第六話
風呂から上がると、雨は止み、夜になっていた。
風呂に入ったおかげで、雨に濡れて冷えた体はすっかり暖まった。
搾ると水が出るほど雨に濡れてしまった服は洗濯に出し、別な服を着て脱衣所から出て居間に戻ったが、そこに懐夢の姿はなかった。
どこに行ったのだろうかと目と耳を凝らしてみると、台所の方から音が聞こえてきた。それはまるで、何かを調理しているような音だった。
不思議がって台所にいってみると、台所の明かりが点いていて、奥の方にはこちらに背を向けて立っている懐夢の姿があった。先程から聞こえてきていた謎の音は今、懐夢から聞こえてくる。
一体何をしているだろうかと、霊夢が台所の中を歩いても、懐夢はこちらを向かない。どうやらこちらに気付いていないようだ。
そっと近付いて、懐夢の肩越しに覗き込んで、霊夢は声を出さずに驚き、目を剥いた。
懐夢は、昨日人里の肉屋で買ってきた鹿の肉を調理していたのだ。調理台に俎板を敷いてその上に肉を置き、片方の手で肉を押さえながらもう片方の手に持った包丁ですとん、すとんと音を立てながら肉を切って行っている。それも、一口サイズに。
更に周りをよく見てみると、調理台のあちこちに調理器具や皿が並んでいた。
竈の方を見てみれば、竈には火が付いていて、上には味噌汁か何かが入っていると思われる鍋と香霖堂で霖之助からもらった蒸し器が乗っている。どうやら何かを煮て、何かを蒸そうとしているようだ。
霊夢は心底驚いた。
まさか、これを全て懐夢が一人で用意したのか。
(この子……何を作ろうとしてるの……?)
その懐夢は今、肉を切る事に一心不乱になっていて、真後ろに霊夢が居る事に全くと言っていいほど気付いていない。声を掛ければ気付きそうだが、それではなんだか面白くない。
その時、霊夢に小さな悪戯心が沸いて出た。……少し、懐夢を驚かしてやりたい。
そうだ、耳に息を吹きかけてやればさぞ驚くのではないだろうか。
霊夢は悪戯を考え付くと、早速懐夢の耳元を見た。しかし、懐夢の耳は、男の子にしては長く、艶々とした茶色の髪の毛の下に埋まってしまっていて、見えなかった。もし、ここで髪の毛をいじって耳を出させれば、その時点で気付かれてしまうだろう。
仕方がない。このままやるしかない。きっと耳に息は届くはずだ。
「……ふッ」
懐夢の耳のある場所に向けて、鋭く息を吹きかけた。
「うわひゃおぅ!!?」
懐夢はびくりと飛び上がった。そして、ようやく霊夢の存在に気付き、包丁を俎板へ手放して、目を見開いて霊夢を見つめた。
「ご、ごめんなさいッ!」
懐夢の顔は、蒼褪め、怯えていた、勝手に調理場を使い、勝手に買ってきた鹿の肉を調理していた事を叱られると思ったのだろう。
「いやいや、別に怒りに来たんじゃないわよ。謝らなくていいわ。それよりも……この台所の有様、全部貴方が用意して並べたの?」
懐夢は頷いた。
「うん。霊夢がお風呂に入ってる間に、用意しちゃおうって思ってたんだけど……やっぱり僕一人じゃ、ご飯の準備を早く終わらせる事なんてできなかったよ」
霊夢は少し呆れてしまった。
また懐夢は一人でこれだけの仕事を終わらせようと無理をしていた。
その心がけは確かに誉めれたものだが、短時間で一人でやってしまえるほどの量ではない。身の程知らずもいいところだ。
しかしその反面、自分の為に夕餉を作ろうとしてくれていたのは、純粋に嬉しかった。
「またそんな無茶をして……でも、ありがとうね」
霊夢は懐夢の頭に手を乗せ、そのまま髪の毛をくしゃくしゃとするように撫でて、すっと手を離した。
「さ、夕ご飯の準備の続きをしましょうか。さっきまでとは違って、さっさと終わるはずよ」
懐夢は笑みを浮かべて頷いた。霊夢はそれを見ると、早速懐夢と共に夕餉の準備を進めた。
*
霊夢は食事と食後の後片付けを終えて風呂を沸かし直して、懐夢を入れた後、寝室の前の縁側に出て夜空を眺めていた。
あれだけの大雨を降らせた先程の雲は去り、空は満天の星空となっていた。
懐夢と共に作った蒸し料理は、とても美味しかった。
香り、味付け、食感、のどれをとっても、自分の作った料理を超えていた。
懐夢曰く、あの料理も懐夢の母親の手料理なんだそうだ。……まぁそんな事だろうとは思ったが。
と、その時霊夢の頭にある事が過った。懐夢と過ごして二ヶ月となるのに、まだ懐夢から懐夢の両親の事や出身地の事を詳しく聞いていない。
別に、聞く事を忘れていたわけではない。実はこの二ヶ月の間、何度か懐夢から両親の事や出身地の事を詳しく聞きたいと思った事があった。けれど、その度に、それを抑え込んだ。
懐夢はきっと、両親を失った事で、心に大きな傷を負ったに違いない。
共に過ごしていて、時折塞ぎ込んだり、落ち込んだり、泣いたりする懐夢の様子を見るだけで、それはよくわかった。
しかしそれは、霊夢や魔理沙、チルノ達や慧音などといった者達と会い、接する事によって、日に日に塞がりつつあった。懐夢が泣いたり、落ち込んだり、塞ぎ込んだりしなくなったからだ。きっとこのままいけば、完全に心の傷を塞がらせる事が出来るだろうと、霊夢は思い続けていた。
けれど、もし興味本位で両親と故郷の事を聞いてしまったら、懐夢の心の傷はまた開いてしまうかもしれない。そうなれば、また懐夢は塞ぎ込んだり落ち込んだり泣いたりするようになってしまうかもしれない。
霊夢はそうなる事を拒み、ずっと懐夢の両親や出身地に対する興味を抑え込んでいた。そうなってしまえば、自分は面倒に感じるし、懐夢は余計な辛さを味わう事になる。
だが、それから二月も経った。懐夢の心の傷は、この二月で塞がったはずだ。
今なら……聞けるかもしれない。懐夢の両親はどんな人だったのか、出身地はどんなところだったのかを。
「霊夢ー」
と思っていた矢先、居間の戸が開く音と同時に懐夢の声が聞こえてきた。
振り返ってみれば、当然そこにいたのは懐夢。風呂から上がったばかりのようで、顔が少し火照り、髪の毛が少しだけ濡れていて、明日着る服を身に纏っていた。
「あら、もう上がったのね。火の始末、してきた?」
懐夢は頷き、霊夢の脇に並ぶように縁側に座った。
中庭からは、まるで合唱のような虫のさざめきが聞こえてきていた。冬を凌ぎ、春を迎える事が出来た虫達が、祝い事でもしているかのようだ。
ぼんやりと夜の中庭を見ながら懐夢は呟いた。
「虫達が鳴いてる……どこに行っても変わらないんだね。こういうのだけは」
それを隣で見ていた霊夢は、覚悟を決めた。
今だ。今なら聞ける。今……聞こう。
「……ねぇ懐夢」
「なぁに?」
「そろそろ……貴方の両親の事と、貴方の故郷の事、聞かせてくれないかしら?」
懐夢は霊夢の方を見て黙った。
霊夢はまずったか?心の傷を開いてしまったか?と息を呑んだ。
「あ……いや、別に言いたくなければいいのよ。ただの興味本位だし、思い出させて、辛い思いさせちゃったら元も子もないから……」
「ううん。話すよ」
言った事を撤回しようとする霊夢に懐夢が口を挟むと、霊夢はきょとんとした。
まさか、話してくれるとは思わなかったからだ。
「え? いいの?」
懐夢は頷いた。
「うん。いつか、霊夢が聞いてくるんじゃないかなって思ってたんだ」
懐夢は、霊夢がずっと聞きたがっていた両親の事、出身地の事を話し始めた。
懐夢の出身地は『大蛇里』と呼ばれる、山の森の奥にひっそりと存在した大きな村だった。
山の森の奥にあるので、周辺では珍しい山菜や茸が採れ、春になると村に流れてる川に雪解け水が流れてきて、川の水が美味しくなる。
森の奥って言っても日の光が届かないわけではないので、日が差せば木々が緑色に光り、とても美しい村だった。
大蛇里には、名前のとおり昔から沢山の蛇の妖怪が住んでいて、人間も沢山住んでおり、人間と妖怪は分かち合っていて、人間と妖怪が結婚する事なんて当たり前であったし、懐夢のような半妖の子供も普通だった。
皆がいつまでも平穏で暮らしていられる、そんな里だったと懐夢は語った。
「でも、大蛇里の人達みたいな人と妖怪の関係が、この幻想郷じゃ普通だっていうのには正直驚いたな。半妖の人も沢山居て……吃驚したなぁ」
その横で、霊夢はきょとんとしていた。今懐夢が言った大蛇里という名前に心当たりがある。いや、その村の事を知っている。
大蛇里。それは以前、天狗の里の新聞記者、射命丸文が編集し幻想郷中に出版している文々。新聞に書かれていた事のあった村だ。文々。新聞によると、大蛇里とは様々な人間の里から少し離れた山の中にある森の深いところにある里で、人間と妖怪が共存している里であった。
しかし何故か、周りの妖怪や人間から妙に毛嫌いされ、ついにはその里を嫌う妖怪と人間によって構成されたよくいうカルト集団よって襲撃され、やがて滅ぼされて、里の人間も妖怪も全員滅んだという。霊夢はこの新聞を見て、初めて大蛇里という存在を知った。
この件は紫にも伝わっていたらしく、この事件が文々。新聞に載せられ幻想郷中にばら撒かれた後すぐに霊夢の目の前に紫は現れ、この事件を何故防がなかったと霊夢を叱った。
しかし霊夢は紫に叱られようともこの一件は知らなかったのだから仕方がなかったのだと思っており、何の罪悪感も感じておらず、この事件そのものを完全に忘れ去っていた。
(この子は両親どころか、住むところすら失ってここに来たんだわ)
懐夢の語りを聞いている最中、霊夢はある疑問を感じた。
何だ、忌む理由も何もない普通の村ではないか。妖怪と人間が暮らす、普通で豊かな村ではないか。だのに何故、そんな村は妙な連中に滅ぼされたのだろう。その村に、何かあったのだろうか。他から忌まれるような、何かが……。
だが、それをただの子供だった懐夢が知っている可能性はゼロだろう。他から忌まれるような村の重要な秘密を、懐夢のような子供が知っているはずがない。……一先ずこの疑問は捨てよう。今は懐夢の話を聞くのが先決だ。
「そう……あ、そういえば貴方のご両親だけど……行商人だったそうね?」
懐夢は頷いた。
「うん。おとうさんの名前は矢久斗、おかあさんの名前は愈惟。おとうさんは蛇の妖怪で、お母さんは人間だったんだけど、二人とも幼馴染で小さい頃から仲が良くて……年月が経って……結婚したんだってさ。
二人とも行商人の子供だったらしくて、二人が結婚した後、おじいちゃんとおばあちゃんから行商の引き継ぎを任されたんだって。二人はそれを拒まず、結婚した後も色んな所へ旅をして、更に仲を深めたんだってさ。そしてそのうちに……半妖の僕が生まれた。
でも、おとうさんは蛇の妖怪だったから寒さにめっぽう弱くて、冬になると冬眠しちゃうんだよね」
懐夢は苦笑した。
別に、妖怪が冬眠すると言うのはこの幻想郷では珍しくはない。
実際、霊夢の友人の一人の中に冬眠をする妖怪がいたので、霊夢はその話を聞いても全く珍しがらなかった。
「その間はずっとおかあさんと僕だけ。でも、全然寂しくなかった。いつもおかあさんがいてくれて、色々教えてくれたから。料理、洗濯、家事、物の足し引き掛け割り、礼儀、人と接する時の態度とか色々」
懐夢は微笑した。
「おかあさんは、僕がいい事をすれば褒めてくれて、悪い事をすれば叱ってくれて、落ち着きがあって、穏やかで、優しい人だった。おとうさんもおかあさんと似たような性格だったけどどこか落ち着きがなくて、怒ると結構怖い人だった。二人とも……大好きだった」
懐夢は、全て語り終えたらしく、黙り込んだ。
霊夢は今の懐夢の話を聞いて、前から思っていた事は本当の事だったと確信した。
懐夢はやはり、両親から愛されて育ったのだ。両親から、たっぷり愛情をもらって……。
「そう……それが貴方の故郷と両親の事なのね……」
霊夢は溜息を混じらせながら軽く呟いて、中庭の方を眺めた。
懐夢は語り終えた後、霊夢の方を向いたのだが、その時ふと、胸の中にある気持ちが浮かび上がった。
そういえば、霊夢は自分が来るまで一人でこの神社に暮らしていたそうだ。
それは何故だろうか?
霊夢には、おとうさんやおかあさんといった両親がいないのだろうか?
自分が一番欲しかった、兄弟や姉妹はいないのだろうか。
……聞いてみたい。
「そういえば、霊夢にはおとうさんやおかあさんはいないの?」
尋ねた途端、霊夢は目を見開いた。
霊夢が突然目を見開いてこちらを見てきた事に少し吃驚して、懐夢は小さく口を開いた。
「……聞いちゃ……悪かった……?」
霊夢は黙っていたが、やがて目を元に戻して再度中庭の方を見た。
「……聞きたい?」
懐夢は黙って頷いた。
「……わかったわ。身内の事を話してくれたお礼に……私の事も話したげる」
霊夢は夜空の方へ目を向けて話し始めた。
自らの過去を。