dependence
『今日は無理』
お昼に送信したメールの返信が、午後10時を過ぎてやっと来た。
そっけないメール。
期待するな、と言い聞かせた分を差し引いても、落胆はずしりと堪えた。
できるだけ自然に。本当はストレートに「今日は会える?」と聞きたい所を、遠まわしに探る言葉はもう尽きた。
うざったい女、なのかもしれない。
分かっていても、それが唯一のつながりなのだから手放せない。
あたしからアクションを起こさない限り、あいつは一切あたしのために動こうとはしない。
そのくせ、あたしの限界をあたし以上に見極めていて、もうだめだ、もう別れようと思う日に限って離れがたくなるようなことを言う。
気まぐれな男だ。
あいつの「気分」がこちらへ向くのを、あたしはただ、犬のように待っている事しかできない。
気まぐれに優しくされるその時をずっと待ちわびて、振り回されることに耐えている。
僅かな優しさにいつも飢えているから、離れられない。
「都合のいい女」という言葉はいつも頭の中のどこかに巣食っていて、それでも別れられないのは、あいつの気まぐれにしかすがれるものがないから。
もう、本当にあいつを好きなのかどうかすら、分からなくなるほど飢えている。
「あいつ」がいなくなることが耐えられないのか。
「オトコ」がいなくなることが耐えられないのか。
「お前んち遠いんだもん、めんどくせぇ」
ふと漏らされた一言で、衝動的に引っ越したこの家に、あいつはまだ数えるほどしかやってこない。
距離の問題なんかじゃないことは自分がよく分かっていた筈なのに、それでも期待している自分はバカだとしか言いようがない。
楽器OK。お風呂・トイレ別。全室フローリング。1DK。ウォークインクローゼット、エアコンつき。南向き。駅まで徒歩5分。家賃も予算内。なによりあいつの家から乗り換えなしのバス一本。自転車で15分。
不動産屋に紹介されたこの部屋を躊躇したのは、自分が惨めな思いをするかもしれないから、だけではなかった。
マンションから道をはさんで向かい側。まさに目と鼻の先に男子高がある。
廊下を歩く生徒の顔がバッチリ判別できるほどの距離だ。
2階のその部屋のベランダから見える景色は、ひたすらに男子校の廊下。しかも築数十年の古い校舎で、黒ずみが意味ありげな形にコンクリートの壁を侵食している。
ベランダに案内された途端、「夜中、この廊下を見るのは気味が悪い」と不動産屋にこぼした。
寝る前に部屋の明かりを消す行為も怖くてままならないのに、その廊下は想像するだけで恐怖だった。
やたらと明るい不動産屋はからからと笑って、「さすが、音楽家は想像力豊かですね」と良く分からない慰め方をされた。「普通、あなたくらいの年齢だったら、至近距離で男子高校生が見られるって喜びそうなもんですけどね。もしくは逆に洗濯物の干し方に悩むとか」
校舎よりも高い階になると値段も高くなる、と言われて値段を聞けば、なるほどあたしには手が出ない。
真っ暗闇に非常灯だけがぼんやりと光る、誰もいない廊下。
想像するだけで気分が悪くなるけれど、それが言い訳としてあいつに使えるなら、と言い聞かせてみた。悪くないかもしれない。少なくとも、遠まわしな誘い文句のボキャブラリが一つ追加できる。
バカな期待をするな。
「ベランダから見える廊下が怖いからうちにきて」なんて言葉で、あいつが動くわけがない。
洗濯しておいて、と汚れ物を持ってくる事はあっても、あたしが風邪をひいたからといって何かを持ってきてくれたことなんてない。
接待するのに持ち合わせがないから金を貸してくれと言うことはあっても、あたしを食事に連れて行ってくれたことなんてほとんど無い。
洗濯物のシワにはうるさいし、味付けが悪いと鼻で笑う。
お前、女としてどうかと思うよ、そう言ったその口であたしにキスをするのだ。
自分が来たい時にここに来て、抱きたい時にあたしを抱く。
思うように行かなければ「じゃあ別の女のところに行くから」と言えば、あたしは従うしかない。
本当に女がいるかどうかが問題なのではなくて、「お前の代わりはいくらでもいるんだ」と暗に示されていることに対して、それにしがみついている自分が問題なのだ。
どうして離れられないんだろう。もう、別れてしまえばいい。
そんな言葉ばかりで頭の中が埋め尽くされた頃、見計らったようにあいつはあたしを壊れ物のように大切に抱きしめる。
そして子どものような小さなワガママを言って甘えてくるのだ。
そしてあたしはまた同じことを繰り返す。
バカだと思う。
自分でもよく分かっている。
その循環を断ち切れない自分がどれだけバカなのか。
そう思いつつも結局、この家の契約書を書いた。
どこまでもあいつ中心に物事を進めてしまう自分を、もう、「可愛い」だなんてとっくに思えないでいる。
依存症。
情けない。
ピアノ講師として音楽教室で働くようになって2度目の秋。
少子化のせいなのか不景気のせいなのか、相変わらず生徒の数は少ない。
あたしにもやっと生徒が10人ついたところだ。とてもじゃないけれど食べていけない。
美術館やホテルのイベントで演奏したり、アマチュアのオペラ団体の練習ピアノをしたり、それでも足りないので、朝からレッスンが始まる時間までパン屋でバイトして、辛うじて何とか生活している。
今日も例によって例のごとく、高校1年生の女の子は10分遅刻しても平然としている。
どうして遅れたの、と聞けば、カレシが行くなって言ったから。
言い返せなかった。
他人のオトコ事情を見てると良く分かる。
言い訳に使うようなオトコはダメなオトコ。
オトコを言い訳に使うようなオンナはダメなオンナ。
今日最後の生徒のレッスンが終わったのは午後8時。
レッスン室を出ると同時に携帯をチェックする。迷惑メールばかりの受信ボックス。「やはり」と「ガッカリ」が混ざり合う。
キイキイときしんだ音をたてる自転車を駐輪場に停めて、無意識に自分の部屋を見上げる。
今朝仕事に行く前に干した洗濯物がちらりと見えた。
ああ、早く取り込まなくちゃ。
エレベーターを使うよりも階段のほうが早い。立ちっぱなしでむくんだ足を、今日はコレで最後だからと叱咤して一段一段上がる。バッグの内ポケットから鍵を出して玄関を開ける、靴を脱ぎながら明かりをつける。
すぐに浴槽に湯をはり、楽譜の入ったバッグをテーブルに置いてベランダに向かう。
窓を開ければ、さっきまで自分もいたその場所から冷たい空気が吹き込んできた。
見たくなくても、高校の廊下は見える。
いつもこの時間になると廊下は非常灯の光だけで薄暗くて、真っ暗よりもタチが悪い。ついバカなことを想像してしまう。
想像が止まらなくなる前に大急ぎで洗濯物を取り込むのが日課だったけれど、幸い、今日はまだ廊下に明かりはついていて、高校生がせわしなく行き来していた。
そう言えば数日前、学園祭がどうのといったお知らせのチラシが郵便受けに入っていた。500円の食券と一緒に。バンドの発表があるから、ご近所の方にはご迷惑をおかけします、とかなんとか。日にちはいつだったか。今週か、来週か。忘れてしまった。
思えば、あたしも高校の文化祭は、遅くなるまで学校に残っていた方だった。何故だかあの頃は、不思議なくらいエネルギーが有り余っていて、とにかくいつも全力疾走していた気がする。
2年生の時は友人に誘われて実行委員になり、それがきっかけで当時憧れていた3年の先輩に声をかけられて、先輩のバンドにピアノで助っ人に入ったんだった。
引っ込み思案でそれまで父親と弟以外の男性とほとんど喋ったこともなかったあたしが、初めてまともに会話をした人だった。
今思えば誰にでも優しい人だったんだろうけど、当時のあたしにとっては、「女の子」として扱ってくれるその人の一挙手一投足が、舞い上がるほど嬉しかった。
あたし以外にもピアノの弾ける子は何人もいたはずだし、あたしよりもピアノの上手い子も何人もいたはず。
色んな偶然が重なって、あたしが選ばれた。その偶然が、あたしのその後を決めたんだ。
あの時、先輩と一緒に文化祭のステージに立っていなかったら。
あの時、「お前ピアノ上手いな」って言われていなかったら。
あの時、ピアノの音が別の音と混じりあう楽しさと興奮を感じなかったら。
きっと今のあたしはないんだろう。
それまで惰性で続けていたピアノを、本気で取り組もうと思う原動力になった。
なんとなくで志望していた文系の大学から、音楽大学へと方向を切り替えたのもこの時期だ。今思えば両親も全く反対しなかったのが不思議だ。そして良く間に合ったと思う。
あの時以来、ピアノは欠かさず弾いている。生徒に教えるための、講師としてのピアノではなく、自分のためのピアノを。
休みの日だろうと風邪をひいた日だろうと、あいつに呼ばれた日だろうと。たった5分でも、鍵盤に触れずに一日を終えた日はない。
たとえ、オトコを理由に平然と遅刻してくる女子高生や、楽譜もろくに読めない30代半ばの主婦や、3分と椅子に座っていられない小学2年生が生徒だったとしても。
講師を辞めようと思ったことはあっても、ピアノを辞めようと思ったことなんて一瞬たりともない。考えたことすらない。
もう、好きとか嫌いとか。
そういうレベルでは語れない存在なんだと思う。
あたしからピアノを取ったら何も残らない。
そう言い切れるある種の自信のようなものが、今日まであたしを支えてきてる。
ギターのケースらしきものを背負って廊下を端から端まで駆け抜ける男子高生。
思わず笑みが漏れた。
ハンガーに掛かった自分のブラウス、あいつのTシャツを取る。
周りをバスタオルでぐるりと覆って干しているのは、靴下や下着。こうしておかないと、外から丸見えだ。
一つずつ、洗濯ばさみをはずして取り込む。
部屋に戻ると、洗濯物を二つに分ける。あたしの洗濯物と、あいつの。
それぞれたたんで、あたしのものはクローゼットの左側。あいつのは右側。
クローゼットの扉を閉めたところで、浴槽の湯が設定量に到達したことを知らせるアラームがなった。
脱いだストッキングをネットに入れて、洗濯籠に放ったところで、玄関のチャイムが鳴った。
どきん、とした。
突然あいつが気まぐれを起こして来る時は、いつも複雑だ。
嬉しいのに、どこかで落胆している自分がいる。
突然だろうがなんだろうが、あいつを拒否するなんてできない。
どんな顔をして扉を開ければいいのか、いつもと同じ小さな悩みを抱えたまま、鍵をはずして開けた。
「こんばんわ」
見知らぬ高校生が立っていた。
いや、背中のギターはさっき廊下を走っていたものかもしれない。
「ピアノ、いつも弾いてますよね。お願いがあるんですけど、今週の土日に学園祭でバンドするんですけど、ピアノ弾いてもらえませんか」
頼んでた奴が怪我しちゃって、とか、オネーサン以外に他にあてがなくって、とか、いつもピアノ聞いてました、とか。なんだか必死になってあたしを説得しているらしい。ちらりと彼の肩越しに通路を見れば、階段のあたりで様子を伺っている男の子達が数人。
「優勝したら賞品に自転車もらえるんすよ、それあげますから。俺らぜってー優勝するから」
オネーサンが弾いてくれたら、だけど。
「いいよ」
別に自転車に心惹かれた訳じゃない。
正直、最初から心は決まってた。
拍子抜けした顔の男の子は、多分同世代の女の子から見たら格好いい部類に入るんだろう。ジャラジャラつけたピアスに、少し毛先の痛んだ茶色い髪。やたらと子どもっぽい目でじっと人の目を見つめてくる。
「楽譜あるの」
その子がオイ、と声をかけると、階段でこちらを伺っていた男の子の一人が転がるように走って来た。赤い髪の男の子だった。握り締めすぎて少しくしゃくしゃになった楽譜を差し出す。お願いします、と近所迷惑になりそうな大声を出して、90度に頭を下げた。
下手なコピーで端が少し切れてしまっているその楽譜を見る。選曲から察する限りでは相当真剣にやっているようだ。
頭の中でピアノとヴォーカルのパートを重ね合わせてみる。
俄然、やる気になった。
「今日はもう練習しないの」
「練習、9時までなんで。今日はもう」
「そう」
「あ、でも今からそこのラーメン屋でミーティングします」
良かったら一緒に、と伺うように聞かれて、あっさりと「行く」と答えると、また拍子抜けの顔になった。
ちょっと待って、と、一度部屋に戻って財布と携帯だけをポケットに入れて再び玄関に戻る。
メールのチェックをしようとして、やめた。
ここのラーメン屋はラーメンじゃなくてチャーハンが旨いんすよ、と赤い髪の男の子にやたらと力説される。
その後も、まくし立てるようにチャーハンじゃなくてギョーザだとか、なんだかんだ。
ああ、高校生ってこうなんだよな、と思った。
有り余るエネルギー。
店に入る寸前にポケットの携帯を握り締めた。
もしも、今、この瞬間に。
あいつの気まぐれなメールがきたら。
どう返信しようか。
決まってる。『今日は無理』 だ。
「dependence」end