プロローグ ―ラブコメディは突然に―
秀作は混乱していた。いや、パニックを起こしていた。
いつも冷静な彼のそんな姿を、幼なじみの朱里が見ればきっと声を上げて笑っただろう。
だが秀作は今、そんな事を考えている余裕もなかった。
目の前に突然裸の少女が現れたら……それも段ボール箱の中からだ。そんな奇想天外な事件に巻き込まれれば、どんな人間でもパニックくらい起こす。
それが純情な16歳の少年であれば、なおさらだ。
「んー、よく寝たあー」
困惑する秀作の目の前で女の子は気持ち良さそうに伸びをする。両腕を大きく掲げた彼女は、見えてはいけないものをあられもなくさらけ出していた。
長く透き通るような金色の髪が申し訳程度に隠している以外、彼女の身体を包むものは何もなかった。
伸びをしたせいで二つのふくらみが強調され、秀作のパニックをより加速させる。
よく寝た、じゃあないだろお前……
のんきに伸びをしていた少女は、ふと秀作に気付いて動きを止めた。それから不思議そうにその顔を覗き込む。
「あのぅ……あなた、誰ですか?」
「こっちのセリフだああああああああああ!」
あまりのとぼけ具合に、流石の秀作も思わず大声を上げてしまう。
一体どうしてこんなことになってしまったのか……ことの発端は数分前に遡る。
日曜の昼下がり、秀作はお気に入りの紅茶を飲みながら優雅に本のページをめくっていた。亜司母秀作にとってこの時間は何より幸福なひとときだ。いつもと同じ、平和な日曜日だった。
誰にも邪魔されず、静かに物語の世界に身を浸していると、ふと自分の身体のことも忘れてしまうような気がする。そんな感覚を、秀作は結構気に入っていた。
今日もそろそろ、そんな感覚にふっと手が届きそうだ……そんなとき、ピンポーンと言う無遠慮な音が秀作を現実に引き戻した。
「こんちゃーッス、宅配便デース」
家主の登場を待ちきれないように玄関から声がする。秀作は「やれやれ」と肩をすくめながら本を閉じて玄関に向かった。
扉を開けるとそこには見たことのない作業服の怪しげな配達員が二人。彼らの横にはなにやら厳重に梱包された段ボール箱のようなものが置いてある。
「亜司母秀作、さんで間違いないッスかー?」
「あ、はい、そうですけど」
「んじゃこちらにサインお願いしゃーッス」
そう言うと配達員Aはペンと伝票を秀作に押し付け「ここ、置いちゃいやすネー」と配達員Bと二人で荷物を運び込み始める。
少し強引な配達員の様子に気圧されつつも秀作が慌ててサインをすると、配達員は「あざっしたー」と言いながらひったくるようにそれを受け取り、そそくさとその場を後にした。
家の前に停まっていたトラックが、ブロロロロンと言う排気音だけを残して颯爽と走り去っていった。
「何なんだ一体……」
少し戸惑いながらも秀作は扉を閉め、嫌な予感を胸に届いたばかりのダンボールを覗き込んだ。
ダンボールはかなり大きい。少し頑張れば秀作自身もすっぽりと入ってしまえそうなものだった。
「うわ、やっぱり」
差出人を見て、秀作はうんざりしたように声を漏らす。そこには「亜司母藍作」と、秀作の父の名前が記してあった。
彼から荷物が届けば、いつもろくなことが起らない。何に使うか分からない怪しげな機械が届く、なんてのは良い方で、この前の扇風機は酷かった。
たまには役に立つもの送ってくれるんだな、と思って扇風機の電源を入れたのが運の尽きで、恐ろしいほどの風圧が秀作自身を軽々と吹き飛ばしてしまった。そればかりか、扇風機自体も自分の風速に耐えられず、まるで意志を持ったかのように部屋の中を暴れ回ったのだ。そしてリビング内を散々荒らし尽くした挙句、そのまま窓を粉砕して外へと飛び出してしまった。勢い余ってコンセントが抜けていなければどうなっていたか、考えるだけで寒気がする。
その騒動でお気に入りのティーポットが割られてしまったことを、秀作は未だに根に持っている。
秀作の両親は二人ともその道では名の知れた研究者だ。しかし、家族である秀作から言わせてもらう常識を欠いた彼らは「立派」と言うより「異常」だった。
研究にのめり込むあまり二人ともほとんど帰宅せず、一人息子もほったらかしで研究所に寝泊りしている。まあ彼らが帰宅すれば必ず厄介なことが引き起こされるので、そちらの方が秀作も平和で助かるのだけれど……
そして秀作は目の前の段ボール箱をみて、どうしたものかと考え込んだ。開けたらきっとまた悪い事が起こる。きっとじゃないな。絶対だ。
しばし悩んだ末、秀作はそのまま倉庫に放り込んでおくことに決めた。
「って、おっも!」
持ち上げようとダンボールに手をかけたものの、予想以上の重さに思わず声を上げる。そういえば配達員が二人がかりで荷物を運んできたな……と、ようやく思い出した。
睨み付けてみてもダンボールは消えてなくなってはくれない。このまま放置しようかとも考えたが、玄関をほとんど塞ぐような形で大きなダンボールが放置されていると言うのは、きれい好きの秀作には許しがたいものだった。それに、生活にも支障が出る。
「仕方ない、開けてみるか……」
そう言いながら渋々開封作業を始めた、その選択が間違いだったのだ……
この後起こることを知っていれば、多分秀作はそんな選択はしなかっただろう。多少邪魔にはなるが、玄関にダンボールを放置したはずだ。
毎日避けて通るのが少し厄介だとしても、それ以上に厄介な日々が、その先に待っていることを知っていれば……
ダンボールの梱包はやけに厳重で、開封するだけでやたら沢山のテープを剥がさなければならなかった。面倒だとは思いながらも、丁寧に一枚一枚剥がしていく。そういう所を適当に出来ないのが秀作の性分なのだ。
ようやく蓋が開くようになり「ふぅ」と一息つく。これだけでも一仕事終えた気分だ。
そうして少しだけ油断していたから、目の前の光景を見ても秀作の頭は上手く働いてくれなかった。
ダンボールの中に入っていたのは大きなガラスケースのようなもので、その中には少女が、膝を抱えるように体を丸めて入っていた。
「えっ、ええっ」
秀作は思わず声を漏らす。死体……そんな言葉が頭を過ぎる。確かに父親は異常だと思っていたが、少女の死体を送りつけてくるほど危ない人物だとは思っていなかった。
衝撃で震える秀作の手が、本人も気付かないうちにガラスケースの小さなボタンに触れてしまう。
ブンッ――
気をつけないと聞き逃しそうな微かな音が鳴って、ガラスケースの中が淡く照らし出された。秀作は驚き、弾かれたように立ち上がると、そのまま数歩後ずさる。
上手く状況の飲み込めない秀作の目の前で、ガラスの蓋がゆっくりと二つに分かれ、ケースの横側に吸い込まれていった。そしてケースの中で少女の死体(秀作は相変わらずそう思っていた)がピクリと小さく震えると、ゆっくりと動き始めるのが見えた。
「え、ちょっと待って、えっ」
慌てる秀作をよそに、ケースの中の少女は寝ぼけ眼を擦りながら立ち上がる。
こうして何が起こってるか分からないまま、冒頭の場面に至ったのである。
いきなり大声で叫ばれた少女は、ビクっと身をすくませた。少女の怯えた様子に秀作は少し罪悪感をおぼえる。これじゃまるで自分がいたいけな少女を襲ってるみたいじゃないか……
秀作は自分を少しでも落ち着けようと大きく深呼吸して、少し震える声でたずねた。
「君は一体……誰なんだ?」
「はいっ、ロボ子はえっと……ロボ子って言って、その……安藤ロボ子って言いますっ!」
ロボコと言うのは名前として妙な響きだった。
「いや、名前を言われても……」
恐らく本気で答えたのであろう少女、ロボ子を、秀作は戸惑ったように見つめる。
「そもそも何でそんなところに入ってたのかとか……」
「うーん、ロボ子にもよく分からないのです。博士に聞いてみればきっと分かるのですが」
「博士ってもしかして、親父……亜司母藍作のことか?」
「そうです! アイサク博士です! あ、もしかしてあなたがシューサクさんですね!」
藍作という名前を聞いた途端、ロボ子は顔をパッと輝かせた。
「お話は博士から聞いてます! それじゃあここは博士のおうちってことなんですね!」
そう言ってロボ子はガラスケースから足を踏み出した。それを見て慌てる秀作を意にも介さず、せわしなく首を動かしながら周囲を観察する。
「わー、おうち、おうち……初めて見ました! ここが博士のおう――ひゃっ!」
キョロキョロしていたロボ子は足元にあったテープ、ダンボールを包んでいた梱包の塊に足を滑らせて前のめりに倒れそうになった。
「危ない!」
秀作はとっさに彼女を支えようとするが、その瞬間彼女が裸であることを思い出し、わずかにためらった。それが良くなかった。
伸ばしかけた手が一瞬止まり、そこによろめいたロボ子がふらふらと舞い込んでくる。両手にむにゅり、と柔らかい感触があって、秀作は自分が最もやってはいけないことをしでかしたのだと悟った。
「はうっ」
と言うロボ子の声が聞こえた瞬間、秀作の顔が沸騰するように熱くなる。そのまま取り乱して彼女を支えることも出来ぬまま、もつれるように廊下の上に転がった。
「いてて……」
秀作が衝撃の中で思わず瞑っていた目を開くと、自分下に倒れているロボ子と至近距離で目が合った。
大きく見開かれた彼女の瞳は透き通るような青色で、宝石のように綺麗だった。シルクを思わせる艶やかな金色の髪はフローリングに扇状に広がり、その光景はほとんど幻想的な印象すら与えた。
秀作は思わずその姿に見とれて、身動きも出来なかった。やがて青く澄んだ瞳は、戸惑ったように秀作から視線を外した。
そのときだった、狙いすましたかのようなタイミングで、玄関の扉が勢い良く開かれた。
「秀作ー! 借りてた本をかえ、し……に……」
朝倉朱里はドアノブに手をかけたまま、目の前の光景に言葉を失って動きを止める。手に持っていた本がバサリと音をたてて、玄関のタイルに着地した。
「……」
彼女の顔には扉を開けた瞬間のにこやかな表情が張り付いていたが、それはピクリとも動かず、まるで良く出来た能面のように見えた。
「ち、違うんだ朱里!これは……」
慌てて否定しようとした秀作は、両手がまだ温かく、柔らかすぎる感触を感じていることに気付いた。
「あっ」
「あっ、じゃないでしょうがああああああああああ!」
言葉と共に朱里は大きくジャンプした。陸上で鍛えた彼女の跳躍力はかなりのもので、玄関から秀作への距離などもはや意味を持たない。
あっけにとられて反応できなかった秀作は、朱里の強力なとび蹴りをまともに食らって吹き飛ばされた。
やっぱり、ろくなことが起こらなかったな……
遠ざかる意識の中で、秀作はそんなことを考えた。
それが秀作とロボ子の、騒がしくて、奇妙で、ちょっとだけ愉快な共同生活の始まりだった。