3
どこからか、小鳥の囀りが聞こえる。
小鳥の声と、窓から差し込む光の眩しさに、ステラは目を覚ました。ぼやけた頭で部屋の中をぼんやりと眺める。豪華な調度品たちが目に入った瞬間、彼女は昨夜のことを思い出した。
執事であると名乗った喋る燭台、動き回る家具。そして、屋敷の一番奥の部屋にいた、翠の瞳を持ち、少しだけ怖そうな雰囲気を纏った男の人。真っ暗な森の中から運ばれてきた場所は、物語の中にでも出てきそうな奇妙な屋敷だった。
夢だったのだろうか、少女はそんなことを考える。喋る燭台も、動く家具も、男の人も。実は全ては彼女の夢で、本当はこの屋敷は大叔母のものなのかもしれない。
「お目覚めになりましたか?」
急に背後から声を掛けられ、ステラは肩をびくりと震わせる。恐る恐る振り向くと、昨日の夜に出会ったあの燭台がドアの前に立っていた。やっぱり夢じゃなかった。ステラは小さく息を吐いた。
確か、ルーチェという名前だっただろうか。燭台は炎をゆらゆらとさせながらステラへと一歩踏み出した。腕にあたる部分には、大きな白い袋をぶら下げている。
「こちらは貴女が着ていらした服です。破れた所をつくろって、洗っておきました」
燭台は袋を彼女に差し出す。少女は小さく頭を下げて、それを受け取った。
「下着類も一緒に入っています。着替えられたら朝食といたしましょう」
そう言ってルーチェは一歩下がった。そのまま、部屋の中でじっとステラを待つ様子を見せる。
「あ、あの」
「何です?」
「その、着替えるから。だから、部屋を出て行ってもらいたいんだけども……」
若干恥ずかしそうに、彼女は言う。ルーチェは訝しそうに炎をゆらゆらとさせたが、彼女の言葉に一瞬炎を大きくさせた。
「ああ、失礼。わたくしとしたことがうっかり」
燭台は頭を揺らす。どうやらこれが彼の癖らしい。蝋を垂らしながら彼は部屋を出て行った。床に蝋が垂れている、とステラが言おうとした時には既に扉が閉まった後だった。
随分とせっかちな人。いや、燭台だから人ではないんだろうか。彼女は小さく首を傾げた後、ルーチェが置いて行った袋を手に取ったのだった。
ステラが着替え終わって部屋の外に出ると、ルーチェは扉の外で佇んでいた。
「では、これから朝食といたしましょう。料理人たちが久しぶりに腕を振るうので、お口に合えばいいのですが」
少しだけ、ステラはその言葉に引っ掛かりを覚えた。一方で燭台は彼女の様子など気にも留めずに廊下を歩き、階段を下りていく。少女はそれについて考えることをいったん止め、遅れないように急いで彼の後を追った。
燭台は階段を下り、一階の廊下をすたすたと歩いていく。その後ろを彼女はてくてくと歩いた。廊下では、小さくて白いモブキャップのようなものを柄の先に乗せたモップたちが掃除にいそしんでいる。一瞬それらに目を取られたステラだったが、執事が随分と先に行ってしまったことに気が付くと慌てて足を速めた。
食堂はそこそこの広さのある部屋だった。部屋には何人もの客が座れそうな長テーブルと、それに合わせた椅子がいくつか置かれている。部屋の奥には風景画が掛けられていた。
燭台に促されたので、彼女は入り口から一番手前の椅子に座った。そうしてしばらく待っていると、頭の部分がボウルになった女中服の陶器人形が銀の盆を持ってやってきた。盆の上には焼きたてのパンとサラダ、それにスクランブルエッグが乗せられている。
パンに付けるためのものか、パンが乗った皿にはバターとジャムの小さな瓶がいくつか添えられていた。赤や橙、紫のジャムは明かりを反射してきらきらと光り、まるで宝石のようだ。ステラは口の中に生唾がわくのを感じた。彼女は家を出てから何も食べていなかったのだ。
食事は外見と同じくらい素晴らしい味だった。卵は焼きすぎでも生焼けでもなかったし、サラダの野菜は鮮度を保っている。パンは表面がかりっと焼けていたものの、中は信じられないほどにふわふわだった。そこにジャムを付けた時の美味しさと言ったら、今までに食べたどのパンも引け目を取ってしまうだろう。
「そういえば、あの男の人はどうしたの?」
ステラは食後の紅茶を飲みながら、傍らに居たルーチェに尋ねる。昨日会っただけだからよくは分からないけれども、一見する限り男は几帳面なように見えた。とてもではないが、寝坊するようには思えない。先に食事をとっているのだろうか。
「ええと、ご主人様はあまり人前でお食事を取られるのが好きではないのです……」
彼は炎を少し小さくして、自身なさげに答える。彼の様子にステラは少し訝しげな表情を浮かべた。
「それは、どうして?」
「まあ事情が色々とありまして。さ、お茶をお上がりになりましたしお部屋へと戻りますよ」
彼女の疑問をはぐらかすかのように燭台は扉の外へと歩いていく。彼に遅れないように慌てて彼女は椅子から降りた。
「そういえば、どうしてわたしはここの屋敷にいるの?」
前を行く燭台にステラは問いかける。歩を進めながら燭台はそれに答えた。
「ええと、貴女をご主人様が連れて帰ってきたのです。何やら屋敷の前で傷だらけになって倒れていたとか」
どうやら彼女を屋敷に連れてきたのはあの男らしい。しかしながら、ステラの中には疑問が残ったままだ。
「わたし、森の中で盗賊に襲われて。それからよく覚えていないんだけれども、わたしのことを森から運んできてくれたのはあの人ってこと?」
「ううん、それは良く分かりませんねぇ。私が見たのは、あなたを抱えて帰ってきたご主人様だけですし。屋敷の前で倒れていた、というようなことをおっしゃっていたような覚えはありますが」
ルーチェの言葉はあまり納得がいくものではなかったが、彼女は特に何も言わなかった。
「まあ。ご主人様はああ見えて、優しい方ですから。貴女のことも放ってはおけなかったのでしょう」
「……優しい、人」
そういえば、男は彼女に上着を貸してくれたのだった。一見すると近づきがたいような印象を受けたものの、実はいい人なのかもしれない。
「上着の御礼、言わなきゃ」
彼女は小さく呟く。その言葉に気付いた燭台が、足を止めた。
「ああ、そうでした。ご主人様のお部屋に行かれるのでしたら、日が沈んだ後にしてください」
「それは、どうして?」
「あの方は、昼間は忙しいのです。時間が空くのは日が沈んでからですもので」
「お仕事なの?」
「まあ、そのような感じです」
だとしたら、男にお礼を言うのは夜になってからと言うところだろうか。それまでどうすればいいのだろう。とりあえず部屋の中で過ごせばいいのだろうか。彼女は燭台をちらりと見たが、彼は特には何も言わなかった。
それから半日ほど経った後。ステラはぼんやりと窓の外を眺めていた。ルーチェは屋敷のどこかで仕事をしているらしい。用があったら呼ぶようにとは言われているものの、用がない以上彼を呼ぶことはできない。かといって部屋の中でやることがあるかというとそうでもない。つまるところ、彼女は退屈していた。
何もかも、分からないことだらけだ。両親が死んで大叔母のところに引き取られるはずが、気が付いたら喋る道具たちがいるお屋敷に拾われている。これからどうすればいいんだろうか。彼女は小さくため息をついた。大叔母のところへと行くべきなのだろうが、ここが何処かすら分からない。それに、場所が分かったとしてどうやって大叔母のところへ向かえばいいのだろうか。
そんなことを考えながら窓の下を見た時だった。庭園の隅の方に、真っ白な花が植えられていることに彼女は気づいた。プリムローズ。確か、お母様が大好きだった花だ。それを目にした瞬間、気が付いたら体が動いていた。もっと、あれが近くで見たい。少女は部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。掃除を行っているモップやはたき達がすれ違う度にこちらを見ていた気がするが、彼女は気にも留めなかった。
屋敷の外には自然庭園が広がっていた。庭は上流貴族の家にありがちな区画されたものではなく、自然の風景を生かした造りとなっている。花々は色とりどりに咲き乱れ、蜂や蝶が花々の間を縫うように飛んでいた。赤、白、黄色。様々な花々の間をすり抜けて、彼女はその一角へと向かう。
プリムローズは、庭の中でもかなり隅の方に植えられていた。白い花は群生し、日の光を浴びてたおやかに咲いている。
「……鍵の花」
確か、お母様はそう言っていた。プリムローズは鍵の花。春の扉を開く花。その茎は鍵となって、暖かな日差しと幸せを呼び込む。
その時、背後から陽気そうな鼻歌が彼女の耳に入った。やや低めのハミングは彼女のすぐ近くから聞こえている。
彼女が振り向いた所には、奇妙な姿のものがいた。背丈はステラより少し小さいくらいだろうか。如雨露頭にスコップの付いた左手と剪定鋏を握っている右手。腕まくりしたシャツから球体関節のつくりとなった手首が見えている。白いシャツにサスペンダー付きのズボンを身に着けたそれは上機嫌そうに枝の剪定をしていた。
「あ、あの」
「うわあああ何だ!」
ステラが声を掛けるとそれは大げさなまでに飛び上がり、大声を上げた。その様子に彼女までもが少し驚いてしまう。
「あああ吃驚した。……おや、お嬢さん。何か用かい?」
「その、用事があるわけじゃなくて。随分と楽しそうに歌っていたものだから」
ステラの言葉に対して、如雨露頭は少し照れたように後頭部を掻いた。
「日差しがいい日だからねぇ。歌でも歌いたくなるってものさ」
「あなたは、ここの庭の庭師さんなの?」
「ああ、そうさ。俺の名前はアロゾワールって言うんだ。縮めてアロって呼んでくれたら嬉しいかな、可愛いお嬢さん」
頭部の金属がきらりと日光を反射する。どうやら彼は伊達男の性質らしい。
「お嬢ちゃんは……。屋敷に拾われたって噂の子かね?」
「噂?」
「ああ、使用人たちの専らの噂だよ。ご主人様が人間の女の子を拾ってきたってね」
アロゾワールの言葉に、ステラは首を傾げた。
「この館に来客が来ることは滅多にないんだ。だから、皆お嬢ちゃんが珍しいって訳さ」
そういえば、昨夜はこちらに話しかけてこようとする家具たちが多かった気がする。そういう訳があったのかと、ステラは納得した。
「そういえば。お嬢ちゃん、プリムローズを見ていたみたいだが。その花が好きなのかい?」
「お母様が好きだったの。『鍵の花』といわれているんだって教えてもらった」
「ああ。こいつは春を呼ぶ花だからねぇ。お嬢ちゃんのお母さんは良く知っているな」
如雨露頭の庭師は頷く。その言葉がなんとなく好ましく思えて、彼女は小さく微笑んだ。それにつられてか、庭師はからからと笑い声を立てた。
「随分ここには薔薇の花が多いのね。まるで薔薇園みたい」
先ほどまではプリムローズに気を取られていたが、改めて見るとこの庭は薔薇の花がたくさん植えられている。見慣れた千重の花弁のものから五枚の花弁のもの、八枚の花弁のものもある。赤色や薄紅色、白色に黄色と色も様々だ。
「まあそうだね。ご主人様は薔薇の花が特に好きだから、気合を入れて多く育てているのさ」
伊達男はリズムよく右手に持った鋏を鳴らして見せた。
「なかなかここの庭園は綺麗だろ? 結構頑張って働いてるんだぜ、俺」
その言葉に、ステラは大きく頷く。
「わたし、こんなきれいな庭園を見たのは初めて。わたしのお屋敷にも庭はあったけれど、こんなに立派じゃなかったもの」
「そうかい、それは良かった」
彼は嬉しそうな声色でその場で一回くるりと回った。それに加えて金属部分が若干輝いている気がする。表情は分からないものの、おそらく嬉しいのだろう。
それから、ステラとアロゾワールは色々な話をした。多くは庭の花のことで、時折屋敷のことやステラの家の話をした。外見こそ普通の人間のようではないものの、アロゾワールは随分と話しやすい人物だった。人物、と言っていいのかは定かではないが。
彼としばらく話をしているうちに、気が付いたら日は大分傾いていた。空の色が、赤みを帯びた薄い青色へと変わってきている。おそらく、後一時間もしないうちに日はすっかり沈むだろう。
「もうそろそろ部屋に帰った方がいいかもしれないな。遅い時間まで外にいたら君も俺もルーチェに怒られてしまう」
アロゾワールの言葉に、ステラはこくりと頷いた。部屋から出ていることを、ルーチェには告げていない。もしかしたら、屋敷の中を探し回っているかもしれない。
「アロさん」
「ん、何だい?」
「また、庭に来てもいい?」
「勿論さ」
庭師はからからと笑い声を立てる。それにつられて、ステラも笑った。動く道具たちは怖いと思っていたけれど、そんなことはなかった。少なくとも、アロゾワールは怖くない。ただ少しだけ、普通の人とかたちが違うだけだ。もしかしたら、他の家具たちもそうなのかもしれない。
「それじゃあ、またね。アロさん」
「ああ、またな」
そう言って彼は左手をひらひらと振った。彼女はそれに手を振り返す。夕闇がゆっくりと落ちていく中、彼女は屋敷へと戻って行った。
夕食を食べた後、ステラはあの真っ暗な廊下をルーチェと一緒に歩いていた。屋敷の主に昨日の礼を言う為である。
そういえば昼食の場にも、夕食の場にも、男は現れなかった。人前で食事をとるのは好きではないと言っていたから、部屋で個別に食べているのかもしれない。
廊下を暫く歩いた後、その突き当たりでルーチェは立ち止まった。暗くてよくは見えないが、その先には立派な装飾がなされた木製のドアがあった。昨日彼女が突っ込んで行ったものと、同じものだ。
「ご主人様、ご主人様。『彼女』がお出でになられました」
少しした後、扉ががちゃりと音を立てて開いた。執事に促されるままに、ステラは室内へと足を踏み入れる。完全に室内に入った後、背後で扉が閉まる音がした。
男は、部屋の中央に置かれたソファにて本を読んでいた。体勢はやや寛いだもので、左足を右足の上に組んでいる。ソファの前のテーブルの上には四、五冊ほどの本が無造作に置かれ、彼の横にも数冊の本が積み重ねられていた。本の内容に集中しているのか、少女が部屋に入っても、彼は気にも留めていないようだ。
「ご主人様」
ルーチェが呼び掛けたことで、男はやっと顔を上げた。翠色の瞳が、ちらりと彼女を見る。
「好きな場所に、腰かけてくれ」
男はそう言って、再び本へと視線を戻した。
部屋の主、というよりも燭台の執事に促されるままに、ステラは男の向かいのソファに座った。彼女が着席したところで、男はやっと本を閉じた。
「あ、あの」
「そんなに緊張しなくてもいい」
男の言葉とは対照に、ステラの胸の鼓動は速さを増した。使用人や家族以外の男の人と近くで話すのは初めてなのである。
「昨日は、その。上着をありがとうございました」
「別に、礼を言うほどのことではない」
男の表情は、変わらない。仏頂面のままである。やっぱり少し怖い。ステラは男からそっと目を逸らした。
「ご主人様。そのような顔でいらっしゃると怖がらせてしまうかと」
そこに、陶器人形を連れてルーチェが割り込んできた。陶器人形の手には盆が置かれ、その上にはティーカップが一つ置かれている。
「……余計な世話だ」
「ほら、また怖い顔をしていらっしゃる」
ルーチェの言葉に男は黙りこんだ。やや気まずげに、ステラへと視線を向ける。怖いのか、と問いたげだった。
「だ、大丈夫ですよ。怖くないです、怖く」
「逆効果ですよ、お嬢様」
男を擁護しようとしたものの、思わず声が裏返ってしまう。それに対してすかさずルーチェは突っ込みを入れた。対する屋敷の主はというと、ステラの返答に特に何も思ってはいないようにも見えた。実際どうなのかは分からないが。
陶器人形の給仕がお茶を入れ終わったところで、再び屋敷の主は口を開いた。
「一つ、問いたい」
「は、はい」
「名前は、何という」
緑柱石の目が、ステラの琥珀色の瞳を射抜く。
「えっと、ステラ。ステラ=メイウェザーです」
少女の言葉を聞いた後、男は軽く頷いた。
「あの、あなたのお名前は」
「……エリックとでも呼んでくれ」
男の言葉に、少女は首を傾げた。
貴族は自己紹介を行う際、大体は『家の名前』を相手に告げる。自身の出自を表すものであり、それが礼儀作法とされているものであるからだ。けれども、男はそれを彼女に告げなかった。彼女はそれを不思議に思ったのだ。
ステラの視線に気づいたのか、男は再び口を開いた。
「家の名は捨てた、随分と昔にな」
悪いことを聞いてしまったかもしれない。男の言葉を聞き、ステラは軽く俯いた。
「君が気にすることではない。顔を上げてくれ」
言葉の通り、男の声色は怒気や悲しみを含んだものではない。ステラはおずおずと顔を上げる。翠色の目は、相変わらず澄んだ色をしていた。
「あの。エリックさん」
「何だ」
「ここは、どこなんでしょうか」
何故そんなことを聞くのか。そんなことを問いたげに、男はステラへと視線を向ける。
「わたし、本当は大叔母のところに行く予定だったんです。両親がなくなって、そちらに引き取られることになっていたから」
けれども、と彼女は続けた。
「あの、夜の森の中で、盗賊に馬車が襲われて。わたしも襲われかけたんですけれど、気絶をしてしまって。それで、気が付いたらこの屋敷に居て」
あの夜の森の出来事が浮かび上がり、ステラはぎゅっと目を閉じた。盗賊たちの荒い息使いや、自身の身体に伸ばされた手を思い出してしまいそうになった。こわい。過去の出来事なのに、恐怖に体がすくみそうになる。
その時だった。額に、何かが触れた。それが人の指先だと気が付いたのは、ほんの少しした後だった。
「大丈夫だ」
落ち着いたバリトンの声が、ゆっくりと彼女の身体へと染みわたっていく。
「深く、息をするといい。ゆっくりと、三回程だ」
言われたとおり、ステラは深く息をする。一回。二回。そして、三回。呼吸をするたびに、瞼の裏に浮かんでいた夜の森の光景は薄れて行った。
恐る恐る、ステラは目を開けた。視界に映ったのは、豪華な調度品に囲まれた部屋。そして、彼女の額に触れているエリックの姿だった。思わず、ステラはぴくりと体をすくませる。
「すまない。苦だったか」
「そ、そんなことないです。少し驚いただけで……」
実際、ほんの少しだけ心地いいとすら感じていた。流石にそんなことは口が裂けても言えないが。
「先程、君は両親が亡くなっていると言っていたが」
「あ、はい」
「君は、その大叔母とやら以外に身寄りはないのか」
「……はい」
少しだけ迷った後、ステラは首を縦に振った。親戚がいないわけではない。けれども、彼女を引き取ろうとする者は誰もいなかった。彼女を引き取る予定である大叔母ですら、殆どくじ引きに近い形で決まったと聞かされていた。
要するに、厄介払いなのだ。
「では、その大叔母がどこに住んでいるのかは知っているか」
「確か、ランカシャーのどこかだった気がします」
「……随分と北だな」
「ここから、遠いんですか?」
「ああ」
ステラの問いに、エリックは頷いた。男の様子から見るに、屋敷がある場所は首都よりは北であるが、ランカシャーに近いわけではないようだ。
「屋敷は、ランカシャーのどのあたりだ」
「……そこまでは。ごめんなさい」
大叔母のところに引き取られることは決まっていたが、彼女の家がどこにあるのかステラは知らなかった。なんとなく、この州に大叔母の屋敷があるというそれだけを耳にしていただけだ。
「……少し、探すのに手間取りそうだな」
男の言葉に頷きかけた所で、ステラは我に返った。
「えっ、探す?」
思わず声が裏返りそうになる。それに対して、彼は不思議そうに言葉を返した。
「何か問題でもあるのか」
「ないですけれど、でも」
少女は言いよどむ。
「君は帰る家がないのだろう。ならば、その大叔母を探し出す必要があると思うが」
それに、と男は続ける。
「君一人では、大叔母の所へ行けまい。故にこちらが探し出して君を送り届けるというのが筋と言うものだろう」
エリックの言葉が一理あるのは尤もだった。実際、彼女一人で大叔母のところへ行くというのは無謀な試みだ。辻馬車を雇うお金もないし、そもそも一人で森を抜け出すのも至難の業だろう。野垂れ死にするのが関の山である。
「でも、お洋服だってつくろってもらって、ご飯だってもらったのに」
「君はまだ子供だ。遠慮する必要はない」
そう言った男の口調は、少しだけ優しいような気がした。
「まあ、なんとかなりますよ。幸いにもこの屋敷は、人員だけは多いんですから」
背後からルーチェが彼女の肩を軽く叩いた。
「つまり、貴女の大叔母様とやらが見つかるまでこの屋敷に居ればいいということです。そういうことですよね、ご主人様?」
燭台の言葉に、エリックは頷く。表情自体は相変わらずの無表情である。しかし、ステラには男の口元が緩んでいるように見えた。
「……ありがとうございます」
ステラはソファに座ったまま、深く礼をする。屋敷の家具たちや、屋敷の主を怖がっていたことが恥ずかしくなった。
「礼はいい」
「その通りですよ。それよりも、お茶をお召しになって下さい。折角のダージリンが冷めてしまいますから」
執事の言う通り、目の前のティーカップの湯気は目に見えて少なくなっていた。その言葉を受け、少女は慌ててカップを手に取る。紅がかかった色のそれは、普段飲むものに比べて少しだけ甘く感じた。
「珍しいものですね」
少女が部屋に帰った後のことである。ティーセットを盆の上へと片づけながら、燭台の執事は問いかけた。
「何もしない、と以前に言われていたというのに。寝食を世話するだけではなく、わざわざ親戚の家を探してやるなど」
対する屋敷の主は、先ほどまで読んでいた本へと目を戻している。本の残り頁はほんの僅かだ。
「大した意味はない」
「本当にですか?」
「ああ」
そう言っている間に、男は本を読み終えた。積み重なった本の塔の脇にそれを置き、塔の一番上から新たな一冊を選び出す。
「しいていうなら」
男は、茜色の表紙を開いた。ぱらぱらとページをめくっていく。
「一時の、気紛れだ」
それっきり、男は黙ってしまった。やれやれと言った様子で執事は盆を持ち、部屋から出ようとする。
主は気紛れだと言った。けれども、その「気紛れ」自体今までにないものであるのは事実だ。
もしかしたら、何かが変わるかもしれない。そんなことを考えながら執事はそっと部屋の扉を背にしたのだった。