唯なる逆鱗の切先は
それは、雲が目立ってきた、ある日の昼下がり。
「何!?」
緊急で集まった玉座の間の中、その象徴たる玉座に腰掛け、国王ヴィルヘルムは驚愕の声を上げた。
それはひとえに、自らの眼前にて跪く騎士の報告に、恐るべき情報が入っていたが故。
「魔物の大軍が南から迫っているだと? 北ならいざ知らず、南は今まで何の異常もなかった筈ではないか!」
思わず頭を抱える国王ヴィルヘルムに、重臣たちや騎士、それに王城魔法使いたちも、揃って顔をしかめ、唸る。
予想外な場所からの急襲に、多くの者たちが動揺を表した。
そもそも、四方を森に囲まれているこのデイースト王国、その南の森は、建国当初から脅威となる魔物がいなかった場所だ。
それゆえ、南の森だけは、他の三方よりも守護に当たる騎士が少なく配置されていた。
唯一幸いであったのは、南の森には希少な植物や食料となる果物、木の実があるわけではなく、守護すべき門も他の三方より王都に近く造られていたため、魔物の軍勢が門に到着するには、まだ時間に余裕がある事。
とは言え、誰もが黙する暇など、続いて良い状況では無いのもまた事実。
額に当てていた手を下ろし、国王ヴィルヘルムは王城魔法使いたちの方へと、素早くその緑眼を向けた。
「ローベルト。城の守護が少々疎かになってもかまわん。必ず南の脅威を排除せよ」
「は! 必ずや」
王の鋭い言葉に応えたのは、王城魔法使い長ローベルト・アイゼンフォール。
古くから王城魔法使いを輩出して来た、アイゼンフォール公爵家現当主にして、現王城魔法使い長である初老の魔法使いは、うやうやしく頭を下げ、強く王へとそう返す。
そうして、すぐさま多くの者たちが行動を起こそうとした矢先――ふと響いた穏やかな……それでいて思わず悪寒が走る声音に、誰もがその動きを止めた。
――止めざるを、得なかった。
「陛下」
サァ、と体温を下げる、声音。
「私も討伐に参戦してよろしいでしょうか?」
誰もの動きを止めたのは、王城魔法使いとしてこの玉座の間にいた、アズマだった。
国王ヴィルヘルム含め、その周辺がそろりと視線を動かして見たアズマの美貌には――それはそれは鮮やかな、にっこりとした微笑み。
あ、ヤバイ。
その微笑みを見た誰もが、そう思うような表情。
それは、アズマが至極素直に現した――逆鱗の一片。
今回の魔物の一件が、確かにアズマが唯一本気で怒る事態に当てはまる事を思い出し、思わずもう一度頭を抱えそうになる国王ヴィルヘルム。
しかし、そうしている間にアズマの怒りが爆発してしまったら、元も子もない。
ハッとそう思いなおし、ヴィルヘルムは慌ててアズマへと答えを返した。
「う、うむ。それはかまわないが……ほどほどに、な?」
うっかり祈りの声が零れるが、その言葉にうなずくものはいるものの、反対の意を示すものはいない。
――言われた本人を除けば、だったが。
「おやおや」
そう返された穏やかな声音に、王城魔法使い長であるローベルトが、一歩アズマから離れる。
ローベルトもまた、アズマの正体を知っており、そもそも魔法の師であるアズマ個人の性格を心得ているが故に、現状のアズマがどれほど怒っているかを把握していた。
……であるからこそ、せめて自分には被害が来ないように、アズマから離れる。
それを見た国王ヴィルヘルムが、見捨てるな、という視線を向けてくるのに対し、お許しを陛下、私はまだ命が惜しく思います、と頭を下げて返すくらいには、誰もがまず自らの保身をしなければならないような状態が、今この時であった。
最も、本来ならば己が身より王を護ることを優先するのが、騎士や王城魔法使い。
重臣たち含め、王を生贄のごとく扱うことなど、他国ではまず許されない。
ただし、まかり間違ってもアズマの怒りが王へと飛ぶことはないと、全員が確信している上での行為であり、かつこれが許されるのが、アズマが愛するデイーストの魅力の一つでもあった。
ゆえに、アズマもまたこの流れに意気揚々と乗る。
――その内に、本気の怒りを抱えながら。
「手加減する義理などないではありませんか、陛下。我らが神聖なる土地を侵す輩に、慈悲など」
にこり、ではなく、ニタリと。
釣りあがった口元が、綺麗な弧を描いて。
「――必要ありますまい?」
凍てつく声音の冷たさと共に、国王ヴィルヘルムへと向く。
それは、正しく威厳ある王が、思わず玉座の背もたれに張り付くほどには、冷酷なものだったが。
同時にそれは、国王ヴィルヘルムを通り過ぎ、遥か遠方の魔物へと向けられていることを、誰もが知っていたが故に。
「そ、それもそうだな。……ほどほどに」
「あはははっ」
うなずきながらもついつい力加減をと付け足した国王ヴィルヘルムの言葉に、表面上は朗らかに笑うアズマ。
それを見て、誰もが心の中で、こう思った。
すなわち――聞く気ない! この人話聞く気ない! というか本当に本気で怒ってる!! 誰が鎮めるのコレ!? ――と。
もうこの人一人で魔物の大軍なんてどうにかなるんじゃないの!? という意見が飛び出しそうな現状で、アズマだけは冷ややかな微笑みを崩さない。
《建国者》であり、このデイーストの土地の、真の所有者であるアズマ。
彼が、逆鱗として本気で怒る要素は、ただ一つ。
――自らのものであるこの土地が、何者かによって、侵される時のみ。
結局参戦したアズマ含め、王城魔法使い長ローベルトを筆頭に、王城魔法使いたちが城を飛んで出て行くのを見送りながら。
アズマの逆鱗の切先、それが今はまだ魔物だけに向けられていることを、多くの者たちが確かな幸運であると、視線を遠くへと飛ばしながら思っていた――。