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森の奥深くには人食いの化け物が棲んでいて、大きな館で暮らしている。化け物は昼間は眠りについているが、日が沈むと起き出して夜な夜な出歩くのだという。化け物は不老不死であるが、その代償として人の生き血を啜らねばならぬ。この常人が理解できぬ存在は夜の王――吸血鬼と呼ばれ、恐れられている。
〈或る地方の伝承〉
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とある場所で一組の夫婦が死んだ。馬車に巻き込まれての事故だった。
それは、良く晴れた午後の日の出来事だった。笑顔で歩道を歩いていた二人は暴走して歩道に駆け込んできた馬によって踏みつけられ、骨を砕かれ、その後に馬車の車輪に巻き込まれ、肉を潰され、千切られ、血は通行人と馬車に降り注いだ。昼下がりののんびりとした時間は一瞬で消え去り、不幸にも夫婦だった肉塊を頭から浴びてしまったご婦人が何人か気絶した。
死体はばらばらとなってしまったために、二つの棺桶の中には縫い合わされた歪な死体が二体入れられた。死体に元の面影などはなく、棺の中の顔には無機質な仮面が被せられていた。
その日のことを、『彼女』はあまり覚えていない。土砂降りの雨の中、二つの棺が送られていく風景はどこか他人事だった。自身の後ろで執事が号泣しているのさえ、遠い日の在り様のようだった。
だって、信じたくはないだろう。両親が死んでしまっただなんて。
不幸にも挽肉となってしまった夫婦には、一人の娘がいた。少女の名前はステラ。ステラ=メイウェザー。二か月ほど前に十三歳になったばかりだった。
「……嬢様。お嬢様!」
自身を呼ばれる声でステラはふと目を覚ました。ベッドのすぐ下には蓋が開いたトランクが転がっており、周りには畳み掛けた服や紐で束ねられた本が散らばっている。荷造りの途中で、転寝をしてしまっていたらしい。
ベッド脇には、老紳士が立っていた。皺の入った口元に、どこか呆れたような笑みを浮かべて少女を見下ろしている。白い髪に深く刻まれた皺、着こなされた執事服。それらは彼が長年執事としての職務を果たしてきたことをよく示していた。
「また転寝をなさっていたようですね」
「ああ、ごめんなさい。ブラッドリー」
「全く、夜にお休みになられませんよ」
やれやれといった様相で、執事はそう言った。慌ててステラはベッドから体を起こす。
「それと、荷造りがまだ途中でいらっしゃるようですね」
執事の目が、床に散らばった服や本へと向いた。どきりと、ステラの心臓が一つ脈打つ。
「二時には終わっている、とお嬢様は言っていらしたように思うのですが……」
「えっと、うん」
ちらり、と執事が壁掛け時計を見やる。彼につられて、ステラもそれに視線を向けた。短針は数字の二をやや過ぎた程度で、長針は三と四の間だ。
「……ごめんなさい、今からやります」
文字盤を見た瞬間、ぼーっとしていた頭が一瞬で覚める。ステラはベッドから降りて床へとかがみ、散らばっている服を畳み始めた。
「全く、明日からはこのブラッドリーめがいないといいますのに。仕方のないお方です」
軽くお小言を言いつつも、老紳士の顔には笑みが浮かんでいる。傍から見たら、孫娘が可愛くて仕方がない祖父といったようにも見えるだろう。
ブラッドリーは床に散らばった服へと手を伸ばした。皺を丁寧に伸ばし、きっちりとブラウスを畳んでいく。
「ブラッドリー、上手!」
「それはまあ、お嬢様のお洋服を何年も畳んできたのですから!」
てきぱきと、ブラッドリーは服を畳んでいった。それに見とれそうになったところで、ステラは我に返る。こうしている場合じゃない。早くしないと、迎えの馬車が来てしまう。
時計の針が三分の一ほど進んだ頃、荷造りは無事に終わった。ブラッドリーの助けがなかったなら、もっと時間が掛かっていたのかもしれない。
ブラッドリーは、彼女が小さいころからずっと家にいた執事だ。そして、これからもずっと一緒にいることが出来ると思っていた。
「寂しいね」
ステラの口から、ぽつりと言葉が零れる。
「……お嬢様?」
「ブラッドリーと一緒にいられないのが、寂しいなって思ったの」
最もステラが別れるのはブラッドリーだけではない。メイドとも、この家とも、彼女は別れなくてはいけないのだ。
ステラの両親は、あまり人と積極的に関わる性分ではなかった。それ故に彼女の周りに頼れる大人という存在はおらず、近しい親戚もほぼ皆無だった。
幼い彼女が突然の両親の死に戸惑っている間に、遠縁の親戚たちの手によってほとんどの事柄は終了していた。家族の思い出の詰まった屋敷は調度品付きで売り払われ、召使の多くは新たな奉公先を求めて去っていった。そして、ステラ自身も遠縁の親戚に預けられることとなったのである。
「本来ならばブラッドリーめもお嬢様にご一緒させていただきたかったのですが……。全く、何故あの憎むべきアドレイドは私がお嬢様に仕えることを許可しなかったのか!」
執事は穏やかそうな表情が一変させ、恐ろしげな雰囲気を纏った。それに気圧されそうになり、ステラは軽く頭を振る。
「ブラッドリー、大叔母様をそんな風に悪く言わないで」
「申し訳ありませぬ。つい本音が出てしまいました」
もっともブラッドリーの気持ちが分からないわけではない。彼は少年時代にこの屋敷に奉公に出されてからずっと、約五十年間務めてきたのである。彼にとってこの屋敷は生き甲斐も当然であり、ステラは孫娘同然なのだ。
「こっちこそ、あなたを連れていけなくてごめんなさい。大叔母様に何回もお話をしたんだけれども、その都度断られてしまって……」
少女は悲しそうな顔を浮かべた。先ほどまでの雰囲気を一変させ、執事はおろおろと彼女を慰めようとする。
「いいえ。お嬢様にそれだけ思って戴けるだけで、このブラッドリーは満足でございます! お嬢様が気に病む必要などございませぬ!」
その様子が少しおかしくて、ステラはくすりと笑ってしまう。彼女の様子を見てブラッドリーは安堵した表情を浮かべた。
「では、私は業務がまだ残っているのでもうそろそろ行きます。お嬢様もお忘れ物なきようにもう一度ご確認下さいませ」
そう言って執事は扉から出て行った。それをステラは笑顔で見送る。部屋には彼女一人が残された。
荷造りも終えたので、ステラはなんとなしに部屋をぐるりと一周した。今まで十三年間育ってきた部屋だからやはり出て行くのは寂しい。ふと部屋の隅の鏡に映った自分が目に入る。鏡に近づき、少女は自分の姿を眺めた。
肩よりも上で切りそろえられた亜麻色の髪と、窓から入ってくる光を反射して煌めく琥珀色の瞳。少女特有の華奢な体には、シンプルな若草色のワンピースを身に纏っている。脛の半ばあたりまであるスカートの裾からは、黒い靴下に包まれたほっそりとした足が少しだけ覗く。足元に合わせているのは、焦げ茶色のシンプルなブーツだ。
自分の姿をまじまじと見つめることが妙に気恥ずかしくなり、彼女は鏡から目を逸らした。父親譲りの髪色と、母親譲りの瞳の色。しばらくは鏡を見るたびに両親のことも思い出すのだろう。
一時間ほどして再び執事はステラの部屋のドアを叩いた。どうやら大叔母からの迎えが来たらしい。ドアを開けると背筋をしゃんと伸ばした執事が待っていた。
「お嬢様、お時間です。お忘れ物はございませんか?」
「大丈夫。きちんと確認したもの」
ステラの言葉に、彼は深く頷いた。その目の奥に、ほんの少しだけ寂しさが浮かんでいた。
少女のトランクを運びながら、老執事は昔話を始めた。彼女の祖父の頃に屋敷にやってきたこと、働きが認められて執事に昇格したこと、屋敷にいた幼かった少年は大人になって結婚したこと、そして二人の間には可愛い女の子が生まれたこと、その子は今では愛らしい少女に成長したこと、玄関に着くまでの短い時間でたくさんの話をした。
外に出ると、屋敷の門の近くに馬車が待機していた。彼女はこれからこの馬車に乗って一人で大叔母の所まで行くのだ。
馬車に荷物を載せ終わった後、老執事と少女は向き合った。
「さあお嬢様、ここでお別れですよ。これからお嬢様の成長を見守れないかと思うと寂しくてたまりませぬ」
「……うん。ねえ、ブラッドリー」
ステラはにこりと笑って執事に抱き着いた。こんなことは淑女らしくないと分かっている、それでも、今生の別れの今だけは。
「今までお父様とお母様に仕えてくれて、わたしの傍にいてくれて、ありがとう。あなたのことは絶対に忘れない」
ぎゅうと抱き着くと、執事は彼女の背中に手を回してくれた。
「こちらこそ、お嬢様に今まで仕えてこられて幸せでございました」
ブラッドリーの声は、少しだけ震えている。それにつられて目の奥が熱くなったものの、ステラは堪えた。涙のお別れをするのは駄目だ。最後だからこそ、笑ってお別れをしなければ。
ブラッドリーから体を離し、彼女は馬車へと乗り込んだ。
「ごきげんよう、ブラッドリー」
「ええ、ごきげんよう」
座席に座った後、ステラは窓からブラッドリーを見た。いつものように執事は優しい目で彼女を見守っている。
「お嬢様、どうかお元気で」
馬車が走り出して見えなくなるまでずっと、執事は馬車を見つめていた。
馬車に乗り込んで何時間経っただろうか。気が付いたらすっかり周りは暗くなっていた。元々大叔母の家は遠いと聞いていたものの、まさか一晩馬車の中で過ごすことになるとは思わなかった。窮屈な馬車の中で眠らなければいけないと思うと、彼女の口からはため息が零れた。
アドレイド大叔母様。何度か出会ったその人の顔を、ステラは思い浮かべる。六十を過ぎたくらいの歳の女性で、ひどく冷たい瞳をした人だった。
大叔母様のところに行ったら、どんな生活が待っているのだろう。ステラは少しだけ、思いを巡らせてみる。厳しい人のように見えたから、今までよりも窮屈な暮らしになってしまうのかもしれない。どれだけ厳しいのかは分からないけれど本が読めないのは嫌だな、とステラは思う。
年頃の少女にしては珍しく、彼女は本とチェスが好きだ。本に関しては一日中ずっと読んでいられるし、チェスに関しても父親がいたころは一日一回は対局をしていた。そういえば、結局チェス盤は持ってくることが出来なかった。アドレイド大叔母のところにチェス盤があったらいいな。少しだけ彼女はそう願った。
そんなことを考えているうちに、眠気が押し寄せてきた。それに身を任せて、ステラは意識を手放した。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。ステラはがたん、と馬車が止まる衝撃で目を覚ました。大叔母の家に着いたのか、と思って外をちらりと見るものの外には生い茂る木々が見えるだけだ。それに、妙に騒がしい。がやがやと、誰かが馬車を囲んで喋っているような声がする。けれども、こんな夜中に一体誰がそんなことをするのだろう。
御者に何があったのか尋ねようと外に出ようとして、彼女はやっと事の異様さに気が付いた。囲まれているようだ、ではない。囲まれている。
おそらくは盗賊の類だろうか、数人の男たちが馬車を囲んでいた。煌々と燃える松明が男たちの下卑た表情と薄汚れた衣服を照らしだしている。血を流して倒れている御者の姿が目にうつり、彼女は悲鳴を上げそうになった。
心臓が早鐘のように脈打つ。氷水をかけられたかのように、背筋が冷たくなる。どうしよう、誰か助けて。心の中で叫ぶものの、助ける者は誰もいない。
彼女は、馬車の中でうずくまった。がたがたと震える体を抱きかかえ、泣きそうになるのを必死で堪えた。
その時、馬車の扉から軋んだ音が聞こえた。同時に、がやがやとした声が近くなる。おそらく、盗賊たちが扉を開けようとしているのだ。
誰か、助けて。
ステラは扉に飛び付いた。取っ手に縋りつきながら、必死になって扉が開くのを抑えようとする。恐怖で手足は震えていた。けれども、ここで扉が開いてしまったらきっと大変なことになる。
しかしながら現実は非常だ。少女一人の腕力が大の男数人の腕力に勝てるはずもない。数分と経たずにあっさりと彼女は引きずり出された。
「なんだ、ガキが一人か」
ややがっかりした調子で、盗賊の一人が毒づく。
「金持ちの夫婦ならよかったのにな。男は殺せばいいし、女は楽しめる」
「違いねえよ」
盗賊たちの下卑た笑い声が、辺りに木霊した。
おとぎ話の中で、盗賊に捕まってしまった女の子はどうなってしまっただろうか。恐怖を紛らわせるためなのか、頭の中にそんな考えが浮かぶ。その答えを探そうとしたものの、彼女は諦めた。盗賊に捕まってしまった女の子は、大体の場合は殺されてしまうのだ。勇敢な王子様でも現れない限りは。
「おい、よく見てみろ。こいつ、なかなかの上玉に見えるぜ?」
顎をぐいと掴まれ、ステラは無理やり上を向かされた。盗賊の濁った瞳と目が合った瞬間、何とも言えない嫌悪感が彼女を襲った。
「まあガキでも楽しめないことはないさ。さっさと犯しちまおう」
別の一人がそう言いながら彼女の腰に腕を伸ばす。盗賊から漂う悪臭に彼女は眉を顰め、びくりと体を引きつらせた。
「や、やだ……」
「ああ、何て言った? 聞こえねぇな。どうせなら耳元で優しく囁いてくれねぇかな?」
そう言って彼女の腰に手を伸ばした盗賊が彼女の顔に自身の顔を近づける。酒の匂いと体臭とが混じりあったような臭いが鼻梁いっぱいに入り込む。あまりの嫌悪感に思わず彼女は男に平手打ちをする。ぱちん、という乾いた音が辺りに鳴り響いた。
「っ何しやがんだこのガキ!」
ステラは腕を掴まれて無理やり地面に引き倒された。鈍い痛みが、彼女の身体を襲う。
「調子に乗りやがって。仕置きが必要みてえだな!」
盗賊の言葉をきっかけにして、ステラに数人の男が襲い掛かる。なんとか起き上がろうとしていた彼女は再び引き倒され地面に押し付けられた。
手足をばたばたと動かし、彼女は必死に抵抗した。しかしながら、男数人の力には叶うはずもない。
「いや……お父様、お母様! 誰か!」
「ばーか、叫んでも誰も来るもんか。こんな夜中の森の中にまともな人間なんて居ねえよ」
そう言って男がワンピースの裾に手をかける。もう駄目だ。ステラはぎゅうを目を瞑って顔を必死に逸らした。
ワンピースが太ももの半ば辺りまで巻き上げられたその時、妙な空気が辺りを包み込んだ。生暖かい、まるでその場が一種の『生き物』の身体に包まれてしまったかのような空気。その気味の悪さに思わず手を止め、盗賊たちは辺りを見渡した。
黒い、霧だ。何故だかは分からないが黒い霧が、馬車と盗賊の周りにだけ立ち込めている。けれども、何故? 盗賊たちに抑え込まれたまま、ステラは霧をじっと見た。
「……何だ? 気味悪ぃ」
彼等が周りを見渡したその時、一人の盗賊が叫び声を上げた。残りの盗賊たちが、不審そうに彼の方を見る。
男の顔は恐怖に歪んでいた。何かに持ち上げられているかのように体が宙に浮かぶ。その光景を目にして、盗賊たちはやっと事の異様さに気が付いた。苦しそうにじたばたと盗賊は動き、そして。
何かを裂いたような音と同時に、彼はそのまま首から大量の血を噴出した。近くに居た盗賊に水しぶきのように鮮血がかかる。
首から血を噴出した直後、宙に浮いていた男はそのまま地面へと落下した。鈍い音と同時にそれは叩きつけられ、自身の血で地面を濡らしていく。
一瞬何が起こったか分からず、しんとした静寂が盗賊たちの周りに広がった。いきなり首から血を流して死んだ一人の仲間。その事実に気づく人間が増えるのと同時に、ざわめきが広がっていく。
それが全員に広がったその時、今度は別の場所に居た盗賊の首がなくなった。死体は何も言わずに傷口から血を噴出させ、その場に倒れる。少し離れた場所に生えていた木に、身体から離れた首がぶつかって鈍い音を立てた。
もはや少女を襲っている場合ではない。盗賊たちはステラを放り出して、それぞれの得物を手探りで探した。
よく分からないけれど隙が出来た。早く逃げなくては。彼女はその場から逃げようと必死に立ち上がろうとしたものの、腰が抜けてしまったのか立ち上がることが出来なかった。
彼女がその場から逃げようと試みているその時、運が悪いことに盗賊たちがその場から駆け出そうとした。
その弾みで、彼女は盗賊たちの一人に頭を蹴飛ばされてしまった。鈍い痛みと同時に、意識が薄らいでいく。最後に見たのは、土埃のたった地面と、辺り一面に広がっている真っ黒な霧だった。
「だ、誰だ! 出てこい!」
一方、恐怖に苛まれつつも盗賊たちは必死に虚勢を張った声を上げた。しかしそれをあざ笑うかのように一人、また一人と彼らは命を散らしていった。
ある者は首を撥ねられ、ある者は胸を刺し貫かれる。その場は盗賊たちの悲鳴や呻き声が響く地獄へと変化する。盗賊たちは、数分も経たずして一人を除いた全員が屍になった。
最後の一人は腰を抜かしてその場に崩れ落ちた。恐怖からか彼の股座が濡れ、地面に広がる赤色の液へと混じり出す。辺りは血液の生臭い臭いと男の漏らした排泄物の匂いが混じりあい悪臭を放っていた。
ざくり、と地面を踏む音が辺りに響く。それは男のすぐ後ろから聞こえた。
「ひ、ひぃ」
情けない声を上げながら男は這って逃げようとする。そうこうしているうちにも足音は男の元へ近づいていた。ざくり、ざくりと少しずつ。そしてぴたりと男の後ろでそれは止まる。恐怖を噛み殺しながら男はゆっくりと振り向いた。
男の予想に反してそこには誰一人居なかった。安堵して再び顔を戻した瞬間、男は目の前に立ちふさがる二本の脚に気づく。ゆっくりと顔を上げていくと、影の中で光る赤い瞳と目が合った。次の瞬間にあっさりと男の首は吹き飛び、男の意識はそこで永遠に途切れた。
幾多の盗賊を倒し、屍を築き上げた『それ』は再び最初にいた場所に戻る。そこには衣服の所々が破れ、血や土埃で汚れた状態で倒れた少女がいた。少女の意識は既にないのかぴくりとも動かない。
少しだけ迷った素振りを見せた後、『それ』は少女を抱き上げた。その瞬間ぱちりと少女の目が開き、『それ』の顔を見つめる。琥珀色と、紅色が交差した。
少女と『それ』は少しの間見つめあっていた。しかし、少女の目が再び閉じたことによってその時間は終わりを告げた。恐らく、また意識を飛ばしてしまったのだろう。
『それ』は小さくため息をついた後、少女を抱いたまま闇夜に一瞬で掻き消えた。その場に残っているのは壊れた馬車の残骸と、物言わぬ幾多の死体だけだった。