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デイジーとリリー(前)

   第二話「デイジーとリリー(前)」


「おい、伊太公デーゴ!」

 朝からしんしんと降り注いだ粉雪が、蹴り飛ばされたぼくの重みを受けとめる。そのやさしさと冷涼な感触に包まれたぼくは、腹ばいの姿勢から反転して空を仰ぐ。

 鉛色の空に、はらはらと粉雪が舞ってぼくの頬がそれを受けとめる。ひやりとした瞬間、儚い存在はぼくと交わって消えた。

 暗くも明るくもない半端な空に目を投げているぼくの顔を、重なった三つの影が黒く塗り潰す。いつもぼくを苛めるクラスメイトだ。悪童として、ほかのクラスメイトたちの上に君臨している三人。意地悪そうな顔は、真夜中に稚児を攫おうと企む悪魔みたいだ。

でも、ぼくは怖くない。

「デーゴ。放課後に俺たちのところに来いって言ってたろ? どこに行く気だ?」

「図書館に……」

「俺たちの呼出しより、本を読むほうが大切なのかー?」

「だって、殴られ――」

「うるせえっ」

 お腹を踏まれて、ぼくは跳ねあがる。でも彼の足がずっと腹部に載っていて、身体をのけぞらせると靴先がみぞおちに入って、痛みと苦痛が倍加した。

「人殺しの息子は、勉強なんてしないでさっさとイタリアに帰れよっ」

「そうだそうだっ。おまえたちが来てから治安が悪くなったって、パパとママが言ってたぞっ」

「おまえも大きくなったら人を殺すんだろっ。さっさと帰れよっ」

 悪し様に罵られても、ぼくはしかたがないとあきらめる。しかたがない。どうしようもないんだ。全部ほんとうのことだから。

「ぼくは、人殺しはしない。なにもしないから、やめて」

 右手を動かして、ぼくを踏みつけている足にそっと触れた。それだけで彼は大げさな悲鳴をあげ、ポケットから取りだしたハンカチで、ぼくが触れたところを急いで拭く。まるでばい菌に触られたような顔で、綺麗な赤色のハンカチを白雪に投げ捨てた。

「よくも触ったな。この悪魔めっ」

 靴先が脇腹に滑りこんだ。脂肪と筋肉の薄い横腹をうがたれ、直接内蔵を蹴られたような激痛で身をよじる。声も出せないほど痛い。ハンカチとおなじ色の液体が口から垂れ、その生臭さと痛みで、ぼくの瞳がじわりと濡れる。

「俺のパパが政治家だって知ってやったんだろうなっ。言いつけてやるっ。絶対町から追い出してやるからなっ。おい、お前らもやれっ」

 彼が蹴りながら促すと、ふたりは顔をしかめて後じさった。

「なにもそこまで」

「そうだよ。これ以上やったら」

「なんだよっ」

「こいつ、父親に俺たちのことをチクるよ」

 その一言が、執拗にぼくを蹴っていた足を止めさせた。

 身を縮めて嵐が過ぎるのを待っていたぼくは、ようやく人心地つけて身体を伸ばした。総身のところどころが痛い痛いと泣く。こんなことをされる謂れはないという憤りと、しかたがないとあきらめる想いが胸中でケンカをはじめる。胸がむかむかし、込みあげてくる気持ち悪さに耐えきれずその場に嘔吐した。血が混じって、赤い。

「ヤバイって。デーゴを殺したら、次は殺人鬼におれたちが」

「ちっ」

 三人はその場から逃げていった。

 ぼくは身体を起こし、手で雪をすくって口の中へ押しこんだ。すぐに雪は冷水に変わり、それで口中をゆすいで真っ赤な水を吐く。それを何度かくり返し、ようやく気持ち悪さが立ち消えた。

 町に粉雪を舞い狂わせる冷たい西風が吹き、ずぶ濡れのぼくは寒さに凍えながら図書館へ急いだ。

 もうすぐやってくるクリスマスを迎えるために、町中は目に痛い赤と緑でお化粧をされていた。おもちゃ屋さんには、クリスマスプレゼントを買う大人が列をなして、お菓子屋さんは、『クリスマスケーキはいかがですか?』と大声で道行く人に呼びかけている。

 ぼくは人と擦れ違うたびにうつむいた。腫れている顔を見られたくないためにそうしているんだけど、地面に書かれた線もなにも見えないため、長い時間下を向いていると自分がどこにいるかわからなくなってしまう。

 ゴンッ、となにか硬いものに額をぶつけてしまった。呻きながら顔をあげると電柱が目に入った。これにぶつけたみたいだ。

ぼくはぶつけたところを撫でさすりながら、電柱に貼られている貼り紙に目を向けた。

 今晩七時に、コンサートホールでピアノ発表会があるらしい。主催者はこの町でも有名なピアノ教室の先生で、演奏者はそこの生徒。

 ぼくはカバンからメモ帳を出して、そこに時間と場所をメモした。

お母さんがジャズやクラシックが好きなので、ぼくも音楽鑑賞が大好きだ。それにピアノ教室の先生は、著名な音楽家の弟子だという話も聞いたことがあるから、一度その演奏を生で聴いてみたいと思っていた。

メモを終えたぼくは人の気配を感じて横を向いた。

ぼくと同じくらいの背丈の女の子が立っていた。

 腰まで伸びたピンク色の髪を寒風に遊ばせ、深緑色の大きな瞳がポスターを凝視している。かわいい顔には無数の生傷があって、コートの隙間からわずかに覗く肌にも青痣のようなものがあった。両手に嵌めた黒い手袋がすっと伸び、発表会の場所を撫ぜる。小首をわずかに傾げているので、もしかしたら場所がわからないのかもしれない。

「場所、わからないの?」

 ぼくは恐る恐る声をかけてみた。

女の子の瞳とぼくの目が合う。

向き合った彼女はやはりかわいい。顔の生傷なんか気にさせないほど、そこには毅然とした美があった。こういうのを、佳麗な容姿というのだろうか。その大きな瞳に見つめられると、顔がカッと熱くなって胸がドキドキする。

女の子はぼくを見つめたあと、花のような唇を開きかけ、顔をそむけて走り去ってしまった。追いかけようとも思ったが、会話を交わしてもいない彼女を追いかける、というのもおかしい。

ぼくは出しかけた足を返して図書館のある方向へ歩く。

 しばらく雪道を歩くと、目的の図書館が見えてきた。

 図書館は南北戦争が終わってすぐに建てられたらしく、古木でできたその佇まいはいかにも古めかしい。豪雪のたびに、ぺちゃんこになっちゃうんじゃないかと気を揉むんだけど、基礎はしっかりしてるから大丈夫よ、と司書のお姉さんは言っていた。実際のところ、強風が吹いたり過度な雪の重みがかかると、天井や壁がギシギシと軋みをあげるのだから、お姉さんの話が真実かどうかは定かじゃない。

 冷風が吹き、雪で濡れた身体が芯から冷やされてくしゃみをした。水洟がぷらーんと垂れて、急かれるように木でできた扉をくぐる。

「ふあー」と、ぼくは間抜けな声を出した。

 館内は今日も元気に働いているストーブのおかげで暖かかった。暖色のライトが天井で揺れ、木製の本棚と床がその光を浴びて照り輝いている。調べ物をしている人の姿はほとんどなく、静かに流れるラジオの音が妙に冴えている気がした。

 ぼくは受付カウンターに向かい、司書のお姉さんに挨拶をする。

「こんにちは」

 声をかけると、お姉さんは本から目を上げてぼくに笑顔をくれた。

「デイジー君。いらっしゃい。予約した本、ちゃんと届いてるよ」

 そう言ってお姉さんは上体を折り、カウンターの下から一冊の本を出してくれた。アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』だ。

「きみって変わってるね。大人のわたしが読んでもちんぷんかんぷんなのに」

「去年観た映画がすごかったから、原作が読みたくなったんです」

「たしかにあの映画は凄かったね。なんて言うのかな。何十年経っても残る作品、って感じがしたね」

「うん。ぼくも早く映画監督になって、ああいう作品、撮りたいなあ」

 本を受け取りながら言った。お姉さんは人懐っこい笑みを浮かべ、頭を撫でてくれる。

「デイジー君ならなれるよ。いろいろ辛いことはあるだろうけど、勉強はきみを裏切らないから、がんばって」

 ぼくの濡れそぼった身体を見つめ、お姉さんはちょっと悲しそうに言った。心配をかけたくないと思い、ぼくは「うん!」と元気よく答える。

ラジオから流れる音楽が変わった。静かな始まりと妙なざわつきのあと、それまでと打って変わるけたたましいギターとドラムの響き。耳にしたことがない新鮮なメロディにただただ驚いた。

「キング・クリムゾンってバンドだよ。今年の十月にデビューしたらしいんだけど、すごいよね。音も曲調もなにもかも新鮮で。わたし普段はレコード買わないんだけど、おもわずお店に走っちゃった」

 照れたように笑うお姉さんの気持ち、ぼくにもよくわかる。家に帰ったら、お母さんにこのバンドのレコードを買ってとおねだりしてしまう。そう予感させるほど、斬新で衝撃的だった。

 ぼくは本を片手にいつもの席に向かう。窓際で、外がよく見える場所がお気に入りだ。昨日は燦々と陽が照っていたけど、今日は空が重々しい灰色に染まっているので景観がどこか汚い。使い慣れたテーブル席も重厚な色合いに染まっている。

 カバンをテーブルに置いて、ふうーとひとつ息を吐いてからページをめくりはじめた。


 ギシギシ、という音でぼくは目を覚ました。

室内の暖かさと文章の難しさでいつの間にか眠っていたらしい。

テーブルには水たまりができていて、ポケットからハンカチを取りだして急いでそれを拭く。お姉さんに見られたかもと思うと、たまらなく恥ずかしい。あたりを見まわし、誰もいないことを知ってほっと息を洩らした。

ぼくは立ち上がり、首を鳴らしてから辞書を探しに向かった。理解できない単語が多かったのが、睡魔に襲われた原因だ。……たぶん。

 あいかわらず人の気配がしなかった。町の中心地に建っているはずなのに、どういうわけか図書館の利用者は少ない。そのおかげで読みたい本がすぐ手に入るので嬉しいんだけど。

 赤茶色の木床を鳴らしながら、辞書が並べられたコーナーに着いた。首を振り動かして目的の本を探す。

ないなーと思いながら、振り仰いだところに辞書はあった。背伸びをしてさらに手を伸ばしてみる。だがしかし、哀しいかな、ぼくは背が低い。同級生のなかでは普通の部類なんだけど、届かないのだ。指先はわずかに触れるのに、そこからが上手くいかない。

唸りながらパタパタと手を振っていると、横に立っただれかが辞書を取ってくれた。

お姉さんかと思ってそちらを向くと、軍服をまとった、顔が傷だらけのお兄さんだった。胸に付けられた勲章がライトを浴びて鋭い光を放つ。

お兄さんは険しい黄色い目をやさしい目顔に変えて、ぼくに辞書を差し出してくれた。

「これかい? 小さいのに難しい本を読んでいるのかな?」

 受け取ったぼくはうなずいてほほ笑む。

「はい。そのせいで眠っちゃって」

 あははと自嘲気味に笑うと、お兄さんは不思議そうに首を傾げた。

「きみは俺が怖くないのかい?」

「どうしてですか? お兄さんは国のために戦ってくれた英雄でしょ? 怖くなんかないですよ」

 理由は、それだけじゃないんだけど。

 するとお兄さんは感心するようにうなずいた。

「あの、どうしたんですか?」

首を傾げて尋ねると、「いや……」とお兄さんは前置きし、

「国に帰ってからずっと、赤ん坊殺しだ殺人マシンだって罵声を浴びせられてきたから」

 テレビのニュースで見かけたことがある。たしか戦争に反対している人たちが空港に押しかけて、帰ってきた軍人さんにそんなひどいことを叫んでいたような。

「そんなことないですよ」

 ぼくはできるだけ笑顔を作って、お兄さんの右手を握る。男らしい武骨なものだった。

「お兄さんは優しいじゃないですか。見ず知らずのぼくのために辞書も取ってくれたし、ぼくたちを守るために遠い国で戦ってきてくれた。そんな人が、殺人マシンなわけないじゃないですか」

 強い口調できっぱり否定すると、お兄さんは目を潤ませて顔を背けた。握った手を離すと、ぼくに背を向けて肩を上下させる。

ぼく、なにか悪いこと言ったのかな?

 心配してそわそわしているぼくの目に、お兄さんの左手に握られた本のタイトルが飛び込む。

『魔術全書』『世界の黒魔術』

 お父さんに聞いたことがある。軍をやめた人は、国からお金をもらって何かしらかの勉強をして社会に戻るらしい。ひょっとして。

「お兄さん。もしかして小説家になるんですか?」

 分野はちがうけど、ぼくも作家を目指しているので興味本位で尋ねた。

お兄さんはぼくに向き直って、かぶりを振った。

「ちがうよ。戦地で知り合った原住民の魔術についてもっと知りたいと思ったんだ。でもそれを目指すのもいいかな。きみはなにになりたいの?」

「映画監督っ。キューブリック監督みたいな、すごい映画が撮りたいんですっ」

「ははは。じゃあいまからたくさん勉強しないとね。俺とちがって、時間はたっぷりあるんだから」

 お兄さんはそう言って、胸ポケットから板チョコレートを出してぼくに手渡した。

「がんばるんだよ。じゃあね」

「ありがとうございます。さようなら」

 別れの挨拶をすると、お兄さんは笑ってその場を去った。

ぼくはもらったチョコレートと辞書を持って席に戻り、朧な記憶を頼りに本を開いてページをめくった。

 正面の椅子が引かれる音がしたので顔をあげる。お姉さんが真剣な面持ちで、ぼくをじっと見ていた。

「あの――」

「デイジー君。お姉さんのお願い、聞いてくれる?」

 ぼくはわけがわからず、首をひねった。

お姉さんはぼくの反応を見て、左横を瞬間的に睨みつける。さっき、あのお兄さんと話をしていた方向だ。

「さっきの人と、二度と話しちゃだめ。あの軍人は、人殺しなんだよ」

「あの人はぼくらを」

「英雄なんかじゃないっ!」

 いつもやさしいお姉さんが激昂して立ちあがった。叩かれたテーブルが甲高い音をあげ、ぼくは喉まで出かかった言葉を呑みこむ。

「小さいきみにはわからないかもしれない。でも聞いて。あの軍人は遠い遠い国で、泣き叫ぶ人を容赦なく殺してきたの。男も女も、老人も子供も赤ちゃんも関係なく、みんな。そんな人間と話しちゃだめ。きみまで汚されちゃう」

 ぼくは沈黙する。お姉さんの凄まじい剣幕に圧倒されたからではなく、あまりにも自分勝手な理屈だったからだ。もしお姉さんの言葉が正しいなら、ぼくだってもう。

 なにも反応を示さないでいると、お姉さんは喋々と物語はじめた。

 戦争は間違っている。人間は自然と調和した生き方をしなければならない。人殺しはおなじ方法で始末するほうが世のためだ。

 熱く夢中で独白するお姉さんは、いまの自分を見たらなんて思うんだろう。

ぼくは、目を炯々と光らせている今のお姉さんのほうがよっぽど怖い。やさしい人が顔を真っ赤にして、戦争責任だなんだと叫び、ジョンソン元大統領とニクソン大統領を処刑しなければならないとがなり立てる。

 理解なんかできなかったし、したいとも思わなかった。

 顔をあげると、お姉さんの双眸が一段と鋭く光った。まだ言い足りないのか、唇をぺろりと舌で湿らせる。

 ぼくはいよいよ怖くなって、急いでその場から走って逃げた。

「デイジー君っ。ぜったいに、あの軍人ともう話しちゃだめだよーっ」

 その声を背中で受けとめながら、ぼくは図書館を飛び出した。

 強風に煽られて地面に堆積していた白雪が吹雪のように舞っていた。眠っていたせいもあって、すでに陽はとっぷりと暮れ、街路灯が煌々と照っている。

 お姉さんが追いかけてこないか不安で、ぼくは図書館のほうを振り向いた。ぼくが座っていた席は、外気と室温の差でガラスが曇って中は見えない。でもそこの曇りガラスの奥に人影がふたつ見えた。お姉さんが誰かを捕まえて自分の考えを喋っているのだろうか。

 ゾクッ。――さきほど目撃したお姉さんの豹変ぶりを思いだし、身が震えた。

 頭に積もった雪と恐怖を振り払うようにかぶりを振って、ぼくは家を目指して雪道を走った。でも足が深い雪に取られて上手く動けず、思ったように進めない。

 真っ赤な車が横をすり抜けていく。クリスマスが間近だから町がきらきら光り輝いている。きらびやかにライトアップされた道のところどころには、大人のお兄さんとお姉さんが肩を寄せ合って笑っていた。車のボンネットに座ってお酒を飲み、お菓子をつまんで、とても幸せそうだ。

雪をかぶった街路時計が午後七時四十分を示していた。

ぼくはピアノ発表会のことを思い出した。家の方角に向かっていた足を、コンサートホールのほうへ転換して歩いていく。五分ほど経ったところで、その建物は現れた。

 雪空を突き刺すように高く聳えたコンクリート製のホール。ぼくはその重々しい扉を開け、薄暗い廊下を進んでホール内に入った。

 パチパチパチと、波のような拍手が起こった。たくさんのライトで照らされたステージ上で、ピアノスクールの先生が手を振っていなくなる。演奏はすでに終わってしまったらしい。ぼくは肩を落としたけど、せっかく来たんだからと空いている席に座った。


 ぼくは目を覚ました。照明のほとんどが落ちている。演奏がはじまった直後、眠っちゃったみたいだ。たしかブラームスの子守歌を聞いていたような……。

 まだ重たいまぶたをこすって、大きなあくびをひとつする。お姉さんのこともあったけど、雪道を走ったり殴られたりで身体が相当参っていたみたいだ。

もう演奏もないだろうし、さっさと帰ろうと立ちあがった。

コツコツ、とステージのほうから靴音が聞こえた。警備員さんかな、と思って思わず椅子の陰に隠れる。

そっと顔を出してみると、ピンク髪のあの子がいた。重々しいコートを脱ぎ、演奏しやすい黒のワンピース姿だ。ステージの左手側にあるグランドピアノに向かい、椅子を引いて長い髪をさっと手で払った。

 勝手に弾いたら怒られちゃうよ。――そう言おうと思ったぼくだったが、メロディが流れると自然と座り直した。

 ベートーヴェンの「月光ソナタ」が静々と会場に流れる。

鍵盤を叩く指運びのなめらかさが容易に想像できるほど、たどたどしさも初々しさもない、熟練したメロディに自然と聞き入ってしまう。稚拙さのかけらも感じられない重厚な音は耳心地がよくて、つらいことや悲しいことをぼくの内から流し去っていく。

これほど卓越した演奏を、ぼくと同い年ぐらいの子供がしているのだ。

驚愕と癒しが心の内に同居し、ぼくはなんだか奇妙な心地にとらわれてまぶたを閉じた。

まぶたの奥、昏冥の空に蒼白い光芒を放つ満月が見える。その光に誘われるように、ぼくは空想の夜空に向かって飛び立った。ふわふわと中空を漂い、あの子の演奏に耳を傾けながら、まん丸い月を見つめる。――なんてきれいなんだろう。

 淡々と流れていたメロディが終わりを迎え、曲調が静から動へ変わり、ぼくは現実に戻ってきた。

 遠くからでも指運びが素早くなったのがわかる。鍵盤の上を細い指が滑らかに移動し、速いリズムを刻む。演奏の見事さは冴える一方だ。

あの子は天井を振り仰ぎ、口元に楽しそうな笑みを浮かべている。

よく見ると、鍵盤の上に楽譜が置かれていない。この曲が演奏者から見て簡単か難しいかは、ピアノを弾いたことのないぼくにはわからなかったけど、暗譜でここまでできる彼女の腕前は、やはりすごいということだけはわかった。だって、ぼくのクラスには譜面がなくても演奏できる子はいるけど、ここまで心に響くほど情感豊かに弾きこなしている子はいなかったから。

演奏が終わった。

コンサートホール内に残った余韻が消え、女の子は椅子を引いて静かに立ち、ぼく以外だれもいない会場に向かって一礼をした。

ぼくは素早く立ち上がって、「ブラーヴォ」と叫んで拍手を送った。

女の子はびっくりして、逃げ出すようにステージの左へ走った。

「あ、待ってよ」

 言いながら、ぼくはステージへ走った。あんなすごい演奏ができる彼女と話してみたい。そしてできるなら、ぼくを知らない彼女と一から友達になりたかった。そうすれば、クラスメイトとちがって、きっと。

 ステージの左脇から、彼女は後ろ歩きで姿を見せた。その瞳はじっと前だけを見据え、なにかを怖がるようにまばたきすらしない。

 ぼくがステージに上がったと同時に、ピアノスクールの先生が現われた。背中まで伸びた髪にパーマを当て、真っ黒なドレスをまとった優しそうな人だ。ルージュを塗った唇が、女の子を安心させるようにほほ笑んでいた。

「あいかわらず見事な腕前ですね、リリーちゃん。さすが私の愛弟子です」

 女の子、リリーはばつが悪そうに先生から顔を背ける。その面差しはどこか申し訳なさそうな、そして寂しそうなものだったように見えた。

 先生は肩口の巻き毛を指にからめ、リリーの反応を笑顔でじっと待つ。

 リリーの小さな唇が開きかけたが、すぐにまた引き結ばれる。なにかを言うことを恐れているように、肩口を小刻みに揺らして、せわしないまばたきをくり返す。

 しかたないなーと言いたげに、先生は吐息を洩らしてぼくに目を向けた。

「こんばんは。リリーちゃんの演奏はいかがでしたか?」

 突然問いかけられたものだから、ぼくは動転する。

「は、はい。あの、えっと。すごく、よかったです。ぼくピアノ弾けませんけど、この子が、リリーがすごく上手だってことはよくわかりました」

 しどろもどろに答えるぼくの言葉に、

「そうでしょう、そうでしょう」と、先生は言いながら満足そうにうなずく。

「リリーちゃんは天才です。このままわたしの元で学べば、世界的ピアニストにだってなれる逸材なんですよ」

 ぼくは、「はぁー」と興味なさげにつぶやいたが、その反面やっぱりすごい子だったんだと納得して深くうなずいてもいた。

「教室に来なくなったのは、やはりお父さんですか?」

 その問いかけに、リリーは目に見えて狼狽した。傷だらけの顔に玉の汗を滲ませている。

「戦争にいったお兄さんに頼まれたからといって、酒を飲んで暴れるお父さんに我慢することなんてないんですよ。もしよかったら、明日わたしがあなたの家にお邪魔して」

「だ、だめっ」

 リリーは強い拒絶の声をあげて、横にいたぼくの腕に抱きついた。突然のことにぼくはどうしていいか分からず、目を何度もしばたたく。

「明日は、こいつとデートしなきゃならないのっ。だから家に来てもあたしいないよっ」

「デート?」とつぶやいた先生は、舐めるようにぼくを見つめる。

「ほんとうに?」

腕を抱かれる力がきゅっと強まった。

「はい。明日もピアノを聴かせてもらう約束を」

「だったらわたしの教室で」

「きょ、教会の神父様にもう頼んであるのっ」

「リリーちゃん」

「だからごめんなさいっ。もういくねっ。ほらはやくっ」

 リリーに引っぱられる形で、ぼくらは出入口に向かって走る。先生のことが気になって振り返ると、彼女は大人の余裕といったような微笑を浮かべ、黙ってぼくらを見送っていた。その顔には、哀切とでも言うべき暗い色が滲んでいたように思う。

 コンサートホールを抜け出したところで、リリーはようやくぼくの手を離した。彼女は寒空を振り仰ぎ、真っ白な吐息を洩らして肩口を揺らす。

 ぼくはコートを脱いで、後ろからリリーにそっと羽織らせた。

「いやーっ!」

 リリーは絹を裂くような悲鳴をほとばしらせ、コートごとぼくを突き飛ばした。

 ぼくは踏み固められて砂礫のようになった雪に倒れて頭を打った。呻いている顔にコートが被さる。それをどけて上体を起こしたぼくの目に、大きく波立つリリーの後ろ髪が映った。彼女は自分の両肩を抱きながら、ぜえぜえと白い吐息をせわしなく洩らす。まるでなにかを怖がっているように見えた。

 まだじーんと痺れる頭を押さえながら立ち上がり、今度は前に回って肩を叩く。

 リリーが顔をあげる。なぜか瞳を涙で曇らせていた。

「あの、ごめんね。寒いだろうと思ったから、ぼく勝手に」

 言いながらコートを差し出してみる。リリーはすこし躊躇しながらも今度は受け取ってくれた。彼女はそれを羽織りながら横を向き、

「ありがとう」とつぶやいた。

「うん」

 ぼくは笑った。リリーの頬が赤らんでいく。気温もずいぶん下がったのに、ワンピース一枚だけだったから相当寒かったみたいだ。

「ねえ、明日。……きみ、名前は?」

「ぼくはデイジー」

「デイジー? ……もしかして、イタリア人?」

 名前を言っただけで、ぼくのルーツとなる人種を当てたリリーの慧眼に一驚した。

「そうだよ。ぼくのおじいちゃんとおばあちゃん、イタリア人なんだ。よくわかったね」

「『デイジー』は、イタリアの国花だから、もしかしてと思って」

「それだけで? すごーい」

「べ、べつにたいしたことじゃないよ。あたしの名前もお花から取ったものだから、それで詳しかっただけだもん」

 リリーは真っ赤な顔を振り乱して、早口で捲くし立てた。それから仕切り直すように、咳払いをひとつする。

「それで、明日どうしよっか」

「きみがいいなら」

「リリー」

「え?」

「リリーでいいよ。あたしもきみのことデイジーって呼ぶから。ね?」

 ぼくは熱くなった頬を掻きながら、遠慮がちに彼女を見やり、

「リ、リリー」

 ささやくように彼女の名前を呼んだ。

 リリーはにっこりとほほ笑んで、

「デイジー」

 ぼくの名前を呼んでくれた。同年代の子のほとんどに「デーゴ」と呼ばれているせいか、妙に新鮮で背中がむず痒くなる。

「えっと、明日。そう、明日なんだけど」

「うん」

「学校が終わってからでいいなら、ぼくはだいじょうぶだよ」

「何時ぐらいに終わるの?」

「午後二時くらい」

「じゃああたしはそれぐらいの時間に教会がある森の入り口で待ってるから、ちゃんと来てね」

「きみは……リリーは予定、ないの?」

「ないよ。あたし、学校にはほとんどいってないから」

「どうして? もしかして、お父さんのお酒代のせい?」

 家庭の事情で通学できない子供がいることはぼくだって知っている。でも、ピアノスクールに通っていたリリーの家が、突然学校にいけなくなるほど貧乏になってしまうとは思えなかった。考えられる原因は、さっきピアノの先生が口走ったお父さんのこと。お酒におぼれて仕事をしないせいで、貯金がなくなってしまったのだろうか。

 リリーは笑った。

「ちがうよ。あたし学校の勉強が嫌いだから行かないだけ」

 小さい舌を出して自嘲気味に笑うリリーの顔を改めて、ぼくは目をこすった。何度も何度も目をぱちくりする。どうして……。

 リリーは不思議そうに小首を傾げてから踵を返した。

「そろそろ帰るね。ピアノが上手って言ってもらえて嬉しかったよ。また明日」

 小走りで雪道を駆けていくリリーの背に、ぼくは声をかけることも手を振ることもできなかった。視界から完全に彼女が消えたところで一陣の風が吹く。寒風の肌を刺すような痛みで、ぼくはようやく目を覚ました。

 ぼくは自宅のあるほうへ足を向け、肌寒さに身を縮かめながら歩き出した。

 それにしても、さっき見たのはなんだったんだろう。ぼくの気のせいだったのだろうか。――自宅に着くまでずっと、自問自答をくり返し、そして納得した。

(そうだよ。きっとぼくの見間違いだ。うん。そうに決まってる)

 ぼく自身がイジメられっ子だからよく分かる。そうだ。あり得ないよ。あれほど傷を負っていたリリーの顔が、もう治っているなんて。そんなこと、あるはずがない。


「羨ましいー。そんな才能がある女の子と出会ったんだ」

 お母さんがニコニコしながらクッキーをつまみ、おなじような顔のお父さんがウィスキーを飲む。

「うん。明日もピアノを聴かせてくれるんだよ」

「えーずるいよー。わたしも聴きたいから家に呼んでくれなーい?」

 ここから四階下のホールに鎮座しているグランドピアノに目線をやりながら、お母さんが猫なで声で言う。

 自宅に戻るとすぐ食事がはじまった。仕事疲れでお腹がぺこぺこなはずのお父さんが、ぼくが帰るまで食事はいらないと言って、ずっと待っていてくれたのだ。

ぼくは食事の間中、今日の出来事を話した。いじめられたことはさすがに言わなかったけど、リリーとの出会い、図書館で会ったお姉さんと軍人さん、再会したリリーの素敵なピアノ演奏。それを一生懸命語った。お父さんとお母さんは終始ニコニコ。夕飯を食べ終えても話し足りなくて、いつもならさっさと皿洗いを終わらせるお母さんも、書斎でお酒を飲むお父さんも、腰を据えてぼくに付き合ってくれた。

 お父さんが葉巻に火をつけて立ちあがった。手すりから身を乗り出して、階下で待機しているみんなに声をかける。

「今日はもう帰っていいぞ。たまにはクラブでたっぷり羽を伸ばせ。今夜は俺の奢りだっ」

「ひゃっほーっ!」

 五階建ての自宅が揺れ動くほどの大声が響く。

「貧乏なダチ公を連れていきたいんですけどーっ」

「好きな酒飲んでいいんですかーっ」

「いつもより高級な女を選んでもいいんですよねーっ」

「なにやっても許すっ。今夜はお祝いだっ。死ぬまで楽しんで来いっ!」

「やったーっ!」

 たくさんの靴音が一階に向かう。大きな扉が開いてぞろぞろと人が出ていった。それに続いて車のエンジン音が次々と夜を揺らし、走り去っていく。最後の一人が扉を閉めながら、

「坊ちゃんっ。おめでとうございまーすっ」

 叫んで出ていった。その言葉の意味がわからず、ぼくは首を傾げる。

 喧騒が去った自宅は水を打ったように静まり返り、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。

お母さんがお気に入りのレコードをかけた。蓄音機から壮大なクラシックが流れ、白で統一された清潔な壁が震える。シャンデリアから降り注ぐ青白い光も、どこか暖かみを帯びたように思えた。

「おい、あれを出してくれ」

「あら珍しい。わたしも付き合っていいですか」

「当たり前だろ」

「ありがとうございます。デイジーも呑む?」

 お母さんが棚から取りだしたのは、お父さんがイギリスから取り寄せたと自慢していた、超高級ウィスキーだった。お酒を呑んだことのないぼくはもちろんかぶりを振る。お母さんはくすくす笑いながらロックグラスにまん丸の氷を入れ、八分目ぐらいまで注いでお父さんに手渡した。お父さんはグラスを持ち、ぼくにそれを向けて、「乾杯」と言ってぐっと呑んだ。お母さんも、「乾杯、デイジー」と口にして、くぴっと遠慮がちに呑む。

ロックグラスから口を離したお父さんとお母さんは笑みを浮かべ、なにも語らずにまたウィスキーを呑む。

「なんでそんなに楽しそうなの?」

 ぼくは仲間外れにされている気がして、たまらず声をかけた。

 お母さんは冷蔵庫に向かい、お父さんはぼくにたおやかな笑みを見せてグラスを掲げた。

「嬉しいんだ」

「嬉しい?」

ぼくはますます分からなくなってオウム返しした。

お父さんはウィスキーをちびりと呑み、

「いつも本と映画の話しかしないおまえの口から、女の子の話題が聴けて嬉しいんだ」

「そうなの?」

「そうよ」

 お母さんがぼくにオレンジジュースをくれた。

「わたしたちの子供なのに、デイジーは優しすぎるから」

 悲しそうにつぶやいたお母さんは、震える指先で、腫れたぼくの頬をやさしく撫でてくれた。

 お父さんが紫煙を吹かし、グラスを空ける。

「明日は精一杯格好つけて来いよ。なんだったら学校を休んだっていい」

「で、でも」

「俺が電話を入れておいてやる。それからこれはお小遣いだ」

 ポケットから鰐皮の財布を抜き、ぼくに投げ渡す。開いてみると、お札がぎっしりと詰まっていた。見たこともない大金に、ぼくはちょっと眩暈を覚える。

「よかったわねー。大きな花束をプレゼントしてあげたら、その子も喜ぶわよ」

「花束って、なにを買えばいいのかな?」

「待ち合わせる子はリリーって名前なんだろ? だったら百合の花を送ってやりな」

 なるほど。名前のもとになったお花なら、リリーだって喜んでくれる。

「さすがお父さん」

「あたぼうよ」

 尊敬のまなざしを送るぼくと、ニヒルに笑うお父さんを、

「その考えは甘いです」

 お母さんが冷めた声で笑った。

ぼくらが目を向けると、お母さんは言った。

「女の子はね、真っ赤な薔薇にロマンを覚えるの」

 ぼくとお父さんは目をぱちくりさせ、お互いの顔を見合って、またお母さんに視線を戻す。お母さんは目を潤ませながら手を組んで、天井を見つめていた。

「忘れられないわ。お父さんがはじめてのデートのとき、大きな薔薇の花束をくれたの。そのときに、ああ、わたしはこの人と生涯を共にするんだ、これは運命なんだって思ったわ」

 お母さんは今年で三十五歳になる。美貌を保つための努力を怠っていないので、同年代の人と並ぶと突出して若々しい。だから今、瞳を濡れ光らせながら、輝かしい思い出を語る姿が妙に似合っちゃってる。

今年で四十歳になるお父さんは、渋い顔に照れ笑いを浮かべ、それを誤魔化すようにお母さんのウィスキーを飲み下した。

「デイジー」

 ぼくのほうを向きながら、お父さんは言う。

「おまえは、俺とお母さんの宝物だ。もっと俺たちを頼ってくれ」

「お父さん」

「俺はいつでも、おまえの味方だ」

「お母さんもよ」

「うんっ!」


   *


「ただいま」

 錆びだらけのノブを回しながら言った。扉があたしの声をさえぎるように、ギィーッと渋い軋みをあげる。風雨にさらされて朽ちかけている木壁から、木片がぽろぽろと落魄していく。このまま修理をしないでいると、次の台風で潰れちゃうかもしれない。

 廊下に足をかけると、床板が不気味に呻く。その床に転がる幾本もの酒瓶に足を取られ、転倒しそうになったけど、なんとか持ちこたえた。ほっとして呼吸したあたしの鼻にアルコール臭が貼りつく。またあいつは、一日中呑んだくれていたのだろうか。

「ただいまー」

 ぺたんぺたん。

奥のキッチンから肉を叩く音が返事の代わりに聞こえてきた。

 あたしはデイジーが貸してくれたコートを脱ぎ、照明のひとつも灯っていない暗い廊下を歩く。請求された代金を払っていないせいで、ついに電気を止められちゃったのかな。

 リビングに入ると悪臭の密度が増した。床だけじゃなくて、テーブルまでお酒の空き瓶が占拠してる。タバコの吸い殻も信じられないくらい山盛りだ。隙間がほとんどないテーブルの板面をゴキブリが器用に走り抜ける。おぞましいものを見た肌が一気に泡立つ。あたしはゴミ袋を取りにキッチンに走った。

 ぺたんぺたん。

あいつが、いた。右手に持ったステーキハンマーで肉を叩いている。

「ようやく帰ってきたか。どこにいってた?」

 酒に焼けた声で訊かれた。相当酔っている。

「ピアノスクールの発表会」

 素っ気なく答えると、あいつは興味なさそうに「ふーん」とだけ言い、また肉に向かう。酔っていても食欲が失せない貪欲さに、あたしは重いため息を洩らした。

ゴミ袋はシンクの下にあるので、そこまで身を運ぶ。近づけば近づくほど、アルコールの臭いが鮮烈になっていく。こいつの近くにいくのはほんとうに嫌だ。酒にまみれた息を嗅ぐと吐き気が押し寄せてくる。

 シンクの下にある棚からゴミ袋を抜き出したあたしは、何の気なしに夕食のステーキ肉に目を向ける。ところが目に映ったのはあたしの想像とはまったく違うものだった。

 ハンバーグ……かな?

叩かれている肉は、生血をまぶしたような鮮烈な赤にまみれていた。それから適当に香辛料を混ぜたらしく、黒い粒粒がところどころに見える。

 ぺたんぺたん。

規則的に叩かれる肉は、ハンマーを受けとめるたびに形を変えていく。銀色の光がハンバーグをうがつたび、なにか変なものが見えた。

 自分が口にするものの材料が気になり、あたしは口も聞きたくない呑んだくれの横に立って、ハンバーグを監視しながら話しかけた。

「ねえ。あたし、またピアノスクールに通いたいんだけど」

「だめだ」

「じゃあせめて学校に」

 デイジーの前ではあんなことを言ったけど、ほんとうは勉強がしたくてしかたないのだ。友達にだって会いたい。疎遠になってずいぶん経つから、町を歩いていて友人の姿を見かけても、なんと声をかけたらいいか分からずに隠れることが多くなった。

 その原因を作ったこいつは静々とかぶりを振った。

「おまえ馬鹿か。学校にいかせるだけの余裕は無えって、何度言ったらわかるんだ?」

 あたしは悔しくて歯噛みした。自分の酒代に糸目をつけないくせに、なんであたしがそのしわ寄せを受けなきゃならないのよ。

 ぺたんぺたん。

肉を叩きつつ、酔っ払いは自分勝手な見解を語る。

「そんな頭じゃなにを勉強しても無駄だ。それにひとたび事が起これば、いままでしてきたことがなにもかも無為になっちまう。そうだ。だから学校なんていかなくていいんだ」

 言い終えると天井を見つめ、酒で血走った目から涙をこぼした。

 いつもなら我慢しているあたしだったけど、独りで納得しているこいつが許せなかった。

「やだっ! 学校にいきたい! こんな生活もうヤだ!」

「てめぇ……」

「ちゃんと働いてよっ。仕事なんて病気を治せばいくらでも――」

 言葉の途中、あたしは横様にぶっ倒れた。こめかみがズキンッと痛む。あいつは冷たい目であたしを見下ろしていた。

 突き飛ばされた。――あたしは怒って立ち上がろうとしたけど、でも上手くいかない。それどころか、力を込めたせいでこめかみの痛みがだんだんと強まっていく。もしかしてシンクのどこかに打ちつけてしまったのだろうか。あたしは頬に指を添え、こめかみに向かって滑らせていく。

疼痛を発している部位に触れる直前、あたしの指はぴたりと止まった。

 変だ。なにかおかしい。

触り慣れているはずの自分に違和感を覚え、額からじわりと脂汗が滲む。自然と高鳴る呼吸を落ちつけるために深呼吸し、震える指先を上に滑らせた。

「きゃあああっ!」

 あたしは泣き叫んだ。自分の指先が感じ取ったおぞましさに身がすくみ、水洟とよだれがしとどに洩れる。心臓が張り裂けんばかりに早い鼓動を打ち鳴らす。どうか間違いであってほしいと願いながら、指を何度も往復させてみる。だがその行為は、否応ない現実をあたしに叩きつける結果として返ってきた。

 恐る恐るあいつに目を向ける。

 黄色い歯を剥き出しにしたあいつが握っているステーキハンマーから、真っ赤な雫がぽたぽたとこぼれていた。

 あたしは声にならない声を洩らし、こめかみに触れる。

 ぐしゅっ。先ほどは痛みでまったくわからなかった湿り気を指先に感じる。眼前に持ってくると、震える指の先端が真っ赤に濡れていた。

 ステーキハンマーで殴られ、こめかみが陥没したのだ。

 認識と同時に気が狂いそうな激痛がかけめぐり、あたしは悲鳴をあげた。

「なにも知らねえクソガキが、偉そうに」

 氷のように冷たいつぶやきのあと、後ろ髪がぐいっと引っつかまれた。こめかみ付近の髪の毛も引っ張られ、痛みが激化する。

「痛い痛い痛い痛い!」

 いくら泣き叫んでも髪を離してくれない。

「聞き分けのないガキには、おしおきが必要だな。来い」

 その言葉に全身が泡立った。

嫌だ。あそこに連れていかれるのは嫌だ! 助けて。誰か助けて!

 あたしは手足をばたつかせて抵抗を試みる。でも髪が長いことが災いして、パンチもキックも届いてくれなかった。文字通り手も足も出ない。

「やめてっ。助けてーっ」

 喚き散らしながらばたつかせていたあたしの足がシンクを蹴る。おんぼろだったせいか、意外なほど震動し、夕食のハンバーグが載ったまな板が落下した。

 びちゃびちゃと嫌な音を立ててぶちまけられる生肉。その中から、丸いものがごろりと転がりでてきた。

 それを見とめた途端、あたしの気が遠くなった。

 ああ、そんな。あたしにこんなものを食べさせようとしていたなんて。アルコールに脳を焼かれて、ついに気が狂っちゃったの? なんで、こんなことができるのよ。どうしてこんなことになっちゃったの。

 薄れていく意識のなか、あたしは淡い期待でもう一度あれに目を向けた。

ああ、やっぱり幻覚なんかじゃない。

 ――眼球。

 潰れることのなかった眼球が、ハンバーグのなかに混ざっていたのだ。

 あたしは気を失う。聴覚が最後にとらえたは、重々しい扉が開く音だった。


第二話「デイジーとリリー(前)」(了)


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