているのならば、とうの昔に屋敷から追い出している」

 つまるところ、男は少女の言葉を肯定していた。それに気づいた彼女は少しだけ驚いた顔をした後、どこか安堵したかのような笑みを浮かべた。その両目から、暖かな涙がぼろぼろと零れている。それを見たエリックの顔に、僅かながら動揺が走った。

「……何か、気に障る事でも言っただろうか」

 少しだけ冷静さを欠いた声色に、ステラはかぶりを振って答える。涙を手で拭い、少女は穏やかに微笑んだ。

「少し、嬉しかっただけです」

 ステラの声色は、先ほどのものよりもずっと明るい。彼女の言葉を耳にしたエリックは、口元だけでふっと笑って見せたのだった。




「随分とほだされているのですね」

 部屋にやってきた執事は、開口一番にそう言った。左腕には真っ赤なワインボトルを携えている。対するエリックはというと、ソファに腰かけて本を読んでいる最中であった。先程まで彼の部屋にいた少女は既に部屋に帰っている。

「何か、不満でもあるのか」

「いいえ、ありませぬ。わたくしはご主人様の意思が第一だと考えておりますから」

 燭台は明かりをゆらりと揺らす。彼はそのままワインボトルを差し出した。

「お飲みになりますか?」

「……いや、いい」

「今日こそはお飲みになると思ったのですが。いい加減『食事』を取られないといけませぬ故」

 ルーチェはワインボトルを軽く振った。中に入っている液体が揺れ、泡を立てる。ワインにしては粘度が高いそれは、密封された蓋からほんの少し匂いだけを放っていた。鉄にも似た生臭さを纏った香りが、エリックの鼻腔をくすぐる。

「余計な世話だ」

 彼はかぶりを振って、掌を外側へと放った。持って行け、と言いたいのだろう。対するルーチェはというと、やれやれと言った様子で傍仕えの陶器人形にワインボトルを手渡した。一礼をした後、陶器人形のメイドは部屋を下がっていった。

「それと、彼女の大叔母ですが。やはり彼女を死んだものとして扱っているようです」

 その言葉を聞き、エリックは眉を顰めた。先程の少女の様子が脳裏に甦る。

 少女はぼろぼろと涙を溢して泣いていた。あの様子だと、両親を亡くした後に相当嫌な目にあっていたのだろう。自身を何度も否定されてやっかまれるような、そんな経験をしたのかもしれない。

「……あまり、良い扱いは受けなさそうだな」

「まあ、そうでございましょうね」

 ステラが死んだものだとして扱われたとするならば、恐らく彼女の両親の遺産は親戚たちによって分けられてしまったことだろう。邪魔な子供が死に、金だけが手に入るとしたらそれほど都合の良いことはない。しかし、彼女が生きていたと分かったら? 恐らく多くの者はこう思うのだろう。死んだと思っていたのに今更出てくるなんて、と。

 ふと、在りし日の姿と重なり、男は軽く首を振った。

「……何か、手を考えねばならないな」

 男は小さく呟く。対する燭台の執事は、一瞬だけ火を大きくした。

「随分と入れ込んでおられるのですね。あの娘が余程気に召したのですか」

「そういう訳ではない」

 男は即座に否定する。

「自身で拾ったというのに、放り出すというのは無責任というものだ」

 男は本に目を通しながらそう言った。本を読むためなのか、男は手袋を外している。頁をめくる指先は、常人のものよりも青白い。

「……ご主人様の望む儘に」

 どこか呆れた口調で、執事は答えた。炎の色が、薄めの橙色に染まっていた。



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