第六十二話
――晴れ渡る空を闇雲が包み込み、雨を降らす。
雨は降りやまず、緑が生い茂る大地にあらゆる種族が黒い種を撒く。
やがて黒い種は、美しい黒い花を咲かせる。
黒い花は種を飛ばし、大地そのものを覆い尽くす。
空が闇雲で覆われ、黒い花畑が大地を覆い尽くす世界。
それこそが、新たなる『神の世界』。
人の世を裏から支える、新たなる『秩序の世界』。
――あぁやはり、貴方なのね。私の見込んだ通りだわ。とてもとても、常人では考えられない目に遭わされてきたようね。そんな貴方こそまさに、その世界の礎になるべき存在。……いいえ、貴方以外に世界の礎はあり得ないわ。
貴方だけが、新たなる世界の礎、そして新たなる世界の要と概念になれる。そして貴方が、黒い種を撒き、黒い花を咲かせる。それを様々な種族が真似をして、種を撒き、やがて大地を黒い花で覆い尽くす。大地が黒い花で満たされたその時、貴方は黒い花畑に君臨する、世界の『新たなる秩序』になる。
でも、まだその時ではないようね。足りないわ。
もっともっと、育ちなさい……
もっともっと、育てなさい……
――でも、そろそろ私の事を教えてあげないといけないわね。驚くかもしれないけれど、まぁ仕方のない事よね。貴方は、神のような力を持つ、神に選ばれた新たなる世界の秩序になるべき子なのだから……。
*
紫の話では、懐夢は寺子屋が変わるだけで、毎日ちゃんと帰らせて、自分の元に通わせるとの事だった。霊夢は幻想郷の大賢者とはいえ結構胡散臭い雰囲気を放つ紫の元に懐夢を預けるというの抵抗があったが、懐夢が強くなって自分と一緒に異変を解決できるようになりたいと訴え続けるものだから、折れた。紫を信じて、懐夢を紫のもとで修行させる事を認め、懐夢を紫の元に預けた。
しかし、霊夢は紫の言った事は嘘だったと思った。懐夢が紫の元に通い始めてから五日過ぎた辺りから、懐夢は博麗神社に帰ってこなくなった。霊夢はこの事に怒り、紫に問いただそうとしたが、答えを返してきたのはその式神である藍だった。
藍によると、紫は懐夢にこれ以上ないくらいの才能と潜在能力を見出したらしく、集中的にやれば懐夢を博麗の巫女に匹敵するほど強く出来ると確信し、懐夢を修行の場に留まらせるようにしたそうだ。霊夢は驚きながらも藍に紫に会わせるよう抗議したが、藍は「懐夢は無事だ。紫様の元でちゃんと修行に励んでいる」と言い、話した事と実際にやっている事が違う事に対して、頭を下げて謝るばかりで、紫に会わせてはくれなかった。何度言っても、紫は出てこなかった。
霊夢は後悔した。やはり紫に預けたのは間違いだったと思った。
修行の場がどこなのか聞いていなかったし、藍に聞いても教えてくれなかったから懐夢が今どこでどんな修行をさせられているのかわからない。紫の話によれば、博麗の巫女に施される修行を凝縮したものを受けさせるというが、博麗の巫女の修行はとても険しいもので、自分ですら何度も逃げ出したくなるような内容だった。……まぁあれは師匠が本当に嫌な人だったから逃げ出したくなったのだが、それでも、修行内容自体はかなり厳しいものだ。それを懐夢が受けているというのだから不安で仕方がない。今頃、修行が嫌になって神社に帰りたがっているのではないだろうか。だけど、紫に帰してもらえず、苦しんでいるのではないのだろうか。
そう思ったが、霊夢は同時に、懐夢は意外と大丈夫なんじゃないかとも思った。
懐夢は意志が強く、一度やると決めたら最後までやりきろうとするし、例え身の程知らずだと罵られても物事を成し遂げようとするし、何より物事が上手になれたり、知識が得られる事に楽しみを覚える頑張り屋だ。だから、一般人がきついと悲鳴を上げるような紫の修行にも楽しみを感じながら、自分のように強くなろうと必死に頑張っているかもしれない。
それに紫が「貴方には才能がある。修行すれば博麗の巫女と並ぶ事が出来るくらいに強くなれる」と言った時、紫の目は嘘を吐いている目ではなく、封印の地で八俣遠呂智と懐夢の関係性を話した時や、大宴会の時に「貴方は奇跡の巫女よ」と言った時のような真実を告げている目だった。懐夢に類稀な才能があるのは本当の話で、紫はそれを開花させようと懐夢を修行に取り組ませ、懐夢もまた紫の力を借りながら自分の中に眠る才能を開花させようと必死になって修行に取り組んでいるのではないだろうか。そして修行を終えて帰ってきた時には、自分と共に戦って異変を解決できるくらいになっているのではないか。
どんなに考えても、真実はわからないし、藍に聞いても「懐夢は無事だ。紫様の元でちゃんと修行に取り組んでいる」の一言しか返ってこない。霊夢は懐夢の身を心配しながらも、懐夢の修行が終わり、懐夢が帰ってくる日を待ち続ける事にした。八俣遠呂智の時のような、巨大で危険な異変が起こらない事を祈って、我が家である博麗神社で。
懐夢が帰ってこなくなってから一週間が過ぎたある日の午前中。
霊夢は神社を歩き回り、部屋を一つ一つ見て回った。廊下、寝室、風呂場、台所、居間、本堂と見回っても、道具や家具があるだけで、自分以外の人の姿はない。どこを探しても懐夢はおらず、音をたてないようにしてみればまるで森や林の中のように森閑としているし、どの部屋もがらんとしている。……それだけじゃない。朝起きても寝室にある布団は自分が使っているものだけ。食事の時だって作る料理は一人分だし、使う皿だって一人分だ。更には洗濯物も一人分しか出ないし風呂の時だって自分が入ってそれで終わりだ。寝る時も、寝間着を着て布団を敷いても、隣に誰もいない。どんな時も、自分一人だけだ。
居間に戻ってきて、霊夢は壁にもたれかかり、重い溜息を吐いた。
「また……元の生活に戻っちゃってる」
懐夢が来てからというもの、霊夢は毎日の生活が楽しくて仕方がなかった。休日に神社を歩き回れば、必ず懐夢の元に辿り着く。神社のどこかに必ず懐夢がいる。料理をする時も、食べる時も懐夢と一緒だし、寝る時だって懐夢と一緒だった。
だけど、今はどこを探しても懐夢はいない。外に探しに出ても、どこにいるのかわからないし、預かっている紫も全く何も言わないし、そもそも紫は会おうとすらしてこない。
ようやく八俣遠呂智を倒して、懐夢の身体の異変を終わらせて、仲直りして、また一緒の生活が始まったと思ったというのに、また離れ離れになってしまった。生活は、懐夢が来る前の生活に逆戻りしてしまった。いや、ここまで来ると離れ離れにさせられたのではないかという気すらしてくる。
霊夢は片手で目を覆って、壁にもたれかかったまま腰を落とした。
「全く……なんだってのよもう……」
懐夢が来る前だったら、こんな事になってもなんとも思わなかっただろう。自分は母に死なれてからずっと一人でこの神社で暮らしてきたのだから。一人暮らしなど、慣れっこだ。しかし、懐夢が来てからというもの、懐夢が長期間神社にいないのがとても寂しく感じるようになった。懐夢は普段寺子屋に出かけているし、休日はチルノ達と遊びに出かけている。けれど、夕方になればちゃんとこの神社に、自分の元に帰ってくる。だから、懐夢が出かけて神社にいないのには寂しさを感じる事など無かった。
だが、懐夢は今回何も言わずに紫の元に消えた。いなくなる前日にはちゃんと帰ってきていたのに、突然帰ってこなくなり、預け元の紫とも音信不通になった。そして今も、懐夢がどこにいてどんな修行をしているのかわからない。いや、そもそも本当に懐夢は修行をしているのかそのものが疑わしい。
「やっと一緒になれたのに……また……なんで……」
どうしてこうなるんだろう。
ようやく一緒にいてくれる子と出会えたのに、その子は異変を抱えていて、異変の元凶が自分からその子を取り上げて、異変を解決してその子を取り返して、家族と言えるくらいになったのに、また違うのが来て自分からその子を取り上げる。
どうしてみんな、こんな事をするのだろう。
「なんで……なんで……」
思い切り息を吸い、吸い込んだ空気を溜息として吐き出したその時だった。
背中から胸にかけてとても強い痛みが走った。まただ。また、時折来る胸痛が来た。
「いッ……ぐぅ―――――――ッ!!」
霊夢は両手で胸を押さえてその場に蹲った。
前に来たのは懐夢と喧嘩した時で、その時の痛みが過去最悪だったが、どうやら今回はそれを超える最悪の痛みのようだ。心臓を爪を立てた両手で掴まれ、胸のいたるところを鋭い牙を生やした得体のしれない何かに噛み付かれ、そのまま噛み千切られそうになっているかのような痛みに霊夢は蹲ったまま横に倒れ、のた打ち回った。その際に柱に足をぶつけたような気がしたが、激痛が身体のあらゆる感覚を麻痺させているのか、痛みを感じなかった。あまりに強い痛みに呼吸が出来ず、胸の中で息が詰まり、声が出なくなった。
そしていつもの耳鳴りが始まった。頭の中で無数の蝉が一斉に鳴き声を発しているかのような強い耳鳴りに頭が揺さぶられ、目の前がぐらぐらと揺れ、金色と銀色と白金色の光がちかちかと輝いているを見た途端、意識が遠のいてきた。まるで八俣遠呂智に身体を噛み砕かれそうになった時のように、死が迫り来たような感覚だった。
この発作的な痛みが来る時、自分は既に危険な病に侵されていて、更にその病は末期段階に来ており、このまま病魔に喰われて死ぬのではないかと思う事が度々あった。しかしその度に痛みは遠のいて、自分が死ぬ事はなかったから、単なる思い過ごしだと思って無視してきた。だが今回は違う。まるで、八俣遠呂智に噛まれて腹に穴を開けられた時のような痛みが胸に来ている。こんな痛みが来るのは、病気以外にありえない。
「わたし……死ぬ……?」
いつのまに、自分はこんなに危険な病にかかっていたのだろう。永琳に診てもらっても健康そのものと返されるくらいに隠れるのが上手な病気に、自分はいつかかっていたのだろう。そしてこのまま、病に喰われて死ぬのだろうか。こんなところで、こんな歳で……。
そう思ったその時だった。耳鳴りに紛れて別な物音が耳へ飛び込んできた。畳の上を素足で歩いているかのような足音だった。こんな時に誰の足音だろうと思った直後、足音は徐々にその大きさを増し、やがて自分のすぐそばを歩いているかのような大きさになって、止まった。
「だれ……?」
霊夢は激痛によってぼんやりとした意識のまま目を開き、霞んだ視界で周りを見回そうとした。その時、目の前に黒い人影がある事に気付いた。男か女か、子供か大人かは視界がぼんやりとしてしまっているせいでわからないが、人影は自分の目の前で腰を落としこちらの顔をじっと見ている。それ以外に何かをしている様子は確認できない。
霊夢は絞り出したかのような小さな声で、目の前にいる人影に声をかけた。
「あん……たは……?」
直後、耳鳴りに混ざって人影から声が聞こえてきた。
「……時……ました。さぁ、花を咲かせましょう」
耳鳴りのせいでうまく聞き取れなかったが、最後に花を咲かせましょうと言ったのは聞こえたし、その母親のような穏やかな声色から、声の主が女性である事がわかった。目の前にいる人は、女性だ。
それに花を咲かせると言えば、風見幽香の能力だ。こんな事を言うという事は、目の前にいるのはあの幽香なのだろうか。
と思いきや、もう一度声が聞こえてきた。
「痛いでしょう。でもだいじょうぶ。痛みは……よくなるわ。
貴方は……秩序……者。死には……いわ」
声を聴いていると、痛みが徐々に良くなってきて、視界が若干戻ってきて、耳鳴りが止んだ。
直後、それまで自分を眺めて声をかけるしかしてこなかった人影がこちらに手を差し伸べてきて、掌を頬に当ててきた。しかし、頬に触れるその手は温かくなく、まるで氷のように冷たかった。
自分の頬に手を当てる人影は、もう一度優しく声をかけてきた。
「そろそろ世界に、種を撒きましょう。
種は花になるまでちょっと時間がかかるけど、それでもあまり長い間ではないわ。
……痛みにやられて疲れたでしょう。花が咲くその時まで……ゆっくりおやすみなさい。私のかわいい霊夢……」
声を聴いて、霊夢は思考を巡らせた。
この目の前にいる女性は、誰なのだろう。手は氷のように冷たいのに、声と言葉はまるで母親のように暖かい。そして何より、自分の事を娘を可愛がるように『私のかわいい霊夢』などと言っている。自分に向けてそんな事を言い出す者の存在など、この幻想郷では覚えがない。自分の面倒を見てくれている紫だってそんな事は言わないし、花という言葉をよく口にする幽香だってそんな事は言わないし、こんな事だってしない。この目の前にいる女性は、本当に誰なのだろうか。
その時、霊夢の頭の中に光が走った。
いた。自分を娘のように可愛がってくれる人が一人だけ。
この幻想郷で、自分を初めて、愛してくれた人。大好きで、仕方がなかった人。
しかし、その人はもうとっくの昔に……。
そう考えるより先に、霊夢は口を動かして、呟いた。
「お……かあ……さん……?」
もう一度、声が聞こえてきた。
「ほぉら、早くおやすみなさい。もう寝る時間よ。貴方は疲れているんだから、休まないと。
早く、おやすみなさい。霊夢……私のかわいい霊夢……」
その時、霊夢は驚いた。今、女性が口にした言葉は、自分が眠れない時に先代巫女である母がよく口にしていた言葉だ。そして、その言葉を知るのは自分と母以外に誰もいない。という事はやはり、目の前にいるこの女性は……。
霊夢は少しだけ顔を上げて、目の前にいる人物の顔を見ようとした。しかしその直後、強い眠気が襲い掛かってきて、視界が一瞬にして先程のようにぼやけて、意識がもうろうとしてきて、目の前に何があるのかわからなくなった。
そしてそのまま、大して考える事も出来ず、霊夢は眠りの中へ転がり落ちて行った。
第二期、開始。




