第3話 ―ロボ子・アローン―
「それじゃあ、俺は学校に行ってくるからちゃんと留守番してるんだぞ」
「任せてください!」
「昼飯は作り置きが冷蔵庫に入ってる。食器は洗わなくても良いけど水にはつけておいてくれ。電話がかかってきたり、誰かが来ても絶対に出ないこと。それから勝手に出歩いたりするのもダメだ。あとー―」
「シューサクさんのお部屋には勝手に入らない、ですよね! ちゃーんと分かってるので大丈夫です!」
「うーん、それなら良いけど……」
秀作は尚も不安そうに、玄関の扉を開けたままロボ子を見ていたが、ちょうどそのとき秀作と同じく登校しようとしている朱里がやってきた。
「あら秀作、まだいたんだ。急がないと遅刻よ? あ、ロボ子ちゃんおはよう!」
「おはようございます!」
ロボ子は礼儀正しくペコリと頭を下げた。
「あ、そっか。一人でお留守番かー頑張ってね!」
「はい! 全力でお留守番したいと思います!」
力強くこぶしを握ってロボ子は答えるが、留守番は全力でするようなものではない。
「それじゃあ、ホントに余計なことはしないようにな!」
「バイバイ、ロボ子ちゃん」
「はーい、二人ともいってらっしゃーい!」
二人を元気よく見送ると、ロボ子は前もって言われていたように内側からしっかりと鍵をかける。秀作がいなくなって家に一人になってみると、その意外なほどの静けさがピンと張りつめたようで、なんとなく居心地が悪くなってしまった。
ロボ子は少しの間そのまま玄関に立ち尽くしていたが、思い出したかのように早足でリビングに戻ると、テレビのスイッチを入れた。テレビから陽気な音楽と全国のお天気情報が飛び出し、家の中に少しだけ活気が戻った。
「へえー、キョート? は今日は雨なんですね。このおうちの周りはこんなに晴れてるのに、不思議です」
ロボ子は窓の外を見た。明け方までは少し雨が降っていたようだったが、今はもう目が覚めるような青空が広がっていた。
「うーんと、ここはどこなんでしょう?」
ロボ子はテレビ画面に近付いて、大きく映し出された日本地図とにらめっこを始めた。
「良く分かりませんが、多分ここですね! 一番大きいですから!」
ロボ子が指差したのは北海道だったが、ここは東京だった。
うんうん、と満足げに頷く彼女をよそに、テレビ画面が映像を切り替える。始まったのはワイドショーで、最近起こった芸能人のスキャンダルについての情報が垂れ流される。ロボ子はそれを真剣に見つめた。
「ふむふむ、なるほど。これはひどい話ですね……でも、この方どなたなんでしょう……」
誰かも分からない人の話を続ける番組の面白さがロボ子には良く分からず、とりあえずチャンネルを変えた。
次に映し出されたのはグルメ番組で、リポーターが美味しそうな料理の数々を紹介していた。
「うわー、すごいです。こんな大きなおさかな……ぜったい食べきれません」
画面には捌かれる前の巨大なマグロが映し出され、ロボ子は目をむいて驚いた。こんな巨大な魚が存在するなんて想像したこともなかったのだ。今まで見たことがあったのは、せいぜい藍作に食べさせてもらったシシャモくらいのものだった。お腹にいっぱい小さな卵を持った子持ちシシャモはロボ子の大好物になった。
それから場面が切り替わり、今度は豪華な肉料理になった。ジュウジュウと鉄板の上で焼きあがる分厚いステーキと、切った途端に流れ出す肉汁……ロボ子はステーキを食べたことはなかったが、肉料理は大好きだった。
「うわー、こんなお肉食べてみたい……今度シューサクさんにお願いしてみましょう。ステーキ、と言うのですね……」
画面にかじりつくようにして、ロボ子はゴクリと生唾を飲み込んだ。さっき朝ごはんを食べたばかりなのにお腹が空いてしまっているのに気付き、慌ててテレビの電源を消した。
「いけませんいけません! 世界には誘惑がいっぱいです……」
そう言って立ち上がると、チラリとキッチンの冷蔵庫の方に目を向けた。その中には秀作が作っておいてくれたサンドイッチが入っている。ロボ子のリクエストに応じてハムとチーズを入れてくれたものだ。
しかし今食べたらお昼の分がなくなってしまうし、夕食の時間までお腹が持たなくなってしまう。
ロボ子は頭をふるふると振って、食欲をそこから追い出す。
「うー、暇つぶしと言うのは難しいものですね。暇さん、意外と手ごわいです」
暇で仕方がないというのは、ロボ子にとっては初めての体験だった。
これまで、研究所にいた時には藍作の研究の手伝いをしたり、そうでない時でも沢山研究員の人たちがいて相手をしてくれていた。研究に疲れた研究員たちにとっても、彼女と過ごす時間は癒しのひと時だったのだ。それにみんなが忙しくしている時でも、研究所には散歩したり探検したりするのに十分な広さと施設があった。たまに入ってはいけない場所に入って怒られることもあったが、それも含めてロボ子には退屈することのない毎日だった。
「何か面白いものはないですかねえ」
ロボ子がきょろきょろと部屋の中を見回すと、庭へと続く掃き出し窓の外を小さな黒猫が歩いているのを見つけた。
「あ、ねこさん!」
ロボ子は目を輝かせ窓の方に駆け寄った。黒猫はロボ子に気付いたようで、顔だけをロボ子の方に向けてその場に足を止める。目が赤く、毛並みの良い黒猫だった。
「可愛いなあ……」
ガラス戸に張り付くようにして、ロボ子は黒猫を見つめていた。黒猫も動こうとせず、じっとロボ子を見つめ返す。ロボ子は思い切ってガラス戸を開けようとしたが、鍵がかかっていることに気付いて慌てて鍵を外した。
ガチャガチャと音を立てたことで黒猫もびくっとしたが、相変わらず逃げていこうとはしなかった。ロボ子はガラス戸を開けると、置いてあったスリッパをつっかけて庭に飛び出した。一瞬「勝手に出歩くな」と言う秀作の言葉を思い出したが、多分庭だけなら大丈夫だろうと勝手に納得する。
「ほらほら、ねこさーん、こっちですよー」
しゃがみこんだロボ子は、右手を差し出し、黒猫に手招きする。しかし黒猫は様子を伺っているばかりで、一向に近付こうとしない。
「こわくないですよー」
ロボ子は諦めずにラブコールを続けるが、そのうち黒猫はぷいとそっぽを向いてぴゅーと勢いよく走り去ってしまった。
「ああ、待ってください! きゃっ!」
慌てて追いかけようとしたロボ子は、履きなれていないスリッパにバランスを崩し、立ち上がり損ねてそのまま派手に転んでしまった。
「あいたたた……わあ!」
強く打った膝をさすりながら立ち上がったロボ子は、自分の服が泥だらけに汚れてしまっていることに気付いた。夜の間に降ってていた雨で、地面の土がぬかるんでいたのだ。
「どうしましょう……アカリさんに借りたお洋服なのに……」
喜んで貸してくれた朱里の顔が脳裏に浮かぶ。秀作も汚さないようにと気を使ってくれていたのに……
ロボ子は泥で汚れてしまった部分をパタパタとはたくが、湿った土はなかなか思うように落ちてくれない。
「お洗濯できれいになるでしょうか……」
しょんぼりしながらロボ子は部屋の中に戻った。改めて汚れたTシャツを見て、ジワリと目頭が熱くなった。そのままリビングの床に三角座りで座り込み。まだズキズキと痛む膝を抱き寄せるようにして顔を埋めた。
どれくらいそうしていたかは分からない。気付けば左手の辺りにざらざらと湿った感触を感じ、ロボ子は慌てて目を開けた。そちらを見やると、先ほどの黒猫がロボ子を慰めるように左手をペロペロとなめていた。
「あれ、さっきのねこさんですか?」
ロボ子が訊ねると、黒猫は答えるようにニャーと鳴いた。ロボ子の閉め忘れた窓から、勝手に入ってきてしまったらしい。ガラス戸からロボ子のところまで、点々と小さな足あとが続いていた。
「わわ、ダメですよ勝手に入ってきちゃ! シューサクさんに怒られてしまいますっ」
ロボ子は慌てたが、黒猫はお構いなしでロボ子にじゃれついてきた。さっきは逃げていったくせに、本当に気ままな猫だった。
「あはは、よしよし、良い子ですねー」
じゃれつく黒猫の頭をなでていると、ロボ子の気持ちも少しずつ軽くなってきた。
「あ、そうだ。ねこさんきっとお腹空いてますよね! ちょっと待っていてくださいね!」
ロボ子はそう言うと、キッチンに走っていって冷蔵庫からサンドイッチを取り出した。リビングに戻ると、さっきまでと同じ場所に黒猫はちょこんと行儀よく座っていた。
「はい、本当はロボ子のお昼ごはんですが、少しだけ分けてあげます」
そういうと、ロボ子はラップを外し、サンドイッチの中からハムを一枚抜き取ると、小さくちぎって黒猫の前に置いてあげた。黒猫はちらりとロボ子の方をうかがい、注意深くハムの匂いを嗅いでいたが、やがてパクリとハムにかじりついた。
「えへへ、おいしいですか?」
そうたずねるロボ子をよそに、黒猫はロボ子の左手に残ったハムを食べようと必死で前足を伸ばした。
「だめですよー、ロボ子の分がなくなってしまいます!」
ロボ子は言うが、黒猫はもの欲しそうにハムを見つめ、諦める様子がない。そんな様子にロボ子は少し悩んだが、思い切って残りのハムも半分にちぎって黒猫に与えた。
「まったく、食いしんぼうさんですねえ」
ロボ子は呆れたが、おいしそうにハムを頬張る黒猫の可愛さで、思わず頬も緩んだ。ちいさくなってしまったハムをパンの間に戻し、昼食のサンドイッチにかじりつく。
「わあ、おいしいです。やっぱりシューサクさんは料理の才能がありますね」
市販のパンとハムとチーズ、それから少しのレタスが挟まっただけのシンプルなサンドイッチを、ロボ子は本当においしそうに食べた。秀作はいくつかサンドイッチを用意していてくれたので、全て食べ終わった時にはロボ子もそれなりにお腹いっぱいになっていた。
「はー、おいしかった。ねこさんも満足しましたか?」
黒猫はロボ子の太ももに手を置くと、ニャーと物足りなそうに鳴いた。ぷにぷにとした肉球の感触がちょっとだけ気持ち良い。
「えー、まだ足りないのですか? 困りましたね……」
そういうとロボ子は再びキッチンに走り、冷蔵庫を開けた。中にはいろいろなものが入っていたが、何なのかロボ子に分かるものはとても少なく、どうすれば良いかよくわからなかった。
やがてロボ子は牛乳のパックと、偶然目に留まった魚肉ソーセージを一本、それから小さな深皿を一枚持ってリビングに戻った。
「ねこさんの好きそうなものを見つけてきました!」
ロボ子が目を輝かせて言うと、猫も嬉しそうにロボ子に飛びついた。
「ほらほら慌てないで、まずミルクをあげますからねー」
深皿に牛乳をついで床に置くと、黒猫はいそいそとそれを舐めはじめた。
「うーんと、それからこれはどうやって開けるのでしょうか?」
ロボ子はペタリと床に座り込んで考えた。魚の絵がパッケージに書いてあったからきっと猫も好きだろうと思って持ってきてみたが、そもそもロボ子は魚肉ソーセージと言うものを見るのも初めてだった。
「このちっちゃい銀色のを外せば良さそうなのですが……」
開け口の切れ込みに気付かず、ロボ子は端っこの金属と格闘を始める。しかし回しても引っ張っても、なかなかそこが動くことはなかった。
「どうして開かないんですか! 食べられないじゃないですか!」
うんともすんとも言わないソーセージに次第にロボ子は腹を立てはじめる。そしてしびれを切らすと、思い切って少し行儀悪くビニールの包装にかみついた。
「えへへ、やりました! ロボ子の勝ちです!」
豪快に噛み千切った魚肉ソーセージを、ロボ子は勝ち誇ったように右手に掲げた。すると黒猫もそれに気づき、ソーセージにありつこうとロボ子の身体をよじ登り始めた。
「はいはい、焦らなくてもちゃーんとあげますからねー」
ロボ子がソーセージを差し出すと、黒猫は喜んでそれをかじり始めた。ロボ子自身も、ソーセージを半分ちぎって口に運んでみる。
「わぁ、おいしいですね、これ。ねこさんも好きなはずです!」
そうして一緒に過ごしていると、ロボ子は暇を持て余していたことなどすっかり忘れてしまっていた。
あっという間に二人?でソーセージを平らげてしまい、すっかり満足してしまうとロボ子はごろりとその場に横になった。窓からはいつの間にか温かい日差しが差し込んでいて、床の上はとても心地良かった。ねことの時間をすっかり楽しんだロボ子は、先ほどまで落ち込んでいたことなどすっかり忘れてしまっていた。
心地良くなってうとうとするロボ子の隣に、満腹になった黒猫がそろそろと近づく。それから興味深そうに、くんくんと床に広がったロボ子の髪を嗅ぎ始めた。
「うふふ、気持ち良いですねー」
ぼんやりとした様子でロボ子がつぶやくと、返事をするように黒猫はロボ子のお腹の辺りにぴょんと飛び乗り、そこに体を丸めた。
ロボ子は満足そうに、お腹の上の温かく小さなお友達を撫でると、そのまま柔らかいまどろみの中に身をゆだねていった。
秀作は授業が終わると、まっすぐに家に帰ってきた。部活に入っていない秀作は大体いつもまっすぐ家に帰るのだが、今日は特に素早かった。もちろん、一人で留守番するロボ子が心配だったからだ。
「流石に退屈してるだろうな」
そう言いながら鍵を回し、玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
いつもは家に誰もいないので何も言わない秀作には、こうして「ただいま」と言うのは何だか新鮮だった。
しかし、秀作の声には返事がなく、相変わらず家の中は静まり返っていた。聞こえなかったのだろうか? と思いながら、秀作は靴を脱いで玄関に上がる。
「ロボ子ー、今帰っ――」
リビングのドアを開けて、秀作は固まった。一瞬事態が理解できなかった。
服を泥だらけにしたロボ子が床に転がって眠っており、なぜかそのお腹の上では小さな黒猫が一緒に眠っていた。彼女たちの周りにはサンドイッチの入っていた皿とそこにかけてあったラップ、牛乳の入った深皿、びりびりにちぎられた魚肉ソーセージの包装が散らばっており、机の上には牛乳パックが出しっぱなしになっている。表面に結露がないところを見ると、おそらく相当長い時間放置されていたようだ……多分もう悪くなっている。
庭に続く掃き出し窓は開けっ放しになっており、そこからロボ子たちのいる辺りまで、泥で猫の足跡が点々と残っていた。
綺麗好きの秀作には、それは耐え難い光景だった。あまりの惨状に、秀作は言葉を失う。たった一日、たった数時間、学校に行っている間だけでこんな、こんなに……
秀作の気配に気づいて、黒猫がピクリと動く。それからドアを開けたまま突っ立っている秀作を見ると、その赤い目をぱちくりとさせた。
ロボ子は相変わらずすやすやと、気持ちよさそうに寝息を立てていた。彼女ののんきな様子を見ていたら、秀作の心にふつふつと、抑えがたい感情が湧き上がってきた。
「なあああああにやってんだあああああああああ!」
亜司母家に、怒りの声が響き渡った。