第11話 ―真夏の海と青春と―
「ごめんなさいね、突然お邪魔して紅茶まで……」
「いやちょうど紅茶淹れようとしてたところなんだ。量が変わってもほとんど手間は同じだし」
秀作はそう言って紅茶を啜った。いつもの豊かな香りが口の中に広がる。
「美味しいですね、この紅茶。とっても良い香り……」
「あ、わかる? 実はこれ、最近のお気に入りなんだよ」
お気に入りの紅茶を褒められた秀作はとても機嫌が良さそうだった。
「そう言えば秀作の紅茶飲むのも久しぶりね」
朱里は紅茶にせっせと砂糖を足して、それからミルクを入れて混ぜていた。秀作の隣ではロボ子も同じように甘ったるいミルクティーを作っている。紅茶はいつも無糖で飲む秀作は、その甘さを想像しただけで少し胸焼けすらしてきそうだった。秀作の向かいに座る静葉だけは彼と同じようにストレートの紅茶に口をつけていて、そのことが秀作を少しだけ安心させた。
「そういえば、今日はどうしたの?」
「ああいけない、忘れてしまうところでした」
秀作に言われて思い出したかのように、静葉はバッグの中身をごそごそと漁った。
「はいこれ、お借りしていた本を返そうと思いまして」
静葉が取り出したのは一冊の文庫本だった。机の上に置かれたそれを、ロボ子が不思議そうに覗き込む。
「一九八四年……?」
ロボ子が表紙に書いてある本のタイトルを読み上げた。タイトルからは内容は全然想像できなかった。表紙のデザインも大きく「一九八四年」と縦に書いてあるきりで、そこから内容を想像できるような情報は何も見当たらなかった。
「1984年に書かれた本ですか?」
「いや違うよ。この本が書かれたのは1948年だ」
まあ出版されたのはその翌年のことなんだけど、と秀作は小さく付け加えた。
「1948年ですか? 48年なのに、84年……?」
「そう、未来を描いた近未来SFだったんだ、当時は。今からするともう過去だけどね」
本について話す秀作は活き活きとして、そんな秀作をロボ子の目には少し新鮮に映った。。
「それにしても、わざわざ返しに来なくても学校で……って夏休みか」
「ええ、それで、ちょうど朱里さんのおうちまで来たので、ついでにと思いまして。それに、とても感銘を受けたので早くそのことを伝えたくて……感動は生ものですからね」
「あ、そんなに気に入ってくれたんだ! いやー貸して良かったよ」
「お借り出来て本当に良かったです。はらはらするお話でしたけど、なにより描かれてる未来が何だか……SFっぽくないと言いますか、本当にリアルでびっくりしました」
「そう、そうなんだよね。オーウェルの作品ってそういうところがある。この作品だと近未来を描いているのに他人事ではないんだよね。そこに同じ血の通った人間が生きていて、自分たちの世界と同じものなんだっていうのを肌で感じさせてくれる」
「まさにそれです! 読みながらこれはあくまでも小説だし、私たちの世界とは色々なところが違うって分かっていながらも、どうしてもそう切り離してはしまえないんです。私たちも、私たちのいるこの社会も、多かれ少なかれこういうところがあるんじゃないかって少し怖くなってしまうくらい……」
二人の会話はドンドン白熱していって、朱里もロボ子も全くついていくことが出来なかった。朱里は少しつまらなそうに、ティーカップの底に溶け残った砂糖をスプーンの先でジャリジャリとすり潰した。
「オーウェルは元々ルポルタージュ作家だったりするからね、そういう側面も少なからず出てるんだ。そういうそんな風に感じてくれたなら彼の他の作品も読んでみてほしいな。『動物農場』なんてSFよりももっと非現実的な寓話の形で書かれてるんだけど、これも読んでみるとすごく切実に迫ってくる。もし興味があればそっちも貸すよ」
「是非お借りしたいです! どういうお話なんですか?」
「設定自体は本当に寓話なんだ。農場で搾取されていた動物たちが団結して人間を追い出してしまう。そしてみんな平等で幸福な動物のための農場を、豚が指導者になって作りあげる。だけどそこで――」
「ちょ、ちょっとストップ!」
いよいよ白熱し始めた二人の会話を朱里が手を挙げて制した。調子よく話していたのを止められて、秀作は不満そうに朱里に目を向けた。ロボ子は話に飽きてルビーの肉球をプニプニと触って遊んでいた。ルビーはそこから逃れようとしていた。
「二人とも引きこもって読書ばっかりしてるわけ? 夏なのに? 夏休みなのに?」
「読書ばっかりというわけではありませんが……」
静葉は思わず苦笑いを浮かべて答える。
「何言ってんだよ朱里、夏休みだからこそゆっくり本を読めるんじゃないか」
「違うでしょ! こんなに天気が良いのに! 外に出て遊ばなきゃ!」
「外は暑い。部屋は涼しい」
「ったくこれだから……」
朱里はやれやれと肩をすくめた。
「良い? 本を読むのは学校があってても合間の時間に出来るでしょ? だけど夏休みみたいにまとまった時間が取れるときにしかできないことだってあるって言ってるのよ」
「本の一気読みか」
「黙りなさい」
軽口を叩く秀作を、朱里はギロリと睨みつけた。
「夏休み! 良い天気! それなら行く所なんて一つしかないじゃない!」
秀作は「本屋」と言う言葉をグッとこらえて飲み込んだ。
「海よ海! 海水浴に行くのよ!」
朱里は両手をバンッと机に打ちつけ、勢い良く立ち上がってそう言った。その勢いに驚いたロボ子は思わずルビーの手を離し、ルビーはそそくさとその場を立ち去った。
「海……ですか?」
「そうよロボ子ちゃん! ロボ子ちゃんも海行きたいでしょ!?」
「行ってみたいです! 海ってとっても広くて、水がたくさんあって、お魚さんがいっぱいいて、楽しいところなんですよね!」
「その通りよ! 良く分かってるじゃない!」
ロボ子の手を取ってブンブンと振りながら、朱里は目をキラキラさせていた。そしてロボ子の方も彼女に負けず劣らず目を輝かせていた。
「良いですね、海水浴」
元気な二人とは対照的に、静かに微笑みながら静葉が言った。
「随分と長い間海を見ていない気がしますし、みんなで行ったらとても楽しそうです」
「だよね! みんなで海行きたいよね!」
朱里はうんうんと頷いて、それから秀作に目を向けた。
あまり気乗りのしない秀作は「うっ」と言葉に詰まる。
「シューサクさん、海に行きましょう!」
ロボ子もキラキラした目で秀作を見つめた。秀作が縋るような気持ちで目を向けると、静葉もにっこりと微笑みながら秀作の方を見ていた。秀作は小さくため息をついて「わかったよ」と小さく答えた。
こうして秀作たちは海水浴へと赴くことになった。
秀作たちの住む街から海までは電車を乗り継ぐとそう時間はかからない。海水浴の計画が持ち上がると、朱里がとんとん拍子に計画を立て、すぐに実行に移された。そうして秀作、ロボ子、朱里、静葉に加えて美佳、力也、それから藤原の合計七人は沢山の人で賑わう真夏の砂浜へとやってきていた。
「よいしょっと。よし、これで完璧だろ!」
砂浜にようやく空いている場所を見つけ、レンタルの大きなパラソルを立てた力也は満足そうにそう言った。こういう力仕事に関しては筋肉自慢の彼はむしろすすんで引き受けてくれるのでみんな感謝していた。
「サンキュー力也」
「このくらいちょろいもんよ。にしても遅せえなあ、あいつら」
力也はちらりと女子更衣室の方に目をやる。今この場にいるのは秀作、力也、それから藤原の三人のみで、残りの四人はまだ一人として姿を見せていなかった。
「女性の方はまた色々とあるのだろう。男のように簡単にはいかないというものさ」
涼しい顔でそう言う藤原は、水着の上から長袖のパーカーを羽織っていて見ているだけでも相当に暑そうだが、汗一つかいている様子はなかった。
「それにしてもよぅ、ちょっと遅すぎんじゃねぇか?」
「何だよ力也、お前どうせ早くみんなの水着姿が見たいだけだろ」
「あったり前だろ!」
力也は拳を握って力説し始めた。からかうつもりで言った秀作は、思いがけず開き直られてしまって少したじろいだ。
「大体お前なぁ! こんなメンバーで海に来られるのがどれだけ幸せなのか分かってるのかよ! 俺はお声がかかったとき夢でも見てるんじゃないかと思ったぜ! そのくらい幸せなことなんだ! 奇跡なんだ! だから補習も休んできた!」
「補習には行けよ」
秀作は呆れた声で小さくツッコミを入れた。
「馬鹿野郎! こんなに素晴らしい、素晴らしいお誘いより補習なんかが大事な訳があるか!」
力也は秀作の肩に手を置いてぐわんぐわんと揺さぶった。秀作は視界を大きく揺さぶられ、「わかった、わかったから」と力也を押し戻した。
「それに補習の方は問題ない!」
「問題ない?」
「ちゃんと朝から電話で欠席の連絡をしておいた。ゴホゴホ言いながら風邪だって言ったら一発だったぜ。まあ、教師の方は『お前みたいなのでも風邪ひくのか!?』ってびっくりしてたけどな。やっぱりほら、俺って身体強い印象あるんだろうな」
「馬鹿ってことだよ」
「何だって?」
「いや何でもないよ」
力也には皮肉が全く通じないようだった。
「しかし杉原、あまり迂闊なことをしていると少々厄介なことになりかねない。今日は仕方ないが、今後補習にはきちんと――」
「分かってるってばよ! 藤原ちゃんは心配性なんだから!」
大きなてのひらで藤原の背中をポンと叩いて力也は言った。
「大体今日以外は毎日ちゃーんと出席してるんだし、一日くらいどってことないさ! 体調不良は誰にでもあることだしな!」
そう言って力也はガハハと豪快に笑った。恐らく明日、彼は真っ黒に日焼けして登校し一発でズル休みがバレることになるのだろうが、面白いので秀作は黙っておくことにした。
「やっほー、待った?」
後ろから声をかけられて秀作たちが振り向くと、美佳を先頭にして残りの四人が歩いてきていた。力也の言葉を笑っていた秀作も、四人の姿を見たときに小さく息を呑んでしまった。実際彼女たちは周囲の男たちの視線を釘付けにしながら歩いてきていた。
「ごめんなさいね。女子更衣室はとっても混んでいて、全員着替えるのに時間がかかってしまったんです」
静葉が申し訳なさそうに言い、秀作は慌てて「ああ、大丈夫」と返事をする。その隣で力也は「こりゃあ……すげぇ……」と感嘆の声を漏らしてただただ立ち尽くしていた。
四人の水着はそれぞれが個性を反映しているようだった。美佳は南国を思わせるエスニックな柄のホルターネックに揃いのパレオを身にまとい、高校生とは思えない大人っぽい印象を与えていた。静葉の方は黒を基調にしたワンピース姿で、スラリと長い手足の白さとのコントラストが眩しかった。朱里の着ているのはピンクに水玉の模様の入ったチューブトップに小さくフリルをあしらったもので、二人に比べると子供っぽさを感じさせるものの、高校生らしい可愛らしさを演出していた。
「わぁっ! これが本物の海ですね! 本当に大きいです!」
一番後ろからついて来ていたロボ子が、真っ青な海を見て目を輝かせた。彼女が着ていたのは真っ白のシンプルなビキニタイプの水着だった。海に行くと決まってから朱里と一緒に買いに行ったものだ。被っている麦わら帽子もそのとき一緒に買ったらしい。水着自体は非常にシンプルだったが、その分ロボ子自身のスタイルのよさと日本人離れした容姿が際立って、映画や雑誌からそのまま抜け出してきたかのような印象を見るものに与えた。
「シューサクさん! ロボ子、お魚さんを見てきます!」
ロボ子はそう言ってそのまま海の方へと元気良く駆け出して行った。一瞬遅れて、秀作は慌ててそれを呼び止めた。
「おい待てロボ子! 荷物は置いていけー!」
秀作にそう言われ、ロボ子は慌ててパタパタとパラソルの場所まで走って戻り、荷物を放り出すと再び海の方へとかけて行った。
「相変わらず元気ねえ、あの子」
右手でひさしを作ってロボ子を眺めながら、美佳は感心したように言った。
みんながパラソルの下に荷物を降ろし、ロボ子の放り出した荷物まで片付けていると、ロボ子が再び走って戻ってきた。
「大変です! 大変ですシューサクさん!」
「どうしたっ?」
秀作はそんなロボ子の様子に思わず慌てて返事をした。
「ロボ子……泳げません!」
「……」
ロボ子の言葉に拍子抜けして、秀作はやれやれと肩を落とした。
秀作はまずロボ子に泳ぎを教えることにした。海の楽しみ方は泳ぐだけではないとはいえ、せっかく海に来たのに泳げないまま終わってしまうのは少し寂しいと思ったからだ。それに何より、ロボ子は海に入りたがっていた。
それから静葉も、実はほとんど泳げないということでロボ子と一緒に練習に参加することになった。秀作たちの通う学校にはプールがなく、水泳の授業もないため実は泳げないのだという生徒も少なくない。
「すみません、私までお世話になってしまって……」
「いや良いんだって。でも意外だなぁ、静葉は何でもそつなくこなすイメージだったんだけどな」
「そんなこと……運動全般は昔から苦手なんです」
言われてみれば、授業でも体育のときには男女は別になっているので、秀作は静葉が運動している姿をほとんど見たことがなかった。
「まあでも、俺も運動は結構苦手なんだけどな」
「そうなんですか?」
「ああ、昔からあまり外で遊ぶタイプではなかったし……でも水泳だけは母さんに無理矢理習わされたから結構自信があるんだ」
自分で言いながら、秀作は少し照れくさそうに鼻の頭を右手で摩った。
「って訳で、二人ともしっかり泳げるようにしてやるから覚悟しろよ!」
『はいっ!』
二人は声を揃えて元気良く返事をした。
「頑張りましょうね、シズハさん!」
「ええ、ロボ子ちゃん!」
手を取り合ってそう言う二人は妙に仲が良さそうに見えて、秀作は少しだけ戸惑ったが、その光景は微笑ましかったのでそういうのも悪くないなと思い直した。
一方、残された四人の方は朱里の持ってきたビーチボールでビーチバレーの勝負に燃えていた。グーとパーで分かれた結果、チーム分けは朱里・力也のチームと美佳、藤原のチームになった。普段とは違う組み合わせになったこともまた勝負を白熱させていた。
「ちょっと力也、ちゃんとこっちにも合わせなさいよ!」
また一つポイントを取られて、朱里は不満の声を上げた。
「そんなこと言ってもよ、俺だってちゃんとトス上げたろ?」
「あんな適当なの拾えるわけないじゃない! お陰で見事にスパイク決められちゃったでしょ!」
朱里に詰め寄られて、力也は困ったように頭をかいた。二人とも身体能力が高く最初はポイントを稼げていたのだが、いまひとつ連携が上手く行かずに得点を取られる場面も増えてきていた。
それとは対照的に美佳と藤原のチームは、最初こそポイントを取られがちだったものの藤原の冷静な状況判断とそれに上手く合わせていく美佳の連携によってじわじわと朱里たちを追い上げ始めていた。
ちょうど今も藤原が上手い具合に上げたトスを美佳がきれいにスパイクで打ち込み、見事に得点をもぎ取ったところだった。鮮やかな連携で得点を獲得した二人は、流れるようにハイタッチをして再び持ち場へと戻った。
美佳のチームが得点をしたことでサーブ権がそちらに移り、美佳のサーブから次のゲームが始まった。山なりに飛んだボールに素早く力也が駆け寄り、ポンと音を立てて高く打ち上げる。その瞬間、大きくジャンプした朱里が見事にボールをとらえ、鋭いスパイクを相手のコートに打ち込んだ。会心の攻撃に、朱里の顔にも満足そうな笑みが浮かぶ。
しかし、その瞬間藤原が大きくジャンプし、ほとんど地面に身を投げ出すようにして朱里のスパイクをギリギリで受け止めていた。そしてそのボールはきれいにふわりと浮き上がり、美佳のもとへと正確に飛んで行った。
「ナイスッ、レシーブ!」
美佳がトスでボールを高く打ち上げ、再び藤原の方へと返す。そのときには藤原も既に立ち上がり、次の攻撃へと体勢を整えていた。
「え、嘘ッ」
会心の攻撃を防がれた朱里は慌ててネット際へと走り、藤原の攻撃を防ごうとする。ネット際の攻防。藤原が高く飛び上がるのと同時に朱里もジャンプするが、朱里のジャンプ力が優れているとは言え長身の藤原には及ばない。
パンッと気持ちの良い音がして高い位置から藤原のスパイクが打ち込まれた。ボールは朱里の指先を掠めて頭上を越え、朱里たちのコートへと一直線に向かって行く。
「力也!」
「え、うおお!」
慌てた力也がコートの端から飛んできたものの、指先はボールにわずかに届かず、ボールはそのまま地面に跳ね返った。
「やった!」
美佳が喚起の声を上げて、再び藤原とハイタッチを交わした。コートの逆側では不満そうな朱里が力也を叱責していた。
「どうしてアシストに回ってくれないのよ!」
「いや、そう言われてもなあ……」
顔面を砂だらけにした力也は困ったようにそう答えた。言い返そうにも興奮した朱里にかける言葉が見つからないようだった。実際何を言っても聞く耳は持たなかっただろう。そのことを力也は何となく察して言われるがままになっていた。将来恐妻の尻に敷かれるタイプだ。
そうして流れは美佳のチームの方に向いているように思われたが、次のゲームでは美佳のサーブを朱里がコートの端を狙って見事にレシーブし、再びポイントを手にすることが出来た。
「よし! この調子で行くわよ! 力也、着いてきなさい!」
「はいっ!」
ご機嫌な様子でそう言う朱里に、力也が元気良く返事をする。飼い主と忠犬のような関係性が、ゲームを通して自然と構築されようとしていた。
「とりゃあああああ!」
今日一番の気合の入った声を上げ、朱里は渾身のスパイクを放った。美佳はその速さについていけずに立ち尽くし、とっさに身を踊らせた藤原の指先も虚しく空を切った。朱里のスパイクは吸い込まれるように二人の中間あたりでバウンドし、パーンと気持ちの良い音を立ててコートの外へと飛び出していった。
「やりぃ! これでゲームセットね!」
朱里は満足そうにガッツポーズをしてみせた。力也も喜んではいたものの、どちらかと言うとホッとしたという気持ちの方が強そうだった。負けていたら朱里からどれだけ責め立てられるかわかったものではないのだ。
「あー、あと少しだったのに」
「惜しかったな」
美佳と藤原は勝利こそ逃したものの、とても満足そうに顔を見合わせて笑った。いつもクールな藤原がそんなにも自然な笑顔を見せるのは珍しく、美佳は思わず照れくさくて目をそらしてしまった。
「次はチームを替えてもう一戦しましょう! 今度はもっとスマートに勝ってみせるわ!
「ちょ、ちょっと待って!」
やる気満々の朱里を、美佳が慌てて制止した。
「ちょっと疲れたし休憩しましょうよ」
「俺も流石に疲れたぜ、朱里ちゃん。喉も渇いたしよ」
「何よ二人とも、だらしないわね……」
朱里は不満そうに腕組みして頬を膨らませた。
「まあまあ、そう焦ることもあるまい。時間はたっぷりあるのだから」
そう藤原に笑いながら諭されて、朱里はしぶしぶといった様子で引き下がった。
四人は飲み物を取りにパラソルの場所に向かって歩き始めたが、そのとき朱里は秀作たちのことを思い出した。どうせもうひと試合するのなら、彼らもビーチバレーに誘おうと思ったのだ。その方がチーム分けに幅が出るし、きっと盛り上がる。
あたりを見回すと秀作たちの姿はすぐに見つかった。砂浜から少し離れた、泳ぐ練習をするにはちょうど良さそうな深さの辺りで三人は熱心に練習に励んでいた。
朱里はそちらに向って駆け出し、手を大きく振りながら「おーい」と声を張り上げようとした。しかし彼女の口は大きく開いたまま、声を出すのをやめてしまった。振り上げた手も所在なさげに空を切り、駆け出した足もゆっくりと歩みを止めた。
朱里自身にもその理由は良く分からなかった。ただ冷たい風がスッと吹きぬけたように、何だか心がきゅうと縮み上がるような気がした。一生懸命バタ足をするロボ子も、手を引く秀作も、それを応援する静葉もみんな陶器のようにつるりと手触りのないようなものに見えた。無菌室の無愛想なビニール越しにでも外を眺めているような気分だった。
でもそれは一瞬だった。はっと息を呑んだ次の瞬間にはそんな気分もどこかへ行っていて、たった今そんな気持ちになっていたことさえまるで嘘のように、朱里は騒がしく楽しい真夏の砂浜を感じていた。不気味なくらいに全てが元通りだった。
そのとき、泳ぐ練習をするロボ子の手を引いていた秀作が顔を上げ、砂浜で佇む朱里の姿を目に留めた。
「おー朱里ー!」
急に名前を呼ばれて、朱里はビクッと背筋を伸ばす。自分にも正体は分からなかったが、そんな気分を秀作には悟られたくないと思った。
「何してんだーそんなところで」
「別にー!」
なるべく元気良く朱里は答えた。遠くから声が届くように叫んだものだから、それは割と上手く行ったようだった。
「私も泳ぎたくなっちゃったからー、ちょっとあっちで泳いでくるー!」
そう言い残すと、朱里は逃げるように人の少ない方向へと走り出した。
「気をつけろよー!」
後ろから聞こえる秀作の声に、朱里は右手をヒラヒラと後ろ手に振ることで返事をした。今はとにかく泳ぎたかった。
激しくしぶきを上げながら、朱里はひたすら泳いでいた。少し沖まで出た所に小さな岩場が頭を出しているのを見つけて、岸とそれとの間を往復することにしたのだ。既に何度か往復していたが、遠すぎず近すぎないそこは気持ちよく泳ぐには最適な距離感だと感じられた。
朱里は水泳を熱心にやっていたわけではないが、小学校の頃までは秀作と一緒に水泳を習っていた。その頃は秀作の方が、朱里よりも長い距離を泳ぐことが出来ていた。自由時間に溺れかけた朱里を秀作が助けたこともある。今となってはどちらかと言うと、朱里が秀作を助ける方が現実的だと思われた。朱里はずっと陸上をやっている分、すっかり運動もしなくなった秀作よりもずっと長く泳ぐことが出来そうだ。
それは朱里にとって、小さな不満でもあった。昔は秀作にはどうしても勝てなかった。走っても勝てないし、泳いでも勝てない。彼ほど高くも飛べないし、高い場所にも登れない。一緒に遊びながらずっと、朱里は秀作の背中を追っていた。
秀作の後ろをついて回っていたから、男の子の遊びに加わることも少なくなかった。むしろ女の子とおままごとをするよりは、秀作と泥まみれになりながら遊びまわることの方が多かった。サッカーもしたし野球もやった。夏には一緒に虫取りをした。彼より先に大きなカブトムシを見つけたときにどれだけ嬉しかったか、朱里は不思議なくらいに良く覚えていた。あんなに幼かったのに。
そもそも朱里が陸上部に入ったのだって元を正せば秀作の影響だったのだ。彼と一緒に遊びまわっているうちにすっかり身体を動かす楽しさに目覚めてしまい、中学では運動部に入ろうと見学してまわった。そしていろいろ見た結果、最終的に陸上部に入ることを決めた。そうやって身体を動かし続けることが何とも自然なことに思えたのだ。
しかしその頃、秀作のほうはどんどん運動する機会を減らしていっていた。元々読書好きの子供ではあったが年を重ねるごとにその傾向はますます強くなり、気づけばすっかりインドア派の少年になってしまっていた。
それでも、そのこと自体を責めることは出来ないだろうと朱里は考えていた。誰が何を好んで、何を楽しもうとその人の勝手なのだ。だけど昔は秀作ともっと楽しい時間を過ごしたように思えてならなかった。一緒に身体を動かしている時も楽しかったし、秀作が読書に夢中になっていたって、朱里には彼が読んだ物語を話してくれるのを聞く楽しみが残されていた。小さい頃はそう言うことがよくあった。ハラハラドキドキの大冒険に剣と魔法のファンタジー……秀作が聞かせてくれる話はどれも刺激的だった。自分がじっと座って活字を追うのは苦手だったが、物語自体は大好きだったのだ。そして何より、物語を語る秀作はとても楽しそうだったから、聞いている朱里の方も自然と楽しくなったものだった。
いつからだっただろうか、そう言う機会もなくなってしまったのは。それは誰が悪いのだろうか。それも朱里には分からなかった。だけど何だか、そんなことを今まであまり考えたこともなかったことが何だか寂しかった。気にするまでもないと思っていた。自分たちは少しずつ大人になっていくし、大人になれば色んなことが変わる。泥まみれでカブトムシを探したり、目を輝かせて冒険譚を語るようなことをしなくなってもそんなことは大した問題ではないのだと、朱里はそう思っていた。思い込もうとしていた。
でも、本当にそうなのだろうか。変わったのは一体何なのだろうか。色々な物が変わりすぎて、朱里にはもうよく分からなかった。脳裏に浮かんだのはあのとき、テーブル越しに静葉と話す秀作の横顔。そうだあんな風に、あいつは本の話をするんだ。今でもするんだ。そんな小さな発見は、朱里の心をざわつかせた。彼はどこへ行ってしまったのだろう。私はどこへ行ってしまったのだろう……
でも違う、何かが違う。だって秀作が、あいつが本の話をするときは、そんな喋り方しなかったじゃない。だってあいつはもっと……
「っ――!」
唐突に朱里のふくらはぎが悲鳴を上げた。物思いにふけりながらひたすら泳ぎ続けていた朱里は、自分の異変に気付くのが遅れてしまった。散々泳いで疲弊した身体と吊ってしまった右足を抱えては、流石の朱里も上手に泳げない。身体は自由にならないし、とっさにもがいた瞬間に顔面が波に洗われ、鼻から大きく海水を吸い込んでしまった。
「げほっげほっ」
激しく咳き込んだ朱里は、上手く空気が吸えなかった。迫り来る息苦しさと身体が沈みゆく恐怖の中で、朱里のパニックは頂点に達した。
(誰か助けて……!)
声にならない叫びを心の中で上げる。いつしか上下感覚もバラバラになり、水面に顔を出そうとする努力も虚しく朱里は全く息を吸えなくなっていった。
それでも朱里はがむしゃらに、手足を動かし続けた。それが酸素を無駄に消費する結果になろうと、そうすることしか朱里には出来なかったのだ。
そのとき、振り回されていた朱里の右腕を誰かが掴んだ。力強い手だった。そしてそのまま朱里の身体をぐいと引き寄せると、腰に手を回してしっかりと身体を安定させた。朱里は無我夢中で誰かの身体にしがみついた。
「朱里っ!」
耳なれた声が聞こえ、朱里は泣き出しそうになりながらゲホゲホと激しく咳き込んだ。声を出したくても、しばらくは上手く出せそうになかった。
そんな朱里の身体をしっかりと脇に抱えて、秀作は何とか海面からぽっかりと顔を出す小さな岩場へと泳ぎ着いた。朱里は夢中になっていて気づいていなかったが、実は溺れた場所は往復していた岩場のすぐ近くだったのだ。
秀作は素早く岩場に上がると、朱里の身体を引っ張りあげた。朱里は小さく咳き込み、尚も肩で息をしているようであったが、何とかパニックからは抜け出して平静さを取り戻そうとしていた。
「大丈夫か!?」
両手で朱里の肩をゆすりながら、秀作が聞いた。朱里はまだ声が上手く出なかったが、コクコクと頷いて何とか答えた。
「う、ん……あ、ありが――」
「馬鹿野郎!」
秀作が急に声を荒げて、朱里はビクッと肩をすくませた。
「気をつけろって言っただろ!」
「……」
朱里の頭はまだ混乱していたから、秀作の怒鳴り声にもあまりピンと来なかった。理不尽だとさえ思った。だって自分は今本当に怖い思いをして、本当に死ぬかとまで思って、なのにその上秀作からも怒鳴られるだなんて……
言い返そうと思って顔を上げた朱里は、次の瞬間にはそんな気力を失った。視界に飛び込んできた秀作の顔には、今にも泣き出しそうなくらい情けない表情が浮かんでいた。
その顔を見た瞬間に、朱里はフッと昔のことを思い出した。ずうっと昔、今と全く同じように溺れた自分を助けてくれたとき。あの時も秀作は、今と全く同じ表情をしていたのだ。顔つきは変わってる。随分と大人っぽくなった。だけど彼の浮かべた表情は、やっぱり朱里の良く知る、幼馴染の少年だった。
朱里は身体がふっと軽くなったような気がした。胸の中で凝り固まっていた何かが、柔らかく解けて流れていくようだった。言葉を出そうとして、自分の唇が小刻みに震えているのに気付いた。
「ごめん、なさい……」
口にしてみると自分の声はびっくりするほど情けなくて、朱里はついつい両目に涙を滲ませた。そしてそんな自分に気付いて、更に涙は止まらなくなった。一度泣き出してしまうと今まで我慢してきたものが一気に噴出してきて、あっという間に朱里の泣き声は嗚咽へと変わっていた。朱里の口に塩辛い水が流れ込んだが、それが涙なのか海水なのかはよくわからなかった。
「ちょ、そんなに泣くなって! 悪かったよ、ごめん」
突然泣き出した朱里にうろたえた秀作は、何とか彼女をなだめようとした。しかし彼には、朱里がどうして泣いているのかは分かっていなかった。いや、朱里自身にもそんなことは分かっていなかったのだから、それも仕方ないのかもしれない。
ひたすら謝ろうとする秀作に朱里はふるふると首を横に振って答えたが、秀作には何が「違う」のかもさっぱり分からなかった。
ときおり波に洗われる岩場の上で、時間は奇妙なくらいゆっくりに流れた。騒がしい海水浴場で、そこだけがポツンと世界から取り残されたみたいに。
帰りの電車に揺られながら、秀作は窓の外の夕焼けを眺めていた。先程までは楽しそうにいろいろと喋っていたロボ子も、気づけばスヤスヤと穏やかな寝息を立て始めている。
眠っているのはロボ子だけではない。おそらく今起きているのは秀作と藤原の二人くらいで、あとは少なからず眠りの世界に引き込まれているようだった。電車での長旅は、そんな穏やかな疲労感に包まれていた。あれだけ熱心に遊んだのだから、疲れるのも当然だ。
あの後、朱里はすっかり調子を取り戻したようだった。あんな風に泣きじゃくるなんて普段の朱里からは想像もできず、秀作も困惑していたが、ひとしきり泣いてしまうと朱里はむしろ前よりも元気になったようだった。彼女が何を考えているのか秀作には相変わらず分からなかったが、とにかく笑顔が戻ったなら良かったと納得することにした。
元気を取り戻した朱里は絶好調で、その後のビーチバレーでも目の覚めるような活躍をしてみせた。特に秀作とタッグを組んだ時には流石は幼馴染と言うべき見事な連携で相手を圧倒していた。秀作もそんな風に朱里と一緒にスポーツをすることなんて随分も久しぶりで、何だか懐かしい気持ちになった。
ビーチバレーの他にも、秀作たちは思いつく限りありとあらゆる遊びをした。用意周到な力也の持ってきたスイカでスイカ割りまでやった。普段は斜に構えている秀作だったが、今日は珍しくみんなと一緒に大いにはしゃぎ回った。そしてそういうのも、童心に帰ったようでたまには悪くないなと思ったりした。
電車の規則的な揺れに合わせてフラフラと揺れていたロボ子の頭が、秀作の肩へともたれかかった。ちらりとそちらに目をやると、彼女は相変わらず穏やかな寝息を立てていて目を覚ましそうな気配はなかった。閉じた目を覆う長いまつげを、窓から差し込む西日が照らした。
秀作はロボ子がそのまま倒れてしまわないかだけ確認すると、自分もゆっくりと目を閉じた。まどろみは心地よかった。
「はーい今日の補習を始めるぞー」
教師がガラガラとドアを開けて教室に入ってくると、既に教室に入っていた数人の生徒達がそれぞれ指定の机へと着席した。杉原力也もその一人で、教卓の目の前、最前列でど真ん中の席へと腰を下ろした。彼は飛びぬけて成績が悪かったため、この特等席を割り当てられているのだ。
「よーしもう揃ってるかな。それじゃあ出席を……」
いつものように出席を取ろうとして、出席簿を開いた瞬間教師の手が止まった。彼の目は教卓の目の前の生徒をまっすぐ見据えていた。
「なあ、杉原」
「はい!」
「ええっと……風邪はもう良いのか?」
「はい! すっかり良くなりました!」
「そうか……昨日は家で寝てたんだよな?」
「はい!」
「安静にしてたんだよな?」
「はい!」
「ちゃんと薬も飲んだか?」
「はい!」
「海は楽しかったか?」
「はい! ……ああっ!」
しまった! とこぼしながら、力也は頭を抱えた。そんな様子を見ながら、教師は笑顔で眉をヒクヒクとさせていた。
「そうだよなー楽しいよなー海は。先生も行きたいなーははははー先生は学校で補習をやっていたよー」
「ごめんなさい! すみません!」
「ははは、謝らなくて良いんだよ! ははは、だけどな杉原、課題は十倍だ」
「じゅ、十倍!?」
力也はあんぐりと口を開け、教師は笑顔でコクコクと頷いた。周りの生徒たちは苦笑いでやれやれと肩をすくめた。こうして力也の夏休みが終わった。
今回は朱里ちゃんの話でした!
タイトル悩んだのですが、ロボ子と海水浴、ではないですしねぇ()
さてさて、幼馴染の関係性もこの後どうなっていくのか……
ちなみに次回はサイドストーリーを予定しています。よろしくお願いします。




