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誰かが闇の中に立ち尽くしている。もしかしたらお父様かお母様かもしれない。必死にその人に近づこうとするけれども何かに阻まれて近づくことは出来ない。
それは、例えるのなら霧。闇が形を纏ったかのように、真っ黒な霧だ。霧は意思を持っているかのように、彼女の身体にまとわりつく。手が、足が、身体が上手く動かせない。
そこにいるのは誰? どうしてそこにいるの? 必死に呼びかけるとその人はこちらを向いた。闇の中で光る、紅玉のように赤い、綺麗な瞳。
こちらに向かって何かを呟いて、その人は霧の中へ掻き消える。
待って、あなたは誰? 必死に手を伸ばすものの、届かなくて。
そこで、彼女の意識は引き起こされた。
暖かく柔らかい布団の感触の中、ステラは目を覚ました。ここは、どこだろう。確か、馬車の中にいたはずだけれど。どうしてベッドの中で、こうやって眠っているんだろう。
寝ぼけた頭で彼女は必死に考える。確か馬車が襲われて、盗賊に引きずりおろされて、そして。意識を飛ばす直前のことを思い出し、彼女は飛び起きた。
周りを見渡すと、そこは馬車の中でも、森の中でもなかった。そこは、豪華な調度品に囲まれた部屋だった。ベッドは、まるで童話のお姫様が使っているような天蓋つきで、ベルベッド地のカーテンがかかっている。
ベッドの近くには小さなテーブルが置いてあり、花瓶に一輪の薔薇が飾られていた。壁際には、艶のある輝きを宿した木製のクローゼットやチェストが置かれている。どれも華美ではないものの、洗練された意匠の家具だ。
時刻は夜なのか、ランプシェードに明かりが宿っていた。温かみのある橙の光が、木製の家具たちをぼんやりと照らしている。
「ここは、どこ?」
大叔母の家だろうか。そう考えたところで、彼女は軽く首を振った。大叔母の家は、盗賊に襲われた場所よりさらに遠くにあった。もしも誰かが大叔母の家まで運んでくれたとしても、大叔母の家に着くまで目を覚まさないなんてことは、あまり考えられない。
それに、見渡す限り、この部屋にはステラ以外には誰もいない。大きな屋敷だったら、使用人が部屋に誰もいないなんてことはありえない。資産家だと聞いている大叔母の家なら、なおさらだろう。
しかしながら大叔母の家ではないとしたら。いったいここはどこなんだろう。
「おや、目を覚まされましたか」
その時、どこからか声が聞こえた。誰だろう。声の主を探そうと、ステラは部屋をぐるりと見回す。しかしながら、部屋の中に人影はない。
「ここですよ、ここ」
声の聞こえた方を注意深く見回すと、あるものがステラの目に入った。何故か床に置かれている燭台である。風が吹いているわけでもないのに、橙色の炎がゆらゆらと揺らめいている。
いや、まさか。燭台が喋るなんて。そう思って再び部屋を見回すと、再び燭台の方から声が上がった。
「無視しないでくださいな。少し寂しいです」
気が付くと燭台がベッドの丁度前まで迫っていた。随分と背丈のある燭台だ。ステラの腰のあたりまでくらいの高さだろうか。よく見ると燭台は執事服の上着を着て、蝋受け皿の下の辺りにタイの代わりなのか黒いリボンを結んでいる。
燭台が喋っている。その事実にステラは一瞬気が付かなかった。しかしながら、自分の方へと近寄ってきた姿が目に入った瞬間、彼女はそれを認識した。
「ああ、やっと見て下さった。体のお加減はいかがです?」
動いて喋る燭台がいる。その事実に気付いた瞬間、ステラは悲鳴を上げながらベッドから転げ落ちた。そのまま部屋の隅まで飛びすさる。
「おや、どうしてそんなに驚くんです?」
「なな、な、何で」
「何で?」
「何で、燭台が喋ってるの!?」
彼女の言葉に燭台は不思議そうに蝋受け皿を傾げる。ぽたりと白い蝋が床に滴った。
「何故って。別に、燭台が喋ったり動いたりしてはいけないという規則なんてないでしょう?」
そう言って燭台は橙の炎を煌々と燃やす。対照的にステラの顔は青白い。訳が分からないものに出くわしたという驚きと恐怖が、彼女の顔色を悪くさせていた。
「そ、そうだけれども。でも!」
「うーん、分かりませんねぇ。わたくしが喋って動いたくらいで何故そんなに驚くのか」
蝋受け皿を何度も傾げながら燭台はステラへと近づく。また、白い蝋が床に染みを作った。燭台が歩くたびに、ぽたり、ぽたりと蝋が白い道を作っていく。
一方のステラはというと、燭台が近づくたびに体をびくりと震わせた。訳が分からないものが近づいてきている。その現実に、彼女の頭の中は混乱していた。
そして、燭台が彼女のすぐ傍にやってきたまさにその時。彼女は一際大きな悲鳴を上げた。そのまま燭台の横をものすごい速さですり抜け、部屋を飛び出す。
部屋の中には、燭台だけが残された。
「驚かせてしまったようだ。急いで追いかけなくては」
燭台が踏み出したところでべちゃり、と何かが彼の三本足の一つに付く。白いそれは先ほど彼が溢した蝋だった。
「おや、わたくしとしたことが。また床を汚してしまった。ご主人様に怒られてしまう」
燭台はやれやれと肩をすくめた。どうやら彼女をすぐに追いかけるのは無理そうだ。床に落ちた蝋をふき取るまでは。
一方のステラはというと、必死に屋敷の中を逃げ回っていた。
何せ、行く所々で言葉を喋ったり動いたりするモップや衣装掛けや鎧甲冑に出会うのである。彼女の頭の中はすっかり混乱していた。
きっとこれは何かの冗談だ。目が覚めたら大叔母様の家にいるに違いない。彼女は自分に言い聞かせる。しかし、身体に押し寄せる疲れは夢にしては妙に現実的だった。
更に悪いことに、彼女は屋敷の中で迷子になってしまっていた。作りが分からない屋敷の中を、行く先行く先で曲がったり引き返したりしていたのだ。まあ、迷子になってしまうのも当然だろう。
先ほどまでは廊下を照らしていた照明も、気が付いたらほとんどなくなっている。廊下には窓ひとつないせいで月明かりすらも入ってこない。先ほどまでなんともなかったのに急に心細くなって彼女は壁に寄り掛かった。
「……どうしよう」
思わず喉から弱弱しい声が漏れた。振り向いてみるものの、明かりは遠くにうっすらと見えるだけだった。もし戻ったとして、またあの喋る家具や甲冑に出会ったらどうしよう。半泣きになりながら、彼女はじっとうずくまる。かといって、前は明かり一つ無い真っ暗な闇だ。先に何があるのかもわからない。
後ろを見ても闇。前を見ても闇。かといってここに蹲っていても、闇の中からは抜け出せない。
しっかりして、ステラ。ここで泣いてる場合じゃない。彼女はそう自分に言い聞かせる。少女は壁伝いによろよろと立ち上がり、前を見た。琥珀色の瞳が、強い意志を帯びる。少し迷った後、彼女は一歩足を踏み出した。
もしこの先が行き止まりだったとしても、その時は引き帰してこればいい。喋る家具たちに見つかったときは、その時だ。
意を決して、彼女は前へと歩き出した。闇の中、壁だけを頼りに一歩一歩、ゆっくりと歩いていく。
それからどれくらい進んだだろう。ふと、僅かな光が彼女の目に入った。光は、縦に一筋伸びている。どうやら、廊下の先に部屋があるらしい。ほんの少しだけ見える橙色の光を頼りにして、彼女は前へと進む。光が明るくなるにつれ、彼女の足も駆け足になる。
そして漸く彼女は光の元ヘと辿り着いた。光は、少しだけ開いたドアの隙間から漏れていた。
彼女がその扉へと手を伸ばしたその時、急に後ろから声が掛けられた。
「やっと見つけた。さあ、部屋へと戻りますよ」
その声に驚いて、ステラは思わず転んでしまった。そして、そのままドアへと突っ込んでいった。
元より半開きだったドアは、彼女の体重を支えることもなくあっさりと開いた。そして思わず彼女は部屋の中へと倒れ込む。
体を床に打ち付ける衝撃と同時に、全身に鈍い痛みを感じた。どうしてこうなったのか。思わず泣きそうになりながらも、少女はなんとか体勢を起こそうとする。
そのまま顔を上げようとしたその時、ステラの目の前に手が差し出された。白い手袋に包まれた、自分のものよりも大きな掌。思わず、少女は顔を上げる。そして、その人を見た瞬間、彼女は軽く息を呑んだ。
そこにいたのは、背の高い男だった。歳は大体二十代後半から三十前後といったところだろうか。顔立ちはかなり整っている方だろう。黒檀のように黒い髪を、後ろになでつけている。肌は妙に青白く、まるで雪花石膏のように染み一つ無い。纏っている礼服は、白いシャツを除いては黒色で統一されている。服装自体は華美ではないものの、洗練されて上品な印象を与えていた。
そしてなによりも特徴的だったのは、その人の目だった。切れ長の瞳は、青みがかかった翠色をしている。例えるのなら、緑柱石だろうか。その男の、妙に澄んだ色の瞳にステラは思わず目を奪われた。
「……手を」
思わず男を見つめていると、彼は跪いて彼女に手を差し出した。心地の良いバリトンが彼女の耳を通り抜ける。
「え、えっと。あの。ありがとう、ございます」
少し戸惑ったものの、白い手袋に包まれた手を取って少女は立ち上がった。体勢を直したことで、部屋の中の風景がステラの目に入った。最初に彼女が居た部屋よりも大分広い。部屋の中にはソファやテーブルといった様々な調度品が置かれている。彼女の部屋にあったものと同じように、この部屋のものも豪勢なものだ。
ステラが部屋を見回していると、ふと肩に上着が掛けられた。振り向くと、男は上着を脱いで、ベスト姿になっていた。どうやらこれは彼の上着らしい。
「女性がそんな恰好で出歩くものではない」
「へ?」
思わずステラは自分の格好を見た。今まで気づいていなかったものの、よく見たら彼女が身に纏っているのはネグリジェ一枚である。その事実に気づいた瞬間、かぁっと頬が熱くなった。
「ご、ごめんなさい!」
今更ながらステラは必死に上着で体を隠そうとする。男は無言で彼女を見つめていた。
「あの、見苦しい姿を見せちゃって本当にごめんなさい。その、さっき起きたばかりで気づかなくて……」
男は無言でふいと顔を背ける。怒らせてしまったのだろうか、彼女は少しだけ涙目になりながら彼を見た。
そうこうしているうちに先ほど彼女の部屋にいた燭台が部屋に入ってきた。
「ああ、もう勝手に部屋に入ってしまって。先ほどからそんなに驚かなくてもいいでしょう」
喋りながら動く燭台を目の前にして、彼女は思わずその場から数歩後ずさりをした。
「ルーチェ、やめろ」
「すみません、ご主人様。ただあまりにも彼女がわたくしを怖がるので少し意固地になってしまって」
燭台はすまなさそうに頭を垂れた。蝋がぽたりと床に落ちる。
「……ルーチェ」
「おや、わたくしとしたことが。すみません、すぐにふき取りますので」
そう言って燭台は懐からスカーフを取り出し、床を拭きはじめた。燭台が蝋を溢すのはいつものことらしく、スカーフは大分汚れている。
「ああ、それとそこの貴女。これが終わったら貴女を部屋まで送りますので少し待っていただけますか?」
「は、はい。あの、ここに居ればいいですよね」
「ええ」
燭台の言葉に従って、ステラはその場で待つことにした。主人、と呼ばれる男をちらりと見る。男は無言でルーチェが床を拭いている様を見ていたが、ふと彼女の視線に気づいて顔を上げた。緑柱石の翠が琥珀色を射ぬく。
「……何だ」
「な、なんでもないです」
男の出す威圧感に思わずステラは体をすくめる。男はそのままふいと視線をそらした。
そうこうしている間に燭台は床を拭き終わったらしい。燭台はステラの元へ近づき、部屋へ帰りますよ、と声を掛けた。
「ではご主人様、失礼しました」
扉から出て行く際に燭台は男に声を掛ける。男は顔を上げたものの、何も言わなかった。
真っ暗な廊下をステラと燭台は歩いていく。相変わらず廊下には灯一つ無い。唯一の光源と呼べるものは、燭台の頭の光だけである。
「あの、燭台さん」
「はい」
「あの部屋にいた男の人って」
「ああ、あの方はわたくしどものご主人様でございます。この屋敷の主でもございますね」
先ほど会った黒い髪の男のことをステラは思い浮かべる。格好良い人だったけれども、随分と無愛想で少し怖い人だった。例えるなら抜き身の剣のような、造形は美しいけれどもどこか妙な威圧感を持っていた。
「ああ、誤解しないでくださいね。ご主人様はああ見えてとても優しい方でございます。ただ少し人に対してあまり愛想がないというか、内気であらせるというか、そんな感じなんです」
そういえばステラが最初に部屋に入ってしまった時、男は上着を彼女に貸してくれた。そう思えば悪い人ではないのだろう。そう彼女は肩に掛けられた黒い上着を見ながら思う。……上着?
「あっ、上着」
そういえば、部屋を出る時に返すのを忘れていた。
「えっと、どうしましょう」
「ああ、後でわたくしがご主人様の部屋に返しておきますので大丈夫ですよ」
燭台の橙の炎がゆらりと揺らめく。そういえばどうしてこの屋敷の家具たちは皆動くんだろう。この屋敷の中は分からないことだらけだ。
ステラがそう考えているうちに、気が付いたら最初に居た部屋まで辿りついていた。部屋の前には赤い薔薇が一輪さしてある花瓶が置かれている。
「そういえばわたくしの紹介が遅れていましたね」
燭台は部屋の前で仰々しくお辞儀をする。蝋がまたぽたりと床に落ちた。
「わたくしの名前はルーチェ。この屋敷の執事でございます。何か困ったことや分からないことがあったならば、わたくしにお尋ねください」
懐からスカーフを取り出し、床を拭きながら燭台はそう言った。その言葉に、ステラは小さく頷く。燭台は橙の炎を、ほんの少しだけ揺らめかせた。
部屋に戻った後、ステラは上着を脱ぎ、ベッドに潜り込んだ。ここはどこなんだろう。どうしてわたしはこの屋敷に連れられてきたんだろう。考えているうちに、頭の中がぼんやりとしてきた。眠気が、徐々に強くなる。
とりあえず、今日は寝よう。そう思って彼女は瞼を閉じる。そのままうとうとと、彼女は眠りの世界へと落ちて行った。
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燭台に灯された明かりが揺らめく、どこか薄暗い部屋。黒髪翠眼の男は一人チェス盤に向かい合っていた。白い手袋に包まれた男性にしてはやや細めで長い指が駒を盤に置くたびに、室内には木音だけが響く。
部屋の扉が叩かれる音を耳にして、ふと男は顔を上げた。少ししてから執事服を身に纏った燭台が扉の隙間から現れる。
「ご主人様、あの娘に貸していた上着を返しに参りました」
男はチェス盤を放置して無言で扉の方へ向かい、執事から上着を受け取った。そのままそれを部屋の隅の衣装掛けへと持っていく。
「人間嫌いの貴方様がこの屋敷に人間を入れるなんて珍しいですね」
執事の言葉に男は答えず、ハンガーに上着を掛けた。対する執事はというと、主の様子に慣れているのか返事を気にしているそぶりはない。
「あの娘をどうなさるつもりですか?」
「別に、どうもしない」
執事が部屋に入った後、初めて男は口を開いた。男の言葉が意外だったのか、執事は一瞬橙の炎を大きく燃やした。
「では、なんのためにあの娘を拾ったのですか。あんなに幼い娘を拾ったところで大して役にも立たないでしょう。そもそもこの屋敷には人間の力などいらないでしょうに」
男は再び執事の言葉に返事を返すことなく、進みかけのチェス盤が置いてある机へと足を踏み出した。足音が室内に木霊する。
「ああ、でも飼うには丁度良いかもしれませんね。女性ですし、なにより若い。あの幼さだとまだ男と契ったこともないでしょう。ご主人様にとって彼女は最高の素材では」
執事がそう言いかけたところで、男は執事を見た。翠の眼が一瞬だけ、紅く染まる。
「すみません、少し言いすぎてしまったようです」
執事はすぐさま男に謝った。男は何も言わず、視線を執事から逸らす。その目には何の感情も込められてはいなかった。
「では、わたくしはこのくらいで失礼いたします」
燭台はそのまま男の部屋を後にする。男は盤に向かい、再び駒を動かし始めた。