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東方幻双夢  作者: クシャルト
黒花編 第玖章 災花
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第九十六話

 藍は紫の寝室の前まで来ていた。紫がちゃんとした格好で眠る事が出来ているのかどうか、確かめるためだ。

 紫はそこまでひどくはないのだが、如何せん寝相が悪い。いや、寝相が悪い事は誰にでもあるから、別にどうという事はないのだが、問題は寝る時の服装だ。紫の場合、どんな時でも薄着で寝るものだから、寝返りを打ったり動き回ったりする事で寝間着が着崩れたり、脱げてしまう事がかなり多い。この前、寝間着がほとんど脱げた半裸で寝ていて、起きたと思いきや風邪をひき、そのまま寝込んでしばらくの間動けなくなったという事があった。それ以来藍は、紫が眠っている間、風邪をひくような恰好をしていないかどうか、定期的に様子を見に来るようになった。


 藍は音をたてないように紫の寝室に入り込んだ。まるで森の中にいるように森閑としていたが、紫のすぅすぅという穏やかな寝息が耳に定期的に届いてくる。足音を立てないようにそっと歩き、眠る紫の姿を確認した。部屋を出ている間に何らかの動きがあったのか、紫の寝間着は胸元が大きく開き、胸がはだけてしまっていた。……放っておけば風邪をひく格好だ。


「紫様、風邪をひきますよ」


 藍は小さく呟くと、紫の寝間着にそっと手を伸ばし、静かに胸元を閉めた。そして寝間着から手を離そうとしたその次の瞬間、紫が突然寝間着を掴む腕を掴んできて、藍はぎょっとした。まさか、眠りの邪魔をしてしまったかと思って紫の顔に目を向けたところ、紫は穏やかな微笑みを浮かべて、眠ったままだった。やれやれ、起こさなかったかと藍が安堵した直後、紫の口から小さな言葉が漏れた。


「れいかぁ……るかぁ……駄目でしょ、そんなに服を引っ張ったら……胸がはだけちゃうでしょ……」


 『れいか』、『るか』。まただ。また紫はこの名前を口にした。紫の様子を見に来るようになってから気づいたのだが、紫はわりと高い頻度で、この二つの名前を寝言で口にする。しかも、まるで娘を可愛がる母親が出すような、紫とは非常に縁がない声色で。初めて聞いた時はひどく驚き、紫が目覚めた時に尋ねて見たが、紫はそんな名前は知らない、夢の事など覚えていないとばかり言って、全く教えてくれはしなかった。そんなの嘘だと、ばれているのに。


「式の私にすら教えてくれない、れいかにるか、一体何者だというのですか、紫様」


 紫に尋ねて、紫の手を静かに腕から離したその時だった。突然、紫の顔が蒼白となり、苦しむような声を出し始めた。


「あ、あぁ、あ、だ、駄目よ、れいか、駄目よ、おねがい、言うことを、聞いてぇ……」


「ゆ、紫様!?」


 紫は苦しみながら、何かを抱き締めるような仕草をする。


「ごめんなさい、れいか、ごめんなさい、るか、ごめんなさい、ごめんなさい、許して、許して、ごめんなさい、ゆるして」


 藍は吃驚して、紫の身体を揺すった。眠りを妨げて無理矢理起こす行為だが、そんな事を気にしている場合ではない。


「紫様、紫様、目を覚ましてください!」


「れいか、ゆるして、るか、ゆるして、ゆるして、ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるして」


「紫様、紫様ッ!!」


「ゆるして、ゆるして、ゆるして」


 藍は夢に混乱する紫に怒鳴った。


「目を覚ませ、八雲紫ッ!!」


 次の瞬間、紫はハッと目を開けて、混乱するのをやめた。藍は安堵して、何が起こったかわからないような顔をする紫に声をかけた。


「紫様、大丈夫ですか」


 紫は目を動かして辺りを確認した後、小さな声を出した。


「藍……ここは」


「私達の家ですよ。大丈夫ですか?」


 紫はゆっくりと起き上がり、顔を濡らす脂汗を寝間着の袖で拭ってから、片手で顔を覆った。


「どのくらい、眠ったかしら」


「十五時間ほどです」


 紫は「そう」と言って黙り混んだ。部屋を重い沈黙が覆ったが、藍はその中で決心を固めた。今こそ、聞き出さなければならない。紫と、れいか、るかという二つの名前の関係を。


「紫様、話していただけないでしょうか」


 紫は片手で顔を覆ったまま、横目で藍を見つめた。


「何の事よ」


「紫様は先程、れいか、るかという名前を寝言で口にしておりました」


 紫は苦笑いする。


「聞いてたのね。人の寝言を聞くのは、いい趣味とは言えないわ」


「れいか、るかというのは何です。貴方は毎回誤魔化したりしてますけれど、いい加減話してくださいませんか」


 紫は詰め寄る藍に顔から笑みを消し、藍から視線を逸らした。そしてしばらく黙り混んだ後、静かに言った。


「……『れいか』と『るか』は、幻想郷が、幻想郷の大賢者が、そして私が犯した罪の一つよ。どこまで償えばいいのかわからない、とても大きくて、重い罪」


「罪、ですか。一体どういう事なのです」


 紫は首を横に振った。


「……ごめんなさい。ここまでしか、教えられないの。これ以上は許して、藍」


「そう、ですか」


 紫は少し顔をあげて、もう一度式神を横目で眺めた。


「……そんなに気になっているの」


「当たり前ですよ。紫様、尋常じゃないくらいに苦しんでいたんですよ。主をあそこまで苦しませるものが、気にならない式神なんかいません」


「何よ、私の弱点を掴んでおこうと?」


「心配なんですよ! あんな風に苦しんでいる紫様を見たのは、初めてですから」


 藍が俯くと、紫は思わず藍を見つめた。そして、心の中で、藍と初めて出会った時の事を思い出した。

 藍は見ての通り九つのを尾を持つ妖狐だが、最初から今のような性格だったわけではなく、寧ろ、とても荒んでいた。当時、藍には藍という名前すらなく、『九尾』という通称で呼ばれており、全ての妖怪の頂点に立つ、最強の妖魔として君臨していた。自分と初めて出会った時には、自らの持つ力を、神の力すら凌駕するものだと豪語して襲いかかってきた。紫はその時の藍の威勢と力をひどく気に入り、完膚なきまでに叩きのめした後に、自分の式神として使役しようと交渉した。そしてその交渉は長時間の会話と対談を経て成立。紫は式神となった『九尾』に八雲藍という名を与えた。名をもらい、住処をもらった藍は、最強であった自分を叩きのめした真の最強の妖怪として紫を敬い、その式神として歩み始めたのだった。

 その、荒んでいた『九尾』だった藍がこうやって自分を心配するようになった事が、藍の成長を感じさせ、紫に不思議な嬉しさを齎していた。

 それまできょとんとしていた紫がふふんと笑うと、藍は首を傾げた。


「どうしたんですか」


「いいえ。ただ、貴方も成長したと思ってね」


「はい?」


「だって今の貴方の言ってる事、初めて出会った時の貴方じゃ考えられない事よ。自分を最強の妖魔『九尾』だって言っていた頃の」


 藍は顔を紅くした。


「あ、あの時は私も未熟だったのです! そもそもあの頃は、この姿を持ってはいませんでしたし」


「そうね。貴方も最初は身体の大きな九尾の狐だったし、未熟だったわ。そして今、貴方はここまで成長する事が出来た」


「姿も変わりましたけどね」


「うんうん。荒んでいた九尾の妖狐だった貴方は、今や私の心配をしてくれる式神。誇りに思うわ」


 藍は顔を紅くして、視線を紫から逸らした。


「……どうしたんですか」


「はい?」


「さっきから私の事をそんなに褒めて。何のつもりなんです?」


「あぁ。貴方はここまで成長してくれたのねって思っただけよ。式神の主人としては嬉しい限りだわ」


 藍は髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き、しかめ面をした。


「調子が狂います。というか、紫様が苦しまれてから調子は狂い続けていますが」


 藍は髪の毛を掻くのをやめると、紫の方に顔を向け直した。


「……ですが、私も、貴方の式神になれた事を誇りに思います。そして、ずっと貴方を守っていきたいと思っております」


 藍は顔に険しい表情を浮かべた。


「紫様を脅かす存在が現れたのなら、その時は式を無理矢理剥がして、力を」


 紫は藍の頬に手を当てた。藍はきょとんとして言葉を切り、紫は穏やかに微笑んだ。


「その必要はないわ。だって、貴方は八俣遠呂智の時にも、その力を使わなかったのだから」


「あ、使うべきでしたか」


「いいえ。そんな事はないわ。貴方があの力を使う事は、もう無いと思うの」


 藍が苦笑いする。


「そうですね。八俣遠呂智を超える存在が、そうそういるわけがありませんし」


 その時、頭の中に一人の人間の姿が過り、紫は身体中の力が抜けたようになった。その人は女性で、虚ろな目でこちらを見ていて……。


「紫様?」


 紫はハッと我に帰った。目の前で藍が心配そうな顔をしている。いつの間にか考えに耽ってしまったようだ。首を横に振り、紫は苦笑いした。


「何でもないわ。ちょっとぼーっとしちゃっただけ」


「大丈夫ですか? やはりまだ眠りが足りないのでは」


 紫はもう一度首を横に振った。


「きっと逆だわ。あんなちょっとの疲れで長期間睡眠を摂ろうとしたから、悪い夢を見てしまったのよ。だから、もう起きるわ。また眠ったら、悪い夢で飛び起きてしまいそうだから」


 紫は立ち上がり、背伸びをした後、座っている藍に声をかけた。


「朝ごはんは出来てるかしら」


 藍は素早く立ち上がり、身体を部屋の出口の方へ向けると、


「至急用意致します!」


 そう言って部屋から出て、台所に駆けていった。紫は藍の背中を見守ると、静かに呟いた。


「貴方達を、あの子の二の舞になんかにさせない」




             *



 その頃、博麗神社。

 霊夢は神社の寝室で、じっと考え事に耽っていた。霊夢の頭の中にある考えは三つあり、そのうち一つは目の前で眠ったまま動かなくなっている謎の少女だ。この少女は昨日の<黒獣(マモノ)>との戦いの最中に突然現れて、強力な力を放って<黒獣(マモノ)>を倒して見せた。少女の唐突な出現と放出した力に一同は完全に唖然としてしまい、何とか我に返った霊夢が声をかけたところ、突然姿勢を崩して、そのまま昏睡状態に陥ってしまった。その後、懐夢に協力してもらいながら博麗神社に連れ帰り、こうして寝室で寝かせたのだが、翌日になっても少女は眠ったまま目を覚まさなかった。もしかして死んでいるのではないかとも思って少女に顔を近付けてみると、ちゃんと寝息を立てて眠っているのが確認できたため、死んでいるわけではないとわかった。それでも、少女は未だに目を覚まさないでいる。

 少女の特徴は、腰に届くほどの長さの、雪のような色の髪の毛、整った綺麗な顔立ち、白を基調とし、ところどころに黒い線の入った巫女服を着ている事だ。勿論、霊夢も懐夢もこの少女を見た事はない。一体どこの出身なのか、どうしてあの場に現れたのか、そもそも何者なのか。少女はただ昏睡していて、何も教えてくれなかった。


 二つ目。昨日の<黒獣(マモノ)>についてだ。あの<黒獣(マモノ)>はグリフォンの形をしており、攻撃力こそ高かったものの、防御力や生命力はこれまで現れた<黒獣(マモノ)>を下回っていた。それは別にどうでもいい事なのだが、問題はこの<黒獣(マモノ)>が倒れた際に出てきた者だ。この<黒獣(マモノ)>が倒れた時、これまでと同じように霧散して元になった人物を吐き出したのだが、それは何と、黒犬の<黒獣(マモノ)>の時に自分に助けを求めにやって来た防衛隊の青年だった。

 どうしてこの青年が<黒獣(マモノ)>から出てきたのだと、霊夢は酷く驚き、青年に声をかけたが、青年もまた少女と同じように気絶していた。そこで霊夢はレミリアとフランドールに協力を得て、青年を街の防衛隊の駐屯地に運び込んだのだが、そこで青年の仲間である防衛隊の者達にひどく驚かれた。霊夢は最初レミリアとフランドールに驚いたのかと思い、宥めようとしたが、防衛隊の者達に首を横に振られた。防衛隊の者達が驚いたのは、青年が帰ってきた事だった。


 青年は黒犬の<黒獣(マモノ)>の異変が終わり、黒犬の<黒獣(マモノ)>になっていた女性が目を覚まして状況を伺った頃に、突如として行方不明になったという。だから、青年がこうして戻ってきた事に防衛隊の者達は驚き、喜んだのだった。しかし、霊夢は青年が<黒獣(マモノ)>になっていた事が気になって仕方がなかった。青年は防衛隊が壊滅した時にも生き残りを集めて、<黒獣(マモノ)>に立ち向かう自分達の役に少しでも立とうと、僅かな武器を持って応援に来てくれた、正義感が強くて心優しい青年だ。しかし、<黒獣(マモノ)>は強い負の感情を抱いた者が変異する事によって出現する物であるため、その青年もまた心に強い負の感情を抱いていたという事だ。……あまりに考えにくい事ではあるけれど。

 その後、霊夢は青年が目を覚まし、事情を聴き出せたら慧音に話すように指示、更に慧音にこの事と、天志廼で得た<黒獣(マモノ)>の情報を報告。青年が目を覚まし、事情を話してくれたらそれを教えてくれと頼み、慧音の報告を待つ事にした。そして報告は、一日経った今でも来ていない。


 三つ目。懐夢についてだ。懐夢は霊紗の元で修行を行い、博麗の力、調伏の力を扱って異変を解決出来るようになった。しかし、霊紗の話によると、博麗の力は元来、人間の女性しか適合しないものであり、人間の男性が、しかも半妖が適合する事はないらしい。だというのに、懐夢は博麗の力に適合し、操る事が出来て、『変革者』の一人になろうとしている。霊紗もこれは前代未聞だったらしく、戸惑っている様子を見せていた。

 どうして懐夢が博麗の力に適合できているのか。解き明かしたい事柄であるが、それを確かめる方法もない。懐夢個人の事だから文献も勿論ない。


(もしかしたら……)


 この事については、愈惟なら……いや、もしかすれば、愈惟こそが懐夢の秘密の源なのかもしれない。これはあくまで聞いた話でしかないけれど、親の持つ性質は子にも遺伝し、それは趣味や性格から、親が持つ力まで幅広くいきわたる。愈惟は選ばれはしなかったけれど、博麗の力に適合した女性だったのかもしれない。その性質が息子である懐夢に引き継がれたのだとすれば……いや、でも懐夢は男性だから、適合はしないはず……。


「あーっ!」


 頭の中がぐしゃぐしゃになってきて、霊夢は思わず声を出してしまった。もう考えたところで答えは出ない。どうにかして情報を手に入れなければ、無理だ。そして、懐夢と愈惟に関する情報がある場所と言えば……。

 そう思って、霊夢は西の山の方へ顔を向けた。……大蛇里だ。この二人の情報がある場所と言えば、滅ぼされた故郷である大蛇里だけだ。


「前に行った時は……」


 燃えずに残っていた愈惟の日記の『下』を見つけた。懐夢によると、愈惟の日記は『上』と『下』があるらしいので、もしかしたら、探せばまだ愈惟の日記があるかもしれない。そしてそこには、懐夢へ繋がる愈惟の日記があるはずだ。大蛇里は廃墟だから行くのは少々辛いが、この謎を解き明かすには、やむを得ない。

 だが、出掛けるとなればきっと、懐夢も付いてくる。懐夢は博麗の巫女を守り、共に戦う事を所業とする存在、<博麗の守り人>。だから、遠くへ出掛けるとなれば、自分を守るために付いてくるだろう。しかし、もし仮に懐夢が変わり果てた自分の故郷を時に受けるショックの大きさは想像するに難しくない。だからこそ、懐夢を大蛇里につれていくわけにはいかない。付いてくると言ったら、はね除けてやらねば。

 でも、流石に今は出掛けられない。今はこうして目の前で寝ている少女だが、いつ目を覚ますかわからない。この少女が目を覚まし、正体を明かすまではこうして見張っていた方がいいと思い、溜め息を吐いたところ、背後から声が聞こえてきた。


「霊夢、タオル持ってきたよ」


 振り返ってみれば、懐夢が立っていた。手に桶を持っている。


「あぁ、懐夢。それは?」


 懐夢は少女の近くに桶を置いた。中は水で満たされており、中で一枚のタオルが水と連動するように揺れている。


「タオルだって言ったよ。このおねえさんのおでこに乗せればいいんじゃないかなって」


 懐夢は袖を捲りあげて、桶を満たす水の中に浮かぶタオルを取り出すと、力強く絞って水を桶の中へ落とし、少女の額の上に畳んで乗せた。熱があるわけじゃないのにと、霊夢は苦笑いしそうになったが、何とか腹の中へ押さえ込み、懐夢に声をかけた。


「早く目を覚まさないものかしらね」


 懐夢は答えなかった。顔を向けてみたところ、懐夢はしきりに鼻から息を吸っているのが見えて、霊夢は首を傾げた。


「懐夢、どうしたの。何かを臭うの?」


 懐夢は口を開いた。


「やっぱりだ」


「え?」


「このおねえさん、霊夢と同じ匂いを持ってる」


 霊夢は驚いた。懐夢は、普通の人間では嗅ぎ取ることのできない特殊な匂いというものを感じる事が出来る性質を持った半妖であり、その匂いを嗅ぎ取ることによって個人を特定する事が出来る。博麗神社にやってきたのも、自分と愈唯の匂いを間違えていたのが理由である。

 しかし、自分の匂いと少女の匂いが同じ。それは自分だけではなく、愈唯の匂いと同じ匂いを少女が持っている事になる。


「どういう事よ」


「完全に同じってわけじゃないんだけど、霊夢の匂いとすごくよく似た匂いがするんだ。おかあさんの匂いとも、かなり似てる」


「って事は……そもそも、何で私の匂いって愈惟さんの匂いと似てるのかしら」


 懐夢は首を横に振った。


「わからない」


「でしょうね。私だってわからないもの。ほんと、わからないことだらけで困る」


 言いかけたその時だった。それまで一切の動きを見せなかった少女の口元が動きを見せて、声を漏らした。二人は吃驚して、懐夢が霊夢へ声をかける。


「霊夢、おねえさんが!」


 霊夢は少女に顔を近付けて、声をかけた。


「ねぇ貴方、大丈夫?」


 少女の瞼がゆっくりと開き、霊夢のそれとよく似た茶色の瞳が姿を現した。


「ぁ……ぅ……?」


「ねぇ、ねぇってば!」


 霊夢の声に反応したのか、少女は非常にゆっくりと顔を霊夢へ向けた。かと思えば、すぐに顔を元に戻して、目線を天井へ向けた。


「ここは……どこ」


「博麗神社ってところです」


 懐夢が答えると、少女は「博麗神社?」と繰り返し、ゆっくりと身体を起こした。

 二人は少女は起き上がれたことに驚き、霊夢が声をかけた。


「あんた、動けるの?」


 少女は答えず、ただ辺りを見回した。どうやら、自分の置かれている状況を理解できていないらしい。その様子を見て、霊夢は思わず懐夢が初めてここへやって来た時の事を思い出した。


「……ねぇってば」


 少女はようやく霊夢が言葉をかけてきている事に気付いたのか、霊夢の方へ顔を向けた。


「……貴方は?」


 霊夢は顰め面をした。


「聞きたいのはこっちなんだけど」


 少女は首を傾げた。霊夢が溜息を吐き、もう一度口を開こうとした次の瞬間、懐夢が割って入った。


「もう一度言いますけれど、ここは博麗神社です。今貴方の前にいる人は博麗霊夢。人々から博麗の巫女って言われる人で、ぼくはその霊夢の守り人の懐夢です」


「博麗の巫女……? 博麗神社……?」


 霊夢が頷き、腰に手を当てる。


「そうよ。私は博麗霊夢。幻想郷にその名を轟かせた博麗の巫女。あんたは?」


 少女は軽く俯き、何かを考え込むような仕草をした後に、口を開いた。


「れいか。私の名前は……れいか」


 れいか。それは、前に書物庫で見つけた日記に書かれていた、明治時代の初期に博麗神社で暮らしていたと思われる双子のうちの一人の名前と同じだ。あのれいかは御霊の『霊』に華麗の『華』で霊華だった。


「れいか。漢字で書くと?」


「御霊の『霊』に、『華』。それで、霊華」


 霊夢は驚いた。どうやらこの『霊華』は、あの『霊華』と同じ漢字を書くらしい。だが、そんなのはよくある事だ。自分の霊夢という名前だって、この幻想郷と外の世界を隅々まで探せば見つかりそうなものだろうし。この霊華もたまたま『あの霊華』と同じ名前で同じ漢字を書くだけなのだろう。それに『あの霊華』は明治時代の初期に生まれた人間……平成の世まで生きているはずがない。


「なるほど、霊華ね。苗字は?」


 霊華は混乱しているかのような顔をした。


「……わからない」


「わからない……ですか?」


 懐夢の言葉に霊華は頷く。


「わからないというか……思い出せないのよ」


 霊夢はきょとんとする。


「思い出せないって……じゃあ、どこから来たのよ。あんなにすごい力を振って<黒獣(マモノ)>を倒せるって事は、そんじょそこらの人じゃないってわかるけど」


 霊華は眉を寄せた。


「……駄目。何も思い出せない。そもそも何よ、そのマモノって。私、何かしたの」


 霊夢は懐夢と顔を合わせた後、霊華に再度尋ねた。


「覚えてないの? あの時の事を。あんた、ものすごい力を発揮して、私達が止めを刺そうと思ってた黒い獣を倒したじゃないの」


「何よそれ。そんな事言われたって、はいそうですかなんて、納得できるわけない。そもそも、何の話してるの」


 霊夢はもう一度懐夢と顔を合わせた。やはり、会話が噛み合っていない。

 霊夢に代わって、懐夢が霊華へ声をかける。


「じゃあ、一番最近の記憶は?」


「……今」


「今って……」


「だから、今よ。今までの事……何も思い出せない……」


「本当に、思い出せないの?」


 霊夢の問いかけに霊華は頷く。


「ここに来た経緯も思い出せないし、その前の事も、まるで霧がかかってるみたいで、全然思い出せないのよ。どこで生まれて、どこで育って、どこから来たのかも……あ、でも」


 霊華が何かを思い出したような顔をした。


「なんだか、すごく薄暗い場所にいたような気がするの。そこから光を目指して……魔の気配を感じて……気付いたら、ここで眠ってた」


「魔の気配?」


「うん。とても強い、魔の気配。でも、それを感じた後の記憶がないの」


 霊夢は顎に手を添えた。魔の気配というのはきっと<黒獣(マモノ)>の事だ。霊華は<黒獣(マモノ)>に誘われるようにして、あの場に現れたに違いない。多分、霊華には魔を感知する力でもあるのだろう。幻想郷の民としては、珍しくない特性だ。

 そして霊華だが……今までの記憶が思い出せないという点から考えて、記憶喪失と見て間違いない。だとすれば、かなり厄介な事だ。記憶を失っているからどこから来たのかもわからないし、どこへ返してやればいいのかもわからない。本当に、懐夢と初めて出会った時の事を思い出させるような状況だった。

 あの時は慧音に相談したから、同じように慧音に相談を持ちかけてみるべきかもしれない。


「なるほどわかったわ。とりあえずあんたは、自分がどこから来てどこへ帰ればいいのかわからないわけね」


 霊華は俯き、頷いた。


「なら、私の知り合いにそういう事に詳しい人がいる。だから、その人のところまで行くわ。そうすれば、あんたにもそこそこいいアイディアをくれるはず」


 懐夢が霊夢へ視線を向ける。


「それって、慧音先生?」


 霊夢は頷いた。


「慧音なら、問題ないでしょう」


「そうだね。慧音先生ならきっと、いい知恵出してくれると思う」


 霊夢はもう一度頷くと、霊華に顔を向けた。


「霊華、動けるかしら?」


「えぇ。動きの方には特に問題も」


 霊華が言った瞬間、ぐるるるるーっという大きな重低音が寝室に木霊した。きょとんとして音の聞こえいてきた方向へ目を向けてみれば、そこは霊華の腹だった。

 霊華は腹に手を当てて、呟いた。


「おなか……空いた」


 霊夢はがっくりと肩を落とした。


「はいはい。じゃあご飯食べてから行きましょうか。朝ご飯は残ってないから、作り直しね。

 懐夢、手伝って頂戴」


 懐夢はわかったと言って立ち上がり、それに続いて霊夢も立ち上がった。


「それじゃあ霊華。あんたはまだ休んでて。ご飯出来たら持ってくるから」


 そう言って、立ち去ろうとしたその時、霊華が呼びとめた。


「あ、待って」


 二人は振り返った。霊華は立ち上がり、二人に歩み寄った。


「料理、私も手伝っていいかしら。なんだか、料理なら作れる気がするの」


「えぇ? 料理の記憶はあるっていうの」


「何故かはわからないけど、わかるの。ねぇ、やらせてくれないかしら」


 霊夢は腰に手を当てた。


「引き下がるつもりはなさそうね。いいわ、やればいい。……不味い料理作っても責任持って食べなさいよ」


 霊華は頷いた。

 しかし、直後に霊夢は気付いた。霊華は腰に届くくらいに長くて白い髪の毛を下ろしている状態だ。あれでは料理する時に邪魔になったり、毛先が料理の中に入ったりして、不衛生だろう。


「待った霊華。あんた、髪の毛結びなさい。リボン貸してあげるから」


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