第二十三話
香霖堂回。
午後の授業が始まった寺子屋。
今日の授業は、最も難しい算数で、学童達はひーひー言いながら慧音の授業を受けていた。
しかしその中の一人で、尚且つ算数を得意としている懐夢は問題を解きながらもちらちらと隣を見ていた。
そこは、友であるリグルの座る席だが、今そこにリグルの姿はない。
リグルは住む森を焼かれてから、一回も街にも寺子屋にも姿を現していない。それが続いて、今日で四日目だ。
あまりに長い事姿を現さないものだから、学童達の中にはもうリグルは現れないのではないだろうかという不安が広がっていた。勿論、懐夢の中にも。
(リグルの質問……ないな)
算数が少し苦手なリグルは、授業中隣にいる懐夢に問題の回答について尋ねる事が多かった。
懐夢はリグルの尋ねを断ったり嫌がったりはしなかったのだが結構な頻度で続いたため、もはや習慣の一つになりつつあった。
(リグル……)
今頃、どこで何をしているのだろうか。
いつになったら戻ってきてくれるのだろう。
それとも、もう戻ってこないのだろうか。
「はぁ……」
不安が重なったのか思わずため息が出てしまった。
「懐夢、ここの問題を解いてみろ」
「ふぇッ?」
突然慧音に声を掛けられて、懐夢は我に返った。
その様子を見て慧音は軽く溜息を吐いた。
「どうした。心ここに在らずか?」
懐夢は思わず顔を赤らめた。
昨日の騒動と皆の怪我による欠席のせいで授業が大幅に遅れている。
だから、慧音はいつもよりもハイペースで授業を進めている。余計な事を考えている暇など与えてくれない。
今声をかけてくれたからよかったものの、もし時慧音が声をかけてくれなかったら置いていかれていたところだったろうし、もう声をかけてはくれないだろう。……その時は完全に置いて行かれてしまう。
それだけはごめんだし、それに慧音の授業の内容は全て筆記帳に書かねばならない。何故ならば、今欠席しているリグルが戻ってきた時、進んでしまっている授業に困らぬようにするためだ。
懐夢はぶるぶるぶるっと頭を振ると慧音に言った。
「大丈夫です。授業を続けてください」
慧音はわかったと言い、改めて黒板の方を向き、問題とその答えや説明を書き始めた。
懐夢はリグルの事を一先ず考えないように頭の中を整理すると、筆記帳へ向いて筆を動かした。
かるく一時間半ほど経つと、慧音は突然授業はここまでと言った。
学童達は突然の授業の終了に驚いたが、慧音曰く今日リグルが欠席なため、あまり進まないでおく戸の事。その後慧音は学童達に気を付けて帰るよう指示し、教室を去っていった。
もっともきつい算数の授業から解放されたように学童達はぐてっと机にもたれ、懐夢は肩を数回回した後右手の指を左手で掴んで伸ばした。その時、関節がぽきぽきっと鳴った。
結構きつかったが、どうにか慧音の授業の全てを書き写す事が出来た。これならリグルが戻ってきた時、安心して授業を受けられるはずだ。
そう思った直後、チルノ達が懐夢の隣にやってきた。
「今日もリグルこなかったね」
懐夢はリグルの席を見た。
「リグル、本当にどうしたんだろう」
大妖精が不安気な表情を浮かべる。
「住居を失いましたからね……相当なショックを受けてしまって、立ち直れないのではないのでしょうか……」
ルーミアが人差し指を立てる。
「もしかして、住居探しに必死になってたりして」
チルノがおっと言ってルーミアを見る。
「それありえるかもね。今頃新しい家を探して幻想郷中を飛び回ってるのかも」
懐夢が最後に言う。
「何にせよ心配だな……本当に戻ってきてくれるのか、心配だよ」
ミスティアが笑んで懐夢に声をかける。
「大丈夫だよ。リグルはああ見えて結構強い子だから、必ず戻ってくるよ」
懐夢はそうかなぁと呟く。
その後、チルノが立ち上がって皆に声をかけた。
「さてと、思いの外授業が早く終わったからまだ時間たっぷりあるけど、何して遊ぶ?」
懐夢が苦笑いして答える。
「ごめん、僕は今日無理」
ルーミアがきょとんとした様子で言う。
「え?なんで?」
「今日は早めに帰ってきなさいって霊夢に言われてるんだ。何か用があるみたい」
チルノがほぇーと言う。
「そうなんだ。じゃあ、また明日だね」
「うん。それじゃ、僕帰るね。また明日ー」
「また明日ー」
懐夢が勉強道具を鞄へ仕舞ってその紐を肩にかけて立ち上がると、チルノ達に声をかけて寺子屋を出て街中の方へ歩いた。
そして街の中央付近まで来ると、賑やかな声があちこちから聞こえてきた。
懐中時計を取り出して文字盤を見てみると、針は午後二時半を差していた。
道理で、まだまだ街が賑やかなはずだと懐夢は思ったが、その時ふと今朝霊夢に言われた事を思い出した。
――今日はチルノ達と遊ばないで早めに帰ってきなさいね。貴方に用事があるから。
そういえば、用事とはなんだろうか。
霊夢が自分に頼み込む用事と言えば、お使いや掃除の手伝いだがどちらもついこの前やったばかりだ。また必要になったとでも言うのだろうか。
「まぁいいや。とにかく早く帰ろう」
そう呟いて街の出口の方へ懐夢は歩き、賑わいの中を抜けて、やがて街を出て、博麗神社へ続く森の中を軽く進むと神社へ続く石段の前に辿り着き、石段をあがり始めた。
石段の中腹辺りまで来たところで懐夢は立ち止まった。
上の方から、人が石段を降りるような音が聞こえてきたのだ。
誰かが石段を下りて、こっちに来ている。参拝客だろうか。
そう思ったその時、降りてくる人物の姿を見て懐夢は少し驚いた。
降りてきたのは参拝客ではなく、霊夢だった。
「霊夢」
「あら、懐夢。早かったわね」
懐夢は駆け足で石段をあがり、霊夢の目の前まで来て声をかけた。
「どうしたの?異変?」
懐夢が問うと、霊夢は首を横に振った。
「違うわ。ところで、今日はどうしたの?随分早上がりだけど」
「慧音先生が授業を切り上げちゃった。だから帰って来たんだけど」
懐夢の答えに霊夢は笑む。
「そう。なら丁度良かったわ。懐夢、一緒に来てくれない?」
懐夢は首を傾げた。
「どこに?」
「いいからいいから。付いて来て」
霊夢はそう言うと石段を下がり始めた。
懐夢は何だろうと思ったが、とりあえず霊夢の後を追って上がってきた石段を下がった。
そして、最後の段を降りると霊夢は上空へ飛び上がり、懐夢も追って上空へ飛び上がると霊夢は魔法の森の方へ飛び、懐夢もその後を追って飛んだ。
しばらく飛んでいると霊夢は懐夢に声をかけて降り、懐夢もそれに従って降りた。
霊夢の降りた先、そこは街にある店屋のような一軒家の前だった。
勿論懐夢はこんな一軒家を見た事が無かったので、首を傾げた。
「何ここ」
「ここが私の良く言う店屋の香霖堂よ。ここの店主さんに貴方を紹介しようと思って」
霊夢によると、ここが霊夢や魔理沙の会話の中に出てくる様々な道具を取り扱う店、香霖堂らしい。
様々な道具を取り扱っているのだから、どんな変わった店かと気になり、いつか行ってみたいと思っていたが、実際来てみれば想像していたものとは外見が全く違う、いたって普通の外観の店だった。
「ここが、香霖堂?」
「そうよ。もしかして紅魔館みたいなすごい建物を想像してた?」
霊夢に言われて懐夢は頷く。
霊夢は思わず苦笑いしてしまった。
「まぁいいわ。さ、中に入りましょう」
霊夢は香霖堂の入口へ近付き、その扉を開いた。
「……わ……ぁ……」
その後を追って中に入って、懐夢は思わず息を呑んだ。
店屋の中には、今まで見た事のない品物が大量に置かれており、どれもこれも嗅いだ事のない独特の匂いを放っていた。
外観は普通の店だったが、内観は想像すらもできなかったもので満ち溢れている店屋だった。
「やっぱ驚いたか。まぁ貴方にとっては見た事のない物ばかりだもんね」
目を輝かせながら店内を見回す懐夢に霊夢は声をかけたが、どうやら懐夢は品物を見るのに夢中になってしまっているらしく、答えも何も返さず目と首を一生懸命動かして店内を見回していた。
「やぁ、いらっしゃい」
その時、店の少し奥の方から声が聞こえてきた。
声の聞こえてきた方を二人で見てみると、そこには銀色のショートボブの髪型で、眼鏡をかけ、白と黒を基調とし洋服と和服の特徴を組み合わせたような服を身に纏い、頭の頂上付近からくせ毛が一本だけ跳ねあがっている、独特の雰囲気を持った男性が椅子に腰を掛けてこちらを見ていた。
「あら霖之助さん、こんにちは」
霊夢が一礼すると、懐夢は首を傾げる。
直後男性は懐夢の存在に気付き、声をかけた。
「おや?霊夢、そっちの坊ちゃんは?」
「あぁ、この子こそが」
霊夢が言いかけたその時、それに割り込むかのように懐夢は男性に一礼した。
「初めまして。百詠懐夢です」
男性はおやおやと言って笑んだ。
「なるほど、君が懐夢か。僕は森近霖之助だ。ここ香霖堂の店主をやってる」
懐夢はまた首を傾げた。
「僕のこと知ってる……?」
霖之助は頷いた。
「そうだ。そこの霊夢から結構な頻度で聞いていたからね」
懐夢は軽く霊夢を見た。霊夢は懐夢と目を合わせてにこっと笑った。
「ここに来るのは初めてのようだから、いろいろ見るといい。外の世界のレア物も結構あるからな。よければそのものについての説明もしてあげるよ」
霖之助が言うと、懐夢は一気に表情に喜びを浮かべる。
「本当ですか!?わぁい!」
懐夢は大喜びして、駆け足で店内を巡り始めた。
直後霊夢は霖之助に歩み寄り、懐夢を見た。
「あの子ったら、興奮してるみたい」
「そうだね。いかにも見た事のないものに囲まれて興味津々の九歳の子供って感じだ」
霊夢は霖之助を見た。
「あ、ごめん霖之助さん。懐夢の年齢間違えて教えてた」
これは後々気付いたのだが、懐夢は三月十三日生まれで、博麗神社に来てから一度誕生日を迎えていた。
懐夢が初めて来た時の年齢は九歳で、月は二月。今は六月だから懐夢は今十歳という事になる。
本人もいろいろあったせいで自分の誕生日を忘れてしまっていたらしく、霊夢が愈惟の日記を見つけて懐夢の誕生日を確認して話したところでようやく思い出してくれ、自分の年齢が十歳に上がっている事を自覚してくれた。
一方この霖之助には懐夢の年齢は九歳と教えてそのまま忘れてしまっていた。
霊夢は改めて霖之助に懐夢の年齢を教えた。
「ほぉ、十歳だったか。それにしても先程の礼儀はよく出来ていたな」
「えぇ。母親に厳しく躾けられてたみたいで、礼儀正しさとか人との接し方とかかなりよく出来てるわ」
霖之助は霊夢を見て首を傾げた。
「"母親に?"」
霊夢は頷き、霖之助に懐夢の家系の説明を施した。
それを聞いた霖之助は腕組みをしてうんうんと言った。
「なるほどね。父親が蛇の妖怪で冬眠してしまうからそ、その間は母親が彼を躾け、育てていたわけか」
霊夢は頷く。
「えぇ。あの子は父親よりも母親と長い事接してる。だから母親に随分思い入れがあるみたい」
霖之助は「ふぅん」と言って店内を見て回る懐夢を再び見た。
「それに、あの子"知る事"に喜びを感じる性質みたいなの」
霊夢が呟いた途端、霖之助は目を輝かせて霊夢を見た。
「それは本当かい!?僕の薀蓄をしかと聞いてくれる子なのか!?」
「多分ね。霖之助さんの長ったらしい薀蓄も喜んで最後まで聞くと思うわ」
霊夢が言うと霖之助は懐夢に早速声をかけた。
「懐夢、何か気になるものはないかい?あったなら持ってくるといい。それの説明を施してあげよう」
懐夢は霖之助の方を向いた。
「本当ですか?それじゃあ、これは何ですか?」
懐夢は近くにあった棚から一つの物を取って霖之助の元へ戻ってきた。
懐夢が持っていたものは掌に乗るくらいの大きさで黒く細い不思議な材質の道具だった。しかもその先端には枝分かれした柔らかい線のようなものが伸びている。更にその線の先には黒い道具と同じ材質で親指くらいの大きさの丸い道具が付けられている。
「あぁそれか。それは外の世界の物で非売品の"携帯型音楽再生機"だ。外の世界ではウォークマンというらしい」
霖之助の答えに懐夢は首を傾げた。
霖之助によると、この柔らかい線の先にある丸い道具を両耳に入れ、黒い道具を動かす事によって音楽を聞く事が出来るらしい。
そんな事が本当に出来るのかと懐夢は思ったが、霖之助が使い方を教えてくれたので、せっかくだから動かしてみる事にした。
「えっと、両耳にこれを入れて……」
懐夢は丸い線の先にある丸い二つ道具を両耳に付けてみた。
道具は耳の穴の入口にしっかりと乗り、懐夢はそのまま霖之助に教わった通りに黒い道具を操作した。
直後、黒い道具の中央辺りが光り、耳に音が聞こえ始めた。
「あれ……女の人の歌声と……色んな楽器の音がする……」
どうなっているのかと両耳に付けた道具を外したところ、音が止んだ。
「あれ。音が消えちゃった?」
もう一度道具を両耳に付けてみると、また音が聞こえてきた。
どうやら、この道具から音が聞こえてきているらしい。
「この道具から音がする……こんな小っちゃい道具から……え、なんで?なんで?」
霖之助は苦笑いして言った。
「構造は僕もよくわからないんだ。魔理沙の拾ってきた鉄屑の中に紛れ込んでいてね。用途だけわかったから使っては見たんだけど構造は全く分からないんだ。でもあの外の世界からやって来た早苗によると、この道具は外の世界じゃ一般的らしいよ」
懐夢はふぅんと言って聞こえてくる音を聞いていたが、何だか聞いていてもよくわからないので黒い道具を操作し、動きを止めると耳から道具を外し、霖之助の元を離れて、道具のあった棚へ道具を戻した。
霖之助はそんな懐夢を見てまた声をかけた。
「他に何か気になる道具はないかい?」
懐夢はきょろきょろとし、また何かを見つけるとそれを持って霖之助の元へ戻ってきた。
「この刀は何ですか?」
懐夢の持って来た物は、幻想郷ではありふれた刀だった。
霖之助はおぉっと言って懐夢の持ってきた刀を見た。
「良いものに目を付けたじゃないか。それはかの有名な神器、草薙剣だ。非売品だけどね」
霖之助に言われて懐夢は驚いた。
草薙剣とは、八俣遠呂智を封印した聖剣だ。
だが、懐夢がすぐに違和感を感じて首を傾げた。
なんで草薙剣が、八俣遠呂智を封印した聖剣がこんな店にあるのだろう。
八俣遠呂智ほどの魔神を封じた聖剣ならもっとそれらしいところにあるはず。
……そもそも、これは本当に草薙剣だろうか。
自分の聞いた伝説では、草薙剣は日本刀ではなく新緑色の両刃剣だったはず。
刀の詳細が気になって仕方なくなり、懐夢はは霖之助に尋ねた。
「霖之助さん、これ本当に草薙剣ですか?」
霖之助は首を傾げた。
「本当に草薙剣かどうかだって?何故そう思うんだい?」
「草薙剣は新緑色の刃でしかも両刃の剣だったって話です」
「それは初耳だが……どこで聞いた話だ?」
「僕の故郷に伝わる伝説です」
「……どんな伝説か話してもらえるか?」
懐夢は近くに草薙剣の名を持つ刀を置くと霖之助に父より教わり、慧音にもチルノ達にも話した伝説を話した。
霖之助は終始驚いたような様子で聞き続け、話が終わった時には軽く溜息を吐いて顎に手を添えた。
「その伝説は本当なのか?にわかには信じがたいが……」
「本当よ」
その時、ずっと口を閉じていた霊夢が口を開いた。
「この子の言う伝説は本当のものよ。私、全く同じ伝説を先代巫女から聞いた事あるから」
霖之助と懐夢の視線が霊夢へ向き、そのうちの懐夢が尋ねた。
「霊夢のおかあさんもこの伝説を知ってたの?」
「えぇ。小さい頃と貴方くらいの時に何度か。あまりにインパクトの強い話だったから、よく覚えてるわ」
霖之助は驚いた様子を見せた。
「霊夢まで言うのか。なら嘘ではなさそうだね」
霖之助は懐夢から刀を受け取り、まじまじと見つめた。
「……という事は、この刀は一体なんだ?僕の持ってる歴史書には草薙剣だって書いてあったのに……」
霊夢は顎に手を添えて考えた。
この伝説は文献ではなく口伝なので、はっきり言って本物かどうかわからない。
けれど母はこんな嘘を言う人ではなかったし、母曰く師匠から教わった伝説だと言っていた。
自分は嫌いだが嘘を吐かぬあの師匠だ。恐らく、本物の伝説なのだろう。
……では、何故この伝説は人里の街には残っていないのだろう。
懐夢曰く寺子屋の慧音も知らなかったそうだし、チルノ達も興味津々で聞いていたが、誰も知らなかったと言う。
これほど重要な伝説がどうして人里の街には残っていなかったのだろう。
だが、その伝説に登場する草薙剣が霖之助の呼んだ歴史書の中に載っていたという事は、完全に消えてしまっているわけではないらしい。ある程度までは残っているがあまり知られていないか、または霖之助の歴史書のように一部が改竄されて歪んだ形で残っているか。そのどちらかだろう。
だとすれば、それは何故なのだろうか。何故、伝説そのものが無かった事にされているか、一部が改竄されてしまっているのだろうか。もしかしてこれには、何か他に広まってはならない理由でもあるのだろうか。一般の人間や妖怪に知られてはならない、何かがあるとでもいうのだろうか。
「この伝説……もしかして知られちゃならない何かがあるのかもしれないわね」
ふと呟いた霊夢を霖之助と懐夢は見る。
「どういう事だそれは?」
「詳しくはわからないわ。けれど、この伝説は知られたら拙い秘密を孕んだ伝説……そんな気がしてならないのよ」
霖之助はふぅんと言った。
「知られたら拙い秘密を孕んだ伝説か……どこかに文献でもないだろうか。この伝説が真実の物なのか知りたいところだな」
その時霊夢の頭の中に一筋の光が走った。
そうだ、紫だ。幻想郷を誕生時から知っている紫ならば、この伝説が本当の事のなのか知っているかもしれない。
「もしかしたら紫辺りが真実を知ってるかもしれない」
霖之助はあぁと言った。
「そうだな。様々な伝説を知るあの人ならば知っているかもしれないね」
「えぇ。後で聞きに行ってみる」
その時、霊夢はある事に気付いた。
霖之助に、ずっと頼みたい事があった事を思い出したのだ。
「そうだ霖之助さん。新しい服を仕立てあげてほしいんだけど」
霖之助はえぇっと言った。
「またかい?ついこの前仕立てあげてやったばかりじゃないか」
霊夢は首を横に振った。
「私の服じゃなくて懐夢の服。あの子が今着てる服は神社にあったお古だから、新しい服を作ってあげてもらいたいのよ。多分あれ、女の子用だと思うから」
霖之助は懐夢の服装を思い出して思わず笑った。
「確かに黒と青の組み合わせはいいかもしれないが、いつまでも女の子用を着ているのは問題だな。
わかったよ。あいつのための服を仕立てておいてやる」
「頼むわ。新しい服がもらえるとわかったらあの子も喜ぶと思うから」
直後、霖之助は表情を戻して霊夢に言った。
「そういえば霊夢、懐夢を街の散髪屋に連れて行ってないのか?懐夢の髪の毛、毛先が肩の辺りに達してたぞ」
霊夢はそれについて話した。
実は霊夢も懐夢に一度散髪屋に行かないかと言っていたのだが、懐夢はそれを断った。
本人曰くこのまま髪の毛を伸ばし続けたいらしい。
その理由はというと、「髪の毛を切ると頭が寒くなるから」らしい。
「なるほど、頭を寒さから守るために伸ばしているのか」
「えぇ。切る気なんかさらさら無いそうよ。今度髪の毛の結び方も教えてあげないといけないわ」
霊夢はそう言うと、懐夢の方を見たが、その時思わずきょとんとしてしまった。
先程までいた懐夢が姿を消している。
「あれ?懐夢どこ行った?」
「あれ、さっきまでいたのに……」
霖之助と二人で店内を見回したところ、すぐに懐夢の姿が見つかった。
懐夢はここから離れた位置に棚の前でじっと商品を見ていた。
どうやら、詳細を聞きたくなるような商品を探しているらしい。
それを見た霖之助は思わず苦笑いした。
「ははは。僕達の話が面白くなくて、途中で抜け出してしまったようだね」
霊夢も思わず苦笑いする。
「そうね。少なくとも今の話はあの子が面白いと思えるような話ではなかったわね」
直後、懐夢が棚から商品を取り出し、手に持って霖之助の元にやって来た。
「霖之助さん、この四角い箱みたいなの何ですか?」
「ほほぉ。如何にもなものを持って来たな。それは携帯型ゲーム機というらしくてな。早苗によると外の世界ではニンテンドー3DSと呼ばれているらしい。それも魔理沙がくれた鉄屑の中に紛れ込んでいた」
*
二時間後、霖之助の薀蓄を散々聞いて懐夢は満足した様子で霊夢と共に香霖堂を出た。
知らない事をたくさん知れてご機嫌な懐夢に霊夢は声をかけた。
「どうだった?」
懐夢はにっこりと笑みを浮かべて答える。
「楽しかった!また来たい!」
「でしょう。何日に一回新しい道具を仕入れるみたいだから、その都度来てみるといいわ」
霊夢の一言に懐夢は目を輝かせた。
その時霊夢は表情を少し険しくして、懐夢に言った。
「懐夢、先に帰っててくれるかしら?」
懐夢はきょとんとする。
「え、なんで?」
「ちょっと行かなきゃならない用事が出来たのよ。悪いけど、先帰っててくれる」
霊夢が懐夢の目を見て言うと、懐夢は頷いた。
「わかった。先に帰ってるね」
懐夢はそう言うと上空へ飛び上がり、博麗神社の方へ飛び立っていった。
しばらくすると霊夢もまた上空へ飛び上がり、懐夢の姿が無いのを確認すると、ある方向へ向けて飛び立った。
そして霊夢はある程度飛ぶと、ある場所で降りた。
そこは、この幻想郷の妖怪の大賢者の一人である八雲紫の家の前だ。
紫の家の前は相変わらず森閑としており、夕方であるせいなのか橙や猫達の姿も確認できなかった。
しかし、家の方を見てみれば窓から明かりが見えたため、家の中が無人ではない事は確認できた。
きっと、紫もいるだろう。
「……あ」
霊夢は紫の家の入口に向けて歩き出そうとしたが、すぐに立ち止まった。
――彼は貴方にとって疫病神よ。これ以上懐夢と一緒にいたら、貴方は後々絶対に不幸になる。でも今ならまだ間に合うわ。今の内の縁を切って彼を博麗神社から追い出しなさい。
貴方は絶対に、彼の齎す厄災に勝つ事は出来ない。乗り越える事なんてできない。
貴方は……の……わい子だから。
……不意に、前にここに来た時紫に言われた事を思い出した。
紫に会ったらまた似たような事を言われるのではないかの思ってしまい、気が引けてしまった。
また同じような事を言われるくらいならば紫の家になど入りたくない。
「……やっぱりやめておこうかしら」
「何がやめておきたいの?」
霊夢は背後からの声にびくっと反応を示した。
何者かと思って背後を見てみればそこには、スキマから上半身を覗かせてこちらを見ている紫の姿。
「ゆ……かり……なんで……!?」
紫は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「家の前から貴方の霊力を感じたものだから私に会いに来たのねと思って待ってたのに一向に来ないからこちらから出向いたのよ。それで、何の用事?」
霊夢は紫と目を合わせた。
「……八俣遠呂智の伝説、知ってる?」
霊夢が尋ねると、紫は目を丸くした。
「八俣遠呂智の伝説ですって?」
霊夢は頷いた。
「えぇ。その伝説に登場する草薙剣を霖之助さんのところで見たんだけど、全然違うものだったわ」
「全然違うもの?それは何と比べてなの?」
「母さんから聞いた伝説とよ。母さんの話した伝説では、草薙剣はとてつもない霊力を持つ新緑色の両刃剣。霖之助さんのところにあった草薙剣はちょっとの霊力を持つただの刀だったわ」
霊夢は続けて先程香霖堂で思った事を紫に話し、何故八俣遠呂智の歴史が街に残っていないのか、または改竄された形で残っているのかを尋ねた。
「幻想郷の根本に関わりそうな伝説がどうして人里の街に残っていないのか、そしてこの話は本当か否か……ね」
「えぇ。貴方ならわかるでしょ。これが本当の話なのか、与太話なのかくらい」
紫は表情を険しくして答えた。
「……本当の話よ。しかも、知り合いにこの話の詳細とか八俣遠呂智の事とかよく知る人がいる」
霊夢は驚いた。
「やっぱり本当の話だったのね……それにそんな事を知ってる人がいるの?」
「えぇ。知り合いっていうか、この幻想郷の妖怪の大賢者の一人よ」
霊夢はまた驚いた。
「大賢者の一人か……どこに行けば会える?」
紫は少し上を見た。
「そうねぇ……多分今は旧地獄の旧都に新しく出来た温泉に行けば会えると思う」
霊夢はそれを聞いてこの前の出来事を思い出した。
旧地獄というのは、その名の通り、かつては地獄であった場所であり、今は鬼達の手によって地下大都市になっている場所だが、そこにこの前、温泉が湧いたという出来事があった。
有志による調査の結果、温泉が湧いた理由は妖怪の山の麓にある間欠泉センターの動力炉である古明地さとりのペット霊鳥路空が地底で力を出し過ぎて、旧都の更に地下に広がる地下水脈を刺激してしまい、地下水を湧出させてしまったからだという。しかも旧都の地底には灼熱地獄が広がっているため、空によって刺激された地下水脈より湧出た地下水は灼熱地獄の地熱でものの見事に温泉となっていたそうで、旧都のすぐ近くに温泉が湧き出た事に鬼達は歓喜し、瞬く間に温泉施設を作り上げたそうだ。
「あぁ、この前出来たあの温泉。そこにいるのね?」
「えぇ。多分ね。私明後日そこに行ってみようって思ってるんだけど、貴方もどう?」
霊夢はふと考えた。温泉は気持ちがいいし、そこで八俣遠呂智の伝説について知る人に会えたならば一石二鳥だ。行ってみる価値はある。
「温泉行きたがってる人そこそこ多そうだから、その人達も連れて行ってみるわ」
「そう。じゃあ明後日ね」
紫はそういうとスキマに戻り、スキマは閉じた。
「……あれ……懐夢の事何も言ってこなかった」
霊夢は少し意外がった。紫が懐夢の事について何も言わなかったからだ。
てっきり何か言われると思って身構えていたと言うのに。
もしかしてもう懐夢の事は気にしないようになったのだろうか。
「まぁいいや。帰ろう」
霊夢はとりあえずその事については考えない事にし、上空へ飛び上がると博麗神社目指して飛んだ。