第七十九話
翌日の午前中。
早苗は神奈子、諏訪子、そして戦闘能力の判断の結果により、共に生活する事になった紗琉雫と朝食を済ませた後、片付けをしていた。食器を洗剤と外の世界から持ってきたスポンジで擦って洗い、水で流すと汚れていたのが嘘のように綺麗になる。
小さい頃から見慣れている瞬間だったが、早苗はこの瞬間がいくつになっても好きだった。こびりついていた汚れが瞬く間に落ちていくのを見ていると、なんだか気持ちがいいのだ。
この気持ちよさに気付いたのは六歳の頃だった。丁度小学一年生になって、母の手伝いを始めた時に、自分は汚れを綺麗にするのが好きな人間なんだと気付いた。だから、洗濯でも皿洗いでも風呂掃除でも、汚れが見えないくらいになるまで綺麗にする。そう、何でも。
(でも……)
早苗は、昨日街で買った、白い狼の顔を模した形の髪飾りが付けている頭の左の方を触った。冷たくて硬い鉄に触れたような感覚が指先に走った。
傍から見ればこの髪飾りは普通の装飾品だ。だが、早苗にとっては違った。
早苗にとって白い狼と言えば、ただ一つ。それは、うんと小さい頃に読んで、心を奪われた絵本に登場し、物を綺麗にする事に喜びを覚えるようになった六歳の時に出会って、十四歳になるまで一緒にいて、自分を育ててくれた、背中に翼を持つ巨大な白い狼の姿をした、神獣だけだ。だから、こうやって白い狼の形をしたものを見ると、真っ先に神獣の事を思い出す。いや、思い出してしまうと言った方が正しいのかもしれない。
そして、こうやって神獣の事を思い出してしまうと、胸の中をあっという間に寂しさと悲しさが埋め尽くす。こうやって皿洗いをして、汚れを落として綺麗になった皿を見ていても、洗濯をしている時でも、洗濯ものを畳んでいる時でも、霊夢や魔理沙と言った友人達と話をしている時でもだ。
何をしていても、一瞬でも神獣の事を思い出してしまうと、胸の中が苦しくなって、それどころではなくなってしまう。
前から、神獣の事を思い出したり考えたりすると、胸が締め付けられるような気持ちになる事はあった。しかし、最近になってからそ一層ひどくなった気がしてならない。
(神獣様は……)
今どこで何をしているのだろう。暴妖魔素妖怪になったルーミアとの戦いの後に、ちょくちょく会いに来ると伝えてきたのに、大宴会の準備の時を境に全然会いに来てくれていない。耳を澄ませてもあの鳴き声は聞こえてこないし、普段どこにいるのか教えてくれないから、探しようがない。
これじゃあ、幻想郷に来たばかりの時と一緒だ。神獣がどこにいるのか、本当に幻想郷にいるのかわからず、迷っていた時と、全く同じだ。
(そういえば……)
会えない人がいるという言葉を考えて、早苗は思い出した。
確か、自分と同じ霊夢もまた養子である懐夢が突然姿を消したと言っていて、なんだか寂しそうにしていた。それも、自分と同じくらいにだ。
あの時、早苗は霊夢の心に渦巻いている気持ちを理解したような気になった。そして、自分と同じ気持ちを抱いている人が他にもいるんだなと、安堵にも似たような気持ちを感じた。寂しくて、悲しい思いをしている人は自分だけじゃないんだ、と。
しかし、そう思えたのは束の間。懐夢は昨日霊夢の元に帰ってきた。しかも、まるで博麗の巫女のような力を付けて、頼れる仲間のようになって。だが、早苗はそんな事は大して気にしていなかった。
早苗が気になったのは、懐夢が帰ってきた事に歓喜して、嬉し泣きをしている霊夢を見た時、心の中に湧いて出てきた気持ちだ。
あの時自分は、懐夢を抱き締めて嬉し泣きをしている霊夢を見て、羨ましさ、妬ましさ、気持ち悪さ、怒りが複雑に混ざり合った、濁った泥水のような気持ちを抱いている事に気付いて、戸惑い、愕然とした。
それまで、そういうものを見たところで、そんなふうに思う事はなかったというのに、霊夢が懐夢を嬉しそうに抱き締めているのを見ていると、羨ましさと妬ましさ、気持ち悪さと不快さ、そして怒りといった『負の感情』と言われるものが心の中に湧いて出てきた。まるで、水脈から水が勢いよく湧き出て地面を満たすように。
早苗は洗ったばかりの綺麗な白い皿を両手で持って、目の前に持ってきた。
汚れ一つない、雪のように白い皿の表面に、非常に薄らとだが自分の顔が映っている。
(どうして私は……あんな事を……?)
何故、あんな事を考えたのだろう。あの光景は、幸せな光景ではないか。
見ていて羨ましくなったり、妬ましくなったりするような光景ではなく、微笑ましくなるような、そんな光景でないか。
それなのに、何故あんな事を自分は考えてしまったのだろう。
何故、何故、なんで……
なんで。
なんであの子はあんなに早く帰ってくるの。
なんで私のところには誰も来ないの。
なんであの人だけあんなに早くこの気持ちを抱かなくなるの。
なんで私はこんな気持ちを抱いたままなの。
なんで私の大事な人はいつまでたっても来ないの。約束したのに。
「……い……なえ」
気に入らない。
気に入らない。
「おい……さなえ」
どうしてこうなのか気に入らない。
どうして私ばかりこうなるのかが気に入らない。
どうして私ばかり一人にされるのかが気に入らない。
どうして私ばかり仲間外れにされるのかが気に入らない。
どうして私ばかりこんな思いをしなければいけないのかが、気に入らない。
どうして私だけ。
「おい、早苗!」
突然の声に、早苗は驚き、ハッと我に返った。
そして自分に声をかけてきた存在を知るべく、背後を振り返った。
背後には、いつの間にか紗琉雫がやって来ていて、心配そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。
ぎこちなく、早苗は紗琉雫に声をかけた。
「しゃ、紗琉雫様。どうかなさったんですか?」
紗琉雫はゆっくりと早苗の手元を指差した。
「いや、それはこっちの台詞だよ。どうしたんだ」
問い返されて、早苗は首を傾げる。
「何がですか?」
「いや、だからその皿」
早苗は言われるまま手元を見て驚いた。さっきまで両手で一枚の白い皿を持っていたのだが、その皿はいつの間にか真ん中から物の見事に真っ二つに割れていた。
「お、お皿が!?」
紗琉雫が早苗に手を差し出した。
「手を見せてごらん。怪我してないか?」
早苗は割れて二つになった皿を近くに置き、自分の手を確認した。水仕事をしていたせいか、手が冷たくなっていたが、特に怪我をしているようには見えなかった。どうやら破片で手を切るような事にならずに済んだらしい。
「怪我はありません」
紗琉雫は溜め息を吐いた。
「そうか。ならいいんだが、一体どうしたんだ。明らかにこの皿、お前が力を加えて割ったようにしか見えないぞ。何か嫌な事でもあったのか?」
紗琉雫に問われて、早苗は今さっき心の中で呟いていた事を思い出し、ぎょっとした。
自分はさっき、霊夢と懐夢を見ていた時に感じた思いについて考えていたが、いつの間にか、その時と同じような事を考えていた。
あの時自分は、何故か霊夢に憎悪に似た感情を抱いていたような気がする。特に憎悪する必要のない相手のはずなのに、何故か憎悪に似た感情を抱いて、震えていた。そしてその時に持っていた皿を、気付かないうちに手で真っ二つにしてしまったらしい。
どうしてあの霊夢に憎悪を抱いたのか、早苗は考えたが、全くと言っていいほど答えが出てこなかった。
自分で自分が、わからなかった。その事に気付くと、腹の底から震えが来て、早苗は自分の肩を抱いた。
紗琉雫は驚いて、声を上げた。
「え、早苗? 大丈夫か?」
早苗は紗琉雫の顔を見ず、下を向いたまま頷いた。
「大丈夫です」
紗琉雫は早苗の方に触れた。
「そんなわけないだろ。具合悪いのか」
早苗は首を横に振った。
「大丈夫です。どうって事ないですから、心配いりません」
紗琉雫は軽く歯ぎしりをして、早苗の両肩を掴み、早苗の身体を自分の方へ向けた。
早苗は驚いて、紗琉雫と顔を合わせた。
「な、なんですか!?」
「いいから黙っててくれ」
紗琉雫は驚く早苗の顔をまじまじと見つめて、呟いた。
「……やっぱりお前、疲れてるんだな」
早苗は首を傾げた。
自分は別に疲れてはいない。睡眠だって十分に摂っているし、規則正しい生活を送り続けているから疲れがたまる事など無い。
「私は、疲れていませんよ。しっかり寝てますし、お食事だって……」
紗琉雫は首を横に振った。
「身体じゃない。心だよ」
早苗はきょとんとした。
「え? 心?」
紗琉雫は頷いた。
「あぁそうだ。早苗、お前は確かに身体は疲れてないんだと思うよ。
でも、代わりに心の方が疲れてる。そういう顔をしてるよ、早苗」
早苗は自分の胸に手を当てた。
「心が……疲れてる……」
「そうだよ。心が疲れてるって事は何かがあるって事だ」
紗琉雫は声を柔らかくして、早苗に問うた。
「なぁ早苗、そういうの、話してくれないか? おれでよければ聞くからさ」
早苗は紗琉雫の顔から目を逸らした。
正直なところ、自分が抱えている悩みを吐き出したいという気持ちはある。だが、その相手を紗琉雫にしたくはない。
紗琉雫はまだ、やってきて数日程度しか経っていない。
その間に、紗琉雫はすごく優しい神だという事がわかったけれど、それでも紗琉雫に自分の抱える悩みだとか気持ちだとかを話したい、打ち明けたいとは思えなかった。たった数日しか一緒に過ごしていない神に悩みや気持ちを話したところで理解してもらえないに違いないし、不快に思われるだけだろう。そんなふうに思われるくらいならば、話さない方がまだましだ。
早苗は自分の中の考えを纏めると、口を開いた。
「……ごめんなさい。話したくありません」
紗琉雫はきょとんとしたような表情を顔に浮かべた。
「何で」
早苗は顔をそむけた。
「話したくないんです」
「じゃあ、誰になら話せる? 八坂か? 洩矢か?」
早苗は首を横に振った。
紗琉雫もそうだが、実のところ神奈子と諏訪子にも自分の悩みや気持ちを打ち明けたり、話したいと思う事が出来ない。あの二人だって、出会ったのは五歳くらいの頃で、祖母の家に遊びに行く時にちょくちょく会ってはいたけれど、一緒に住み始めたのは二年ほど前だ。
二年も一緒に過ごしていれば十分だろうと普通は思うだろう。けれど、早苗は神奈子と諏訪子と二年間暮らしても、悩みや気持ちを話したいと思えるようにはなれなかった。そしてそれを、現在まで引きずり続けている。
「……神奈子様でも諏訪子様でも……嫌です」
紗琉雫は不安そうな表情を浮かべる。
「それじゃあ誰なら……」
その時、紗琉雫は早苗の頭を見てふと気付いた。今朝は少し寝ぼけていたから気付かなかったが、いつの間にか早苗の頭の右の方に髪飾りが増えている。そしてそれは、白い狼の顔の輪郭を模した形をしていた。
それがわかると、紗琉雫は自分の中に光が走ったのを感じて、早苗に声をかけた。
「なぁ早苗、この後、暇か?」
早苗は「え?」と言って紗琉雫の顔を見直した。
「暇?」
「あぁそうだ。今日、予定とか入ってるか?」
「いいえ。特に予定は入っておりません。前みたいに黒い妖怪みたいなものが現れない限りは」
紗琉雫はぱぁっと表情を明るくした。
「そうか。じゃあ、何か欲しいものとかあるか?」
早苗は吃驚した。
「な、なんですか突然」
紗琉雫は表情を変えないまま再度問いかけた。
「だから、欲しいものとかあるかって」
早苗はふと自分の欲しいものを考えたが、それよりも先に、皿を一枚駄目にしてしまった事を思い出した。
「えと……強いて言えば今割ってしまった皿の代わりでしょうか」
紗琉雫は早苗の両肩から手を離した。
「皿だな。わかった。買って来るよ!」
そう言って紗琉雫は勢いよく台所から出て、そして神社の中から出て行ってしまった。
残された早苗は呆然としながら紗琉雫の走って行った後を見ていた。
「な、何なのかしら一体……」
あの時、紗琉雫は妙に顔を輝かせていた。
まるで、何か良い事を思い付いたかのような、そんな顔をしていたように見えた。
「何があったんだろう」
それ以上考えても答えが出せなかったので、早苗は紗琉雫について考えるのをやめて、途中だった食器洗いを再開した。
朝食で使った皿を全て洗い、布巾で水滴を拭き取って棚に戻すと、早苗は台所を後にして居間へ戻った。
神奈子と諏訪子は出かけている。朝食の後に他の神々から会議に参加せよという招集が来て、急に出かけなければならなくなったのだ。その時二人は自分を神社に残す事に抵抗があったらしく、会議に行きたがらなかったが、私は大丈夫、一人でも平気ですと言ってやったところ、顔を顰めながら神社から飛び立っていった。だから、今のところ神社にいるのは自分一人だけだ。先程までは紗琉雫がいたけれど、紗琉雫もまた出かけて行ってしまった。
(そういえば……)
神奈子と諏訪子は会議に呼ばれたのに、紗琉雫は会議に呼ばれなかったのだろうか。
紗琉雫だって二人と同じ神だから、招集がかかっているはずなのだが、紗琉雫はそんな様子は見せなかったし、そんな話だってしなかった。招集がかからなかったのだろうか。それとも、行きたくなくてサボりでもしたのだろうか。
「紗琉雫様、もしかしてサボったのかな……」
そう呟いたその時だった。
突如として外の方から、指笛のように甲高い、聞き慣れた音が聞こえてきた。
早苗はハッとして、窓から顔を出すと、高く広がる秋空を食い入るように見つめた。
(今のって……!)
程無く、神社の奥の方から風が強い吹き始め、神社中の窓と戸ががたがたと揺れ出した。
中庭の方から、かなり大きな羽音が聞こえてきている。
早苗は窓から顔を引っ込めると、風が来る方に身体を向け、そこへ突っ込むが如く走り出した。
そして中庭に辿り着いたところで、早苗は呆然とした。
「し……し……」
中庭にいたのは、神獣だった。今やってきたばかりなのか、六枚の大きな翼を広げて、白金色の毛に日の光を浴びせて、七色に輝かせている。
そのうち神獣は中庭に早苗がやってきた事に気付き、早苗の方へ身体を向けると、翼を畳み、その場に伏せて頭を下げ、目の高さを早苗と同じにして、顔に微笑みを浮かべた。
早苗は神獣と目を合わせて、両手で口を覆った。
「神……獣様……」
神獣は頷き、口を動かして「さなえ」と呟いた。
早苗は縁側から飛び出すと、そのまま神獣に駆け寄って、神獣の身体に抱き付いて白金色に輝く毛に顔を埋めた。
触っているとすごく気持ちがいいくらいにふかふかの、小さい頃から大好きだった毛の手触りと、ちょっと獣臭い温かさと、雨、雲、風の匂いを感じながら早苗は神獣に声をかけた。
「どこへ行ってたんですか……ずっと会いたかったんですよ……」
神獣の呼吸を聞きながら、早苗は神獣の身体にへばり付くように抱き付いていた。
神獣は「くるるる」という優しげな声を出して腕を動かし、早苗を抱き寄せた後、まるでじゃれついてくる甘えん坊な娘を慈しむような目で、早苗の事を見ていた。
早苗は暫く神獣に抱き付いていたが、やがて離れて神獣に話しかけた。
「神獣様、今日は何のご用件で来られたんですか? 私に会うために来てくださったのですか?」
神獣はぷいと一瞬鼻先を胴体の方へ向けた。背中に乗りなさいという意思表示だ。
早苗は神獣の思いがわかって、きょとんとした。
「背中に乗れと言っているのですか?」
神獣は頷いて笑んだ。言った事が当たっていたらしい。
「それって、一緒に飛ぶっていう意味でしょうか?」
神獣はもう一度頷いた。神獣は自分を背中に乗せて空を飛びたいらしい。だが、それは神社を無人にして出掛けるという事だ。出掛ける前には、戸や窓の鍵を閉めなければ不用心だ。
早苗は神獣に待っていてくださいと言って神社へ戻り、神社中の鍵を閉めて回った。
そして玄関から出て鍵をかけると、神獣のいる中庭に戻った。
「鍵を閉めて来ました。それで、本当に神獣様の背中に乗っていいのでしょうか」
神獣は頷いて、もう一度顔をぷいと背中の方へ一瞬向けた。本当に乗ってしまってもいいらしい。
今まで自分は神獣に触った事はあったけれど、背中に乗った事はない。神獣の背中がどんな風なのかを想像しながら、早苗はぴょんと軽く浮いて、神獣の背中に着地して、跨がる形で神獣の背中に座った。
その直後、神獣は身体を波打たせるように動かした。早苗は悲鳴をあげて神獣にしがみつこうとしたが、神獣の動きの激しさにに早苗は前の方へ動かされ、背中から項の方に移ったところで神獣は動きを止めた。
早苗は息を荒げながら神獣へ声をかけた。
「な、何か悪い事をしましたか」
神獣は首をぶるぶると軽く振り、軽く顔を上へ動かした。
その様子を見て、早苗は神獣が背中ではなく項に乗ってほしかった事を理解した。
「項の方に乗ってほしかったんですね?」
神獣は頷くような仕草をすると、身体を起こして立ち上がった。
ぐうんと身体が持ち上げられるような感覚と共に、目の前が一気に高くなって、早苗は驚きの声を上げた。
自分は今、神獣に乗っている。つまり今見えている風景が、神獣がいつも見ている風景なのだ。
「神獣様は、こんな風景をいつも見ていたんですか」
神獣は頷くと、足に力を込めて思い切り地面を蹴り上げて飛び上がり、六枚の大翼を羽ばたかせて宙に舞い上がった。がくんと頭を揺すられて、眩暈がした。
突風に等しい風が容赦なく吹き付けてきて、身体が後ろの方へ持って行かれそうになる。手を離してしまったら、神獣の身体から放り出されてしまう。――自分が空を飛んでいる時とは、全く違う。
慌てて神獣の首筋に伏せてしがみ付くと、途端に風の抵抗が弱まって、楽になった。
身体の下で神獣の筋肉が力強く上下運動を繰り返して、六枚の翼が大きな羽音を立てている。それに共鳴するかのように、自分の着ている服がばたばたと音を立てて揺れている。
早苗は少し身体をずらし、顔を下の方に向けて目を開くと、音を立てて息を呑んだ。
守矢神社が模型のように小さく見え、妖怪の山がかなり遠いところに見え、河童の里のある谷川がまるで紐や糸のよう見える。そして、深緑に染まる山や森が地平線の彼方まで続いている。
いつの間にか、こんな高高度にまで神獣は上がって来ていたらしい。
(すごい……こんなに高いところまで)
自分達が持つ空を飛ぶ力でこれほどの高度に行くのは、気圧や気流の影響があってかなり難しい。
だのに、神獣はそれを無視しているかの如く、自由に飛んでいる。
いや、無視しているのではない。きっと神獣には大気の層や風が全て見えているのだ。どの気流を避けてどの風に乗り、どのような姿勢で、どのような頻度で羽ばたけばいいのか、全て理解している。――空を、掴んでいるのだ。
早苗は風に押されながら、神獣に声をかけた。
「これが、これが神獣様の見ている世界なんですね!?」
神獣は強く頷いた。
早苗は表情をぱあっと明るくして、視界いっぱいに広がる幻想郷に見とれた。
外の世界からやって来て何気なく暮らしていた幻想郷が、こんなに美しいものだったという事実がわかって、感動で涙が出てしまいそうだった。こんな光景、外の世界を隅々まで探したとしても見つける事は難しいだろう。
しかも下には神獣がいる。大好きな神獣と一緒にこんな美しい光景を見れているのが、早苗はたまらなく嬉しかった。しかし、そう思っていたのも束の間、早苗は自分の身体ががくがくと震えている事に気付いた。……ものすごく、寒い。
先程から身体に吹き付けてくる秋の風はまるで氷のように冷たい。どんなに神獣の温かい身体にくっついていても風の冷たさの方が強くて、どうにもならない。どんどん手の感覚がなくなっていって、口を閉じていても歯ががちがちと音を立てるようになった。
「し、神獣様、神獣様ぁ!」
神獣は吃驚したような表情を浮かべて、早苗のいる方向に目を向けた。
早苗は必死に叫んだ。
「さ、寒いです! 風が冷たくて、寒いですッ!!」
神獣は頷くと、ゆっくりと下降して高度を落とし始めた。
早苗は神獣が地面へと降りるまで、必死になって神獣の温もりを感じ取ろうとしていた。