殻
「え……またなの?」
「うん、ごめんな」
頭で考えるより先に口から零れた言葉は、確かに自分の本音だった。
『課長のご指名でさ、合コンの幹事しなきゃいけないんだ。ほんとゴメン、百合』とは前もって聞いていたものの、複雑な思いは隠しきれない。
付き合い始めてそろそろ半年になる。
同僚暦は六年目に入ったところで、お互い励ましあってきた仲。人となりは充分理解していると思っていたけれど、こうも毎週潰れると……
今週末は二人で一泊旅行に行こうか、と話していた。昼の休憩時間中、宿をスマホで空室検索をして、いくつかピックアップしたばかり。そろそろ退社して夕食でも一緒に食べながら予約を入れようと思っていたところ、悟――私の彼、高橋悟がすまなそうな顔をして机にやってきたのだ。
課長からの依頼は、業務外の『ある意味』接待。課長と後輩の子が結婚式を挙げ、その二次会幹事同士で合コンの開催を頼まれたのだ。もともとアチコチから合コンや飲み会、同窓会にいたるまで幹事を請け負っている悟は、上司から頼まれたとあっては実績もある以上受けざるをえない。
『マメなマメ橋』とあだ名されるくらい、仕事でもプライベートでもよく気が利く彼は、アッチへこっちへと重用されている。そこを買って課長は悟に頼んだのだろうけど、彼女の立場としてはあまり面白くない。――とても口に出していえることじゃないけれど。
「……うん、いいのよ私は。また今度ね」
「この埋め合わせは必ず。あ、やべっ」
「打ち合わせ?」
「そうなんだ。細かいところをあちらとすり合わせ。じゃ、ごめん! 行ってくる!」
バタバタと慌しく、社長の趣味で鎮座するタイムカードを押して、会社を出て行った。
私は溜息を一つ零し、机の上の書類を静かに纏めて片付ける。
『おれは百合の事が好き――百合が欲しい』
そういわれたのはベッドの中。
四年も同期の一人として仲良くはしていたが、色恋の話など無かった。当時、『彼氏』がいるにはいたが都合のいい女状態で、己の欲望さえ処理できれば用は無いとばかりに帰されていた。自分の年齢も相まって、このままじゃいけない、けれど『彼氏』というだけの存在に縋ってしまう弱さに、呑まれてしまいそうだった。
酒の勢いもあって、悟へ重く抱える気持ちを吐き出し――
その後、悟の機転を利かせた話で、私は彼氏と別れることができた。
『おれ、ずっと百合のこと好きだったよ。入社してからずっと』
はにかみながら告白され、私はそれを受け入れた。
しかし、悟は仕事もさることながらプライベートでも忙しい。二人の時でもしょっちゅう電話はかかってくるし、デートの約束も重要度によっては流される。二十七歳、大人の自分としては物分りのいい女でありたいと変に格好をつけてしまい、口から出るのは――
『いいわ』
『気にしないで』
『また今度ね』
それと相反するように、自身の胸の内は違う言葉を溜める。
『いいわ』――『またなの』
『気にしないで』――『いい加減にして』
『また今度ね』――『私はあなたのなんなの』
黒くてどろどろした澱が奥底に溜まって、憂鬱な気持ちを引き摺った。
ガタゴトと揺れる電車。車窓から見えるのは、大きな川に架かる橋の均等に並んだ照明。欄干に据えつけられた装飾が、灯りによってぽうっと浮き上がっていてとても幻想的だ。
予定がなくなりいつもより早く帰れた私は、最寄のスーパーに寄って、食材をこれでもかと籠にどんどん入れていく。潰れたデートの分時間があるので、食材を買って下ごしらえしてしまおうと考えたのだ。何か集中していれば、無になれるし余計な考えも浮かばないだろう。
火曜日は丁度特売日だったので、ついイライラもあって買いすぎてしまった。
指が千切れそうな思いをしながら築十二年のアパートに帰る。駅も近くてスーパーも近いのが一人暮らしをする上での最重要ポイントだった。
家に着き、ガサガサと冷蔵庫に戦利品を詰めたあと、膝丈のすとんとした頭から被るタイプのワンピースに着替えた。そして特に視力が悪い訳ではないのだが、暗かったり屋内だったりすると見えづらいので眼鏡をかける。背中の半ばまでの髪は、ザッと手櫛で一まとめにし、バンスクリップで簡単に留めた。
気を抜いた格好……実は悟にも見せた事がない。
昔から母親に『女たるもの』と、だらしのない格好をするなと厳しく躾けられたため、人前で気を抜くのがどうにも苦手だった。女友達と旅行に行っても風呂上りに薄化粧を施したり、とにかくキッチリとしていないと気がすまない。それが変化したのは一人暮らしを始めてから。親の干渉もなく、自分のペースで生活できるのは非常に解放された気分だった。相変わらず人前では見せられないが、アパートの中では唯一気を抜ける場所となった。
悟は、家に寄ったり泊まったりすることがあるので合鍵は渡している。けれど必ず連絡があるし、その間に身繕いをするから素の姿で出迎えることはない。
幻滅されるのが、怖かった。
大量の食材を前に、ちょっと後悔しながらも作り始める。冷凍できるものは冷凍すればいいか、と仕分けた。これで暫くは買い物に行かないつもりだ。
コンロは二つしかない為、効率よくこなさねばいけない。
まずは米を五合研ぎ、少々の酒をふりかけ、水を規定量まで入れて炊飯ボタンを押した。沢山炊いて、一人前ずつラップに包んで冷凍しておけばいつでも食べられていい。
次に小さめの圧力鍋を取り出し、時短の為大豆の水煮で五目豆を作る。ゴボウは輪切り、にんじんはいちょう切り、昆布、しいたけは小さめの四角に切って鍋にいれ、醤油とみりんを薄味がつく程度に混ぜて加熱。圧が掛かったら止めて、あとは放置しておく。
もう一つのコンロでは、水に戻しておいた切昆布と人参、細切りにしたさつま揚げと豚コマをごま油でさっと炒め、水と調味料を入れて煮ておく。
きのこは数種類取り混ぜて買った。ぶなしめじは冷凍するとイマイチなので、それ以外の舞茸やエノキ茸、エリンギなどを使いやすい大きさにほぐして密封袋に入れて冷凍庫へ。味が良くなる上、使いたいときに使えて便利だ。
一人暮らしで自炊ともなると、使いたい量を使いたいだけ欲しい。使いきれない分はもったいないので、このような冷凍術を覚えた。摂取する品目も増えるし、見た目もよいので活用している。
バターはおおよそ十グラムになるよう切って密封袋に入れて冷凍。ニラはザッと洗って水気を拭き取り、ざく切りにしたらこれも密封袋へ。少し空気を入れたまま冷凍すると、パラパラに凍って使いやすいのだ。ねぎ、玉葱もざくざく切ってそれぞれ袋へ。密封袋に入れたものはどんどんアルミバットに入れて冷凍庫へしまう。これにいれると、熱の伝導率の関係で早く冷凍できるから重宝している。
作ることに没頭していたが、ふとした瞬間にジワリと、インクの染みが広がるように心を暗くする。
何かしなきゃ不安。
このままでいいのか不安。
悟に――ふさわしいのか、不安。
悟に告白されたものの、今では私のほうが夢中だ。彼なしではいられないほど、かなり依存をしてしまっている自覚がある。周りからは尻に敷くタイプとか、自立できた女とか……しっかりしていると言われるが、その実、弱い自分を隠すための鎧なだけなのだ。
鎧は重い。自分で身につけたのに、動けなくなる。
それに対して潤滑油をそそいで動きやすくしてくれるのが――悟だった。
――んなの気にすんな。おれがいいといったらいい。
元彼と別れた直後で、流石にすぐに付き合うには……と臆した私へ、悟がくれた言葉。まるごと、私がいいと言ってくれた悟は、私が欲しい言葉を、なんのてらいもなく寄越す。
そんな悟へ、恋心がどんどん溢れていくのを止められなかった。
でもね、私……わがままは言いたくないの。物分りのいい女でありたい。悟の、誰からも頼りにされるという人徳は、何よりの武器だ。それを私のわがまま一つでセーブさせるなんて出来ない。ただどっしりと後ろに控えて、私のところに来た時はにっこりと迎え入れよう……そう思っていたのにね。
好き過ぎて辛い、なんて。
圧力が下がったので鍋のふたを開け、味をみる。少しだけ醤油を足したら今度は水分を飛ばすために火力を調整して、くつくつとさせておく。
あとは……と、食パンを一枚ずつラップに包んでこれも臭いが移りやすいから保存袋へ。一人暮らしに一斤は少し多いけれど、三枚入りを買うのは金額の微妙な差で惜しい気がする。油揚げも一枚ずつラップに包む。
豚の薄切り肉は下味をつけ、ひき肉は使いやすい量に分けラップで包んでいく。鶏のモモ肉は厚みを均一にしてフォークで皮を何箇所か刺し、酒を軽くかけてラップで包む。
肉の処理が終わって、次は――と冷蔵庫を見ると、二日前に開封した生クリームがあった。ほんの少しだけ欲しかったので買ったのだが、量が両だけあって余らせてしまう。
これは砂糖を加えてホイップすることにした。ツンと角が立ったので、スプーンでひと匙分ずつラップに包み、これも冷凍。朝フルーツサンド用にしてもいいし、コーヒーに浮かべてもいい。
五目豆も切昆布も出来たので小さいタッパーに一食分ずつ小分けにして荒熱が取れるまで蓋を開けて置いておく。空いたコンロで今度はささがきにされた状態のごぼうが安かったため二パックも買ったので、これも調理をしておく。ごま油で豚肉とごぼうを炒め、豚肉に火が通ったところで水を入れ、砂糖と醤油で味付け。水気がなくなったところで完成。もう一方のコンロで同時進行でそぼろを作る。サラダ油でニンニク、生姜を香りが立つまで火にかけ、豚挽き肉を炒める。酒、醤油、砂糖で味をつけて完成。これらもそれぞれ小分けのタッパーにいれて置いた。
ご飯も炊けたので、塩を振ってなじませておいたグリーンピースの水煮とよく混ぜて暫く蒸らし、これも一膳ずつラップに包む。
――ふぅ。
考えまいと没頭するあまり、夕食を取らずに大量に作ってしまった。ご飯を一人前だけ茶碗によそい、ラップをかける。洗い物が終わったら食べよう……
アパートの狭いシンクでどうにか工夫しながら鍋を洗っていると、玄関のチャイムが鳴った。このアパートはモニターが付いていないので、玄関のドアスコープに行かないと来訪者が分からない。急いで手を拭いて、玄関に向かった。時間は八時。受け取り印でも必要な郵便が来たのかしらとドアスコープを覗くと、そこには――