第8話 ―ロボ子と期末試験―
大変長らく時間が空きました。久々の投稿です。
時間が空いたせいでちょうど季節はずれのネタになりました。すみません。
期末試験、それは地獄の季節だ。その季節が来ると多くの学生達の間にはピリピリと張り詰めた空気が漂う。特にこの夏休み前の期末試験と言うのは、多くの高校生が頭を悩ませるイベントの一つだ。ここでつまずくことは許されない。そんなことになれば、貴重な夏休みに弾けるような青春の思い出を刻むことが出来なくなってしまうのだ。そう、補習にかかってしまうからだ。
「やべぇよ……本当にやべぇよ……」
休み時間、秀作の目の前で力也は死んだような目をして呟いていた。たった今終わった数学の授業が何一つとして分からなかったらしい。そりゃあ今までの授業を全て睡眠学習に費やしていればそうなるのも当然のことだ。試験前になるといつも見られるおなじみの光景に、秀作はもはや特別な感情を抱くことはなくなっていた。
「そんなにやばいのか?」
「終わりだよ……何一つわかんねえんだ……」
とりあえず聞いてあげると、力也は絶望に満ちた声で言った。南無阿弥陀仏と言う感じである。
「良いよなお前は、成績優秀だから……」
「あのなあ、普段からコツコツ予習復習してればそう大変なものじゃないんだぞ、試験なんて」
「普段からコツコツ! それが何より大変なんだよ!」
力也は勢い良く立ち上がり、クラス中の視線を一気に集めた。休み時間もせっせと試験勉強に努めていた生徒が不機嫌そうな目を力也に向ける。秀作は力也をなだめながら再び椅子に座らせた。
「まあほら、試験まではまだ少し時間があるんだからさ、今から何とか頑張ろうぜ」
力也は「ああ、そうだ、そうだな……」と虚ろな目で返事をした。今回は相当重症なようだ。
そのとき、トイレにでも行っていたのかロボ子と朱里が一緒に教室に戻ってきた。談笑しながら自分の席に戻ってきたロボ子は、秀作の前で生気を失っている力也を見て少し驚いた様子だった。
「ど、どうしちゃったのですかリキヤさん?」
「ああいいよいいよ放っておいて。季節病みたいなものだから」
「病気なのですか!? 大変です、早く病院に行かないと!」
「病院で治るんだったら良いんだけどね」
魂の抜けたような力也をツンツンとつつきながら、朱里は曖昧に笑った。もちろんコレは朱里にもおなじみの光景なのだ。ロボ子は良く意味が分からない様子で、不思議そうに首をかしげた。
「そういやロボ子、お前は試験大丈夫なのか?」
学校に通うようになった以上、ロボ子も期末試験を受ける必要がある。今まで学校教育と言うものを受けたことのなかったロボ子だから、期末試験も一筋縄ではいかないはずだ。
「はい、試験範囲は何とかなりそうです。アカリさんたちにも沢山勉強教えてもらって」
ロボ子はにっこりと笑って答えた。学校に通い初めて以来、当初の約束をきちんと果たすようにロボ子はコツコツと勉強を続けていたのだ。もちろん最初はそれなりに苦戦していたが、最近では勉強も楽しくなってきた様子で、期末試験くらいなら何とか乗り切れそうだった。
「ロボ子ちゃん凄いのよ。教えたことドンドン覚えて行くし、教えてる方が気持ちよくなるくらい」
「偉いなあロボ子は」
「えへへ、そんなことないですよ」
ロボ子は照れくさそうに顔の前で小さく手を振った。
「お前も少しは見習えよ」
「うっせえ、俺は筋トレで忙しいんだ」
多分力也は脳みそまで筋肉で出来ているのだろうなと秀作は確信した。
「あ、でも……」
少し不安そうな顔をしてロボ子は言った。
「英語だけはどうしても上手く行かなくて……今まで全然やったことなかったので」
「え、なに? ロボ子ちゃん英語苦手なの?」
仲間を見つけたとでも言うようにキラキラした目で力也が食いついた。
「はい、覚えることがいっぱいで……」
「私も英語苦手だから、あんまり教えてあげられなくって」
申し訳なさそうに朱里が言った。
「へー、意外だな。だってロボ子ちゃんハーフだろ?」
力也が鋭いところをついて、秀作と朱里はギクリとした。
「お母さんが外国人なんだっけ? 家では英語とか話してないの?」
「え、えっと……」
ロボ子は困ったようにキョロキョロと目を泳がせて、それから秀作の方にちらりと目を向けた。
「おいおい力也、外国人がみんな英語を話してると思ったら大間違いだぜ」
秀作はやれやれと肩をすくめてみせた。
「ロボ子のお母さんは東ヨーロッパの出身で母国語は英語じゃないんだ。それにハーフだけど日本語しか喋れないなんて例は珍しくも何ともないんだぜ」
「え、そうなのか?」
「ああ、下手に小さい頃から二ヶ国語を教えたりしたらどっちも中途半端になったり、学校で上手く周りとコミュニケーションが取れなくなることもあるんだ。だから育てる国の言葉だけ教えるって言うのが今のトレンドだ」
自分で言いながら「どこのトレンドだよ」と少し笑いそうになったが、秀作はグッとこらえた。
「へー、そうだったのか。お前ってすげえ物知りだよな」
「まあ、ちょっと本で読んだんだよ」
力也が馬鹿で良かったと思いつつもその反応があまりにも素直すぎて、秀作は少し申し訳なくなってきた。そんな様子を横から見ながら、朱里は笑いをこらえるのに必死なようだった。
「それで、ロボ子英語の試験は大丈夫そうなのか?」
「うーん、少し不安です」
ロボ子は眉をハの字にして言った。
「でも英語の試験、もう来週だぞ」
「ら、来週……」
隣で聞いていた力也が絶望的な声を漏らしたが秀作は聞かなかったことにした。こいつはどうせもうダメだ。
「しょうがないな、今日帰ったら英語の勉強見てやるよ」
「本当ですか!」
「ああ、いつも勉強頑張ってるみたいだしな」
秀作は最初の頃こそロボ子に勉強を教えることも多かったが、最近ではその機会も減っていた。ロボ子も自分一人で十分勉強できる程度の基礎が出来たことや、朱里と一緒に勉強する機会が増えていたことが主な理由だった。それに二人が一緒に勉強しているのを見ていると仲睦まじい姉妹のようで、何だか自分が手を出すのははばかられていたのだ。
「あ、それなら」
朱里が恐る恐ると言った様子で手を挙げた。
「私も英語教えてもらいたいかな、なんて」
「何だよ、お前もか」
「ちょ、ちょっと今回はまずいかも……」
いつもなら噛み付いてくるところなのだが、今日の朱里はやけに大人しくて秀作は拍子抜けした。そう言えば、ここ最近の朱里は熱心にロボ子の勉強を見てくれていたから、そのせいで自分の勉強がおろそかになってしまったのかもしれない。そうなると、結果としてロボ子の世話を彼女に押し付けてしまったことが申し訳なく思えてくる。
「よし分かった、それじゃあ帰ったら勉強会だな」
「ありがと! 家に荷物置いたらすぐそっち行くね」
朱里は助かったーと少し安心した様子だった。
「おう秀作! 俺も参加するぜ!」
「ダメだ」
「ええっ!」
あっさりと拒否されて力也は悲痛な声を上げた。
「何でだよ!」
「悪いな力也、俺アルファベットも覚えてない奴に英語は教えられないんだ」
「いや酷いだろ! そこまで馬鹿じゃねぇよ!」
力也は拳を握って力強く抗議した。
「確かに最近までMとNの順番逆に覚えたけどさ!」
こいつホントにやばいんじゃないだろうか。今度から少しだけ優しくしてやろうと秀作は思った。
「あ、お前さては両手に花のハーレム作ろうって魂胆だな!」
力也は再び勢い良く立ち上がった。
「俺なんかがいたらハーレムにならないからってそう言うことだな!」
「おいおい落ち着けよ。俺だって流石に三人に同時には教えられないんだって」
「なになに、秀作のハーレム?」
秀作が力也を扱いあぐねていたところに、ハーレムと聞きつけてニヤニヤと笑いながら美佳がやってきた。
「アンタまたハーレム作り始めたの?」
「ったく、勘弁してくれよ」
また厄介な火種が増えたと秀作はため息をついた。
「シューサクさん、ハーレムって何ですか?」
ロボ子が不思議そうに首をかしげる。
「あのねえ、ハーレムってのは――」
「やめなさい」
不敵な笑みを浮かべつつ妙なことを吹き込もうとする美佳の額を、朱里がパチンと叩いて制止した。
「ちょっと三人で勉強会しようって言うだけの話よ」
「あら、勉強会ですか?」
美佳の後ろから静葉がひょっこりと顔を出した。
「楽しそうですね」
「いや楽しくはないだろ、勉強するんだから」
「いいえ、勉強もみんなですれば楽しいものだと思いますよ」
そう言って静葉はにっこりと笑った。
「そうだ、もしよろしければその勉強会、私の家でやりませんか?」
「静葉の家で?」
唐突の提案に秀作は驚いて静葉の顔を見つめた。
「アタシたちも、放課後一緒に勉強しようとしてたとこなのよ、静葉の家で」
「でも良いのかよ、そんなにぞろぞろとお邪魔して」
「構いませんよ。居間に広いテーブルがあって、みんなで勉強するにはうってつけなんです」
そう言う静葉は何だかうきうきとしているように声が弾んでいた。秀作は少し迷ったが、そのときロボ子が期待したような目で自分を見ているのに気付いた。
「ロボ子、その方が良いか?」
「はい!」
元気良く返事して、ロボ子はうんうんと首を縦に振った。みんなと一緒に勉強すると言う初めてのイベントに、ロボ子も期待を膨らませているのだろう。
こうして西園寺家での勉強会が決定した。
秀作が西園寺家を訪ねるのはその日が初めてだった。朱里から「凄い豪邸なんだから!」と聞いてはいたものの、実物は秀作の予想を遥かに超えていた。どうせ朱里は大袈裟に言っているのだろうとたかをくくっていたのだが、すぐさまその考えを改めることになった。
西園寺家は、正真正銘の豪邸だった。いや、豪邸と言うとどうも洋館のような響きがある。それよりは大邸宅と言う方がイメージに近いかもしれない。同じような意味なのかもしれないが、純日本家屋の西園寺家から秀作が受けたイメージはそういうものだった。
「本当にすげえ家に住んでんだな……」
「だから言ったでしょ、凄いんだって」
何故か朱里が誇らしげに胸を張った。
「すごいです! こんなに大きなおうち初めて見ました!」
ロボ子は心底感動した様子ではしゃいでいるようだった。
「いえいえ、広いだけがとりえのような家ですから。どうぞ遠慮なく上がってください」
そう言うと静葉は先頭に立って門から中に入っていった。後ろから「おじゃましまーす」と言いながら美佳が、朱里が、そしてロボ子が続く。秀作はそれを追って門をくぐった。
「おい秀作、静葉ちゃんってマジのお嬢様だったんだな……」
秀作の背後から、力也が声を潜めて耳打ちした。結局彼も頼み込んで、勉強会に参加させてもらうことになったのだ。
「ああ、俺もちょっとびっくりしてる」
「なに、二人とも知らなかったのか」
いつもの落ち着き払った声で、藤原が言った。どうせなら人数が多い方が良いと静葉が声をかけたのだ。彼女はいつも物静かだが、いざ行動し始めるとそれなりにアクティブだったりする。
「西園寺家と言えば地元では有名な名士だ。彼女は由緒正しき家のお嬢様と言うことになるな」
「へえ、全然知らなかったな」
秀作はそのような事情には疎かった。静葉からは上品で育ちが良さそうだという印象は受けていたものの、この家を見たら住む世界自体が違ったのだと改めて感じさせられた。
「シューサクさん、見てください! おっきなお魚です!」
ロボ子が喜んで指差した先、大きな庭の中央辺りには大きな池が作ってあった。そしてその中を巨大な錦鯉が何匹も悠然と泳いでいた。秀作は言葉を失う。
「あのお魚は食べられるのですか?」
「ロボ子、お前あいつらが一体いくらするか知ってるか?」
秀作に聞かれて、ロボ子は首をかしげた。
「紅白に大正三色、銀鱗も混じっているな……どれも一級品だ。数万から数十万はくだらんだろう。流石と言ったところか」
顎に手を当て、藤原は感心したように唸った。何故こいつは高校生にして錦鯉なんかに詳しいのだろうか。
「マジかよ……」
力也も値段を聞いて唖然とした様子だった。とんでもない所に来てしまったな、と秀作は心の中で思った。
勉強会はおおむね順調に進んだ。女性陣は真面目に勉強に取り組んでいたし、このような時に一番ネックになるであろう力也は豪邸に気圧されて大人しくなっておりとても静かだったから、勉強会の妨げになる要素はほとんどなかった。秀作は基本的にロボ子に勉強を教えていたが、彼女が問題を解いている間は自分の勉強も十分に進められたし、思った以上に有意義な勉強会にとても満足していた。
その上西園寺家の環境は非常に良く、冷房の程よく効いた広い部屋には大きなテーブルが置いてあって、全員が勉強道具を広げても十分にゆとりのある空間が確保されていた。さらには全員に良く冷えた麦茶まで用意されたので、あまりの環境の良さに秀作はむしろ申し訳なくなってしまったほどだった。
全体を通して、ロボ子と力也は教えてもらう側に属しているようであった。朱里はロボ子と一緒に英語をやっていて、美佳は苦手の理数系を藤原に質問していた。その藤原はと言うと、一貫して教える側に回っていて、自分の勉強をしている様子は一切なかった。それに気付いた秀作は不思議に思って質問してみた。
「藤原、お前自分の勉強は良いのか?」
「ああ、僕なら問題ない。試験対策は十分に済んでいるからな」
藤原は飄々とした様子で答えた。恐らくそれは本当なのだろうなと秀作は思った。実際に藤原は毎回ほぼ全科目で学年トップを維持している。
「はぁー、やっぱ秀才はちげえな」
隣で問題を解いていた力也が、集中力が切れた様子でシャープペンを投げ出した。
「やっぱりアレか? 毎日コツコツ予習復習って奴か?」
「いや、予習や復習の類はやったことがない」
「はっ?」
「というか、出来ないんだ。教材は全てロッカーに置いて帰るからな」
藤原はハハハと笑った。
「じゃあ藤原、お前試験前の追い込みだけで毎回トップ取ってるのか?」
秀作は驚いて訊ねた。何せ秀作は普段の予習復習に加え、試験前もきっちりと対策をやってそれでも藤原には敵わないのだ。
「いや、僕は授業意外では勉強はしないことにしているんだ」
その場に居る全員が言葉を失った。普段穏やかな表情しか見せない静葉までもが、驚きで目を見開いていた。ロボ子だけは集中してノートになにやら書き込んでおり、話が耳に入っていないようだった。
「おいおいおいおい流石に冗談だろ? な? 冗談だよな?」
力也は半ば必死に、藤原の肩に手を置いて訊ねた。
「冗談じゃないさ。授業中に極限まで集中すれば十分に可能だ。授業以外の時間は勉強よりも有意義なことに費やしたいからね」
藤原の笑顔は爽やかだった。力也はその大きな手をゆっくりと藤原から離すと、天井に顔を向けて「神よ……」と呟いた。
「その頭脳、ちょっとで良いから分けて欲しいわ……」
額に手を当て、ふるふると首を振りながら美佳が言った。静葉も朱里も曖昧に笑うしか出来なかった。ようやく空気が変わったことに気付いたらしいロボ子がノートから顔を上げ、目をぱちくりさせた。
しばらくして、藤原大先生による英語の授業が始まった。試験範囲となっている英文を全体を通しておさらいしておこうと言う趣旨のものだった。初めはロボ子に教えていただけだったのだが、そこに英語の苦手な朱里と全てが苦手な力也が加わり、次第に授業のような形になっていったのだ。藤原は勉強が出来るだけでなく教え方もびっくりするくらいに上手だった。
「……と言うわけだ。それでここの和訳はこう言う風になる。何か質問は?」
「はい、先生!」
ロボ子が手を挙げた。
「ここのthatなんですけど、これってwhatではダメなんですか?」
「良い所に気がついたね。これはとても紛らわしい用法なんだ。この部分はつまり……」
質問を受けてよどみなく説明を始める藤原は、そのまま学校で教壇に立っても何も違和感がない佇まいを持っていた。いやむしろ、秀作たちの普段習っている教師よりもずっと良い授業をしているようにさえ思われた。
思わず感心して聞き入っていると、秀作の肩を誰かがトントンと指先で叩いた。後ろを振り向くと、静葉が「ちょっとお手伝いお願いできますか?」と廊下の方を指差していた。秀作は小さく頷くと、他のみんなの邪魔をしないように静かに、静葉の後を追って廊下に出た。
「お母様がみなさんにおやつを用意してくれたんです。一人では運べそうにないので、お手伝いをお願いしようかと」
「ああもちろん手伝うよ。何か悪いな、そこまでしてもらって」
「いいえ、色々な方からお土産や盆歳暮でお菓子をいただくんですけど、とても家族では食べきれなくていつも余らせてしまうんです」
そんなにも色々なところからお菓子が贈られて来ると言うのは、改めて秀作に住む世界の違いを実感させた。
「みんな藤原くんの授業に集中していましたし、多分秀作くんならあのくらいは十分理解しているだろうと思ったので。迷惑でした?」
「い、いやそんなことないよ」
思いがけず静葉から高い評価を向けられたことで、秀作はついつい照れくさくなってしまった。
いくらか廊下を進んだところで、ようやく台所らしきところへと辿り着いた。そこは台所と言うよりも、ちょっとしたリビングくらいの広さはあった。調理器具や食器棚の類は非常に立派で、こんな場所で毎日料理が出来たら楽しいだろうなと秀作は主婦のような感想を抱いてしまった。
台所の中央に木目の綺麗なテーブルが置いてあり、その上にマドレーヌやクッキーなどのお菓子の盛られた皿が2つのトレイに分けて合計7つ置かれていた。お菓子はどれも高そうなもので、しっとりとしたバターの香りがふんわりと鼻腔をくすぐった。
「うわ、すげえ美味しそうだな」
「良かったらお土産にもお持ちしますか?」
「そんな、悪いよ」
「いいえ、まだ沢山余っていますから。悪くなったらもったいないですしね」
「そうか……それじゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」
「お帰りの時に渡しますね。紅茶なんかに良く合うと思いますよ」
静葉は秀作を見てにっこりと笑った。
「たしか紅茶、お好きでしたよね?」
「ああ、紅茶は良く飲むよ。あれ、前にそんなこと話したっけ?」
「よく朱里ちゃんから聞いてるんですよ」
静葉がふふっと小さく笑って、秀作は照れくさくなってしまった。誤魔化すようにぽりぽりと右手で頭をかいた。
「では、片方お願いします」
そう言って静葉は皿が4つ載った方のトレイを持ち上げた。秀作は残った方のトレイを持ち上げると、このいかにも高そうな食器を割ってしまうことがないように注意して静葉のあとに続いた。
「実はもう一つ」
二人で廊下を歩いていると、静葉がおもむろに口を開いた。
「お聞きしたいことがあるんです、秀作くんに」
「聞きたいこと?」
「ええ、大事なことです。それで部屋からお連れしました」
みんなのいる部屋が見えてきた辺りで、静葉は足をとめた。立ち止まった静葉の後ろで、秀作も足を止める。
「ロボ子さんのことです」
ロボ子という名前が出て、秀作は息を呑んだ。
「彼女は一体、何者ですか?」
静葉は身体ごと振り返り、まっすぐと秀作の目を見た。問いただしたり、責め立てるような目ではなかった。しかし秀作は、その目から明確な感情を読み取ることが出来なかった。深く沈むような、とても落ち着いた目だった。
「何者って……俺の遠い親戚で……」
「どういった?」
「いや詳しいことは覚えてないけど、たしかこう、はとのこなんちゃらで……静葉にもいるだろ、そういう詳しく関係を知らない親戚が」
「いることにはいます。でも、私なら関係も曖昧なくらい遠い親戚に自分の娘は預けない」
「うっ……」
秀作は言葉に詰まる。確かにそれは、そのとおりだ。
「まあいいでしょう。そこは家庭の事情です。外から口を出すのはやめておきましょう」
意外とあっさりと引いてくれて、秀作はホッと胸をなでおろした。
「では質問を変えます」
「……」
「彼女はどこから来たのですか?」
「えっと、確か実家は神奈川の方で……」
「と言うことは、彼女はずっと日本に住んでいますよね?」
「そうだよ」
「でも、学校教育は受けていない」
「えっ……」
唐突に鋭く切り込まれて、秀作はギクりとした。
「彼女に勉強を教えていて気付きました。確かにここ最近頑張って勉強したようですが、彼女の基礎的な学力には欠けている部分が目立ちます。ぽっかりと穴が開いている、と言う方が近いかも知れません」
「いやそれは……親の都合で転校とかも多かったらしいしな、こっちに来てからはバタバタしててまともに学校にも通えなかったんだ」
「そういうことではないのですよ」
静葉はゆっくりと首を振った。
「確かに、いくらか授業を受けられなくて勉強が遅れてしまったようには感じました。でも彼女はそれなりに努力してそれを埋めています。おそらく期末試験でも、力也くんよりずっと良い点数を取るでしょう」
秀作には静葉が何を言いたいのか、話がどこに向おうとしているのかが分からなかった。
「でも、やはり不自然なんです。英語を教えていて感じたんです。彼女は英語が苦手なのではありません。彼女からは英語の基礎的な部分がきれいに抜け落ちています」
「基礎的な部分?」
「過去形や複数形の変化が上手く出来ません。三単現のsも頻繁に間違えます。haveをhasではなく、havesと変化させたときは引っくり返るかと思いました。関係代名詞や副詞節をきちんと使いこなせるのに、彼女はそんなミスをするんです。私の言いたいこと、分かりますか?」
「……」
正直なところ、秀作には少しずつ静葉の言いたいことが分かり始めた。そして自分の見積もりがいかに甘かったか、そのことをジワジワと感じ始めていた。
「彼女は義務教育を受けていません。他の科目は誤魔化せても、語学だけはそうはいかない。彼女は間違いなく、ごく最近まで英語を勉強したことがありませんでした」
「いやそれはさ、中学の頃は特に事情が複雑で、学校にもほとんど行けなかったらしいから――」
「そういうレベルでもないように見えるんです。まるでとても覚えの早い子が初めて英語という存在に、それも高校の単元から触れたような、そう言う間違い方に私には見えるんです。それにあの子の真面目さを見ていたら、学校を休みがちでも遅れないように頑張ったんじゃないかって、そう思えてなりません」
静葉の言っていることは全て筋が通っていた。そして当たり前のことだが、筋が通っていないのは自分の方なのだから、秀作には返す言葉が一つもなかった。
「ごめんなさい、こんな風に問い詰めるつもりはなかったんです。ただ気がかりだったんですよ。この日本で、義務教育を受けていないということがどれだけ稀有か分かりますか?」
「確かに、ちょっと珍しいかもしれないな……」
「相当ですよ、秀作くん」
静葉は訂正した。
「これ以上人様の事情に、それが家庭の事情なら特に、土足で踏み込むのは良くないですよね。今でもやりすぎたくらいですし、もうこのくらいにしておきます。秀作くんに嫌われたくないですしね。でも……」
静葉は秀作の目をじっと見つめて言った。
「心配してるんですよ、私は。あなたや朱里ちゃんみたいに親しい人達が何か妙なことにでも関わっているんじゃないかって。だからお節介かもしれないですけど、こうして訊ねずには居られなかった。分かってくれますか?」
訊ねられて、秀作はこくりと頷いた。
「何か事情があるみたいですし、私からはもう何も言いません。でも、何か困ったことがあったらいつでも相談してください。こんな言い方は感じが良くないかもしれないですが、うちはお金も地位もある家です。何か力になれるかも……」
そう言って静葉は、静かに瞳を伏せた。張り詰めた緊張感はいつの間にか消えていて、秀作はむしろ申し訳ない気持ちになった。
「ごめん、妙な心配かけちゃったみたいで。事情が複雑だから今はちょっと話せないけど……でも危険なこととかはないから、大丈夫」
静葉は少しだけ迷ったみたいだったが、ゆっくりと頷いた。
「わかりました。その言葉、信じます」
「ありがとう。あ、あとこのことは――」
「言いふらしたりはしませんよ。もちろん、美佳ちゃんにも。安心して下さい」
秀作はホッとして、怪しまれたのが静葉相手で良かったなと思った。
「そろそろ戻りましょう。流石にみんなが待っているでしょうし、あんまり遅いと変に勘ぐられてしまうかも」
静葉はクルリときびすを返してしまったので、笑いながらそう言った彼女がどんな顔をしていたのか、秀作には見えなかった。
「なあ静葉」
扉を開けようと手を伸ばした静葉に、秀作は後ろから声をかけた。彼女の手がピタリと止まる。
「ありがとうな、心配してくれて」
秀作が言うと静葉は顔だけで振り返って、それからいつものようににっこりと笑った。
二人が部屋に戻ったとき、相変わらず藤原の授業は続いていたがそれも終盤だったらしい。お菓子の匂いにつられて生徒たちは顔を上げ、自然とお開きになった。
「うおお! 美味そうじゃねえか!」
「とってもおいしそうです!」
力也とロボ子は重力に引かれるようにお菓子の皿に吸い寄せられていった。
「はいはい焦らなくても、ちゃんと全員分ありますからねー」
そう言いながらそれぞれの前に一皿ずつお菓子を配っていく静葉は、まるで小さな子どもを世話するお母さんのようだった。あと、待ちきれないと言う様子でそわそわする力也は「待て」と言われた犬のようだった。秀作が試しに「よし」と号令をかけると、力也は勢いよくマドレーヌにかじりついた。
「って俺は犬じゃねぇ!」
そうもぐもぐしながら抗議すると、全員が声を出して笑った。
それからみんなでお菓子を食べながら談笑した。みんな勉強後の開放感で、いつも以上に上機嫌だった。
秀作はちらりと、静葉の方に目をやった。静葉は何事もなかったようにみんなと一緒に笑っていた。いつもと同じ控えめな笑い方だけれど、いつもと同じ優しい笑い方だった。秀作の胸がチクリと痛んだ。
みんなと一緒に笑いながらも、どうしても秀作は色々なことを考えずにはいられなかった。やはり自分は間違っていたのだろうかと。ロボ子が学校にやってきたあの日、すぐさま瑞城に電話するか、理事長に直接掛け合うかしてロボ子の転入をなかったことにしてもらうべきだったのかと。だって確かに無理があったのだ。確かにロボ子は学校に来たかったのかもしれないし、手配をしたのは自分でなく瑞城だ。でも藍作からロボ子を託された以上は、秀作には彼女の正体を隠し通すという義務があったはずだ。母親の暴走を止めるという義務があったはずだ。本当は心を鬼にして、ロボ子を家に閉じ込めておくべきだったのかもしれない。それなのに情に流され、浅はかな選択をして、結果的にロボ子を危険に晒してしまったとしたらそれは自分の責任だ……
でもこうやってみんなと、楽しそうに笑うロボ子を見ていると、秀作は自分の選択がそう悪いものだったとは思えなかった。だって彼女は、学校に来るまでこんな風には笑わなかったのだ。
秀作と二人で家に居たとき、ルビーと遊んでいるとき、確かに彼女はよく笑った。よく笑う無邪気な子だった。だけど今のように、こんなにも幸せそうに心から笑うのを秀作は見たことはなかったのだ。
だから多分間違いではない。間違いにしてしまわないためにも、今まで以上にしっかりと、この子を守らないといけないんだ……
机の下で小さく拳を握って、秀作はそう決意した。
「はい、それでは答案を返します。出席番号順に一列に並んでー」
分厚い眼鏡をかけた小太りの英語教師がそう言うと、生徒がいっせいに席を立ち上がった。
「えーいつものことだが、50点未満には補習があります。必ず受けるようになー」
補習と聞いて、力也を含めた何人かの生徒は表情を強張らせた。自分の答案がどれだけ酷いものだったのか心当たりがあるのだろう。ロボ子も微かに頬を強張らせているようだった。
答案を受け取ると秀作の点数は88点だった。いくらかミスもしていたがまずまずの点数だった。
「秀作ー何点だった? おう、流石」
点数を覗き込んだ朱里は感嘆の声を上げた。
「お前は?」
「へへ、じゃーん」
朱里はご機嫌な様子で答案を掲げた。
「78点、自己ベスト更新です!」
いぇいとピースをする朱里の後ろで「うぉーーーーー!」と獣の雄たけびが上がった。そんな声を出す奴はクラスに一人しかいない。何人かの女子は突然の咆哮にビクッと肩をすくませていた。
「ほら杉原、うるさいぞ。さっさと席に戻りなさい」
小太りの教師が顔をしかめて眼鏡をズリ上げる。力也の方は「ありがとうございます! ありがとうございます!」と言いながらでかい身体でぴょんぴょんと飛び跳ねて秀作の所までやってきた。
「見たか秀作! 見事に補習回避! 51点だ!」
「いやギリギリじゃねえか!」
力也の答案を見てみると、確かに右上に51と赤ペンで書き込まれていた。
「まあ良かったじゃん。……あ、採点ミス発見、マイナス2点だ」
「うぇ!?」
小躍りしていた力也は全身の捩れた奇妙な格好でピタリと動きを止めた。
「嘘だよ」
「秀作てめぇ! 勘弁してくれよマジで!」
力也はプルプルして怒っていたが、朱里はそんな力也の様子に腹を抱えて笑っていた。
生徒の列は段々と短くなり、一番後ろに並ぶロボ子の順番が回ってきた。転校生である彼女は出席番号も一番後ろになっているのだ。
ロボ子は緊張した面持ちで教師の前に立ったが、答案を受け取った瞬間顔をパーッと輝かせたので、秀作は報告を聞かずとも十分に結果が予測できた。
「シューサクさん、やりました! ロボ子も補習じゃありません!」
笑顔で席に戻ってきたロボ子は嬉しそうにそう言った。
「ってロボ子ちゃん、補習どころか私より点数良いじゃない!」
ロボ子の答案を見て、朱里は驚いたように声をあげた。ロボ子の点数は81点だった。
「お前よく頑張ったな」
秀作は心から感心してそう言った。あの勉強会のあと、試験までの間ロボ子がどれだけ一生懸命勉強していたかは秀作が一番良く知っていたが、それでもまさか短期間でこれだけの点数が取れるようになるとは思ってもいなかったのだ。
「えへへ、みんなが教えてくれたお陰です」
ロボ子は照れながら、嬉しそうに笑った。
こうして心配だった英語を見事にクリアして、ロボ子は補習ゼロで夏休みを迎えることが出来た。朱里も秀作も補習はなく、藤原や静葉はもちろんのこと、美佳も苦手な理数系をきちんと克服して補習なしの夏休みを勝ち取っていた。
そして力也は、英語以外全部補習だった。
世間では夏休みが終わったところですが、このお話は次話から夏休みです!
引き続きよろしくお願いします!