デイジーの家
第三話「デイジーの家」
ぼくはけっきょく登校した。
リリーとの待ち合わせは午後二時。それまで図書館で暇を潰そうと思っていたのに、扉に『休館』という札が貼りつけられていた。今日は休館日じゃないはずなのにおかしいな、とは思ったけど、文句を言っても始まらない。
登校したぼくを見て、先生は「休みじゃなかったの?」と訊いた。ぼくは「体調がすこしよくなったので」と言い訳して、自分の席に座って本を開く。活字を目で追いながら、午前の授業が終わったら帰ろうと、独り静かに決めた。
クラスメイトが続々と登校してきた。だれもぼくに声をかけてくれない。いじめっ子の三人に目をつけられるのが怖いので、見えていても無視しているのだ。
この環境が何年も続いているので、ぼくはすっかり慣れてしまった。――居場所がないことには慣れっこだ。
ぼくは麻痺した自分を静かに嘲った。女の子がこちらを向いたけど、ぼくも彼女もけっして声をかけない。
秩序だから。そう。これが、秩序だから。
鐘が鳴り、先生が教卓の前に立って出席簿を開く。次々とクラスメイトの名前が呼ばれていき、ぼくの名が呼ばれた。返事をする直前、後ろから背骨を殴られる。ああ、そうか。今日はその日か。
ぼくはすっくと立ち上がり、「はいっ!」と教室中に響き渡るほどの大声で叫んだ。毎週のことなので、先生はもう苦笑いしか浮かべない。
「元気があってよろしい。座って」
「サー・イエッサーッ!」
軍人のような返答をして腰を降ろす。がしかし、あるはずの椅子が消えていた。
――またか。そう思った矢先、後頭部に硬い物がぶつかって、目から火花が飛び散った。痛さに身悶えるぼくの耳に、クラスメイトたちの意地悪なくつくつ笑いが届く。
「はやく立って座りなさい」
先生は冷たくそう言った。進級した当初は、このいたずらを仕掛けたクラスメイトを叱ってくれたけど、どんなに注意しても繰り返されるため、もう無駄だと諦めているのかもしれない。
このクラスにぼくの味方はいない。同情の視線を向けてくれる人もゼロ。それがわかっているから、悔しさも怒りも湧いてこない。ぼくは自分の椅子を探してさっさと腰を降ろした。
点呼を終えて、先生が出席簿を閉じる。いじめっ子の一人が手をあげた。
「先生。バカルターはどうしたんですか?」
そういえば、いつも率先してぼくをいじめるバカルター君の姿が見えない。触っただけであんなに怒ったんだから、朝、真っ先にぼくを蹴りにきてもいいはずなのに。そんなことを考えた自分に気づき、ぼくは嘆息を吐きながら机に突っ伏した。
「バカルターは休みだ。お姉さんが、殺されたらしい」
クラス中がざわつく。
「この際だから、みんなに聞いてほしい。バカルターのお姉さんは『ヒッピー』だった」
「ヒッピーってなんですかー?」
「自然を愛し、戦争に反対をしている人だ。ほら、ニュースで見たことないか。戦争反対と叫んで町を練り歩いたり、公園で反戦集会をしている人たち。あれがヒッピーだ。最近、この人たちだけを狙った殺人事件が連続してるんだ」
「なにそれ。こわーい」
「だからな。みんなの家族や知り合いで、ヒッピー思想を持つ人がいたら外では言わないように注意してあげてほしい。そうすればこの陰惨な事件も収まってくるだろうさ」
「はーい」と、クラス中から声があがる。
机に突っ伏したままのぼくは、司書のお姉さんを思い出した。昨日、ぼくに熱弁を振るったお姉さんも、ヒッピーなのかな。それなら、今日は無理だけど、明日図書館が開いたら教えてあげなくちゃ。お姉さんが殺されるなんて、絶対に嫌だ。
「暗い話になっちゃったな。さあ、気分を変えて授業をはじめよう」
ぼくは顔をあげて、教科書をカバンから取り出した。
退屈な一日のはじまり。嫌な一日がはじまる。でも今日はいつもと違う。午後になれば、リリーが素敵なピアノを聴かせてくれる。入学してから今の今まで失っていたワクワクを胸に感じながら、教科書を開いた。
正午。ぼくの心にも似た灰色の空が広がっていた。その東側に分厚い雨雲が見える。風向き次第だけど、あと少ししたら豪雨になるかもしれない。
ぼくは、やっぱり体調が良くないと言って、学校を早退した。お父さんから連絡を受けていた先生は、あっさりと下校を許してくれる。その足でお花屋さんに向かい、曇天で薄暗い町を、すこしでも明るくしようと咲き誇っている色取り取りのお花に目を向けた。店員のおばさんがニコニコしながら見守っている。
さんざん悩んだけど、お父さんとお母さんのアドバイスに従うことにした。
「あの、薔薇の花束ください」
「おや色男だねー。お母さんへのプレゼントかい?」
「いえその。リリーへの」
「リリー? 聞いたことないね。もしかしてデイジーのガールフレンドかい?」
「ガ、ガールフレンドッ?」
おばさんのからかいに、ぼくは激しく狼狽した。おばさんは豪快に笑いながら、
「照れちゃってー。相変わらずかわいいね、あんたはー」
注文どおり薔薇の花束を作り始めた。太い指に似合わない繊細な手つきは、さすがプロフェッショナルだなと感心してしまう。
おばさんは薔薇の花束を作り終えると、その中央にまだ蕾の薔薇を一輪添えた。
「おばさん。その蕾の薔薇って、なんの意味があるんですか?」
その質問に、おばさんはニヤニヤ笑いながら、ぼくに花束を手渡した。
「青春だなー」
曇天を見ながら、おばさんがそんなことを言う。ぼくも空を仰いでみたけど、その意味は皆目見当もつかなかった。
ぼくは花束の料金を手渡し、さっさとリリーと待ち合わせている場所へ向かおうとした。
お花屋さんの軒先に、誰かがやってきた。
「あ、軍人さん」
昨日図書館で出会った軍人さんだった。彼はぼくを見とめると、険のある目付きを緩やかにカーブさせてほほ笑んだ。
「やあ。えーときみは」
「デイジーです。デイジー・クートロ」
「俺はサルビア。サルビア・トードだ。よろしくな、デイジー君」
「はいっ」
ぼくらは固い握手を交わした。
「サルビアさんもお花を買いにきたんですか?」
「ああ。亡くなった戦友の墓に、せめて花でも供えてやろうと思ってな。デイジーはデートかい?」
「デートじゃなくて、リリーのコンサートにいくんです」
「リリーのコンサート? なんだいそれは?」
「昨日できた友達です。すごくピアノが上手で、これから教会で演奏を」
サルビアさんはぼくの言葉が終わる前にライターを取り出し、タバコに火をつけた。店のおばさんが渋い顔をする。
「軍人さん。花に悪いから、吸うならもうちっと離れて吸っておくれ」
「こりゃ失礼」
丁寧に頭を下げたサルビアさんだったけど、優しかった目色が瞬間的に険しくなったのをぼくは見た。
ぼくとサルビアさんは軒先を出た。紫煙が冷たい風にさらわれて、さーっと姿を消す。それを見てぼくは、綺麗だなと思った。
サルビアさんは、流れていく密雲を悲しそうに見つめてつぶやいた。
「嵐が来るな」
「えっ?」
「火薬と生きてきたから、雲の動きを見てれば天気がどう移り変わるかわかるようになってね。これから嵐が来る。家に帰ったほうがいいよ」
「でも」
「俺は車を持ってる。なんだったら、その花束を届けてあげてもいいよ。ほら」
手を差し出し、サルビアさんは笑った。
ぼくは花束を出しかけたが、すぐにそれを引っ込めた。
雨に打たれるのは苦役じゃない。そんなことは、意味もなく蔑まれて、殴られつづけてきた人生に比べれば大したことじゃないはずだ。
リリーが骨を噛むような嵐のなかで待っているかもしれないのに、ぼくだけ部屋にこもって暖かいトレモロで満たされる。ぼくにはそちらのほうが耐えられない。
「デイジー君?」
首を傾げたサルビアさんに、ぼくは笑みを見せた。
「ぼく、いきます。リリーがぼくを待ってくれてるから、ぼく、いってみる」
「この天気だ。待ちぼうけになるかもしれないよ」
「いいんです。リリーが待ちぼうけになるほうが嫌だから、ぼく」
そこまで言って、ぼくは森へ向かって走った。
商店街から森まで、走って十五分くらいだ。昨日から天気が悪いため、まだ雪が溶けずに残っているので、到着するまで倍の時間を要した。
悪路を走ってきたせいで、足はパンパンで喉がカラカラ。近くに自販機があったから、ぼくはソーダを買った。気温は低いけど、火照った身体にはこれぐらいがちょうどいい。自販機に備えつけられている栓抜きが壊れていたので、近くの電柱に瓶の口を叩きつけて壊した。ぶくぶく溢れてくる泡がおさまったのを見計らってぐいっと呑む。美味しい。でもしばらくすると、おへそのあたりからソーダの冷たさがぞわぞわと広がって、水洟が垂れた。
一段と強い風が吹き、森がざわめく。ビルのように高い樹木が風にあおられて、太い幹が乾いた音を立てる。通行のために道の脇へ押しのけられた雪の上部が波立ち、雪風になって一方向へさーっと流れていく。それらは雲間からわずかに射す陽光を浴びて、宝石のようなきらめきを帯びた風になって視界の端に消えていった。
ぼくは水洟をすすりながら、腕時計に目をやった。
午後一時。リリーが来るまであと一時間もある。さすがに早すぎたかな。
「デイジー?」
背後から声をかけられて振り返った。
リリーが目をぱちくりさせながら立っていた。ピンク色の長い髪を風に遊ばせて、毛編のマフラーで鼻から下を覆っていたけど、まちがいなく彼女だ。手にはあいかわらず黒い手袋をはめている。
「リリー。どうしたの、その怪我?」
ぼくは顔をしかめながら訊く。
リリーの長い髪の毛の隙間から、すこし黄ばんだ包帯が見え隠れしていた。左のこめかみあたりがほんのり朱色に染まっている。ガーゼとか当て布をせずに巻いたのかな。
「ああこれ。昨日キッチンのテーブルに頭をぶつけただけだよ。気にしないで、痛くないから。むしろ痒いの。あー痒い痒い」
そう早口で捲し立てながら、リリーは手で髪を掻き毟る。痒い痒いと彼女は言ったけど、ぼくには必死で包帯を隠そうとしているようにしか見えなかった。
「ねえ、リリー。ほんとうにどうし」
「それよりも!」
頭を掻いていたリリーが突然、ぐいっとぼくに迫った。鼻の頭と頭がちょんと触れ合う。吐息や体温を感じられるほどの距離にぼくはドギマギし、喉元まで出かかっていた言葉を思わず呑み込んだ。
「なんでいるの? 学校は、どうしたの?」
「えっと、早退……」
「早退?」と言ったリリーはぼくの手元に視線を移して、「あっ」と短く叫んだ。そして意地悪く笑う顔をぼくに向け直す。
「なーるほど、そういうこと」
「なにが?」
「照れるな照れるな。あたしより先に誰かと待ち合わせしてたんでしょ?」
「なんのこと?」
「隠したってだめだよ。あたし、お花には詳しいって言ったよね」
リリーはぼくが手にしている薔薇の花束を、うっとりとした目で見つめる。
「いいなー。あたしもはやく、こんな素敵な花束をもらえる女の子になりたい」
そう言われ、ぼくは彼女に薔薇の花束を差し出した。リリーは首を傾げ、目をぱちくりさせる。
「なに、どうしたの?」
「きみに」
「え?」
「これ、リリーへのプレゼント」
きょとんとしているリリーに無理やり手渡し、突っ返されないように三歩下がった。
リリーは手元の花束を見つめ、
「うそ。だって、薔薇の花言葉……。それに、この蕾の薔薇が持つ意味ってたしか……」
つぶやきとともに、リリーの頬がみるみる朱色に染まっていった。彼女の爪先がコンコンと雪を叩く。
リリーは真っ赤な顔をあげた。ぼくの目と彼女の目が合う。はっとしたようにリリーはぼくに背中を向け、それから総身をぷるぷると震わせはじめた。このプレゼントは気に入ってもらえなかったみたいだ。
――母さんのうそつき、とぼくは心中で毒づいた。
「ごめんね、リリー。気に入らなかったみたいだから、お店に」
そう言いながら伸ばしたぼくの手を、リリーが慌てた様子で払った。それから薔薇の花束を自分の後ろに隠し、真っ赤な顔のままニコニコと笑う。
「あ、ありがとう」
「気に入ってくれたの?」
「か、勘違いしないでよっ。こんな綺麗なお花を捨てるのが嫌だから、もらっておくだけなんだからねっ」
若干トーンの上がった声でリリーはそう捲くし立てて、足早に教会のほうへ歩きはじめた。ぼくは、「待ってよ」と言って、慌ててその背を追いかける。リリーは止まる気配も見せず、花束を大事そうに胸元に抱えて歩く。彼女の耳は、この寒さで薔薇のように真っ赤だった。
「リリーこそ、どうしてこんなに早く来たの?」
「い、家の時計が壊れてたから時間がわからなかったのっ」
「そうなの?」
「そうなのっ」
リリーの歩調が早まる。隣歩くぼくは、置いていかれないよう彼女のペースに合わせた。
教会は一本道の行き止まりにある。現在地から計算すると、歩いて二十分くらい。深い森を切り拓いて建てられた場所なので、夏場は用事がない人でも足を運ぶ避暑地のようなところ。いまは冬なので、週末の礼拝や冠婚葬祭などを除けば人の出入りは極端に少ない。
やがて嵐になるかもしれない曇天を仰ぎながら、ぼくは今朝聞いた話をふと思い出した。
殺人事件があった。――それが本当なら、教会で葬儀が行われているんじゃないかな。昨日今日で死者を弔うかは、ぼくにはまだわからない。でも、もしお葬式がされているなら、このまま進んでいいのかな。
「ねえ、リリー。あのね」
「デイジーは、いつもどんな曲聴いてるの?」
「えっ? あー、そうだね。……ビートルズとか、かな」
「普通だねー」
「リリーは、やっぱりクラシック?」
「あたしもビートルズかな」
「普通だねー」
「しかたないよ。変わりようがないほどすごいバンドなんだから。イギリスの、えーと、キング・クリムゾンっていうバンド、知ってる?」
「知ってるよ。すごいよね。音も歌詞も、なにもかも新鮮で驚いちゃったよ」
「だよね。でもさ、どんなに先進的な音楽を作り出すバンドが現われても、ビートルズの凄さは何年経っても変わらないよ」
「そうかな? ぼくらがおじいちゃんおばあちゃんになったら、もうだれも聴いてないんじゃない?」
「普遍的なものはいつまで経っても不変なんだよ。あたしも早く本物になりたいなー」
「なれるよ」
「無理だよ」
「あんなに上手なのに?」
「うんっ」
リリーは突然走りだし、いまにも溶けて消えそうな淡雪の微笑を浮かべた。
「あたし、まがい物だから」
「まがい物?」
ぼくは言葉の意味がわからず、ただそれだけをつぶやいて彼女の横に立った。リリーは悲しそうに薔薇を見つめ、左手で一輪を摘まみ出して香りを嗅ぐ。
冷たい一陣の風が吹き、粉雪がはらはらと舞う。目にひやりとした感触がして、目を閉じかけた刹那、ぼくは生理反射に逆らうようにまぶたをカッと見開いた。
(なんだ、あれ)
リリーは黒い布地の手袋を嵌めている。サイズに余裕があるのか、手首の部分がはたはたとはためいた。
ぼくは口を手で覆い、薔薇を摘まんだリリーの左手を凝視しつづけた。
(そう、見える、だけ……なのかな)
目に見えるものすべてが大きく揺れ動く。地震かと思ったけどそうじゃない。混乱したぼくの瞳が、固定すべき視軸を失ってふらふらしているんだ。まるでそう、掲揚された旗が風に煽られるように。リリーの左手の小指とおなじように。
まじまじと見つめるぼくの目に、雪の固まりが飛び込んだ。
驚いて後ろに倒れると、リリーが楽しそうに笑った。
「あはは、ごめんごめん。ほら」
リリーが右手を差しだす。
ぼくは、さっき見た光景が脳裡に焼き付いていたのでためらった。もしかしてリリーは、先天的に指が足りないんじゃないだろうか。それを隠すために手袋を。
「どうしたの?」
ヒマワリのように輝く笑顔の裏に、人に言えない苦労の末にあの演奏技術を。でも自分では満足できる領域に達していないから、彼女は己を卑下するように『まがい物』と。
ぼくは差し出された手を握って立ちあがった。その際、わざと強くつかむ。
手に伝わる感触に、違和感はなかった。やっぱり見間違いだったのかな。
「ねえ」
「なに?」
「いつまで握ってるの?」
「えっ、あっ」指摘されてぼくは慌てて手を離して背を向けた。「ご、ごめんね」
恥ずかしさで頬を掻きながら謝った。心臓がバクバクいってる。よく考えたら、ぼくはお母さん以外の異性に触れたことがない。それを思い出したら、忸怩で胸が焼けそうになった。
「いいよ。それより早くいこう。そろそろ雲模様が怪しいよ」
「ああ……」とつぶやいて空を仰ぐ。さっきよりも灰色の濃度が増している。これはいよいよサルビアさんの言ったとおり、嵐になるかもしれない。さやかに吹いていた風も、いまはコートをばたつかせるほど強烈だ。
「なにしてるのー? はやくー」
リリーはひとりでスタスタ前へ進んでいた。
「あ、待ってよー」
ぼくは慌てて追いかけ、リリーの隣に立った。
リリーがぼくを追い超す。あれ? と思って追いすがると、ぼくをちらりと見てまた追い超した。また追いつくと、じーっと目を覗きこんでくる。
それから。
「手」
「えっ?」
「もうっ!」
リリーはぼくの左手をいきなり引っつかんで、ぐいっと前に引っぱった。
「リリー?」
「あー、赤くなってる。もしかして女の子と手を繋いだことないんでしょー?」
「と、友達がいないんだから、しようがないでしょっ」
「あたしもっ」
「えっ?」
「あたしも、友達がいないんだっ」
そのとき、ぼくの頬に小さな雫が当たった。吹きつけてくる風雪より、それは暖かいもの。
「リリー」
名前を呼ぶと、彼女はコートの肩口で顔をごしごしとこすり、ぼくに満面の笑みを見せた。
「あたしたち、おんなじだねっ」
輝く笑顔に残った雫が、儚くきらめいた。
「うんっ」
笑みを返したぼくは、リリーを追い超して彼女を引っぱった。
振り向くと、リリーは真っ赤な顔で息を切らしていた。
「ちょ、ちょっとー。はやいよーっ」
「リリーが急ごうって言ったんでしょ? はやくはや――」
ドンッ!
なにもなかったはずの前方に突然現れた障害物に激突し、ぼくはリリーを巻きこんでひっくり返った。
薔薇の花束がリリーの手から離れ、真っ白な地面を赤い花弁が色鮮やかに染めた。
身体を起こすと、こめかみのあたりが痛んだ。血は出ていないみたいだけど、じわじわと消えようとしない痛痒感から察して、けっこう傷は深いかも。それなのに泣き叫ばないのは、バカルターくんたちに毎日いじめられているからかもしれない。リリーに恰好悪いところを見せずに済み、ぼくは一瞬、憶えていられないほどのほんの一刹那だけど、彼らに心中で感謝した。
「リリー、だいじょうぶ?」
「痛たたた。お尻打ったみたい」
「ほら、立って」
無理に立たせると、リリーはぴょんぴょんとその場で跳ねながら反転し、ぼくのほうにお尻を突きだして撫でさすりはじめた。コート越しでもわかる、丸みを帯びはじめたラインにドキッとし、ぼくは見ちゃいけない見ちゃいけないと思って顔を手で覆う。でも気になってしまい、指と指のあわいからそっと覗き見てしまうのだった。
リリーのお尻はまだもぞもぞと動いていた。しかも左右にふりふり振られている。映画の中でなら何度も見たけど、実際に体験するとこんなにも嬉し……いや、恥ずかしいなんて思わなかった。ぼくはジェームズ・ディーンみたいな男になりたいのに、このままだとテレンス・スタンプになってしまう。
「おい伊太公っっっ(デーゴッッッ)!」
突然聞こえた怒号混じりの罵声とともに、右耳の後ろに激痛が走る。骨の軋む音といっしょに中空を舞い、気がつくと雪の上に倒れ込んでいた。黒い物が目の端をよぎり、それが一気に落ちてきたため、思わず首を捻る。左の外耳に熱痛がほとばしり、跳ねあがった雪片が顔面を叩いた。
ぼくはなにが起こったかわからず、恐々目を滑らせた。
「てめえ。なんでこんなとこに居るんだよ」
曇天を背景に、憤怒で顔を真っ赤にしたバカルターくんが立っていた。彼の血走った細い目で睨まれると、身体が自然とすくんでしまう。でもぼくは、恐怖よりも違和感で首を傾げる。泣き腫らした彼の目蓋もそうだけど、コートの下にある喪服に目を引かれた。
「バ、バカルターくんこそ、なんでここに……」
「なにもかも知ってるくせに」
「知らないよ」
「嘘つけっ。先公に聞いて、俺を笑いにきたんだろっ。女まで連れてきやがってっ」
バカルターくんは激昂し、リリーのほうを向く。リリーは状況が呑み込めずに目を白黒させたあと、初対面の彼に笑みを見せた。拳が振り上がり、リリーの頬が抉られる。
「きゃっ!」
「リリーッ!」
ぼくは殴られて横転したリリーを抱きとめ、肉迫してきたバカルターくんから彼女を守るように、身を屈めて彼に背を向けた。
「なに笑ってやがんだっ。なにがおかしいんだよっ」
背中の中央を鈍い衝撃が襲う。
「デーゴッ。おめえは女に、どんな教育してんだこの野郎っ」
「ちょっと、なんなのよあんたっ。あたしとデイジーがなにしたって言うのよっ」
「なにをしたってっ? ここに来ただろうがっ!」
執拗に蹴りつづけられた背中に、これまでにないほどの重圧がかかる。肺が破裂しそうな圧迫感とともに骨が鈍い音を立て、鮮血で雪がまだら模様に染まった。
口の中が鉄臭い。リリーをそれで汚したのではと思い、慌てて口を覆った。そのせいでバランスを崩してしまい、雪原にふたり一緒に倒れこんだ。
「デイジー? デイジーッ」
心配そうに呼びかけられたので、なんとか応じようとするけれど、口唇を開くと口中のものが洩れてきそうで開くことができない。その間も、バカルターくんの蹴りは振り止まなかった。
「このーっ!」
リリーが怒声を発し、ぼくを払い除けてバカルターくんに飛びかかった。
大人しそうな彼女の反撃にバカルターくんは面食らい、彼は自分よりも体重の軽いリリーに押し倒された。
「このクソ女っ!」
「なによ、バカ男っ!」
リリーとバカルターくんは、互いの髪を引っ張り合い、顔やお腹を殴り殴られるといった攻防をはじめた。
白雪のようなリリーの手が、バカルターくんの汚い血で穢れていく。
バカルターくんの拳は、リリーの美しい血にまみれていく。
混ざり合ったふたりの鮮血が、ぼくの頬をびちゃびちゃと叩く。
「やめろーっ!」
ぼくは跳ね起き、ふたりの間に無理やり割って入った。突き上げられたバカルターくんの拳に股間を抉られはしたけど、リリーを背中で押しながら下がり、無理やりに距離を取る。
リリーは綺麗な顔を真っ赤にし、鼻息を荒くしながら拳を振り上げた。
「どいてよっ。あたしとふたりでやれば、あんな奴なんかっ」
「やれるもんならやってみろっ!」
バカルターくんが突っ走ってきたので、ぼくはリリーを押し飛ばして両手を広げた。無防備なぼくの右頬を拳がうがつ。
来るとわかっていたので、ぼくは倒れることなく彼を睨み据えた。いじめられてから数年、ぼくがはじめて見せた抵抗らしい抵抗に、バカルターくんは目を剥いて固まる。ぼくは悪いと思いつつ、彼の胸を軽く押す。それだけでバカルターくんはバランスを失い、尻餅を突いた。
はじめての攻守逆転にショックを受けたのか、彼は相好を崩してしくしく泣きはじめてしまった。ほんとうにどうしたんだろう?
「あら、リリーちゃん?」
前方から聴いたことのある大人の声がした。
顔を向けた先に、ピアノ教室の先生が立っていた。先生だけじゃなく、ほかの大人も数十人。みんな喪服を着ている。
「どうしてこんなところに? あら、怪我してるじゃない。なにが遭ったの?」
「あいつが。あいつが急に殴りかかってきたのっ」
「ほんとうに? バカルターくん。どうしてそんなことをしたの?」
問われたバカルターくんは、泣いてなにも答えない。
戸惑って立ち止まっている大人たちをかき分けて、口髭をたくわえた男性が現われた。この町の議員をやっている、バカルターくんのお父さんだ。
「きみはたしか、ドミニクさんの息子、デイジーくんだったね。うちの息子になにをしたんだ」
「なによその言い方っ。まるでデイジーが悪いみたいじゃないっ」
「やめなさい、リリーちゃん。ルイスさんも、子供相手に大人げないですよ」
「これは失礼。ですが、この子の父親は。言わなくてもわかるでしょう?」
「知ってます。でも、その話とデイジーくんに何のかかわりが」
ルイスさんはふんっと鼻を鳴らし、まるで演説でもするように両手を広げ、みんなに聞かせやすいところまで下がる。
「この町に長く住む人は知っているでしょう。彼らが引っ越してきた三十年前から、この町の治安が悪くなったことを」
賛意を求めるルイスさんの言葉に、先生以外の大人たちは沈黙したまま首肯した。
「移民時代からそうです。デーゴは怠惰で勤勉さもなく、この国のさまざまな場所で酒と麻薬と売春を蔓延させている。あまつさえ、それらから得られる利益がなくなると困るために互助組織を結成し、司法と秩序を暴力と金で乱しているのです。我々は排除しなければならない。デーゴも、戦争で多くの民間人を殺した帰還兵も、この町には不要な存在なのです」
滔々と熱弁を振るったルイスさんは言葉を切り、「だから」と言って、息子のバカルターくんを抱きしめた。
「この子は悪くない」
自分勝手な物言いの言葉尻とともに、
『あんなのは出任せだっ』
死んだおじいちゃんの絶叫がぼくの頭に蘇った。
いまルイスさんが語ったのは、ぼくが生まれるもっともっと前。生前のおじいちゃんが若いころ耳にした政治家の言葉を換骨奪胎させたもの。おじいちゃんは、ことあるごとに昔受けた屈辱と差別をぼくに語って聞かせてくれたから覚えていた。
「うっ!」ぼくは猛烈な吐き気に襲われた。
いまは良い時代になっています。――テレビに出る大人たちはそう語っている。黒人差別も、暗殺されたキング牧師たちの活躍のおかげで減少しているらしい。白人至上主義も間もなく終わるって聞いた。それなのに、目の前にいるこの政治家は、典型的なアナクロニズムのアジテーターだ。本来なら、世に蔓延るわいだめをいち早く根絶すべき立場にありながら、率先してぼくらイタリア系を差別する。
大人は平気で嘘をつく。素知らぬ顔で人を傷つける。笑顔で人を殺す。
「まさかとは思うがデイジーくん。きみがやったんじゃないだろうね」
「なにを、ぼくが……」
「君は図書館をよく利用していただろう。私の娘になにか言われて、カッとなったのかい」
「私の、娘……?」
混乱するぼくの背中を、先生がやさしく抱く。
「図書館で司書をしているお姉さんがいるでしょ。あの人がルイスさんの娘さんなの」
「あのお姉さんが、この人の? いや、そうじゃなくて。お姉さんになにが?」
「白々しい野郎だなっ。てめえが、てめえが姉ちゃんを殺したんだろうがっ!」
「お姉さんが……殺された?」
ぼくは自分のつぶやきが信じられなかった。心が空白になる。その空隙は、やさしくしてくれたお姉さんのまぶしい笑顔ですぐ埋め尽くされた。
涙がこぼれた。
映画監督になる夢を応援してくれた、ぼくの理解者。そのお姉さんが、どうして。
「返せよっ。姉ちゃんを返せっ。姉ちゃんの目を返せよっ」
「目……?」
「姉ちゃんの腹をえぐって、目をくり抜いただろうがっ。なんでそんなことすんだよっ」
「知らない。知らないよそんなことっ」
「嘘ばっかつきやがってっ!」
バカルターくんが飛びかかってきた。ぼくは押し倒されて、鼻頭を痛打される。鼻血が吹き出した。
「やめなさいっ!」
静観していた大人たちがバカルターくんを引き剥がしにかかる。
「離せっ。離せよーっ!」
じたばたと暴れながら、彼はまだ自由な足を使って執拗にぼくを蹴りつける。
「なんで姉ちゃんなんだよっ! 殺しにくるなら、俺をやればいいだろうがーっ!」
バカルターくんの泣嘆が曇天を揺らした。
ぽつぽつと鈍色の空から雨だれが落ちてきた。わずかに感じる程度だった雨脚は、冷気を孕んだ激しい豪雨に豹変し、灰色の世界をみるみる切断していく。
雨は嫌いだ。世界が近くなるから。
「デーゴッ!」
激しい雨音を切り裂くような怒号があがる。バカルターくんが、殺気で炯々と光らせた目でぼくをねめつけていた。ぼくはすっくと立ちあがり、彼と相対する。背中にリリーが貼りつき、不機嫌な猫のような唸り声をあげて彼を睨みかえす。
「憶えてろ。明日かならず殺してやるからなっ」
「デイジーはなにもしてないっ。勝手なこと言わないでよっ」
「うるせえっ! おまえもこいつとおなじデーゴなんだろうがっ!」
「ちがうっ!」
リリーは力強く否定し、ぼくの前に立った。
「なにがちがうんだよっ!」
今にも喧嘩が始まりそうだというのに、ルイスさんは黙って事の成り行きを見つめていた。ほかの大人たちはどうしていいかわからずにおろおろしている。ぼくはいつでも身代わりになれるよう、足を下げて飛び出す準備をした。
リリーは自分の右胸を叩き、なにかを吐き出そうとして頭を垂れ、それからバカルターくんではなく、ルイスさんのほうへ顔を向けた。
「あたしのお兄ちゃんはね、あんたら政治家のせいで徴兵されたのよっ。多くの人を自分たちで戦地へ送っておいて、大義がない戦争だとわかった途端に掌を返してっ。その上、なにもしてないデイジーを傷つけてさっ。いったい何様のつもりなのよ、あんたたち大人はっ!」
「徴兵は国民の義務だ。そういう約束の元、私たちは星条旗の下で生きているんだろうが」
「星条旗の下では誰もが平等なんでしょっ。あたしは学校でそう習ったっ。なのにあんたはそうじゃないっ。デイジーを差別して、必死で戦って帰ってきた人たちを町から追い出そうとしてるっ。嘘つきっ。大人はみんな嘘つきだっ!」
矛盾を指摘されてルイスさんは歯噛みしながら反論する。
「君のお兄さんを戦地へ送ったのは私の意志じゃない。連邦議会の」
「あんたたち大人が選んだ政治家がそうしたんだから、あんたたち大人のせいじゃないっ」
リリーの鋭い指摘に、周りの大人たちも一様に口を引き結んだ。雨粒ではない大粒の雫を瞳からぽろぽろこぼしながら、リリーは泣き叫ぶ。
「返してよっ。やさしかったお兄ちゃんを返してっ」
「黙れ」
「返してよっ」
「黙れと言っているのが聞こえないのかっ」
「あたしを……あたしたち家族の幸せを返してよーっ!」
「黙れーっ!」
その怒声とともに右手が振り下ろされた。
衝撃とともにぼくは路面に倒れた。
「デイジーッ」
リリーに抱き起こされる。打たれた頬がじんわりと熱い。
「よくもデイジーを」
「リリー、いいんだ」
「でも」
ぼくは身を起こし、ばつが悪そうな顔をしているルイスさんにほほ笑んだ。
「ぼくはなにもしてません。それだけは、信じてください。お願いします」
そう言ってまっすぐ見つめると、ルイスさんはなにも言わずに下がった。代わりにバカルターくんが前に出る。
「明日の放課後、プールに来い。そこでなにもかも終わらせてやる」
「いいよ。君がそう望むなら」
「すかしてんじゃ――」
「なにをしているのですかっ!」
豪雨のなかでもよく通る声がぼくらの間に割って入った。
傘を差した神父様が、森の奥から走ってきた。
「飛び出したバカルターくんを連れ戻しにいくと言ったきり戻らないから、様子を見に来てみれば。大勢で子供を苛めているなんて、なんとおぞましい」
「神父様、これは」
「黙りなさい!」
言い訳しようとしたルイスさんを、神父様が一喝した。
「娘さんが天に召されたその日に争いごとをするとは。恥ずかしくないのですかっ」
正論で説き伏せられ、大人たちは皆うつむく。そして誰に促されたわけでもなく、一人、また一人と教会のほうへと歩み出した。バカルターくんは最後まで挑発的な態度を崩さなかったけど、ルイスさんに背中を叩かれて歩を進める。その場に残ったのは、ぼくとリリー、先生と神父様だけになった。
「神父様。あの」
「リリー、すみませんね。ピアノを貸す約束をしていましたが、今日は帰ってください」
「はい」と返事をしたリリーが、心なしかしおらしくなった。
「デイジーくん。悪いけどリリーちゃんを家まで送ってくれるかな」
「わかりました」
「よろしくね。いきましょう、神父様」
「ええ」
ぼくとリリーを残して、先生と神父様は教会へ戻っていった。
うつむいているリリーの右手を握る。豪雨のせいでやけに冷たかった。手がきゅっと握り返される。
「ごめんね。ピアノ、聴かせてあげられそうにないよ」
「じゃあさ、ぼくの家、来る?」
「ふえっ?」
美しい旋律と佳麗な歌声とともに、ビートルズのイエスタデイが終わる。室内に響く余韻が完全に消えたところでリリーは静かに立ち上がり、恭しく頭を下げた。
家に残っていたお母さんと部下のみんなが一斉に拍手をした。
リリーは照れたように頬を赤らめながら、お母さんに無理やり着させられた白いドレスの裾を持ち上げて、たおやかな笑みを浮かべたあとにもう一度お辞儀をした。
波のような拍手はなりやまない。とりわけお母さんは、
「ブラーヴォッ、ブラーヴォッ!」
と、瞳を涙で潤ませながらリリーを賞賛しつづけた。
リリーは困ったようにぼくに目配せをする。ぼくは苦笑いを浮かべ、指を一本立てた。もう一曲やって、というジェスチャーだ。リリーは顎に指を当て、少ししてから小さくうなずき、椅子に座り直した。それから手袋を嵌めたままの手を鍵盤の上に置き、
「みなさんもいっしょに歌ってください」
そう言って演奏をはじめる。
リリーが弾いたのは、ナポリ民謡のひとつ、「帰れソレントへ」。
ぼくは、歌が始まるまでなんの曲かわからなかったけど、思い入れのあるお母さんや部下のみんなは、リリーの歌い出しといっしょに口ずさみはじめた。なかには涙を流している人もいる。ぼくはうろ覚えの歌詞を口ずさむのがやっとだった。
そして気がつけば、リリーのピアノ演奏会というよりも、パーティーと相成っていた。楽器を弾ける部下のみんなは楽器を持ち寄り、リリーとともに演奏をしている。ぼくやお母さんを含めた聴衆は、倉庫から引っ張り出してきた椅子に腰かけ、近所のレストランから呼んだコックさんが作る料理に舌鼓を打っていた。奏でられる曲は、クラシックからロックと幅広く、リクエストにも応えられる範囲で対応してくれるのでまったく飽きがこない。時計の短針は刻々と時を刻み、気がつけば夜の八時。途中で帰ってきたお父さんも混ざり、いま最後の楽曲がフィニッシュを迎えた。
万雷の拍手が鳴り響き、ぽたぽたと玉の汗を流しながらリリーはピアノを離れた。
「お疲れさま、リリー」
「ありがとう、デイジー。どうだった?」
ぼくはジュースの入ったグラスを差し出しながらほほ笑んだ。
「とってもよかったよ。疲れた?」
「ちょっとね」
グラスを受け取ったリリーははにかみの微笑を浮かべ、ジュースを喉に流した。
「よかったらぼくの部屋に来ない?」
「それ、誘ってる?」
「うん。リリーにぼくのこと、もっと知ってもらいたいんだ」
「しかたないなー」
リリーはグラスを空け、いたずらっぽく笑った。
「がっかりさせたら怒るからね」
「そんな思いはさせないよ」
手を差し出すと、リリーはうなずいて握ってくれた。
パーティー会場となっている一階の奥に昇降機がある。ぼくはリリーをそれに載せてから、近くにいたコックさんに、ぼくの部屋へ料理を運ぶようにお願いしてから乗り込んだ。
ゆったりとした速度で昇降機は昇り、四階で停止した。
昇降機を降りて左に折れ、廊下を進む。
この家は、昇降機と吹き抜けの円型を基準に設計された。各部屋へと伸びた廊下には観葉植物と、季節のお花、それからお父さんが趣味で買ってくる絵画が飾られている。中にはとんでもない品物があるらしいんだけど、ぼくにはどれが価値あるものなのか分からない。規則的に設置された照明は、すべて冷たい白色。それだけでは物寂しいのか、吹き抜けの天辺には豪奢なクリスタルのシャンデリアが飾られている。そこから舞い落ちてくる光は、赤みを帯びた暖かい色だ。
リリーはため息交じりに家中を見まわしながらぼくについてくる。
見通しの良い全面防弾ガラス張りの通路の奥がぼくの部屋だ。部屋の前に置いてある、狼男のイミテーションを見て、リリーが小さな悲鳴を洩らしてぼくに抱きつく。こんなにカッコイイのに、そんな怖いのかな。
「さあ、ここがぼくの部屋だよ」
言いながら扉を開けて、ぼくは人生ではじめて、友達を自室に招き入れた。
照明を点けると、リリーは感嘆の声を洩らして室内をきょろきょろと見まわした。
「映画のポスターがこんなに。デイジーって、コレクターなの?」
「うん。将来は映画監督になりたいんだ」
リリーの言葉通り、ぼくの部屋は映画のポスターで埋め尽くされている。ほかに目に付くのは、怪物のフィギュアやイミテーション、映画の原作やレコード、お父さんのコネで手に入れた有名監督のサインだろう。
「ねえねえ、これどんな映画なの?」
「アルベール・ラモリス監督の『素晴らしい風船旅行』。冒険映画だよ」
「じゃあこれは?」
「ウィリアム・ワイラー監督の『コレクター』。それはサスペンス。その隣は」
「これは知ってる。日本映画の「七人の侍」でしょ」
「観たことあるんだー」
「うん。お兄ちゃんがまだいた頃、映画館に連れていってもらって観た映画なの。あとこれも観たことあるよ」
「アルフレッド・ヒッチコック監督の『北北西に進路を取れ』」
「そうそう。その監督の次の映画、えーと「サイコ」だっけ? あれよりあたしはこっちのほうが好き」
「ぼくもそうだよ。あ、そうだ」
ぼくは机の引き出しを開けて映画のチケットを取りだした。
「今度の週末、近くの映画館で「吸血鬼ドラキュラ」が再上映されるんだけど、一緒にいかない?」
「誘ってくれるのは嬉しいんだけど、もうちょっとロマンチックな映画にしてくれない?」
「安心して。すっごくロマンチックで怖くて面白いよ」
「そうじゃなくて、はじめての……トなんだから、ホラーじゃないほうが」
「え、ごめん。途中なんて言ったの?」
「もうっ、知らない」
リリーは頬を膨らませながら、乱暴にチケットを取った。週末の予定ができたぼくは嬉しい反面、本当に来てくれるのかなと心配になる。
「あ、きれい」
そう言ってリリーは本棚に歩み寄って、指輪を手に取った。
「ルビーの指輪だね」
「そうなの?」
「あれ、デイジーがお母さんからもらったんじゃないの?」
「ちがうわよ」
そう言ったのはお母さんだった。お父さんといっしょに来たらしい。
「それは、亡くなったおばあさんの形見だ」
お父さんがリリーに手を差し出す。
「はじめましてリリー君。デイジーの父のドミニクだ」
「改めましてリリーちゃん。ドミニクさんの最愛の妻、ヴェロニカよ」
「息子と仲良くしてくれてありがとう」
「いえ、あたしの方こそ良くしてもらって」
ふたりはにこやかに笑いながら、握手を交わした。
「素晴らしいピアノ演奏だったよ。お礼にそれを差し上げたいが、指輪はおばあさんがデイジーにあげたものだから、代わりに」
パチンッとお父さんが指を鳴らす。お母さんが羽織っていた真っ白なコートを脱いで、それをリリーに着させた。
「こ、これって」
「カシミアのコートだよ。君のように綺麗な子は、デイジーの黒コートより、こっちが似合う」
「も、もらえません」
「どうしてだい?」
「だだだって、カシミアって最高級の」
「ささやかなお礼よ。それに、わたしのお古だから気にしないで」
返そうとするリリーの手を、お母さんがそっと押し戻した。大人にそうされたら、子供は引っ込むしかない。リリーはカシミアのコートを胸に抱き、黙ってうつむいた。
そこへコックさんが、料理を載せたカートとともに現れた。
「坊ちゃん。ディナーをお持ちしました」
「ありがとうございます。ここで食べるから、カートを置いて下がってください」
「かしこまりました」
「ちょっと待て」
立ち去ろうとしたコックさんをお父さんが止める。
「俺たちもここで食事をするから、適当に見繕ってきてくれ。それと、食前にブラックコーヒーを頼む」
「わたしもブラック。デイジーのは砂糖を」
「ブラックで」
「えっ? だってあんたいつも」
「ブラックで!」
わかってよ、お母さん。――決して声に出せないため、目を見開いて心中で声高に訴えた。お母さんはリリーのほうをちらと見て、小さく笑ってうなずく。
「わかったわ。デイジーにもブラックを。リリーちゃんは?」
「砂糖をたっぷりお願いします」
「なんでしたら、カフェ・オレにしましょうか?」
「マーベラス。それで」
「かしこまりました。では」
退室したコックさんの背中を見つめながら、ぼくは心中で毒づいた。
(もっと早くカフェ・オレって言ってくれれば。いやでも。もう十二歳になったんだから、ブラックコーヒーぐらい)
そして運ばれてきたブラックコーヒーを飲んで、ぼくは胃がきりきり痛み、無駄に恰好つけたことを激しく後悔する羽目になったのだった。
「うーん、どれもこれも美味しかったー」
リリーは満足の吐息を洩らし、デザートのアイスクリームを幸せそうに頬張る。ぼくはというと、ブラックコーヒーで痛めた胃のせいで満足に食事が進まず、砂礫を噛むような思いでステーキを食べていた。口中に広がる馥郁とした香りと芳醇な旨味は幸福の一語に尽きるけど、胃は飲み下そうとする肉片を拒むような痛みをぼくに与えて止まない。やっぱり無理は良くないな、うん。
「お腹痛いの?」
リリーが心配そうに訊く。まさかコーヒーのせいでこうなっていると告白するのは、ちっぽけなプライドでも許すことができない。ぼくは冷めたマグカップを手にし、無理やりにコーヒーで肉片を飲み下して、笑みを浮かべた――はず。
「平気だよ」
「顔が蒼いけど?」
「な、なんでもないよっ」
嘘です、すいません。めちゃくちゃ胃が痛くて辛いです。さっき無理しないって誓ったのに、やっちゃった。
「ただの食い過ぎだろう。とりあえず整腸薬でも呑んでおけ」
お父さんはぼくに薬の瓶を手渡した。瓶に貼られたラベルを見ると、整腸薬ではなく胃薬と書かれている。お父さんのほうを向くと、笑顔で親指を立てていた。ありがとう、お父さん。ぼくは親指を立てたあと、手早く薬を呑み込んだ。これですこしは落ち着いてくれればいいんだけど。
「そうだ」
お母さんが手をひとつ叩いた。
「もう遅いし、今晩は泊まっていきなさいよ、リリーちゃん」
「いいんですか?」
「もちろんよ。わたし、ずっと娘が欲しかったから今夜はいっしょのベッドで寝ましょう」
「男で悪かったね」
「あらー。息子がいなかったらおなじこと言うわよー」
「俺以外の男と寝ることは許さんぞ」
「心配しないでください。わたしが愛しているのはあなただけです、ドミニクさん」
「スウィート」
「ダーリン」
見つめ合うお父さんとお母さんの熱視線に、肌がすっごく痒くなってむかついた。ぼく、もしかして愛されてないんじゃない?
イライラしながら首の裏を掻くぼくの横で、リリーがぽろりと涙をこぼした。
「え、どうしたのリリー? お腹痛くなったの?」
リリーはゆるゆるとかぶりを振る。階下でチャイムが鳴った。
「ちがうの。羨ましくて」
「羨ましい?」とぼくはオウム返しに訊く。お父さんとお母さんも心配そうな目をリリーに向ける。
「うん。あたしのお母さん、あたしがまだ赤ちゃんのときに死んじゃったから、お母さんのいるデイジーが羨ましいの」
語りながらリリーはしくしく泣く。
「じゃあ、ずっとお父さんがリリー君を?」
「いえ。お父さんは、お母さんが死んだショックで酒浸りになっちゃって。あたしを育ててくれたのは、お兄ちゃんなんです」
リリーの告白にぼくは言葉を失う。なにか声をかけたかったのに、喉奥に真綿が詰まったようになにも出てこない。
お母さんがぼくに代わって声をかける。
「やさしいお兄さんね」
リリーがこくりとうなずく。
「学校もピアノも。……あたしがここにいられるのもお兄ちゃんのおかげなんです。学校を辞めて必死で働いて、貯金なんてできないくらい貧しいのに、ピアノの才能を伸ばして欲しいって無理にピアノを買ったり。なのに、戦争に行ったせいで……」
「もういいのよ」
お母さんはリリーをやさしく抱きしめ、頭を撫でる。リリーは、感情が決壊したように陽がついたように泣き出した。
「今日は泊まっていきなさい。いいわよね? デイジー、ドミニクさん」
「もちろん」と答えようとした寸前、扉が乱暴に開け放たれた。慌てた様子でおじさん数人が雪崩れ込んできて、お父さんに報告をする。
「ボス、緊急です。すぐに下へ」
「殴りこみか?」
険しい顔で問いかけると、おじさんはかぶりを振る。
「ちがいます。議員のルイスがわけのわからねえこと言って、ボスと坊ちゃんに会わせろって喚いてるんです」
「デイジーも?」
「はい。追い返そうとしてもあいつの支持者もいっしょで。このままじゃ収集がつかないんで、すいませんが」
「しかたねえなぁ」
お父さんがぼくの背に手を当て、お母さんに顔を向ける。
「面倒なやつが来た。リリー君を送ってやってくれ」
「わかりました。ごめんねリリーちゃん。ちょっとごたごたしてるから、やっぱり今夜は」
「いいですよ」
「デイジーもそれでいい?」
「うん」と、ぼくは一も二も無くうなずいた。ルイスさんがどんな理由で来たかは知らないけど、リリーに聞かれたくない話だって飛び出すだろうから、ぼくは残念に思いつつ同意する。
「よし、いくぞ」
お父さんがぼくの手を握った。ぼくは手を握り返し、リリーに別れの挨拶をする。
「またね、リリー」
「うん。また明日」
「また明日」
部屋の扉が閉められる。嬉しさで満ちていた心が一歩進むごとに冷め始め、不安がぬっくと鎌首をもたげてきた。昇降機の下降と相反するように緊張感が高まり、お父さんの手を握る力がぐんぐん強まっていく。
あれだけ盛り上がっていた一階はすでに閑散としていた。熱っぽかった空気も今は底冷えするほど寒く、玄関先から轟くルイスさんの罵り騒ぐ声に異様な迫力を加えている。
お父さんはぼくの手を離し、タバコに火を点けた。紫煙をくゆらし、気怠そうに玄関へ向かう。
ぼくは追いかけようかどうか迷った。お父さんの逞しい背中から、おまえの好きにしろ、と言われているような気がしたから。手を離したのもきっとそういう意味があったんだと思う。
その昏迷を断ち切ったのは、不安だった。一人で町を歩いているとき、ルイスさんに捕まってあれこれ言われるのと、お父さんが隣にいるときに文句を叫ばれるのでは、どう考えても後者がいい。ぼくはお父さんの背に貼りつくように歩き、玄関にたどり着いた。
「よう税金泥棒。票にもならないこんなところになんの用だ」
「ドミニク。よくもぬけぬけと」
「挨拶しただけでなにがぬけぬけだ、豚野郎。おまえの支持者が多いことを自慢しに来たのか? 後ろの蛆虫どもも物好きだな。次の選挙で落選する運命の、こんな豚を応援するなんて」
お父さんがニタリと笑いながら睨みつけると、ルイスさんの支持者である大人たちがか細い悲鳴をあげた。ルイスさんが両腕を広げ、お父さんと支持者の間に立ち塞がる。
「みんな好意でついてきてくれたんだ。脅迫はやめろ」
「なにが好意だ。好奇からの行為だろうが。それでなんの用だ。薬が欲しくて騒ぐやつがいるから、なんとかしろってことならお断りだぞ」
「ふざけるなっ。私の支持者に限ってジャンキーなど存在しないっ」
ルイスさんの憤怒の表情を見て取り、お父さんは天井を仰いでゲラゲラと笑った。
「これだから差別主義者の豚は。自分に都合のいいところしか見えないんだな」
「な、なに?」
「おまえの後ろにいる奴のなかに、俺の顧客が何人かいるぞ」
「でたらめを」
「幸せなんだな、てめえって野郎はよ」
タバコを一口吸い、お父さんはルイスさんを哀れみのこもった瞳で見つめ、その顔におもいっきり紫煙を吹きつけた。ルイスさんはむせ返り、それから涙をこぼす。予想外のことにお父さんは目を白黒させ、ルイスさんは肩を大きくわななかせた。
「……返せ」
「あんっ?」
「私の息子を返せっ!」
言葉尻とともにお父さんが殴られた。部下のおじさんたちが飛び出したが、それより先にお父さんが、ルイスさんの頬にお返しを叩きこんだ。ルイスさんは、雨で湿った庭先に錐もみのようにぶっ飛ぶ。彼の支持者の何人かが一目散に逃げ出す。残った大人たちがルイスさんを起こし、その間にぼくとお父さんは庭園に踏み出た。まだしとしとと雨が降っている。
ルイスさんは、何倍にも膨れた頬を撫でながら、殺気で炯々とギラつく目でぼくたちをねめつけてきた。
「お前らがやったんだろう。娘だけでは飽き足らず、息子まで奪うのかっ」
「なに言ってんだこいつ?」
「図書館のお姉さんが死んだんだって。その人、ルイスさんの子供だったんだ」
首を傾げるお父さんに、ぼくはそっと耳打ちをした。
「あの子が、おまえを虐めてるバカルターの姉ちゃん? こんな豚から、よくあんな人格者が産まれたもんだな」
お父さんはタバコを吹かしながら、あきれ顔で頭を掻く。そのひとり言を、ぼくは七割肯定してあとは否定した。
「娘を返せ、息子を返せ」
「知るか。なんのことだか、さっぱり分からねえよ」
「嘘をつくな。おまえの息子を虐めていたバカルターをさらったんだろうがっ」
赤紫色の顔で激昂するルイスさんを無視して、お父さんは背後の支持者に声をかけた。
「おい蛆虫ども。脳味噌あるなら考えろ。こんな豚を支持して、おまえらになんの得があるんだ」
「無視するなっ」
お父さんはルイスさんに向き直り、ぼくをあやす時のように頭をなでなでした
「ママに習わなかったのか、豚。人が喋ってるときはブーブー喚かずに聞くもんだぞ」
「やめろっ」とルイスさんは叫び、頭を甲斐甲斐しく撫でるお父さんの手を振り払った。
「子供をさらった挙句、私を馬鹿にし――」
「おい」
お父さんはお腹の底に響くような低音でつぶやき、支持者から見えない角度でルイスさんのみぞおちを打擲し、上体を倒した彼の髪を思い切りねじり上げた。
ルイスさんは、「痛い痛い」と訴えるが、お父さんはそれを無視して自分の顔をぐいっと近づけた。
「馬鹿にされて当然だと思わねえのか」
「な、なんだと……」
「おまえの息子が俺の息子を虐めるのは今に始まったことじゃねえ。今日までなにもしてねえのに、突然さらうわけねえだろ。やるなら虐めが始まったときだ。そうだろ、違うか?」
「タイミングを見計らっ――グアッ!」
「『マヤーレ』の意味を知ってるか、ルイス。イタリア語で『豚』。おまえのことだよ」
みぞおちに突き入れた拳をゆっくりと引き抜きながら、前方に倒れかかってくるルイスさんを、お父さんは蹴飛ばした。
彼の支持者は助けもせず一斉に、全員逃げ出した。
遠ざかっていく足音と狂騒を見つめながら、ぼくは思った。
あんな優美さのかけらもない大人になるくらいなら、ぼくは子供のままでいたい。
俗悪な人間になるくらいなら、ぼくはこのまま朽ちてしまいたい。
リリーと出会えた今のぼくのまま、死にたい。
「デ、デイジーくん。デイジーくん、デイジーくん、デイジーくん、デイジーくん」
ぼくの名前を口にしながら、ルイスさんが地面を這ってきた。泥にまみれた真っ黒い手がぼくに伸びる。泥土で化粧を施され、顔の造作も面影も失せた不気味な顔がニタリと笑い、足をつかもうとした。
ぼくはそれを冷たい目で見据え、膝頭をわずかに持ち上げた。
迫る手。ゆっくりと落ちるぼくの足。
四本の指の腹に、お父さんの靴底が載った。靴底と手で形作られた奇妙なデルタが、ミリミリと軋みをあげながら形成を崩していく。
ルイスさんの悲鳴が迸る中、ぼくは行き先を失った足をそっと下げた。
「豚が」
冷たくそう言い放ったあと、懐に手を入れたお父さんはリボルバー拳銃を抜き、限界まで反り返っているルイスさんの手元に向けて発砲した。悲鳴が途切れ、轟音で引き裂かれた夜が、そのほつれを縫い合わせたような静寂が訪れる。
弾丸は地面に埋まり、雨粒を浴びてかすかな水蒸気を立ち昇らせている。糸傷も負っていないにもかかわらず、ルイスさんはアルコール中毒者のように全身を大きく波立たせた。
「今度俺の宝物に触れようとしてみろ。生きたまま指を一本一本削ぎ落としてやるぞ」
「ひぃっ!」甲高い悲鳴をあげて、ルイスさんはついに泣き出した。
お父さんは鼻白んだような顔で二本目のタバコに火を点け、黒紫色の夜空に蒼白い煙を吹かす。
ぼくはすこしルイスさんがかわいそうになり、ぶるぶる震える肩に触れた。なにかされると思ったのか、ルイスさんは大きく反応し、そのあと死んだように動かなくなる。代わりに地面のほうから、びちゃびちゃと汚い水音がした。
「あの、ぼくは本当に知らないんです。バカルター君にはいろいろされましたけど、誰にもなにも頼んでいません」
「じゃあ、だれが息子を、娘を」
「わかりません」と言ってぼくはお父さんのほうを向き、「ねえお父さん。バカルターくんを探してくれない?」
ジジジッとタバコの火口が吸口に迫り、紫煙が渦を巻いて天に昇っていく。
「おまえを虐める糞のことなんか放っておけ。どんな姿になっていようが自業自得だ」
「お父さん」
「ガキも大人も、他人を傷つけるやつはいつか手痛い報いを受ける。俺も、糞も、蛆虫も、豚もだ。例外なんかない」
お父さんはぼくの腕をつかみ、屋敷のほうへ引きずっていく。睨み据えられたぼくは、その眼光に射すくめられてなにも言えなかった。玄関で待っていたおじさんがぼくを受けとめ、お父さんはドアの取っ手を握り、火の点いたままのタバコを庭先に弾く。
「闇の濃い夜は気を付けろ。おまえの娘と息子を狙ってのことなら、おまえもすぐに消える」
「た、助けくれ」
「やったのは俺じゃない。そのセリフは、犯人と対面したときに言うんだな」
「金ならいくらでもやるから、私を守ってくれ」
「運命を受け入れろ。そうすれば、あの世ですぐ子供と再会できる」
「ひぃっ」
「じゃあな」
「まっ――」
バタンッ。必要以上に強い力で扉は閉められ、内と外を分かつ。扉を叩いて追いすがるルイスさんの侵入を阻むため、鍵がかけられる。これでなにをされても、こちら側から開錠しない限り侵入はできなくなった。
「さて」とお父さんはつぶやき、部下のおじさんたちの方を向く。
「手前の三人。前に出ろ」
言われたとおり、三人のおじさんたちが一歩前に出て屹立した。
「仕事を与える。バカルターを探せ」
「お父さん」
意外な言葉にぼくは目を輝かせた。
お父さんは瞳を翳らせて首をゆるゆると振る。
「期待はするな。バカルターは、多分もう死んでる」
「そう、なの?」
「ああ。奴が独りになった時を狙ったなら、まず間違いない」
「しかしボス。身代金目当ての誘拐という線が」
「ない。ルイスの慌て振りを見ただろ。バカルターが消えて真っ先に俺のところへきたわけじゃない。手当たり次第、心当たりを探し回って最後にここへ来た。そう考えるのが自然だろう。デイジー。おまえは何時にバカルターと顔を合わせたんだ?」
「午後一時ぐらいかな」
ぼくの答えを聞いて、お父さんは腕時計の文字盤に目を落とし、納得顔でうなずく。
「もうすぐ午後九時だ。どう少なく見積もっても消えてから四時間は経過してる。その間に身代金要求がないなら誘拐の線はないだろうな」
「坊ちゃんが世話になっていた、司書の姉ちゃんの死と関連性はあると思いますか?」
その質問に対し、お父さんは逡巡せず断言した。
「当然だ。昨日姉ちゃんが殺されて今日弟が消えた。どう考えても偶然の域を超えてる。ルイスに恨みを持つ偏執狂、もしくは連続殺人鬼が星だ」
「無差別殺人鬼という可能性は? 最近ヒッピーを狙った連続殺人事件が多発してますが」
「ルイスのガキとなんの関連が」
「あっ」
ぼくは頓狂な声を発し、学校の先生が話していたことを思い出した。
「どうした? まさか、バカルターがヒッピーだなんて言うつもりじゃないだろうな?」
お父さんは半笑いで訊いた。ぼくはかぶりを振り、
「バカルターくんじゃなくて、お姉さん」
「えっ?」
「お姉さんはヒッピーだよ」
大人の顔が一斉に強張った。部下のおじさんの一人がぼくに質問する。
「坊ちゃん。それは誰からの情報なんですか?」
「学校の先生」
「それだけですか?」
「それからぼく。昨日図書館で――」
ぼくはお姉さんが叫んでいた言葉をできるだけ思い出して、みんなにその内容を聞いてもらい、判断してもらうことにした。
話が進むにつれ、半信半疑だったみんなの相好が、次第に確信の色に染まっていく。そして話の終わりごろには、目の前に並んだ顔すべてが蒼ざめていた。お父さんをのぞいて。
「ボス、決まりですね。犯人は帰還兵ですよ」
「俺もそう思います。奴ら、国のために戦ったのにデモ隊からひどい暴言を受けたからそれで」
「たしかにそうだな。戦ったこともない蛆虫どもから、子殺し、赤ん坊殺しと言われりゃ殺したくもなる。別の町でも戦争病を患った帰還兵が問題になってるとも聞くしな」
ぼくはそこでふと、サルビアさんのことを思い出した。出会ったのは昨日だけど、もしかしてずっと前からこの町にいたんじゃないかな。でも、見ず知らずのぼくに親切にしてくれたあの人が、自分をそしる憎々しい奴。――そんな理由でヒッピー思想の人を殺めるのかな。
「退役軍人会に探りを入れてみます」
「その前に、うちに新しく入った下っ端に戦争帰りがいただろう。まずはそいつから」
「じゃあ俺は保安官に探りを」
「待て」
行動に移ろうとしたおじさんたちを、お父さんが止めた。
「おまえらのやろうとしてることは間違ってる」
おじさんたちはもちろんだけど、ぼくも首をかしげた。
「ヒッピー殺しの犯人を捜すなら、帰還兵を一人ずつさらって訊問するのが一番だ。だがバカルターの件はどう説明する? この町で起こったヒッピー殺しだけを見ても、被害者の兄弟や親族が日を改めてから殺された、って話は終ぞ聞かない。一連の事件はそうかもしれねえが、バカルターをさらったのは別人だ」
「いやしかし」
「バカルターを探せ、って言った意味を理解してないようだな」
お父さんはタバコに火を点けて紫煙をくゆらす。もくもくと立ち昇った煙は、天井でかすかにゆらめくシャンデリアの光を曇らせて消えていった。
「誘拐犯を探すのは、デイジーを、それからリリーを守るためだ」
「ぼくとリリーを?」
「そうだ。ヒッピー殺し以外で、バカルターはもしかしたら最初の犠牲者になるかもしれねえ。あいつだけで終われば万々歳だが、もし連続したらガキが狙われる公算が高い。子供を狙うような玉無しは、俺たち大人は絶対に襲わねえ。自分より弱くて馬鹿なガキを殺すことにエクスタシーを感じる畜生だからな。放っておけばお前とリリーに、サイコの毒牙が迫る危険性があるんだよ」
喋々と物語ったお父さんは、おじさんたちの方へ視線を投げる。うつむいていた三人が、ビシッと直立した。
「お前ら、なるべく目立たないように行動しろ。犯人は馬鹿だが、仮にも議員の息子をさらう大胆な奴だ。油断するとこっちが痛い目を見る。素人にプロの技ってものを思い知らせてやれ」
「はいっ、ボスッ!」
発破をかけられたおじさんたちは声を揃え、一礼をしてから一階の奥にある部屋へ駆けこんでいった。
お父さんは紫煙とともにため息を洩らし、やれやれといった感じで頭を掻いて、ぼくの頭を撫でてくれた。
「怖いのか、震えてるぞ」
「えっ?」
言われてはじめて気づいた。ぼくの両手は何かに脅えるように震えていたのだ。それを止めようと握ってみたけど、内側から正体不明の何物かがぞわぞわと這い上がってきて、どうしても揺れが治まらない。
そんなぼくを見てお父さんが愉快そうに笑った。
「心配するな。おまえもリリーも、俺が、俺たちが守ってやるよ」
「お父さん、ぼく」
「ん?」
「ぼく……」
首を傾げるお父さんに、何年も心の内に溜めこんでいた思いを吐き出そうかどうか迷う。もし口に出したら、ぼくは今日までのぼくじゃなくなる。なにをされても仕方がないと諦めて、なるべく嫌われないように努めてきた自分とは違う人間になる。
それでいいのかな? 今のままで良い気もする。弱い自分は嫌いじゃない。居場所がないのは慣れてる。それが当たり前だから。
でもぼくは、そんな自身を好きになれない。自分という存在が好きでも嫌いでもないノーマル。
リリー。君は自分のことが好き? ぼくはデイジーっていう人間がよくわからないよ。こんなぼくだけど、君を……。
ぼくは拳を強く握った。
「ぼく、強くなりたい。お父さんみたいに強くなりたいんだっ」
決意の叫びに呼応するように強風が窓に吹きつき、ガタガタとガラスが揺れ動いた。
お父さんと残っていた部下のおじさんたちが目をぱちくりさせる。
長い沈黙はマグマのようにぐつぐつと煮えたぎる熱情を急速に冷やし、ぼくは内心恥ずかしくなってきた。でも、お父さんを見つめる目だけは逸らさない。ここで真剣さを認めてもらえなかったら、ぼくは一生中途半端だ。自分のことも、リリーのことも、映画のことも、きっとずっと。
そんなの嫌だ。
夢も、リリーも、自分のことも真剣になりたい。
ぼくは今の自分を超えたい。
生まれ変わりたい。
じっと見つめているお父さんの目から、涙がひとつこぼれた。
「お父さん?」
「ああ悪い。煙が目に染みたみたいだ」
そう言って目をごしごし擦るお父さんを、おじさんたちは微笑ましそうに眺めていた。
「おまえの決意、見せてもらった。その目は嘘をついてないみたいだな」
ぼくは無言でうなずいた。
お父さんがうなずきを返す。
「今日はもう寝ろ。いろいろあって疲れただろう」
「でも」
「焦ると好きな女に嫌われちまうぞ」
そう言ってお父さんは意地悪そうに笑い、おじさんたちもくすくすと笑った。ぼくは鼻の頭を掻きながら、照れくさくてうつむく。なごやかな空気なのに急に居心地が悪くなって、ぼくは退散することにした。
昇降機はすぐ四階に着き、自室へ向かう。
階下から大人の会話が少しだけ聞こえた。
「ボス。長かったですね。おめでとうございます」
「ありがとうよ。けど、本当にいいのか迷ってる」
「どうしてですか?」
「下手にいじると、デイジーの命に関わるからだ」
――そうなの?
ぼくは自室の扉を開けながら、お父さんのつぶやきについて考えた。
「集団は無意識に他人を型に嵌めたがる。あいつは今まで、「弱い人間」「虐めてもいい人間」だったはずだ。デイジーはそれを変えようとしてる。それを許さない人間がいたら、命懸けになっちまう。本当にそれでいいのか」
それでいい。
命を失うことになってもかまわない。
ぼくは変わりたい。
ぼくはぼくを好きになりたい。
*
「ここが、リリーちゃんのお家?」
ヴェロニカさんが、新型のキャデラックを停めて苦笑いを浮かべて訊いてきた。あたしは恥ずかしくて、うつむきながら「はい」と答えた。
数時間ぶりに目にした自宅。あたしは不思議の国から追放されたような気持ちになる。
デイジーの自宅は本当にすごかった。
五階建ての、高い塀を巡らせた豪邸。広々としたお庭。家の内装や造りも豪奢だったけど、裏口から連れられていった駐車場はさらにあたしを驚かせた。ずらりと並んだ高級車の数々。教えてもらうまで車種はわからなかったけど、耳にしたそれらは車に疎いあたしでも聞いたことのある名車ばかり。一台だけで、戦争にいく前のお兄ちゃんの年収に届いてしまう。そんなものが何十台も並んでいる光景に、ちょっと眩暈がした。
そんな家の子と仲良くなったことが信じられず、自宅までの道中、ふかふかの座面に腰かけている今の自分は夢の世界にいるんじゃ、と訝ったほど。
でもあたしはやっぱり現実にいる。キャデラックのヘッドライトが切り開いた闇の向こうに、忘れていた世界が露顕した。
デイジーの家と比べたら、あまりにもみすぼらしい自宅が目の前にあった。塀もなく、郵便ポストはひしゃげている。庭は雪のおかげで何事もないように見えるけど、その下には酒の空き瓶やゴミが埋まってるはず。風雨にさらされた家の壁はいつ剥がれてもおかしくないほどくたくたで、通路もまた大量の瓶や缶が占拠してる。ヴェロニカさんの目に見えない家中は、もっとひどい有り様だ。
お兄ちゃんが戦争に行ってから、友達にも見せたことのないあたしの秘密。目にして欲しくないさもしい現実が広がっている。あいつが出てこないのが唯一の救いかな。
「す、すごい家ね」
「はい。だから途中まででいいって言ったんです」
「そうなの。ごめんなさいね」
「じゃあ本当にここなんで、あたしは失礼します。送ってくれて、ありがとうございました」
ドアを開ける。
「ちょっと待って」
言葉尻とともに左手をつかまれる。ヴェロニカさんは、あたしが車内に忘れたカシミアのコートを笑顔で差し出してくれた。
「はいこれ。今年は寒いから風邪には気を付けるのよ」
「ありがとうございます」
言いながらコートを受け取り、手袋越しに感じる肌のぬくもりに瞳が潤んだ。記憶にない頃に死んでしまったお母さんもきっと、こんなに優しかったんだろうなぁ。
「さっき、また明日ってデイジーに言ってたけど、何時にどこで待ち合わせるか決めてるの?」
「あ、忘れてました。えっと、そうですね。……今日とおなじ場所、おなじ時間って伝えてください」
「オーケー。天気が悪かったら迎えにきてあげるから。じゃあね」
ウィンクとともにドアが閉まり、キャデラックは闇の向こうへ走り去っていった。
取り残されたあたしは、身を包む闇の深さに寒気を覚えた。
デイジーの家とおなじ町にあるはずなのに、この地区は町長さんから見放された場所だ。いわゆるレッドネックとブルーカラーが多く、治安も町全体で一番悪い。モーターサイクル・ギャングやストリート・ギャング、悪いことなら何でもする人が多くて困っている。その不良集団の大半が、刑務所帰りで構成されているから一層たちが悪い。そういった連中は罪悪感などなく、いまが面白ければそれでいいという刹那主義であるため、街灯や壁面、他人の家は自己アピールのキャンバス。被害は数知れず、いまだに街路灯は割れたままだ。
(ヴェロニカさん、だいじょうぶかな? あんな高級車でこんなところをうろついてたら、餌食に)
あたしはコートを着ながらため息を洩らし、寒さでかじかんだ手をポケットに入れた。すると、カサッ。――という音がした。なんだろうと手を引っぱり出す。電話番号と『困ったら電話してね。ヴェロニカ』ということが書かれた紙切れが出てきた。
嬉しくてつい笑みが浮かぶ。ほんとうにいい人たちと巡り合えた。
いまからあいつと顔を合わせなきゃならないのに、あたしはいつもと違った気持ちで扉を開けた。
あいかわらず酒臭い。でも今日はいつもより臭いの程度がひどくない。昨日あたしをステーキハンマーで殴ったから、それですこしは反省したのかな。
――ないない。希望的観測にためいきが出る。
あいつがそんな殊勝だったら、いまごろ仕事を見つけて毎日汗を流しているはず。
でも、この時間帯でこれぐらいの臭気なのだから、もしかしたら、と思うあたしもいた。
「ただいまー」
奥に向かって声をかける。
「た、たすけっ――」
悲鳴にも似た声のあと、ガタガタッとなにかが揺れ動く音と、バタン、という扉が閉じられたような音が聞こえた。
いまの声、あいつのじゃない。でも、どこかで聞いたことがあるような。
あたしは不安になりながら、明かりの灯っていない廊下を歩み、リビングをそっと覗いた。
あいつの姿がない。またキッチンにいるのかな。
「ただいまー」
もう一度声をかけると、やはりキッチンのほうから「おかえり」という声がした。
「ねえ、さっきの声って」
「俺だよ、俺」
酒焼けした声で答え、皿を二枚運んできた。お腹いっぱいだけど、下手に断わるとまた殴られるかもしれないので、あたしは渋々テーブルに腰かける。
目の前に置かれたのはソーセージだった。ちゃんと腸詰されているから、手作りではなさそうでほっとする。
対面の席に腰かけたあいつは、テーブルに載ったビールを何本か手にとり、まだ中身の入っている瓶を見つけて笑う。いったい何ガロン呑めば気が済むのかな。
そんなことを思いつつ、お皿に備えつけられたナイフとフォークを手にした。
蝋燭の灯りが点き、つつましい食事がはじまった。
恐る恐る口に入れたソーセージは、近所のお店で売られているものと同じ味だった。大好物なんだけど、デイジーの家で食べた料理が胃に残っていて、なかなか食が進まない。
がぶがぶビールを煽りながら食べつづけるあいつを見るのは苦役だった。
あたしはテーブルの右脇へ目を向けた。
花瓶に、蕾の薔薇が活けてあった。
めずらしい。お酒の買い出しにいったときに買ってきたのかな。
この時期は、ハウス栽培以外は時季外れで道端のものを失敬、ということはできないのでそう思った。
どうしてそんな気まぐれを。腑に落ちないあたしは、ソーセージをビールで流しているあいつに質問した。
「この薔薇、綺麗だね。もしかしてあたしのために?」
あり得ない。こいつをずっと見てきたくせにどの口が言うんだ。あたしは自分を内心嘲笑い、あいつはビールをテーブルに置き、それから身を屈める。床下でガサガサと音がした。
「買ったのは俺じゃないが、たしかにおまえのための薔薇だ。ほら」
テーブルの上に、みすぼらしい薔薇の花束が置かれた。包まれた花はどれも不揃いで、花弁のほとんどが欠落しているものもある。よく見ると、うっすらと水気を帯びていた。
ゾクリッ。背筋が寒くなった。この薔薇、どこかで見た気がする。それも今日。
「まさか、これって」
「落し物はよくないぞリリー。はじめて出来た彼氏からのプレゼントだろ?」
ゲヘヘと下衆な笑いと共にそう言われた。
あたしは嫌悪と驚嘆で椅子から立ちあがり、額からぽたぽたと汗の玉をこぼした。羽織っていたカシミアのコートがずり落ち、汚い床に広がる。
「あんた、仕事の面接にもいかないであたしをストーキングしてたの?」
あいつは質問に答えず、あたしの頬をさすった。ざら。――まるで紙ヤスリに肌を撫でられたような不快感で全身が総毛立つ。
「かわいそうにな。かわいいお前の顔を殴るなんて信じられねえよ」
「なんで、知って」
「悪い子には俺がちゃーんとおしおきしておいたから、安心していいぞ」
「お、おしおき?」
「ああ。姉ちゃんの目を返せって言ってたから、返しにいってやったんだ」
「!」
こ、こいつがバカルターのお姉ちゃんを。じゃあ、昨日あたしが見た目玉って。
「返しに来たぞって言って目玉を見せたら、いきなりキレて襲いかかってきたんだ。手癖の悪いガキで、ナイフを隠してやがった。ほら見ろ」
文字通り目の前に人差し指を突き出される。爪と指のあいだに溜まった皮脂が腐臭にも似た悪臭を放ち、あやうく胃の中のものを戻すところだった。しかし耐えて差し出された指先を見たが、どこにも傷らしい傷は見当たらない。
「なにも、ないじゃない」
そう言うと、あいつは自分のほうへ手を引き戻し、傷口があったらしい場所を見つめて笑った。くつくつと静かに笑っていたが、時間を追うごとにだんだんと異常な哄笑へ発展していく。
あたしは後じさり、なにかに足を取られて転んだ。お尻に激痛と違和感が突き抜ける。カシミアのコートの下に、酒瓶があったようでそれに衝突したらしい。
でもおかしい。瓶にしては柔らかかった。コートのおかげ? それとも……。
「ハッハハハハハ!」
一段と甲高い、狂人のような笑いに心臓を鷲掴みにされた思いで振り返る。あいつは目尻と口角を鋭角に吊り上げ、唇の端からよだれをだらだら垂らして笑っていた。
「ついにやったぞ。俺はやっぱり間違ってなかったんだ」
喜悦混じりのひとりごち。そのあとで酒と食べかすで汚れたワイシャツをビリビリに引き破り、お腹の右上を愛おしそうになぞった。恍惚の表情のまま、ズボンのポケットからケースを取り出す。中身は注射器とモルヒネ。酒で痛みを紛らわせることができなくなった時に使う、いわば命綱だ。
蓋が開けられ、落下した注射器とモルヒネが砕け散る。
あまりの狂態ぶりに、あたしはなにも言えなかった。
どうしてこんなことができるの。あれがなくなったら、死ぬかもしれないのに。
その答えは、剥き出しになったあいつの背中にあった。
忘れられるはずのない、いかめしい紋章のタトゥー。首裏からお尻の上あたりまで描かれた、巨大で、目撃した人間すべてに畏怖を与えるおぞましさ。アネモネやスノードロップやダリア、美しい花が秘めたる不吉な花言葉のように、物恐ろしい刺青のなかにも独特の美がある。見ているだけで、沸き起こる感興と猜忌で心がぐちゃぐちゃになってしまう。
「どうやって、自分の、背中に……」
口を押さえながら訊くと、あいつは首を傾げて自分のこめかみをつんつんと突く。
「やっぱり頭悪いな、おまえ。タトゥー屋に入れてもらったに決まってんだろ」
「でも、どこからそんなお金」
ギリギリで暮らしているという自負は、アルコールと劇薬で頭をやられたあいつにだってあるはず。あたしは十二歳でアルバイトができないし、こいつだって長患いのせいで仕事はしてない。国からもらえるわずかなお金で、あたしたちの生活はなんとか成り立っている。タトゥーの相場はわからないけど、わずかな貯金で賄えるなんて思えない。
「こうすりゃ無料だろ」
そう言って握り拳をあげたあいつは、親指と人差し指だけを開き、自分のこめかみに当て、
「パンッ」
手首をわずかにあげた。それに続く「ひひひひひ」という不気味な笑い。
あたしはもうここにはいたくなかった。
床に落ちたコートを拾って、そのまま走り去ろうとしたとき、からまっていた何かが落ちた。
目が下を向く。
「きゃあああああああああああっ! あああああああああっ!」
あたしは首を振り動かし、卓上電話に手を伸ばした。はやく警察に連絡しなきゃ。
受話器を持ち上げてダイヤルを回している途中で、あいつはフックを押して妨害してきた。
「俺を売る気か?」
「だってあれ、あれ……」
目の奥に焼きついたおぞましい物を思い出しながら、あたしは涙声で訴えようとしたがそれができないでいた。口が、喉が、声を出すためのすべてが震えて言葉が途切れ途切れになってなにも出てこない。
あいつは、なぜかにこりと笑った。
「おまえは悪くない」
「えっ?」
「手が悪いんだ。だからおしおきする」
恐怖で見開いている瞳の前を、銀の光がすーっと通る。
「やめてーっ!」
あたしは泣き叫んで逃げ出そうとした。左手をつかまれ、手袋が滑り落ちる。小指が欠損した手が露わになった。
「お願いっ。手はやめてっ。ピアノが弾けなくなっちゃうっ。おねがいだから、やめてぇ……」
すすり泣きながら懇願すると、あいつはうんうんとうなずき、
「駄目だ」
大型のナイフを振り下ろした。
家中に響き渡るほどの衝撃音とともにテーブルが揺れ動き、ソーセージがぼとぼとと床に落ちる。
床に落ちたソーセージにぽたぽたと血の雫が落ち、元から落ちていた人間の腕を真っ赤に染めていく。
焼けるような痛みと血の滴り。
あたしはそれをまったく感じなかった。
ピアノが弾けなくなった。
デイジーやヴェロニカさんたち、あたしのピアノで喜んでくれたみんなに、もう演奏を聴かせてあげられない。
ピアノスクールの先生にも、見放される。
夢も希望も将来もなにもかも、あたしはいま失ってしまった。
なにもないあたしを、デイジーはきっと嫌う。
散らばった指を拾いながら、あたしは狂っていった。
絶え間なく洩れる笑い声。引きつる頬に見開かれたままの目。下腹部に懐かしい暖かみと開放感を覚える。血だまりに黄色の水たまりが迫り、混ざり合い、叩き落された指が汚水まみれになった。
床下からなにかを訴えるような打突音が聞こえる。
「うるせえな」
毒づきながらあいつは銃をブッ放した。
なにも聞こえなくなった。
「痛っ!」
突然左手に激痛が走ってあたしは悶える。さっきの銃声で、発狂して捻じ曲がっていた心が急に元通りになり、忘れていた苦しみが襲いかかった。
あたしは悲鳴にもならない引きつり声で泣き啜り、すこしでも痛みを止めようと手首をぎゅーっと握った。痛みは消えない。無くなった指の付け根に心臓でも生えたかのように、ドクンッドクンッ、と激しい脈動があげる。
痛い。痛いよ。
「ピーピー泣くな」
助けて。助けて、誰か。
「ほらこうすれば、どうだ?」
デイジー。あたしを、助けて。
あたしを、嫌わないで。
第三話「デイジーの家」(了)