第三十一話
エピソード・文
紫と文を除いた一同は大天狗のその顔を見て驚いた。
大天狗の顔は、髪の毛と瞳の色を除けば文に酷似していたのだ。
それを見た霊夢は口をパクパクさせながら大天狗に声をかけた。
「貴方が……大天狗……?」
大天狗はゆっくりと頷いた。
「えぇ。私はこの天狗の里を治める者、大天狗です」
大天狗が微笑むと、紫も同じように微笑んだ。
「相変わらず、元気そうね」
大天狗は紫と目を合わせた。
「そちらもお変わりないようで何よりです」
直後、大天狗はずっと口をパクパクさせている霊夢と目を合わせ、声をかけた。
「それで……何のご用でしょうか。博麗の巫女」
霊夢は大天狗の言葉で我に返り、ぶるぶると首を数回横に振った後大天狗に答えを返した。
「そうだったわ。八俣遠呂智の封印の」
霊夢が言いかけたその時、文が割り込むように言った。
「あぁっと!もうこんな時間か!編集部に行って記事のまとめをしないと!」
文は自分の腕時計を見てそう言うと、入口へ戻ろうとした。
その時文の言動に気付いた大天狗が文を呼び止めた。
「文」
文は振り返らずに立ち止まった。
大天狗は表情を変えずに文に言った。
「……無理だけはしないようにする事」
文は頷いた。
「わかってます。大天狗様」
文はそう言うと御殿を出て行った。
一同は出ていく文をじっと見ていたが、やがて文の姿が見えなくなると大天狗の方へ向き直した。
大天狗は軽く溜息を吐いた後、穏やかな声で言った。
「皆様、お座りください。立ちっぱなしではお辛いでしょう」
紫が表情を和らげた。
「それもそうね。皆、座りましょう」
紫の声に大天狗を除いた一同は頷き、数歩前に出た後畳に座り込んだ。
一同が座ると、大天狗は先頭に座っている霊夢と再度目を合わせた。
「それでは、改めてお聞きいたしましょう。如何なる用で、私の元へやってきたのでしょうか」
霊夢は大天狗に先程言いかけた事を再度言った。
「八俣遠呂智の封印の地へ続く扉を開くための鍵を借りに来た」
大天狗は少し意外そうな表情を浮かべた。
「ほぅ……八俣遠呂智の封印の地に行かれるのですね。それは如何ほどの理由があってですか?」
紫がそれに答える。
「この子は幻想郷を守りし者、博麗の巫女。幻想郷の古い歴史についてもっと触れるべきだと思って連れて来させたのよ。……まぁ、これは童子の提案なんだけれどね」
大天狗は紫と目を合わせた。
「なるほど、大賢者の提案に乗ってここまで来たというわけですね」
霊夢は頷く。
「えぇ。まぁ私自身もかつてこの幻想郷を支配しようと目論んだ魔神、八俣遠呂智の封印の地を見てみたいと思ってたから、丁度良かったわ」
直後大天狗は表情を真顔に戻した。
「しかし、八俣遠呂智の封印の地への扉を開くには我ら大賢者の持つ鍵が三つ必要になります。私が持っているのは一つだけですが、貴方は他の鍵を持ち合わせているのでしょうか?」
紫がそれに答える。
「心配ないわ。ここに私の持つ鍵と童子の持つ鍵がある。そこに貴方の持つ鍵を加えれば八俣遠呂智の封印の地の扉は開かれるわ」
紫が懐から二つの鍵を取り出して大天狗に見せると、大天狗は少し意外そうな表情を浮かべて、すぐに苦笑を浮かべた。
「流石八雲紫ですね。抜け目がないと言いますか、準備万端と言いますか」
紫はふふんと言って笑んだ。
直後、大天狗は霊夢と再び目を合わせた。
「博麗の巫女よ。これから八俣遠呂智の封印の地に向かわれるのであれば、話しておかなければならない事がございます」
霊夢は腕組みをした。
「何よ。もしかして封印の場所は強力な妖怪とかに守られてるとか?」
大天狗は「半分正解です」と言って苦笑いした。
大天狗によると、八俣遠呂智の封印の地は妖怪の山の奥地に存在しており、広大な神殿となっているという。そしてその神殿はかつての博麗の巫女が作り出したという式神によって守られているらしい。式神達は使命に忠実なため、もしも神殿の中に侵入者が現れようものならば容赦なく襲いかかってくるというが、大天狗はここは心配ないと言った。何故ならば、式神達が襲うのは大賢者と博麗の巫女以外の存在だからだという。
それを聞いた魔理沙は顔を青褪めさせて大天狗に言った。
「お、おいちょっと待て!それじゃ私達はどうなるんだよ!?式神に狙い撃ちにされるじゃないか!」
大天狗は首を傾げた。
「えぇ?もしかして貴方達もついて行くつもりになっていたんですか?」
魔理沙、早苗、懐夢は一斉に首を傾げた。
事情をよく理解できない三人に、紫は少し冷たく言った。
「残念だけど貴方達はここまでよ。八俣遠呂智の封印の地は幻想郷の大賢者と博麗の巫女しか立ち入りを許されていない場所。これ以上貴方達が付いてくことは許されないわ」
それを聞くや否、魔理沙と早苗は噛み付くように紫に怒鳴った。
「な、なんだよそれ!!」
「じゃあ私達何のためにここまで来たんですか!!」
怒鳴る二人に、大天狗が言った。
「紫の言うとおりです。もし博麗の巫女に付いて行こうものならば、貴方達は神殿に入り込んだ時点で式神達に狙い撃ちにされ、あっという間に排除されてしまう事でしょう」
魔理沙はキッと大天狗を睨んだ。
「させるかよ!立ち向かって来るなら倒すまでだ!」
紫は溜息を吐いて魔理沙に答えた。
「そうはいかないと思う。神殿を守る式神は八俣遠呂智を封印した巫女が作ったものだから、貴方達で倒せるような相手ではないわ。まぁ、幻想郷最強の存在である霊夢ならばあれらを退ける事が出来るかもしれないけれど」
大天狗が続く。
「紫の言うとおりです。八俣遠呂智の封印の地へ向かう事は博麗の巫女に任せて、貴方達はここにいてください。まぁ、別に帰ってもらっても構いませんよ」
魔理沙、早苗、懐夢は残念そうな顔をして頷き、そのうち魔理沙が呟いた。
「帰らない。お前に聞きたい事あるんでね」
早苗が続く。
「私も貴方に尋ねたい事があるので、残ります」
懐夢が続く。
「僕も残ります」
それらを聞いた霊夢は溜息を吐いた。
「物好きな人々だこと。そして、封印の地に行くのは私だけかぁ……」
紫が笑みを浮かべて霊夢に声をかける。
「いいえ。私も行くから二人よ」
霊夢は意外そうな表情を浮かべて紫と目を合わせた。
「えぇっ。あんた大丈夫なの?式神に狙い撃ちにされるんじゃない?」
紫は少し呆れたような表情を浮かべる。
「貴方聞いてなかった?式神は幻想郷の大賢者を攻撃しようとはしないのよ。だから、私が行ったところで、彼らが動き出す事は無いわ」
霊夢が「あ、そうか」と呟いた後、紫は立ち上がった。
「さてと霊夢。さっさと封印の地に行くわよ。場所は私が知っているから、案内してあげるわ」
「あ、ちょっと待って頂戴」
紫は不思議そうな顔を浮かべて霊夢を見た。
霊夢は大天狗と目を合わせた後、口を開いた。
「封印の地に行く前に胸の中の疑問をすっきりさせたいから、大天狗、答えて頂戴」
大天狗は穏やかな声で尋ね返した。
「なんでしょうか。答えられる範囲で、お答えいたしましょう」
霊夢はずっと疑問に思っていた事を打ち明けた。
「……あんたは、何で文と同じような顔の形をしてるの?」
大天狗の顔から穏やかさが消えた。
魔理沙が続いた。
「あ、私もそれ気になってたぜ」
早苗がさらに続く。
「私も気になっていました」
懐夢が最後に言う。
「僕も気になってました。大天狗さんはどうして、文ちゃんと同じような顔をしてるんですか?」
大天狗は軽く俯いた後、顔を上げた。
「……逆にお尋ねいたします。貴方達は、文と仲良くしてくださっていますか?」
大天狗の頓珍漢な質問に一同は首を傾げ、そのうち魔理沙が言った。
「いやいや、私達の質問に答えろって。というか、何でそんな事言うんだ?」
その時、霊夢は大天狗を見てある事を閃き、大天狗に言った。
「もしかしてあんた達って……!」
大天狗はゆっくりと頷いた後、静かに答えた。
「お気付きになったでしょう。私と文は親子……文は私の娘にございます」
紫と大天狗を除く一同は大天狗の言葉に飛び上がるように驚いた。
そのうち、霊夢が焦りながら言った。
「あ、あんたが文の親!?」
早苗が続く。
「えぇぇ!?貴方が、あの文さんのお母様!?」
魔理沙が続く。
「なんだってぇ!?文が大天狗の娘!?」
最後に懐夢が言う。
「大天狗さんが、文ちゃんのおかあさん……!?」
大天狗は頷いた。
「そうです。あの子は、私と先代大天狗の間に生まれた天狗です」
その時、霊夢はまた閃いた。
大天狗が文の親ならば、文の異常な行動の原因を知っているかもしれない。文の異常な行動の理由や原因を尋ねるならば、おそらく今しかないだろう。
「そうなの……なるほど、把握したわ」
霊夢は落ち着きを取り戻し、静かに尋ねた。
「じゃあ大天狗、文の親であるあんたに尋ねたい事があるわ」
大天狗は表情を変えずに答える。
「何でしょうか?あの子に関する事でしょうか?」
霊夢は頷き、文の異変の事を全て話した。
「八俣遠呂智の話を聞いた途端、いつもの元気が消え去って怯え出して、その場から逃げるように去っていったと……」
大天狗の言葉に霊夢は再度頷き、その話を初めて聞いた魔理沙と早苗は霊夢に尋ねた。
「ほ、本当なのかそれ?」
「あの文さんが、本当にそんな事に?」
霊夢は振り向き、また頷いた。
「えぇ。昨日神社で童子さんから話を聞いた途端にね。萃香と童子さんと懐夢と一緒に見てたけど、かなり吃驚しちゃったわ」
懐夢は頷いた。
「文ちゃん、八俣遠呂智の話を聞いたら顔を真っ青にして、八俣遠呂智の事を『白の魔神』って呼んでた」
魔理沙と早苗は懐夢を見て、そのうち魔理沙が口を開いた。
「白の魔神……?」
早苗は何かに気付いたような表情を浮かべた。
「白……白って言えば、復活した八俣遠呂智の鱗の色だって、童子さんが……」
霊夢は大天狗に問いをかけた。
「大天狗、あんたならわかるでしょ?文がどうしてあんなになってしまったのか……」
魔理沙、早苗、懐夢もまた大天狗を見た。
大天狗は目を閉じて俯き、一つ溜息を吐くと顔を上げて目を開け、一同を見た。
「……長い話をする事になりますが、お時間の方はよろしいでしょうか?特に博麗の巫女、貴方は封印の地に向かい、帰ってきてから話を聞いた方が……」
霊夢は腕組みをして、呆れたような表情を浮かべた。
「さっきの話聞いてなかった?胸の中の疑問をすっきりさせてから封印の地に行きたいからあんたにこうやって尋ねてるんだけど。それに、時間ならまだたっぷりあるわ」
大天狗は霊夢以外の一同を見た。
「他の方々はいかがでしょうか?」
魔理沙は軽く手を振った。
「私は大丈夫だぜ。毎日暇なんでな」
早苗は表情を変えずに言った。
「これから予定はないので、大丈夫です」
懐夢は少ししどろもどろした後、言った。
「僕も、魔理沙と早苗さんと同じです」
大天狗は紫と目を合わせた。
紫はその眼差しで大天狗の言いたい事を悟り、微笑んだ。
「私も大丈夫よ。終わるまで待つから、お話しなさい」
大天狗は目を閉じて軽く深呼吸をすると、目を開き、同時に口を開いた。
「わかりました。お話しいたしましょう」
大天狗は静かに語り始めた。
今から千年ほど前、私は全国各地を飛び回って情報を集め、集めた情報を新聞として発行する記者をやっており、ある時全国の天狗達を総べる大きな力を持つ存在、『大天狗』と結婚いたしました。私は最初、天狗の中で一番偉い存在である夫との生活にしどろもどろしてしまいましたが、徐々に慣れ、愛し合い、やがて子供を授かりました。
生まれ来た子供は私達と同じ黒髪で、私に似た顔立ちで、夫と同じ赤茶色の瞳をしている女の子でした。これを見た私達は、私達の持つ様々なものを受け継いだ子であると一目で理解し、その子に『文』という名を付けて、精一杯愛情を注いで育てました。
文はすくすくと活発で元気な子に育ち、八歳になって翼を手に入れた時には歓喜してバサバサと羽ばたかせながらあちこちを高速で飛び回ったりしました。無理もありません。あの子は天狗達の中で最も移動速度の速い私の子だったのですから。
でもあの子は、空を飛べる喜びのあまり遠くに行ったりして、暗くなっても帰って来なくて、ようやく帰ってきたと思ったらすぐに寝てしまって、私達をよく困らせました。けれども夫と私はそんな文の成長が嬉しくして仕方がありませんでした。
それに文は、大天狗である夫が大好きな子でした。何かあれば夫に報告し、甘えたくなれば私よりも夫に甘える。よく甘えてくる我が子に夫は少し困っていたようですが、「我が子に愛されることは決して悪くなどない」と言って文を甘やかましていましたし、私もちっとも甘えてこない文に少し困りはしましたが、文を可愛がりました。
ですが、文が十六歳の身体になって百年が経過したある日、私を心底驚かせるような事を言いました。
「私、母様の手伝いがしたい」
私の手伝いがしたいという事は、新聞記者の仕事を手伝うという意味です。
私は最初は、「貴方にはまだ早い」と言って文の頼みを跳ね除けましたが、その後何度も何度も頼み込んできて、全く引き下がる様子を見せなかったので折れてしまい、仕方なく文に仕事を教え、手伝わせてみました。
そこで、私は思わず唖然としてしまいました。
文の手際は非常に良く、次々与えられた仕事を終わらせ、ついには文にやらせるには難しいと思っていた仕事すらも、簡単に終わらせてしまったのです。
私はここで気付きました。
「文には新聞記者の才能がある。それも、かなりの上質なものだ。育て上げれば、自分よりも優秀な新聞記者になってくれるかもしれない」
私は新聞記者として働く文の姿を思い描くと胸が高鳴り、文に新聞記者の仕事を教え始めました。文は私を嫌がらずに聞き、与えられた仕事を次々こなしていきました。
そして全てを終えて、夫が返ってくると真っ先に夫にその事を報告しました。
その話を聞くと、夫は文に「頑張ったな」と言ってその頭を撫でました。
その時の文の表情を見て、私は文が何のために働いているのか、気付きました。文は褒められるのが大好きで、褒められたいがために仕事を頑張っていたのです。
それに気付いてからは、私は文が仕事を終える度に文を誉めるようにしました。
そして、文の度重なる成長が何よりも楽しみになった。
仕事は忙しいけれど、一家全員幸せで、そしてずっと続いて行くのだと私は思っていました。
……しかしある時、その幸せが引き裂かれる出来事が起きました。
文が人間で言う十六歳の身体になってから数百年が経過し、私達一家が後に幻想郷と呼ばれるようになるとある盆地に引っ越し、盆地が幻想郷という世界になって文の父がその世界を守る者、大賢者に選ばれた二年後のある日、幻想郷に突如として白い鱗を身に纏った蛇にも似た巨大な魔神が現れました。
私達一家も含めた幻想郷の民が突如現れた魔神に戦々恐々としていると、その魔神は一度空に向かって吼えました。その直後、奇妙な妖力が魔神の身体より発せられ、まるで桶に流れる水のように幻想郷全体に広まり、その妖力を浴びた妖怪達は発狂し、人間と発狂しなかった仲間を襲い始めたのです。狂った妖怪達はまるで魔神に従っているかのように、見る見るうちに幻想郷を血みどろの沼地へと変えていきました。
数々の妖怪や天狗達が発狂し暴走する中、幸いにもこの私達はそうなりませんでしたがが、大賢者である夫は他の大賢者と幻想郷を守る存在『博麗の巫女』と共に白の魔神に戦いを挑む事を決意し、一度私達の元を去って白の魔神へ挑んでいきました。残された私と文は父の知人の大賢者が作ってくれた結界の中に入り込み、そこで夫の帰りと白い魔神が倒されるのを待つ事にしました。
その時、結界の中に隠れた私達に、私達の友人や知人である妖怪達が次々と襲いかかってきました。幸い、結界が迫り来る妖怪を全て弾いてくれたので、私達が傷を負う事はなかったのですが、結界の中から見える知人や友人達が血に狂い、牙を剥き出しにして自分達に喰いかかろうとする光景はまるで悪夢でした。
……その時でした。何百年も生きて様々な経験をしてきたはずの文が、まるで幼子のように泣き出し、私に抱き付いてきました。文の身体はぶるぶると震え、泣き声はとても悲痛なものでした。それを聞いただけで、文が怯えきっている事に気付けました。
私は文にこの悪夢のような光景を見せないまいと、その目を隠し、私自身も目をぎゅっと瞑ってその光景を見ないようにし、じっと夫の帰りを、白の魔神が倒れる瞬間を待ち続ける事にしました。何も見ないように、何も感じないようにして、ただじっと。
翌日、白の魔神の断末魔が聞こえてきて、私はようやくそこで目を開きました。
するとどうでしょう。幻想郷中に広まっていた魔神の妖力が消え去り、私達に襲いかかってきていた妖怪達の全てが意識を取り戻して元に戻っているではありませんか。私は戸惑いました。「何が起きたの」と。
その直後、ふと空を見上げるとこちらに向かってきている何かが見えました。それは、喜びの笑みを浮かべながら飛んでいる夫でした。
夫は、すぐに私達の元へ駆けつけてきて、結界を解くなり私達を抱き締めてきました。そして、言いました。
「あの白の魔神が倒れた。博麗の巫女の手によって白の魔神は倒されたのだ」と。
夫のその言葉を聞いて、私は歓喜を感じました。
あの悪夢を生み出す存在がついに倒された。ようやく、平和が戻ってきたと。
私はその歓喜を早速文に伝えようとしました。けれど、文はどんなに話しかけても震えたままで私の胸から動こうとはしませんでした。
私達はこの事に違和感を感じ、何度も何度も話しかけましたが、文は震えたまま答えてはくれませんでした。でもその時、私は気付きました。
文の心は、あの悪夢によって深く傷付いてしまった。そのせいで、文は悪夢が終わった今でもあの悪夢の中に閉じ込められて怯えているような状態になっているのだと。
文がどんなに言っても動かないので、私達は仕方なくそのままの状態で家に帰り、私は文を布団に寝かせ、夫に文の状態について話しました。
夫は言いました。
「文がまだ悪夢に閉じ込められているのであれば、我々の手で悪夢の中から出してやる他無い」と。
これには私も賛成でした。文が恐怖に取り付かれて怯えてしまっているならば、それを解きほぐせるのは親である私達だけしかいない。
私達は文の心に残った深い傷を癒してやるべく、毎日何度も文に呼びかけ、接し、触れ合いました。時には近所の妖怪達、文の友人達の手を借りながら、何度も何度もそれらを繰り返しました。
その努力が報われたのか、文の状態は日に日によくなっていき、一年後には完全に元に戻ってくれました。そして、文は元に戻るや否、また私の仕事を手伝い始めました。私達は文の完全な回復に歓喜し、今まで以上に文を愛すようになりました。
悪夢の中から自分達の元へ戻ってきてくれたたった一人の娘を、大事に、大事に愛しました。
ようやく一家に幸せが戻ってきたと、私は思いました。
しかし、その一年後。文の心の傷を無理矢理開き、更に掻き毟るような出来事が起こりました。
あの白の魔神を封印した博麗の巫女が突如として妖怪の山を襲い、住まう妖怪を次々神の力を持って浄化し、殺し始めたのです。あの白の魔神を倒し、幻想郷の平和を取り戻してくれた巫女が妖怪達を殺し始めた事に、妖怪達は大混乱を引き起こした。巫女は、その混乱している妖怪達の命すらも無慈悲に奪って行きました。
そのうち、博麗の巫女は私達の元へ到達し、力の弱い文を最初に浄化しようとしました。文に博麗の巫女の手が迫ったその時、夫が文を庇い、博麗の巫女の浄化の術を文の代わりに受けました。
博麗の巫女の術を受けた夫の身体は瞬く間に浄化されて崩壊。夫は、天狗を総べる大天狗は瞬く間に死んでしまいました。しかも、私達の目の前で。
私達は唖然として動けなくなってしまいました。だって、夫が、父が目の前で死んだのですから。
博麗の巫女はこれを好機と思ったのか、動けぬ私達襲いかかろうとしましたが、その時駆けつけてきてくれた夫の知人であろう大賢者が特殊な術を使って博麗の巫女を妖怪の山とは違う場所へ飛ばし、私達を救ってくれました。生き残った妖怪達と私達は九死に一生を得たのです。
しかし、私達はあまりのショックにその場を動く事が出来ませんでした。夫が、文からすれば父が、呆気なく博麗の巫女によって浄化され、崩壊し、絶命してしまった。その事が信じられなかったのです。
けれどそのうち文が動きだし、数分前まで父だった床に散らばる雪のように白い灰を手に取り、じっと眺めましたが、その直後糸がプツンと切れたように文は狂ったように泣き叫び出し、大好きな父だった灰を何度も何度も掴もうとしました。私はいても経ってもいられなくなり文を抱き締めました。
文は胸の中で暴れ、私から逃れようとしましたが、私は文を離さないようにしっかりと抱き、何とか文の動きを止めようとしました。やがて文は暴れるのをやめました。しかし、文はその直後大きな声を出して泣き出し、その泣き声を聞いた途端私の心に夫の死という悲しみが突き上げてきてしまい、私も声をあげて泣いた。
お葬式は妖怪の山に住む全ての妖怪達が集まってくれ、盛大に行われました。
その日から十日後。二人だけとなった私達親子の元に幻想郷の大賢者の一人である金髪の女性の妖怪がやって来ました。妖怪はやってくるなり私に言いました。
「あの博麗の巫女は我々の手によって封印され、もうこの世界へ現れる事は無くなった。しかし、博麗の巫女の手により、幻想郷の大賢者大天狗は死してしまった。次なる大天狗が必要で、その次の大天狗には貴方が最も向いている。是非とも大天狗になってほしい」と。
私は驚いてしまいましたが、やがて冷静になって考えました。
確かに夫の死によりこの幻想郷からは天狗を総べる大天狗がいなくなってしまった。統率者を失った里の天狗達は混乱を引き起こし、まともに行動できないでいる。この混乱を鎮めるには、次なる大天狗が必要だ。誰かが、大天狗にならなくてはならない。
しかし、その座に私が就いていいのだろうか。夫のついていた座に、天狗を総べる者という座に、自分のようなただの新聞記者が、就いてもいいのだろうか。それに、自分が大天狗になってしまったら新聞を書く暇が無くなり、新聞業は潰れてしまう。
私は思い悩みましたが、その考えを読み取ったかのように女性の妖怪が言いました。
「貴方には亡くなった大天狗と同じくらいの力が備わっていて、しかもこの幻想郷の妖怪の中で五本指に入るほどの移動速度と情報力と頭脳を持っている。貴方こそ、次の大天狗になるべき存在だ」と。
それを聞いた私はまた少し考えましたが、結論は明白でした。私は夫の仕事を見る事もあったので夫が具体的にどんな仕事をしているのか知っている。他の天狗達が知らないような大天狗の仕事の事も全て知っている。そして、移動速度は私が一番早い。夫の跡を継げるのは、私だけ。
私は決意すると女性の妖怪に答えました。
「自分が亡くなった夫の跡を継ぐ。大天狗になる」と。
それを見た女性の妖怪は頷き、早速私を幻想郷の大賢者の集う場所へ案内しようとしました。
その時、家の奥から文が飛び出してきて、文は女性の妖怪に掴みかかり、噛み付くように言いました。
「父を殺したあいつはどこだ。あいつを殺したい。あの博麗の死神は今どこにいる」と。
女性の妖怪は答えませんでした。文は答えない妖怪に怒気を剥き出しにして何度も妖怪に答えを請求しました。私はその時文に「やめなさい!!」ときつく怒鳴りつけました。文はその時ようやく女性の妖怪から手を離し、引き下がってくれました。
その後、私は文と共に妖怪に連れられて幻想郷の大賢者の集う場所へ案内され、そこで大天狗の名を授かりました。
私が大天狗になるのと同時に、発行していた新聞は打ち切られる事になりましたが、そこで文が挙手し、「自分が新聞を継ぐ」と言って新たな新聞発行者になり、「文々。新聞」へ名前を変えて発行を始めてくれました。夫が死した事によって起こった問題は全て解決されたかに思えました。
けれど、その時私は文の異変に気付きました。
文は父の命を奪った博麗の巫女そのものに強い憎しみと恨みを抱くようになっていました。博麗の巫女という言葉を聞いただけで激しい怒気を顔全体に浮かべて、怒り出す。そして博麗の巫女を復讐対象と見做し、見かけただけで襲いかかるようになっていました。反対に、八俣遠呂智の話をされれば途端に怯えたような表情を浮かべて弱々しくなり、その場から逃げだすようになり、日々悪夢にうなされるようになっていたのです。
……文の心は、明らかに不安定な形に変わってしまっていました。
「……以上です」
大天狗はゆっくりと溜息を吐き、話を終えた。
霊夢達は文の過去に何度も驚き、今も尚呆然としていた。
そのうち、魔理沙が口を開いた。
「……文が……そんな目に遭っていたなんて……」
早苗が続くように口を開く。
「友達が狂う様を見せつけられて……博麗の巫女に愛するお父様を目の前で殺されて……ッ酷過ぎます……!」
大天狗は俯いた。
「悲劇の連続はあの子の心にとても大きなトラウマを残し、それによってあの子の心は歪な形になってしまいました。今はだいぶ良くはなったのですが……完全な回復には至っていませんし、今もまだ、時々その時の事を思い出してしまって苦しむのです」
懐夢が瞳を揺らしながら言う。
「でも文ちゃんは……いつでも明るくて……笑ってて……!」
大天狗は顔を上げて首を振った。
「それも全て心に圧し掛かるトラウマから逃れるためです。明るく振る舞い、笑顔を絶やさない事によってトラウマから逃げようとしてるのですよ。仕事の取材とかに熱心なのも、全部トラウマから逃れるため……そうでもしなければトラウマが蘇り、底知れぬ恐怖と復讐心に飲み込まれてしまう……」
霊夢達は驚いた。文のあの振る舞いは全てトラウマから逃れるためのものだとは、思っても見なかった。
続けて、霊夢が尋ねた。
「じゃあ聞くけど、文、前に童子さんから八俣遠呂智と博麗の巫女の話をした時はなんともなかったし、話そのものを知らないって言ってたわ。あれは何でなの?」
大天狗は霊夢と目を合わせた。
「あの子は数百年の間に湧き上がる恐怖や怒りを抑え込む事が出来るようになったのです。恐らくその時はそれをやって、知らないふりをしたのでしょう。けれど、そんな事が連続で出来るわけがありません」
その時懐夢が目を見開いた。
「もしかして昨日文ちゃんが反応を示した理由って!」
大天狗は頷いた。
「抑え込もうとした恐怖が抑え込めないほど大きくなってしまい、出てしまったと言ったところでしょう。あの子の心は、とても歪で脆い形になってしまっていますから、ちょっとの事で崩れてしまいます」
その時、紫が俯いて小さく呟いた。
「それは………むも同じね……」
紫の呟きは霊夢の耳に届き、霊夢は振り返って紫と目を合わせた。
「今なんか言った?」
紫はハッとして手を振った。
「いいえなんでもない。ただの独り言だから気にしないで」
霊夢は「そうなの」と呟いて大天狗に視線を戻した。
大天狗は震える瞳で一同に言った。
「……厚かましいお願いをするようですが、どうか、あの子と仲良くしてやってください。それに、あの子の出す新聞もできるだけ読んであげてください。嘘ばっかり書いているかもしれませんが……」
霊夢は顎に手を添えた。
「……なるほど……毎日忙しく飛び回ってネタ探しをし、新聞を作ったりするのは心に隙間を作らないためだったのね。隙間を作ってしまえば、そこにトラウマが流れ込んでくる……か」
霊夢は笑みを浮かべて大天狗を見た。
「わかったわ。これからは文の新聞、目を通すようにするわ。そして……いつも頑張ってるわねって褒めたげるわ」
魔理沙が続く。
「私もそうするぜ。あいつの新聞を読んで、あいつとこれまで以上に仲良くする。そうすりゃトラウマもどんどん小さくなってくだろ」
早苗が続く。
「かつて貴方達がやったように、文さんの心を私達も癒しましょう。そうしていれば、いつかトラウマを克服して、恐怖と復讐心に怯える日々から抜け出せる日が来るに違いありません」
懐夢が最後に言った。
「文ちゃんを元に戻せるように努力します。そうすれば、もっと楽しく話し合えるようになるはずだから」
大天狗は一同を見回した後、頭を下げた。
「ありがとうございます……皆様……」
霊夢は頭を下げる大天狗を見て、苦笑いした。
「顔上げて頂戴。幻想郷の大賢者がそんな様を見せるもんじゃないわよ」
大天狗は顔を上げて苦笑を浮かべた。
直後、霊夢は立ち上がった。
「さぁてと。疑問もすっきりしたし、八俣遠呂智の封印の地、いくかぁ」
「でしたら、この鍵をお受け取りください」
大天狗は立ち上がり、霊夢の目の前まで歩くと懐から一本の鍵を取り出し、霊夢に差し出した。
霊夢はそれを受け取り、懐に仕舞った。
「これで、扉が開くのね。よし、紫行くわよ」
霊夢が声をかけて出口へ向かうと、紫は笑みを浮かべて立ち上がり、その後を追って出口へ向かった。
その時、魔理沙、早苗、懐夢も立ち上がり、そのうちの魔理沙が呟いた。
「さてと。私達も行くとするか」
霊夢は振り返って魔理沙を見た。
「え、どこ行くのよ」
魔理沙はニッと笑った。
「文々。新聞の編集部。文に会いに行くんだよこれから」
霊夢はその答えを聞いて、思わず微笑みを浮かべた。
「そうなの。私も後で行かないと」