第六十六話
三人の神の視線が早苗に集まった。
早苗は続けた。
「私は紗琉雫様の強さがわからないので、皆さんの話がどれだけ重要なものなのかわかりません。
でももし紗琉雫様が非常にお強い方ならば、私は一緒に戦いたいと思いますし、逆ならば正直一緒に戦いたいとは思いません。それを、次の戦いで測るというのはどうでしょうか」
神奈子が目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待て。それはどういう事だ」
早苗は答える。
「つまり、次の戦いで紗琉雫様と一緒に戦い、お強い方であると私が判断したら私は紗琉雫様の味方に、逆に紗琉雫様が強くない方だと私が判断したらお二人の味方になるという事です」
諏訪子が驚く。
「えぇっ! 早苗、紗琉雫の味方をするっていうのかい!?」
早苗は首を横に振り、諏訪子の言葉を否定した。
「そうではありません。私は紗琉雫様のお力を知りたいと思っているだけです。そして、紗琉雫様のお力が私達の役に立ってくれるくらいに強いものならば、喜んで取り入れたいと思っています」
早苗は神奈子と諏訪子を交互に見て、続けた。
「紗琉雫様の言う通り、私達はあの黒い虎に似た何かには、霊夢さんの力を持って勝ちました。もしも、あの時霊夢さんが来てくれなかったら、私達は今頃殺されていたと思います。そして私達はあのようなものとまた戦うとも思います」
早苗は紗琉雫の顔を見る。
「でも、もし紗琉雫様の力がとても強いものであるならば、あのようなものと再び戦う事になっても、霊夢さんが来なければやられるなんて事は避けられるようになるかもしれません。私達四人のだけの力で、あのようなものを倒し、人や町を守れるようになるかもしれません」
早苗は神奈子と諏訪子の方へ視線を戻す。
「ですから、私は紗琉雫様のお力を見せてもらい、強いものであると判断出来たら、その力を貸してもらい、手を組んでいくべきだと思います」
神奈子が焦ったように手を動かす。
「しかしだなぁ早苗」
諏訪子が忙しなく目を泳がせる。
「紗琉雫には、ちょっと問題が……」
早苗は首を傾げる。
「問題? 問題ってなんですか? 紗琉雫様がいると、何か都合が悪い事でもあるんですか?」
神奈子が早苗から視線を逸らす。
「いや……その……」
その時、早苗は思い出した。
そういえば、神奈子は先程紗琉雫とは合わない約束だったと言っていた。この約束とはいったい何なのだろうか。どうして、紗琉雫とは合わないという約束をしていたのだろうか。気になって、早苗は紗琉雫に声をかけた。
「あの、紗琉雫様」
紗琉雫は早苗と顔を合わせた。
「なんだ」
「紗琉雫様は何故このお二人と会わない約束をされていたのですか?」
紗琉雫は何か都合の悪い事を聞かれてしまったかのように、身体をびくりと言わせた。
「え? えっと、それはだな……」
神奈子と全く同じ反応をしている紗琉雫に、早苗は確信を得た。
この三人、何かを隠している。自分に知られたくない秘密が暴かれそうになっていて、焦っている。もう少し問い詰めれば、吐き出すかもしれない!
早苗は紗琉雫に詰め寄った。
「紗琉雫様、何をお隠しになっているのですか?」
その時、神奈子が怒鳴った。
「早苗! そんなに人の秘密を知りたがるんじゃないよ」
神奈子が言いかけると、割り込むように諏訪子が言った。
「紗琉雫が一緒に行動したくないくらいの皮肉屋だからだよ」
諏訪子を除く全員の注目が諏訪子へ集まった。
諏訪子は顰め面で紗琉雫を睨みつけて、続けた。
「紗琉雫は神々の間で有名な皮肉屋と毒舌家でね! 昔っから何かあればすぐ皮肉と嫌味を言うんだ。多分、早苗も一緒にいればわかるよ。絶対一緒にいたくなくなる!」
紗琉雫は吃驚して、諏訪子へ視線を向けた。
「お、おい洩矢!」
早苗は紗琉雫にもう一度顔を向けた。
「ほ、本当ですか紗琉雫様」
紗琉雫は早苗の顔を見て沈黙した後、目を逸らした。
「……ほ、本当だ。おれはよく、会いたくなくなるくらいのとんでもない皮肉毒舌野郎って言われる。だから、八坂と洩矢から会わないでくれって言われてたんだ。それを破って、おれは今ここに来た」
紗琉雫の返答に早苗は首を傾げた。紗琉雫の言葉と、先程の紗琉雫の言動が食い違い過ぎている。
もし紗琉雫が本当に会いたくなくなるくらいの皮肉屋なのだとすれば、自分と初めて出会ったあの時に一つくらい皮肉や毒舌を言っていたはずだ。しかし紗琉雫はあの時一言も皮肉や毒舌を言わず、自分の事を興味深そうに見て、話をしていた。明らかに、諏訪子と紗琉雫の言っている事は先程の紗琉雫の言動と違う。
何故なのだろうと考えようとしたその時に、紗琉雫が声をかけてきた。
「だけど、力の強さだったらお前が認めるくらいだと思ってる。力だけなら強いと自負してるからな」
神奈子が腕組みをして、目に疑問の色を浮かべる。
「でも、どんなに力が強くても性格が最悪じゃねぇ……」
諏訪子が同じように目を細めて、紗琉雫の顔を見る。
「手を組んで一緒に戦っていくなんて、したくないよねぇ……」
紗琉雫は目に嫌味の色を浮かべて二人を睨みつけた。
「高望みしすぎなんだよお前らは。力を持つ者はこんなのなんだよ。神でも人でもな。いい加減そのあたり認めろっての」
神奈子が首を横に振り、紗琉雫を嗤うような不気味な笑顔を顔に浮かべる。
「いーや違うよ。力があって性格がよくてイケメンな奴っているよ!」
紗琉雫はため息交じりに神奈子へ言い返す。
「いねえよそんな完璧超人。っていうか、イケメンってなんだよ」
諏訪子が人差し指で紗琉雫を指差し、笑い出す。
「えぇー! 紗琉雫イケメンって言葉も知らないの? ないわー!」
紗琉雫がちっと舌打ちをする。
「知らねえよそんな言葉。イケメンだから、味のイケてる麺か?」
神奈子が大笑いする。
「なんだよそれ! 紗琉雫言葉に疎すぎだろ!」
紗琉雫が顰め面をする。
「言葉は多く知ってればいいってもんじゃねえよ。あと知ってる言葉を濫用するな柱女に蛙女」
「なに? 誰が柱女だって?」
「誰が蛙女だって?」
紗琉雫、神奈子、諏訪子の三人の言葉の投げ合いを聞いているうちに、早苗は紗琉雫が皮肉屋で毒舌家なのが本当なのではないかという気を感じてきて、がっくりと肩を落として俯いた。初めて会ったあの時、紗琉雫は確かに毒舌も皮肉も言わなかった。しかし、それはただ自分に興味があって毒舌や皮肉を言わなかっただけなのかもしれない。
そう思ったその時、神奈子が口走った。
「私が柱女で諏訪子が蛙女なら、お前はおおか」
言いかけて、神奈子は手で口を塞いだ。
その瞬間、紗琉雫と諏訪子は驚いたような表情を浮かべて凍り付いたように神奈子を見た。その事に気付いて、早苗は思わず首を傾げた。
「え? 皆様方、どうなされたのですか?」
手で口を塞いだまま、神奈子は首を横に振り、諏訪子が早苗に言い返した。
「た、多分言い過ぎだと思って自重したんだよ。ね、紗琉雫」
諏訪子に声をかけられて、紗琉雫は「えぇっ!?」と言った後、頷いた。
「うん。何か言われたらブチ切れそうな言葉を言われそうになった気がするな」
神奈子がゆっくりと手を離し、紗琉雫に謝った。
「ごめん。今のは言わなくてよかったね」
紗琉雫は「ったく」と言ってそっぽを向いた。
かと思いきや、突然立ち上がって中庭の方を向いた。
「さてと。そろそろ帰るとするかな。お前らだって、おれがいたら嫌だろ?」
紗琉雫の言葉に神奈子と諏訪子はきょとんとしたような表情を浮かべた後、紗琉雫に言い返した。
「あ、あぁ。帰んならさっさと帰んな」
諏訪子が腕組みをする。
「そ、そうそう。あんたは私らと約束を破ってここに来たんだからね。全く迷惑しちゃうよ」
紗琉雫はハンと鼻を鳴らした。
「わかったよ。さっさと帰るとするよ。ただ、お前らが戦ったのみたいなのがまた現れたら、おれはまたここに来るからな。そしたらそこの早苗に力を見せてやる」
紗琉雫は振り返り、早苗と目を合わせた。
「その時決めるのは、お前だからな、早苗」
早苗は一瞬きょとんとしてしまったが、すぐに頷いた。
「はい。慎重に見させてもらいたいと思います」
早苗の言葉を聞いて、紗琉雫は安心したかのような微笑みを顔に浮かべる。
「そうか……信じてるよ」
そう言って、紗琉雫は居間から出て縁側から中庭へ降りると、地面を勢いよく蹴って上空へ舞い上がり、幻想郷の空へ消えていった。その様子を見て、早苗は心に不安が満ちてくるのを感じた。
正直なところ、紗琉雫の力は強くあってほしい。何故なら、強い力を持つ人が一人でもいれば、戦闘になってもこちらが追い込まれる可能性が低くなるからだ。
しかし今の三人のやり取りを見る限り、紗琉雫はいい性格をしていないようだ、いや、そもそもこの幻想郷で知り合った人々の中でいい性格をしている人はあまりに少ない。どれも一癖二癖あるような人ばかりだ。紗琉雫と初めて会った時、ようやく一癖二癖ない人に巡り会えたと思ったが、どうやらそうでもないらしい。紗琉雫もまた癖の強い人なのだ。それも、神奈子と諏訪子が大いに認めるくらいの。そんな人と手を組んで戦う事になると考えると、不安で仕方がなくなる。
その時、早苗はふと神獣の事を思い出した。神獣はルーミアが暴妖魔素に感染して別な妖怪へ姿を変えて暴れ回り、自分を殺そうと迫った時、凄まじい攻撃をルーミアへ繰り出し、自分を守ってくれ、更にルーミアを元の姿に戻してくれた。自分達が攻撃してもうまくダメージを与える事が出来なかった暴妖魔素妖怪のルーミアを、意図も簡単に撃破して。もしあのような強大な強さを持ち、自分を可愛がってくれる神獣が来てくれ、力になってくれたならどれだけ頼もしく、嬉しい事か。
溜息交じりに、早苗は呟いた。
「こんな時……神獣様が来てくれたらなぁ……」
直後、早苗は背後から妙な視線が飛んできているのを感じて、振り返った。
そこで、神奈子と諏訪子が目を見開いて、こちらをじっと見ていた。二人の形相に早苗は思わず驚き、声をかけた。
「ちょ、神奈子様に諏訪子様、どうなさったんですか?」
神奈子と諏訪子は我に返ったかのようにハッとし、俯いた。
そのうち、神奈子が口を開いた。
「いや、なんでもないんだ。なんでも、ないんだ……」
「うん。なんでもないよ。なんでも、ないよ……」
二人の曖昧な答えに早苗は首を傾げた。そして、ふと思った。
紗琉雫との話に、自分が少しでも割り込んでくると三人して驚いたり、顔に焦りを浮かべたりしてあたふたとする。まるで、自分の顔色を伺って話を進め、自分に何かを悟られないようにしているかのように。どう考えても、怪しい。
「あの、神奈子様に諏訪子様」
神奈子と諏訪子は顔を上げた。
「なんだ」
「なぁに」
「お二人とも、私に何か隠し事をしていませんか?」
神奈子と諏訪子は身体をびくりと言わせて、顔を蒼くした。……図星らしい。
早苗は表情を少しだけ険しくして、二人に問いかけた。
「やっぱり私に何か隠し事をしてるんですね? 何をお隠しになっているんですか?」
神奈子は早苗から少し離れた。
「いいやぁ? 特に何も隠し事なんかしてないよ」
早苗は首を横に振った。
「そんなわけありません。もしそうだとしたら、どうして私に話しかけられたりするたびにあたふたしてたんですかさっき」
神奈子はぎくっと言わんばかりにもう一度身体をびくんといわせた。
早苗は神奈子に詰め寄った。
「やっぱり何か隠し事してるんですねぇ? 白状してください。出ないと今日の夕飯抜きにしますよ」
詰め寄ってくる早苗を見て神奈子が口を開いたその次の瞬間、諏訪子が頭の前で手を合わせ、大声で叫んだ。
「ごめん早苗!!」
早苗と神奈子の視線が諏訪子へ向けられた。
諏訪子は頭の前で手を合わせたまま言った。
「実は私、前に早苗の使ってるお茶碗を割っちゃったんだ。その事を早苗にばれてほしくなくて、あんなふうにしてたんだ」
早苗は目を点にした。
「え? お茶碗割った?」
諏訪子は頷き、事情を説明した。
前に神奈子と諏訪子が皿を取り出そうと食器棚へ手を伸ばした時に、早苗の茶碗が引っ掛かって床に落ちて割れたらしい。その時二人はどうするべきかと慌てたそうだが、その時偶然紗琉雫が通りかかり、慌てる二人に声をかけて来たそうだ。その時、二人は閃き、紗琉雫に街で割れた茶碗と完全に同じものを買ってくるよう指示したらしい。そんな指示を紗琉雫は何とか飲み込んでくれ、早苗の割れた茶碗と全く同じものを街から買ってきた。二人はその茶碗を早苗の割れた茶碗と交換し、割れた茶碗を破棄。何事もなかったかのように今まで過ごしてきたらしい。
この事を早苗にばれたくなくて、二人は三人で話している時に早苗に話しかけられると驚いたり焦ったりしたそうだ。
「そ、そんな事だったんですか?」
諏訪子は頷いた。
「うん。ごめんね早苗。今早苗が使ってる茶碗は幻想郷に越してきた時に買った奴じゃなくて、最近町で買って挿げ替えたやつだったんだ」
諏訪子はその場で土下座をした。
「ごめんなさい早苗。あのお茶碗、早苗結構気に入って使ってるみたいだったから言い出せなくて。ここまで引きずってきちゃったんだ。本当にごめんなさい」
早苗は目を点にしたまま神奈子へ顔を向けた。
「神奈子様、それ本当ですか?」
神奈子は俯いた。
「本当なんだ……私が皿を取ろうとしたときにがちゃんって割れちゃってね。そこにたまたま紗琉雫が通りかかったから、挿げ替えさせたんだ。それを今までずっと隠し続けてたんだ。本当にごめん」
神奈子の言葉を聞いて、早苗は肩の力が抜けてしまった。
二人が隠してる秘密と言ったら、自分にはまだ早い東風谷に伝わる奥義の存在だとか風祝の祈祷や術の詠唱時間を大幅に短縮する方法だとか、この幻想郷の隠された歴史だとかこの幻想郷を作ったのは実は太陽神の天照大神だったとか、さぞ壮大で重要な事なのだろうと思っていたが、まさか自分の普段使っている茶碗を割ってしまっただけだったとは思ってもみなかった。
「そ、そんなに小さい事だったんですか……?」
諏訪子は首を横に振った。
「小さくないよ! だってあの茶碗を割ったら早苗かんかんに怒ると思って隠してたんだから!」
早苗は溜息を吐いて、苦笑いした。
「そんな事で私は怒りませんよ。寧ろ貴方方がその時に謝らず今までそれを隠してたっていう事の方に怒りたいです」
諏訪子はもう一度「ごめんなさい」と謝った。続けて、神奈子も「悪かった」と言って謝った。早苗は二人が謝る仕草を見ながら、壮大なものを想像して損したと心の中で呟いた。
*
その晩。
早苗はいつの間にか奇妙な場所にいた。どこだろうここはと思って見回してみると、この場所がそんなに奇妙な場所ではない事がわかった。見覚えのあるプラスチック材質の天井に木の床、辺りには沢山の机と椅子が並んでおり、一番前には教卓と思われる机がある。これは、かつて外の世界にいた時に通っていた高校の教室の構図だ。
「ここって……」
早苗は自分の服を見て驚いた。いつの間にか、外の世界にいた時に着ていた制服を着ている。形とデザインからして、高校の時のもののようだ。しかも、近くの机を見てみれば自分が高校生の時に使っていた鞄がかけられている。
いつの間に外の世界に、しかも通っていた高校に戻ってきたというのだろうと思ったその時、チャイムの音が耳に届いてきた。何だと思って教卓の上にある時計を見てみたところ、時計の針は八時五十分を差していた。一限目の授業が開始される時間だ。
早苗は何でチャイムが鳴っているんだと考える前に、空いている席についてしまった。高校生活を二年も送った早苗にとっては、授業開始のチャイムが鳴ったら席に着くというのが癖になってしまっている。
その直後、教師が入ってきた。教師の顔はまるで霧がかかっているかのようにぼんやりしてしまっていてよく見えない。しかし早苗は構わず黒板を見た。黒板には一限目の授業は数学と書いてあった。つまり、数学の教科書を出すべきだ。
早苗は机の中をごそごそと探った。直後、何かが手に当たった。質感と硬さから推測するに、本だ。その厚さから推測にこれは教科書だ。
(あった)
早苗は心の中で呟くと、早速教科書と思われる本を引き出した。
そして目の前まで持ってきて、その表紙を見て唖然とした。
教科書は数学の教科書だった。だが、その表紙にはマジックペンか何かで書いたような教科書にはふさわしくない言葉が書かれていた。それは全部[死ね]だの[気色悪い]だの[馬鹿死にやがれ]だの聞くに堪えない罵詈雑言だった。
「え……なにこれ……」
その時、背筋にぞくりと悪寒が走った。まるでおびただしい数の視線を向けられているかのような感覚だった。何だと思って辺りを見回してみたところ、いつの間にかすべての机と椅子に人が座って、こちらに視線を向けていた。それらは全て自分と同じようなデザインの制服を着た男子高校生と女子高校生だった。
「なによ……なんでみんな私を見ているの……?」
学生ならば、授業中は黒板を見なければならない。そして教師の話を聞かなければならない。だがしかし、周りの学生達は教師と黒板には目もくれず、こちらに目を向けているのだ。しかも、顔にはまるでこちらを嘲笑っているかのような表情を浮かべて。
「な……なに……?」
その時、早苗の耳に声が聞こえてきた。
[しねよばか]
早苗が「え?」と言った瞬間、次々と言葉が聞こえてきた。
[きめえぇんだよみどりおんな]
[おらかねだせよ]
[きしょいきしょいきしょい]
教科書の表紙に書かれている罵詈雑言が、言葉となって耳に飛び込んでくるようになった。どうやら周りにいる学生達が言っているらしい。しかも周りにいるすべての人間が言っているようだ。この場に、罵詈雑言を言っていない者はいない。
「な、なによ……なんなの……」
[きもいんだよくそが]
[なんだきてるのおまえ]
[ねぇかねくれよおらかねだせよ]
罵詈雑言が次々飛んできて、早苗は耐えられなくなり、思わず教師に助けを求めた。こういう時に教師に助けを求めれば、対応してくれるからだ。しかし、教師に視線を向けたところで早苗は驚いた。いつの間にか、教師が姿を消している。
「な、なんで……?」
その次の瞬間、何かが壊れるような音が聞こえた。何かと思ってその発生源を見てみたところ、いつの間にか他の学生が自分のところに集まって自分の鞄をぐちゃぐちゃに壊している。学生達の突然の行いに早苗は驚いて、声を上げた。
「や、やめてよ!!」
直後、また声が聞こえてきた。
[なにこえあげてんの]
[きもいきもいきもい]
[まじうけるーきゃははははは]
また罵詈雑言だった。他の学生達が投げかけているらしい。しかもそれらは全て鞄を壊す学生達を放っておいて罵詈雑言を自分に吹っかけてきている。
何故。何故誰も止めようとしない。そればかりか何故自分にそんな言葉を投げかける。
自分が何をしたっていうんだ。
私が何をしたというの。何でこんなひどい事をするの。
早苗は耐えられなくなり、罵詈雑言をぶつけてくる学生達の間をかき分けて教室を出て、女子トイレに駆け込み、個室の中に飛び込んで鍵を閉めて、便器の中に座った。
心臓が強く脈打っている。まるで、口の近くまでせり上がっているようだ。
「なんで……なんで……」
胸に手を当てているうちに、早苗はある事を思い出した。
そういえば自分は、神獣がいなくなってから入った高校で、こういった陰湿で酷い苛めを受けていた。やたらめったら罵詈雑言を影からぶつけられ、頭に物を投げられて授業の邪魔をされ、教科書を滅茶苦茶にされ、悪口を書かれ、金を毟り取られ、鞄を滅茶苦茶に壊された。更にジャージや制服を何度も切り裂かれたりずたずたにされたりして、学校に行けなかったときもあった。ひどくて、ひどくて、何度も学校をやめたいと思った。何度も誰か相談したいと思った。
しかし、自分が高校に入った時から祖母は具合を悪くして病気になり、病院に入院しっぱなしになった。だから、もう祖母に相談する事は出来なかった。こんな事を話して祖母がショックを受けて、もっと具合を悪くしてしまうかもしれないと思ったから。
早苗はこれは耐えなきゃいけないんだと思って、来る日も来る日も苛めを被り続けた。親が遺した金を毟り取られ、教科書や制服を何度も買い直しながら。誰も憎まずに延々と。
そんな日々が続く中、早苗はこう思わずにいられなかった。
どうして私ばかりこんな目に遭うの。
どうしてみんな寄ってたかって私をいじめるの。私は貴方達のストレスの捌け口じゃない。
どうしてみんな私を付け狙うの。私は貴方達の貯金箱じゃない。
どうしてこんなことばかり私にするの。私は貴方達に何もしてない。
何も悪いことしてない。何も悪いことしてない。
なのにどうしてみんなこんな事をするの。
「どうして……なんで……なんで……」
考えていたら大粒の涙が瞳から溢れ出てきた。一緒に鼻水も出てきた。
どうしてみんな私を苛めるの。なんで誰も助けようとしてくれないの。
どうしてこんな事になるの。おかしいよ。こんなの絶対に、おかしいよ。
その時だった。ぱしゃん、という水が跳ねるような音が個室の外から聞こえた。
「なに?」
直後、頭に冷たい何かが降ってきた。水だ。上から水が降って来て、自分の頭に当たっている。
「きゃあっ」
悲鳴を上げると水の量が増えた。容赦なく降り注ぐ水が自分の髪を、身体を、制服を、下着を濡らしていく。これは多分ホースによる放水だ。外に先程の学生達がホースを使ってここに水を落としているに違いない。罵詈雑言をぶつけて鞄を壊したりするだけじゃ飽き足らず、こんなことまでしてきたらしい。
「なんで、こんなっ」
口を開いたその時、口の中と鼻の中に大量の水が入り込み、早苗は吐き気を感じて咳き込んだ。早苗が咳き込んでいるにもかかわらず放水は止まらない。そればかりか、近くからまだ何かが聞こえてくる。
[きゃはははははっ]
[きしょいきしょいきしょーい]
[せきしてるーうけるうけるー]
早苗は耳を塞いだ。
それでもまだ、罵詈雑言が聞こえてくる。
聞こえてくる。とまらない。
どうして
どうしてこんなことになるの
[しねよくそ]
わたしがなにをしたっていうの
ひどいよ
[きもいよきしょいよ]
ひどいよ
わたしのなにがいけないの
[かねよこせよおら]
やめてよ
「おい、早苗」
いやだよ
[ばーかばーか]
だれかたすけて
「おい! 早苗!」
だれかたすけて
たすけて
たすけて――――――――――――――ッ!!!
「おいッ!! 早苗ぇッ!!」
早苗はハッと我に返って目を開いた。
目を開いて最初に映ったものは、誰かの顔と木の天井だった。トイレの個室のドアではない。いきなり、風景が変わった。
「……あれ……?」
早苗は目の前にある顔を気にせずに、首を動かして辺りを見回した。そこは守矢神社の自分の寝室だった。外の世界の高校の教室でもトイレでもなくなっている。『やつら』もいない。いつの間に、移動したんだろうか。
「おい、早苗、大丈夫か?」
誰かの不安そうな声が聞こえてきて、早苗はその方向へ顔を向けた。
そこには、不安そうな表情を浮かべている、昼間に知り合った神、紗琉雫の顔があった。
何度か瞬きをして、早苗は呟いた。
「しゃる……だ……さま……?」
声を出した瞬間、紗琉雫は表情を不安そうなものから安堵したようなものへ変えた。
「よかった……起きてくれたな……」
直後、紗琉雫は自分の身体に手を伸ばしてきて、ゆっくりと身体を起こさせてくれた。紗琉雫は自分の右隣に座っていた。
その時、早苗は自分の寝間着がびしょびしょになっている事に気付いた。身体の方を見てみれば、汗をびっしょりとかいている。
「なにが……あったの……?」
小さく声を出すと、紗琉雫が答えた。
「お前、すごく魘されたんだよ。ひどい悪夢を見たらしいな」
早苗は「悪夢?」と小さく呟いた後、もう一度辺りを見回した。そこはやはり、学校でもトイレでもない。守矢神社だ。守矢神社の、使い慣れた自分の寝室だ。
それがわかると、早苗はようやく自分が置かれている状況を理解した。あれは夢だったのだ。あの苛めは、全て夢の出来事だったのだ……。
そうやって安堵した瞬間、ぶわっと涙が出てきて、止まらなくなった。鼻水も一緒に垂れてた。
やがて早苗が嗚咽を混じらせて泣き始めると、紗琉雫がそっと早苗の身体に覆いかぶさるように、抱いた。
「胸貸してやるから、泣きたいだけ泣きな。大丈夫だ。お前は夢を見てたんだよ。怖いものは何もねえよ」
紗琉雫の昼間とは違う優しげな声を聞き、その温もりに包まれた途端、涙がその勢いを増して止まらなくなり、早苗は声を張り上げて泣いた。
早苗が泣き始めると紗琉雫は手で背中をそっと摩り始めた。その柔らかな感触がまた嬉しくなって、早苗は思い切り声を出して泣いた。




