馳せる思い
美しい王城の中にある、壮麗な雰囲気を持つ広い部屋。
一見では王の部屋とさえ見まがうその部屋には、バルコニーへと続く大きな窓があった。
花瓶や絵画を始め、様々な装飾品で飾られた部屋の中で、その窓の付近だけは不思議と、何も飾られてはいない。
それは、この部屋の主によって、明確な意図の下にわざと造られた、特別な空間だった。
時は早朝。
さえずる小鳥の声が、ようやく歌になり始めた頃。
隣接する寝室から出てきたアズマ・デイースト・ロワは、他の一切に気を取られる様子も無く、その窓の前に立った。
今日もまた、落ち着いた紺の生地に銀糸で飾った上質の貴族服を、上品に着こなしている。
男性にしては細く白い手が窓を開き、すらりとしたその身がバルコニーへと躍り出た。
未だ紫紺を見せる空の彼方へと薄い空色の瞳を向け、少し肌寒さを感じさせるそよ風にさらりと黒髪を揺らす様は、優雅の一言。
もし、この場に絵描きがいたならば、例えその腕が未熟であろうとも、何かしらを画き留めようと手を紙へと滑らせたことだろう。
多くの女性を虜にする美貌は、時として一種芸術的な美しさをも魅せると、一部では有名である。
一方で、アズマは自身の美しさを、常に意図して見せているわけではなかった。
特に、自らの部屋でわが身一つ、という時には、彼は多く素のままの自分でいることが多い。
事実、彼方へと向けた空色の瞳を、徐々に明るさを増してくる眩しさに細める仕草は、公爵としてゆったりと伏せる普段とは違い、ぐっと顰められた眉と同じく素早いもの。
その様は、さすがに優雅とは言い難かった。
最も、それをとがめる者がいるわけでもないのは事実。
少しずつ顔を見せる太陽に、細めたまま視線を向け続けるアズマには、気にした様子も無い。
ただ、ゆっくりと鮮やかさを増す光と空から、その視線が逸らされないことには、意味があった。
「――そういえば、元々デイーストは、デイ・イースト、だったな」
唐突に、ぽつりと零される言葉。
――それは、この国の現国王ヴィルヘルム・デイースト辺りが聞けば、驚愕の次に大騒ぎするような内容だった。
今より約六百年前に建国された、このデイースト王国。
その起源が、この地の所有者であるアズマと、初代デイースト国王との邂逅であることは、王家と重臣、そして幾人かの誠実な貴族たちの知るところではある。
しかし、だからといってその国名の起源までは、さしもの王家も創国記に記してはいなかった。
アズマが語るのは、いわば伝えられることが無かった、この国の真実の一つ。
常には普遍的すぎる故に、気にも留められない、それでも大切な古の答え。
――ただ、その答えは今まで、一度たりとも誰かに伝えられたことは無かった。
他ならぬアズマが、その答えをはぐらかし、紡がなかった為に。
……実は、過去に何人かの王家に属する者たちが、あるいは真剣に、あるいは幼心に、アズマへと問いかけたことがあった。
しかし、そうして尋ねられた疑問に、アズマは決して、答えを告げる事はしなかったのだ。
ある意味ではそれこそが、アズマという人間の、正体を告げるものだったが故に。
「日出、東の国――」
紡がれる声は至極穏やかで、けれども決して風に流されること無く、その場に留められた。
仮に、その呟きを聞いたものがいたとして、その意味するところは理解出来なかっただろう。
――この言葉を紡げるアズマこそが、特異な存在なのだから。
聡い者なら、その言葉の内の半分なら、理解出来る可能性はある。
デイースト王国は、この大陸において、実質東の果てにある国だ。
朝、目覚める陽光を一番に眺めることが出来るのも、この国である。
ならば先のアズマの言葉は、このデイースト王国を示しているのだと、そういった結論に至る。
本来ならば、それだけで十分なのだ。
事実、アズマもその考えには、笑ってうなずくだろう。
ただ、彼自身。
彼だけにとっては、それでは半分であるだけのことなのだから。
眼前へと昇り目覚めた陽光を受け、艶やかな黒髪が煌く。
眩しさに、それでもその瞳を逸らすことなく、アズマはふっと笑みを浮かべた。
それは、彼の素の姿。
このデイーストの土地の、真なる所有者としての、表情。
アズマは語りかける。
今世が終わらない限り、決してもう一度見る事は出来ない、その場所――忘れることだけはしなかった、かつての母国へと。
「なあ、異世界の我が母国よ。この世界でのおれの国は、まだまだ続いて行くよ。……あんたは、まだ、存在しているのかな……?」
そっと紡がれた言葉は、やはり風にのることは無かったが。
それでも、その願いのような祈りは、遥かな彼方へと遠く、響いて行くだろう。
そうしてまた、公爵であり、魔法使いであり、情報屋であり、《建国者》である、土地の所有者の一日は、始まるのだった――。