第二話
「おーい! 霊夢いるか――――――!」
神社に帰ってきて居間でこれから何をするか考えていたところ、玄関の方から霊夢を呼ぶ声が居間へと届いてきた。
「霊夢、お客さん来たみたいだよ」
「えぇ。いつものがやってきたわね。懐夢、一緒に来て頂戴。貴方に紹介するわ」
霊夢は立ち上がると懐夢を連れて声の聞こえてきた玄関口の方へ向かい、やがて玄関口にやってきていた客と対面した。玄関口にやってきていたのは黒と白の二色で構成された洋服を身に纏い、黒い尖がり帽子を被った金色のセミロングの髪の毛の少女だった。
霊夢は軽く溜息を吐いた。
「やっぱりあんただったのね魔理沙」
「ちょっと用件があってきたぜ……って、ん?」
魔理沙は霊夢の隣にいる少年の姿を見て不思議がり、目を合わせると、呟いた。
「……霊夢お前……弟いたのか」
「違う」
「じゃあ従姉弟か?」
「違う」
「まさか! 子供か!!?」
「違うつってんでしょ」
適当なことを言う魔理沙に呆れた霊夢が魔理沙にとって見知らぬ少年である懐夢についての説明を魔理沙に施した。
「へぇ~っ。懐夢か、よろしくな。私は霧雨魔理沙だ。魔理沙って呼んでくれ」
「わかった。よろしくね魔理沙」
「おうよ!」
魔理沙は懐夢と笑い合った後、顰め面をして霊夢と目を合わせた。
「霊夢、水臭いぞ。何も神社に住ませなくても私のところに預けに来ればよかったじゃないか」
霊夢は溜息を吐いた後、腕組みをした。
「そんなわけにはいかなかったのよ。んで、私に用件って何? 用件あってうちに来たんでしょ?」
霊夢に言われて、魔理沙は首を横に振った。
「なんでもないよ。ただ遊びに来ただけさ。そしたらそれがいたわけ」
魔理沙は懐夢へ目を向ける。
「そうだ! 懐夢、スペルカードルールで弾幕ごっことかやらないか?」
聞いた事のない単語の登場に、懐夢が首を傾げる。
「スペルカード?」
魔理沙ではなく、霊夢が割り込んで答えた。
「スペルカードっていうのはこの幻想郷中にいる力持つ者全員が持つものでね、紛争や決闘にも仕えるし、護身術として使うこともできるものよ。勿論私と魔理沙も持ってるわ。これまで異変とかが起きた時にはそれで解決して来たわ」
霊夢は一通りの説明を懐夢に施した。懐夢は霊夢の話を興味深そうに聞き、やがて霊夢の説明が終わると、霊夢に問いかけた。
「それってどうやったら使えるようになるの?」
「えーっと……ようするにスペルカードって言うのは発動させたい、放ってみたい技の中身と名前を考えて、それを発動させるための契約書スペルとして扱うものよ。でも、貴方には無縁のカードよ」
言われた懐夢は「え?」と言って首を少し傾げた。
霊夢は懐夢の様子を見て懐夢が今抱いている疑問を悟り、答えた。
「「どうして必要ないの?」って顔してるわね。だって貴方は異変の解決をする必要も無いし、戦いの場に出る必要も無いもの。それにもし神社への獣道を通って街に行く時には妖怪を退ける札を持たせてあげる。以上の理由で、貴方がスペルカードを持つ必要は無いわ。持ったとしても宝の持ち腐れで終わるだけよ」
霊夢がきっぱりと懐夢に言うと、懐夢は「なんだぁ」と少し残念そうな顔をした。
「だから、気にしないでいいわ」
「……そう」
残念そうな表情を浮かべる懐夢に、魔理沙が声をかける。
「だけど、スペルカードはすごいものだぜ。今から見せてやろうか」
懐夢は顔をあげて目を輝かせる。
「いいの?」
「いいともさ。なぁ、霊夢も懐夢に見せてやれよ」
何で異変も何もないのにスペルカードを放たなきゃいけないのか、と霊夢は思ったが、スペルカードがどのようなものなのか見せないで必要ないんだと言っても全く説得力がない事に気付いた。懐夢からすればスペルカードは必要ないものだと教えるには、懐夢に直接スペルカードを見せ付けるのが一番だろう。
「わかったわ。せめて博麗神社に影響が出ないところに撃ち込んでみましょうか」
霊夢は居間へ戻り、壁にかけられている、自分が着ている防寒具を手に取り、玄関口まで戻ってそれを懐夢に無理やり着せると、懐夢と魔理沙を連れて神社の外へと出て、境内まで歩いたところで立ち止まった。近いと言えば近いが、比較的遠い位置に神社が見える。これくらいの場所で、何もない場所に向かって放てば、どこにも被害を出す事なく、懐夢にスペルカードを見せつける事が出来るだろう。
「さてと……ここからなら問題なさそうね」
魔理沙が待ってましたと言わんばかりの笑顔を見せつけて、不思議な模様の描かれた八角形の小さな箱を懐から取り出した。その箱の名はミニ八卦炉。香霖堂の店主、森近霖之助が魔理沙のために製造した魔法道具で、内部に魔力を入れる事によって火を起こす事の出来る道具だ。その火は鍋を煮る為の弱火、中火から山一つを消し飛ばしてしまうほどの大火まで出力を変える事が出来るうえに、内部から風を起こしたりも出来、更には開運や魔除けの作用もあるという優れものだ。
「それじゃあ、遠慮なく行かせてもらうぜ」
魔理沙はにぃっと笑って、懐から一枚のカードを取り出した。突然現れたカードに懐夢が首を傾げると、カードは瞬く間に光となって魔理沙の手に持たれているミニ八卦炉の中へと飛び込み、消えた。その現象に懐夢が驚こうとしたその瞬間に、魔理沙は叫ぶように宣言した。
「腰を抜かすなよ懐夢! 恋符「マスタースパーク」!!」
魔理沙が叫び声にも似た宣言の直後に腕を吐き出すと、魔力が込められたミニ八卦炉から七色に輝く極太のレーザー光線が轟音と暴風と共に発射され、遠くに見える山へと伸びた。暴風と轟音に襲われて、懐夢は後方へ吹き飛ばされそうになったが、そんな事も忘れて、目の前で八角形の箱から光線を発射する少女にくぎ点けになっていた。
そして光線の照射が終了すると、魔理沙は一息つき、呆然と突っ立っている懐夢へと声をかけた。
「今のが、私のスペルカードだぜ。中々すごい火力だろ?」
懐夢は何も言わずに、二回頷いた。魔理沙が懐夢の隣で腕組みをしている霊夢へ話しかける。
「よっし、次は霊夢だぜ」
霊夢は面倒くさそうに「はいはい」と言って、魔理沙と交代し、魔理沙のいた位置に立った。異変以外の時には使わないと決めていたスペルカードだが、魔理沙がスペルカードを懐夢に見せつけたというのに、自分だけ見せないと言うのは不公平だ。いや、不公平という気は感じていないのだが、もしここで放たなければ魔理沙が「不公平だ、不公平だ!」と文句付けてきてスペルカードを放つよりも面倒な事になりそうなので、放つしかない。
気怠さの残る身体を動かし、霊夢は懐から一枚のカード、スペルカードを取り出して、身構えた。
「懐夢、よく見ておきなさい。これが、私のスペルカードなんだから」
霊夢はそう言って、手に持たれているスペルカードに意識を少しの間だけ集中させた。直後、カードは魔理沙の時のように姿を光に変えて、霊夢の両手に吸い込まれるようにして消えた。かと思えば、霊夢の両手に小さな無数の光の珠が何処からともなく流れてきて、霊夢の掌の前で七色の輝きを放つ大きな光珠となった。魔理沙の時とは違う術の発現に懐夢が驚くと、霊夢は何もない場所に狙いを定めて、宣言した。
「霊符「夢想封印」!」
霊夢の大きな声による宣言の直後、霊夢の両手に形成されていた光の珠は解き放たれるように両手から離れ、霊夢が狙った場所へ猛スピードで飛来。霊夢の狙った場所へ辿り着くなり、破裂するように光の爆発を起こした。爆風と光を受けて魔理沙は少し目を覆ったが、懐夢は目を覆う事すら忘れて霊夢のスペルカードが炸裂する瞬間を見つめていた。
スペルカードの発動を終えて、霊夢は一息吐くと、魔理沙と懐夢のいる位置まで近付き、呆然としたまま突っ立っている懐夢に声をかけた。
「今のがスペルカードよ。何の異変に巻き込まれる事なく生きていく貴方には、必要のない代物だってわかったでしょう」
懐夢は何も言わずにゆっくりと俯いて、ぼそぼそと呟いた。
「今の……あれくらいの……」
「懐夢? どうかした?」
霊夢の声を受けて我に返ったのか、懐夢はハッとして顔を霊夢の方へ向けた。
「な、何でもない。何でもないよ」
霊夢はどうも腑に落ちないような気がした。今、懐夢は無理矢理表情を取り繕った。多分本人は気付かれていないと思い込んでいるようだが、顔を上げる前に何かを求めるような、何かを悲しんでいるかのような顔をしていた。まぁ、それがどうしてなのかはわからないし、知る必要もなさそうだ。
そう思っていると、魔理沙が懐夢の肩を軽く叩いた。
「よっし懐夢! せっかく外に出たんだ、このまま雪遊びするぞ! 雪だるまにするか? それとも雪合戦するか?」
いきなり話を切り替えられて懐夢は一瞬驚いたような顔になったが、すぐに笑顔になって頷いた。
「雪だるま作りたい」
「雪だるまだな! じゃあまずは雪玉からだ」
そう言って、魔理沙が雪玉を握り始めると、霊夢は神社の方へ身体を向け、歩き出した。スペルカードを見せるために外に出たのであり、魔理沙や懐夢と一緒に遊ぶためではない。用は済んでいるので、神社に戻ったっていいはずだ。そう思いながら数歩進んだその時、後方から声が聞こえてきた。
「あれ、霊夢どこ行くの」
懐夢の声だった。立ち去ろうとしている事が気になったらしい。振り返って、こちらを不思議そうに見ている懐夢と魔理沙に、霊夢は言った。
「私は貴方にスペルカードを見せるために外に出たのよ。雪遊びなら貴方達だけでやってなさい」
懐夢が残念そうな顔をする。
「えぇっ。霊夢も一緒にやろうよ」
霊夢は呆れたような表情を浮かべた。
「私はね、寒い時は家でごろごろしてる方が好きなのよ。子供みたいに外で遊ぶのは好きじゃない。だから、私は貴方達が遊び終わるまで神社の中で待ってるから」
「そんな、待ってよ霊夢」
呼び止めようとした懐夢に、魔理沙が声をかける。
「ほうっておけ懐夢。そうなった霊夢は梃子でも動かないから、言うだけ無駄だよ。私達は私達で、遊ぼうぜ」
懐夢は振り返って魔理沙の顔を数秒見た後に、ちらと霊夢の顔をもう一度見つめて、魔理沙の方へ視線を完全に向けて、頷いた。
「わかった。時間になったら、神社の中に戻るから」
霊夢は何も言わずに頷くと、視線をもう一度神社の方へ向けて歩き出した。雪を一歩ずつ踏みしめて神社の縁側で靴を脱ぐと、居間への入り口のあるところまで移動し、そこで靴を置き、戸を開けた。その途端、中から暖かい風が外の冷たい空気を吹き飛ばすように吹いてきて、霊夢は「ふふん」と笑んだ。炬燵も火鉢もそのままにしておいたから、部屋は暖かいままだ。慧音が懐夢を連れてくるまでは、昼寝をするつもりでいたから、再開するとしよう。霊夢はそう思うと、冷たい外とは比べ物にならないくらいに温かくて心地のいい居間の中へ入り込み、炬燵の中へと滑り込んだ。
先程と同じ温かさが身体を包み込むと、霊夢は微笑んで、目を閉じた。懐夢は魔理沙が一緒にいるから大丈夫だし、寝ていればその内魔理沙と懐夢は神社の中に戻ってくる。何も心配する事など、ない。
そう考えながら暖かさに包まれていると、意識が一気に遠くなり始めた。霊夢は横になって、座布団を枕代わりに頭の下に敷くと、もう一度ゆっくりと瞼を閉じた。そしてそのまま、眠りの中へと転がり落ちて行った。
*
「霊夢、霊夢起きて」
あまり聞き覚えのない声で、霊夢は眠りの世界から戻ってきて、目を開けた。最初の見えるのは天井かと思ったが、そこにあったのはついさっき神社に住む事が決まった懐夢の顔だった。ゆっくりと身体を起こして、軽く欠伸して目を数回手で擦った後に、眠そうな声で懐夢に言った。
「おかえりなさい。もう気が済んだ?」
懐夢が困ったような顔をする。
「気が済んだどころじゃないよ。もう夕方だよ、霊夢」
霊夢は寝ぼけ眼で壁にかけられている時計を見つめた。時刻を伝える時計の針は、午後五時を指していた。どうやら夕暮れ時になるまで寝てしまっていたらしい。
「ありゃりゃ。ちょっと寝過ぎたかしら」
その時、霊夢は辺りを見回して気付いた。いつの間にか、魔理沙の姿がなくなっている。
「あれ、魔理沙はどこ行った?」
「さっき帰ったよ。五時になったら霊夢を起こせって言って、箒に乗って飛んでっちゃった」
霊夢は「そう」と言って、立ち上がった。食材は今朝でほとんど使ってしまったから、街へ買い出しに行かなければ料理を作れない。時間は午後の五時、街の店屋が夕暮れ時の安売りを始める時間帯だ。この時間は少々混むが、食材を安く買う事が出来る。
「懐夢、買い出しに行くわよ。この時間は街で安売りが始まる時間だから」
懐夢は「はーい」と言って立ち上がった。よく見てみれば、防寒具を着たままになっている。起こす寸前まで遊んでいたのだろう。これなら、このまま外に出てしまってもよさそうだ。
霊夢は近くに置いておいた買い物袋を手に取ると、マフラーを巻いた後に懐夢を連れて外に出た。辺りはすっかり暗くなっており、もう夕暮れと言うよりも夜だった。霊夢は外に出てから、上空へ飛び上がろうとしたが、空を飛べない懐夢を連れている事に気付いて、飛び上がるのをやめた。もしも飛んでしまったら、懐夢を置いて行く事になるし、暗くなった今は妖怪が活発に動き出す時間帯。懐夢のような非力な子供はすぐに妖怪にやられてしまうだろう。そんな事になったら厄介極まりないので、獣道を歩いて街へ向かうしかない。
懐夢を連れて獣道を行ってみると、懐夢は身体を近付けて、震えた声を出した。
「ねぇ霊夢……ここって妖怪出ない?」
「夜になると出るわ。でも今は暗くなったとはいえまだ夜ではないし、出てきたとしても叩き潰すまでよ。まぁそうなったらそうなったで非力な貴方のことは守ってあげるから安心なさい」
懐夢は霊夢のぶっきらぼうな答えにむっとしたが、霊夢から離れてしまうと妖怪に襲われてしまいそうな気がしたので、霊夢と歩調を合わせて、離れないように歩き続けた。そうしているうちに獣道を抜けて、農道に出た。前方には建物が連なった明るいところが見える。あそこが日中にも行った街だ。明るいところだなとは思っていたが、暗くなってもあそこは明るいままの街らしい。
「あそこが、街……」
「そうよ。あそこは幻想郷で最も大きな街だから、暗くなっても明るいままよ」
農道を歩き、街の中へと入り込むと、あちこちの建物に灯る明りと人々の活気が二人を包み込み、それまで暗闇に少しおびえていた懐夢を安心させた。その隣で、霊夢は獣道を歩いている時に書いた必要な食材のメモに目を向けていた。まず買わなければならない食材は、魚だ。
「さてと、まずは魚屋ね。懐夢、貴方魚は食べられる?」
懐夢は頷いた。
「食べられるよ。好き嫌いせず食べ物は何でも食べなさいっておかあさんとおとうさんに言われてたからね」
霊夢は「ふぅん」と言ってから、懐夢を連れて魚屋のある方角へと歩き出した。その時、妖怪達が店を構えて客呼びをしていたり、道を通ったりしているのを見て、懐夢が霊夢へ声をかけた。
「ねぇ霊夢、さっきから妖怪みたいな人をよく見るんだけど……ここ、僕の村みたいに妖怪が住んでるの?」
霊夢は頷き、この街についての説明を懐夢に施した。ここ、『街』は人と妖怪が共存している幻想郷一大きな街だ。
この街には沢山の妖怪がいて、この街に数多く存在する店の中には妖怪が経営してる店や、妖怪専用の店などもある。勿論そこに通ってる人もいるし、ここの人々と妖怪は共存し合い、仲良くしている。ここでは、妖怪と人が結婚してる夫婦なども沢山居るし、そんな夫婦から生まれた懐夢のような半妖も珍しくない。ちなみに何故ここが幻想郷中の凶暴な妖怪達に襲われないのかというと、妖怪の大賢者達によって守られているからだ。よってこの街は幻想郷の中で一番大きくて、一番安全な街だと言える。
懐夢は楽しそうに「へぇー」と言って、道行く妖怪達や街並みを見回した。
「何だか僕の村みたいで居心地いいな」
「そりゃよかったわ」
目の前を見てみれば、そこは魚屋だった。話している間に、いつの間にか魚屋の前まで来ていたらしい。二人は魚屋の店内に入り、魚屋の店内に並べられている数々の活魚を見始めた。店の中で最も大きな商品棚には鯖に石鰈に公魚に鱈に鰆と言った、幻想郷の一部で捕る事の出来る珍しい魚が並んでいる。値段もそれなりに高い。
「ふむふむ、どれも冬が旬の魚ばかりね。美味しそう」
「うん……見た事ない魚ばっかり」
霊夢は聞こえてきた声に違和感を抱いた。まるで鼻声のような声だった。恐らく懐夢が出したのだろうが、どうしたのだろう。そう思って振り返り、懐夢を見てみたところで霊夢は吹き出した。懐夢は鼻を摘んで魚を見ていた。恐らく魚の放つ生臭さが鼻にきたのだろう。
そんな懐夢に笑いそうになったその時、もう一度声が聞こえてきた。
「いらっしゃい博麗さん、今日は御供付きかい?」
魚屋の店主である小母さんが、霊夢の元にやってきて声をかけてきていた。霊夢は朗らかな表情を浮かべる小母さんに軽く頭を下げた後、その言葉に答えた。
「親戚の子なの。ちょっと事情があって少しの間うちで預かることになってね」
「へぇ〜博麗さんの親戚の子かい。どおりでここいらでは見ない顔だと思ったよ」
懐夢は小母さんに見られている事に気付くと、顔を合わせて軽く礼をした。その仕草を見て、叔母さんは笑んだ。
「おや、なかなか礼儀の出来る子じゃないか。かなりいい育て方で育てられたみたいだね」
霊夢は苦笑した。
「そうみたいなのよ。まだ九歳なのに、十三歳くらいの礼儀ができてるみたいで、たまに吃驚するわ」
その直後、霊夢はあることを思い出し、小母さんに言った。
「あ、そうだ小母さん、この小さい鯖一匹買いたいんだけどいいかしら」
小母さんは「まいどあり」と笑顔で答えて、商品棚から二匹の鯖を手に取り、笹の葉と釣り糸のような針の付いた糸が付けられた長い木の棒を持ってきて、その棒の糸の針を鯖の口元に引っ掛け、簡単には取れないようにしたのだが、霊夢と懐夢はそれを首を傾げて見ていた。
何故なら頼んだ鯖は一匹のはずなのに、小母さんは二匹、鯖を棒に引っ掛けたからだ。
「小母さん? 一匹多いんだけど?」
小母さんは笑んだ。
「おまけだよ。親戚の子と分けて食べなさいな」
小母さんは霊夢に鯖の付けられた木の棒を渡した。懐夢と霊夢は驚き、小母さんに頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございます!」
「ありがたく頂戴するわ。ありがとうね」
店主は懐夢を見て、また笑んだ。
「いいんだよ。しっかり食べてすくすく育つんだよ」
小母さんにもう一度頭を下げて、霊夢と懐夢は魚屋の外へ出た。
まさか魚を一匹余計にもらえるとは思ってもみなかったので、霊夢は思わず心を弾ませていた。
(まさかおまけがもらえるなんて。懐夢と一緒にいるのも悪くないかも)
そんな事を考えて歩いていると、すぐ近くに聞こえていた懐夢の足音が止んだ事に気付いて、霊夢は思わず足を止めた。何事かと後方へ目を向けてみれば、少し後ろの方で懐夢が、明後日の方向に顔を向けたまま立ち止まっているのが見えた。何が懐夢をくぎ点けにしているのかと思って、その方角へ目を向けてみれば、そこには茶屋があった。
懐夢は茶が飲みたいのかと一瞬考えたが、どうも違うような気がして、霊夢は懐夢の視線を確認してから、茶屋の中の方にまで目を向けた。懐夢の視線の先には、様々な団子の並んだ商品棚があった。それに気付くなり、霊夢は溜息を吐いて、懐夢に声をかけた。
「懐夢、団子が食べたいなら早くそう言いなさい」
懐夢はハッとして霊夢に顔を向け、首を横に振った。
「別にそう思ってるわけじゃないんだけど……」
霊夢にはそうは見えなかった。あの団子の商品棚を見ている時の懐夢の目つきが如何にも「団子が食べたい」と訴えていたからだ。
「丁度茶菓子が切れてたし、行ってくるわ。私が戻ってくるまでこの魚棒持って待ってなさい」
霊夢は懐夢に二匹の小さな魚が引っ掛けられた木の棒を持たせると、そそくさとその茶屋の中に入り、懐夢が欲しがっていたと思われる赤、緑、白の三色の団子が三串入った入れ物を二つ、緑茶を一袋手に取り、会計を素早く済ませて、そそくさと店内を出て、懐夢の元に戻ってきた。
「ほら、買ってきたから、次の店に行くわよ」
懐夢は頭を下げて謝った。
「あ……うん……ごめんなさい」
「「ごめん」じゃなくて、「ありがとう」でしょ?」
「あ、ありがとう霊夢…」
「よろしい。次は八百屋に行くわよ」
霊夢が歩き出すと、懐夢は了解し、霊夢の後を追うように歩き出した。しかしその直後、背後から聞こえてきた声が二人を立ち止まらせた。
「おい、お前達」
聞き覚えのある声だった。いや、これは本日中に聞いた事のある声だ。そんな事を考えながら振り返ってみれば、そこにいたのは霊夢が懐夢を預けようとした寺子屋の教師、上白沢慧音だった。右手は買い物袋と思われる袋で塞がっていて、左手を上に向けて振っている。
「慧音」
霊夢が呼ぶと、慧音は霊夢と懐夢に歩み寄った。
「その後はどうだ」
霊夢はふふんと言った。
「特に変わりなしよ。懐夢も私の事は警戒してないみたいだし、懐夢自身もあまり手のかからない子みたいだから、やっていけそう」
慧音は「そうか」と言って、懐夢へ目を向けた。
「さて、霊夢との生活はどうだ?」
懐夢は首を横に振り、微笑んだ。
「霊夢とはしっかりやっていけそうな気がしますので、心配しなくても、大丈夫です」
慧音はもう一度「そうか」と言って、霊夢へ目を戻した。
「子供を育てるというのは難しいぞ。だから出来る限り私も協力させてもらう」
「何かしてくれるの」
「明日から、懐夢は私の寺子屋の生徒の一人となる。授業開始時刻は九時だ。遅刻させるなよ、霊夢」
「わかったわ。懐夢の事、よろしくお願いね」
「任せておけ、と言いたいところだが、神社にいる間はお前が懐夢に様々な事を教えるのだぞ。全てを私に任せてもらっては困る」
霊夢は驚いたような顔になる。
「マジで? 私じゃ教えられるような事は少ないわよ」
「その場合は私の元に相談にでも来ればいい。お前にもちょっとした授業を施してあげよう」
「結構です」。霊夢はそう言いたかったが、如何せん子供を育てなりなどはしたことがないので、知識はほぼ皆無に等しい。だから慧音の力を借りなければ、懐夢を養っていくことは難しいだろうとは思っていた。
「……悔しいけれど、あんたの世話になるわ」
「よしよし。それじゃあな、二人とも。仲良くやって行くんだぞ」
そう言って、慧音は振り返り、街の人混みの中へと消えて行った。
霊夢は慧音に手を振る懐夢をちらと見て、心の中に不安が湧いて出てくるのを感じた。これまでは一人で暮らしてきたが、今日からは懐夢との二人暮らし。しかも懐夢は自分よりも年下で、まだ九歳でしかない。そんな子供を、何も知らない、何の知識も持たない自分が養っていけるのか、心なしか不安だった。
(面倒な事になったけど……大丈夫かな)
そう思っていると、懐夢がこちらに顔を向けてきて、首を傾げた。
「霊夢、どうしたの」
懐夢の声に霊夢はハッと我に返り、首を横に振った。
「何でもないわ。さぁ、次の店に行くわよ。次は……八百屋」
*
霊夢と懐夢は八百屋に寄って粗方の野菜を買った後、酒屋で酒と調味料を買い、すべての買い物を終えた後、真っ直ぐ神社に戻ってきた。二人は食事所である台所に向かい、買ってきたものを一先ず置いた。
テーブルに並んだ食材達を見回して、霊夢が両手を腰に当てる。
「さてと。鯖は今脂が乗ってて美味しいから、煮付けにでもしようかしら。懐夢、それでいいわよね?」
「いいよ」
霊夢が「わかった」と言って料理を始めようとしたその時、懐夢がもう一度声をかけてきた。
「あ、手伝うよ」
霊夢は意外がり、懐夢に尋ねた。
「え? 貴方料理できるの?」
「これでも、おかあさんの料理とか手伝ってたから」
「そうなの。じゃあ私が魚捌くから貴方は鍋の用意をして頂戴」
懐夢は「わかった」と言って頷き、鍋のある食器棚に向かった。一方霊夢は懐夢に言ったとおり魚屋より購入した鯖を木の棒から外し、手に持つと調理台の方へ向かい、そこにあるまな板に鯖を寝せ、近くにあった包丁を手に持ち、捌き始めた。鯖の頭を切り落とし、腹を開いて内臓を取出し、骨を切り抜いて、調理できる形にした。ほぼ毎日こうして自分の手で調理を行っていたためか、手慣れており、調理開始から殆ど時間をかけずに魚を捌き終える事が出来た。
そして丁度その頃、懐夢も鍋の用意を終えており懐夢は鍋の用意が終わったと霊夢に伝えた。霊夢は捌かれた鯖を持って鍋が乗せられたガス台に近付き、鍋の中を覗き込んだ。
鍋の中には煮付けを作る際に必要な水が正確な分量で入れられていた。霊夢は少し驚き、懐夢に声をかけた。
「懐夢、この水、貴方が入れたの?」
懐夢は頷いた。
「そうだよ。そこにあったお玉を使って計って入れたよ」
霊夢はまた驚いた。普通九歳の子供となると、料理をする際鍋に入れるべき水の量などあまり気にせずに入れてしまいがちだが、懐夢はきちんと水を計って入れた。それだけで懐夢がどれほどしっかりと躾られているのかわかった。
「あ、あぁそうなの。ありがとう。懐夢はお利口さんね」
懐夢は「えへへ」と笑んだ。霊夢もそんな懐夢を見て思わず笑み、早速懐夢の用意してくれた鍋の中に二つの小さな鯖の切り身を入れた。
「後は私がするわ。懐夢、貴方はテーブルに食器を並べて頂戴。赤と白の茶碗と皿のセットが私ので、青と黒の茶碗と皿のセットが貴方のだから、二人分並べて頂戴ね」
「わかったよ」
霊夢は懐夢に指示を送ると引き続き調理を続け、懐夢は霊夢の指示通り食器棚の方へ向かい、食器を二人分手に取ると、食事用のテーブルに配置して一つ息を吐いた。そして霊夢はというと、水と魚の切り身の入った鍋の中に適量の調味料を入れ込んで、落し蓋を落とし、そのまま鍋を見ながら考えごとをしていた。
突如としてこの神社にやってきた懐夢。
それはとても頼りない、非力な男児かと思っていたが、いざ蓋を開けてみれば、母より授かったとされる知恵で何でもかんでもやってみせて自分を驚かせてくる、利口で手間のかからない、九歳というのが冗談ではないかと思えるくらいの男児だった。こんな事これから過ごしていくわけだが、この子とのこれからの生活はどれほどのものになるのだろうか、自分ひとりの生活とはどんなに違うものとなるのだろうか。
胸の中で、今まで感じたことのない感覚が踊っているような気を霊夢は感じた。
「……霊夢?」
霊夢は突然の声に少し驚き、自分の呼ぶ声がした方向を見た。
「え……あ、どうしたの?」
懐夢は霊夢を見ながらテーブルを指差した。
「並べ終わったよ。これでいいでしょ?」
テーブルのある方を見てみると、テーブルに自分と懐夢の二人分の食器が並んでいた。
「あ、あぁありがとう。もう座ってて大丈夫よ」
その時、懐夢は霊夢の答えに納得できなかった。先程から見ているに、自分が話しかける度に霊夢はハッとし、やがて自分の言葉に答えを返している。
……もしかして、具合が悪いのだろうか。具合が悪いから、自分の言葉に上手く反応できないのではないのではないか。
「霊夢、具合悪いの?」
霊夢はまた「え?」と言った。
霊夢を見て懐夢は再度問いかける。
「だって霊夢さっきから「え?」「え?」ばっかり言ってるんだもん。具合悪いの?具合悪いなら休んだ方がいいよ」
霊夢はまた驚いた。懐夢がまた気を遣ってきたからだ。懐夢の眼差しは本当に自分を心配しているようなもので、霊夢は懐夢の言葉を聞いて、眼差しを見て嬉しさというものを感じた。――今朝初めて会ったばかりだというのにもうこんなに自分を心配してくれている。
自分を心配する人間や妖怪など基本的にはこの幻想郷には居ない。自分はこの幻想郷で最も強い者、博麗の巫女であるために、怪我をしたところですぐに治し、病気もしない、心配しなくたって自分で立ち上がると幻想郷中の住民から思われている。だから、誰にも心配されたことはないし、よく博麗神社に来る八雲紫、友人である霧雨魔理沙からすらも心配されたことはない。しかしたった今、懐夢が自分のことを心配した。初めて他人に心配された。霊夢は驚きながら、
「……大丈夫よ。どこも具合なんか悪くないわ。心配してくれてありがとうね」
「そう?」
「そうよ。さてと、そろそろ煮つけが出来上がるわ。懐夢、ご飯にするわよ」
霊夢の言葉に、懐夢は頷いた。
*
その夜 午後十一時四十五分。
風呂に入り、寝室に布団を敷いて明りを消し、眠りに就こうとして二時間。霊夢は全く寝つけずにいた。いつもならば布団に寝転がってから十分くらいで寝付くのだが、今日はいつまでたっても眠くならない。何度も寝返りを繰り返して、重い溜め息を吐くばかりだった。
寝返りを打つたびに、霊夢の目には今日やってきた九歳の少年、懐夢の寝姿が映った。もしかしたら、懐夢がいるせいで寝付ないのかもしれない。今までは一人でこの部屋で眠っていたというのに、今日からは二人で寝る事になった。その事に、身体が違和感を感じてしまって、こうして寝付けないのかもしれない。
また重い溜息を吐いて、霊夢は少し懐夢の方に近寄り、懐夢の顔を覗き込むようにして見た。その時、懐夢の幼気であどけない寝顔が見えて、霊夢は思わずきょとんとした。……意外と、可愛い寝顔をしている。
「中々……可愛い顔して寝るもんね」
そんな事を呟きながら懐夢の寝顔を見つめていたその時だった。懐夢が呻き声にも似たような声を出して、顔を歪ませた。いきなり顔が変わった事に霊夢は驚き、じっと懐夢の顔を見つめる。
「ちょ、何……?」
懐夢は苦しむような声を出し始め、更に汗を掻き始めた。更に、口から言葉が漏れる。
「おかあ……さん……おとう……さんっ……」
霊夢は懐夢に声をかけた。
「ちょっと懐夢、どうしたのよ」
懐夢の声が大きくなる。
「やだ……いやだ、おとうさん、おかあさん、にげ、にげて」
魘される懐夢の身体を霊夢は揺すり、さらに大きな声をかける。
「懐夢、起きなさい! 起きなさい、懐夢!!」
懐夢はハッと目を開き、呻くのをやめた。そして、何が起きたかわかっていないような顔をして、数回瞬きをした後、霊夢の方へ顔を向けた。
「……れいむ?」
霊夢は溜息を吐いて、くしゃっと髪を掻いた。
「吃驚させるんじゃないわよ。いきなり大きな声を出すんだもん。何か怖い夢でも見たわけ?」
直後、懐夢は霊夢に飛び付くように抱き付き、むしゃぶりつくようにその胸に顔を埋めた。霊夢は吃驚して、懐夢に声をかける。
「ちょっと、どうしたっていうのよ」
「おかあさんと、おとうさんが、殺されて……」
霊夢は慧音から聞いた懐夢の話を思い出した。懐夢はここまで来る時に、両親と死別している。その時懐夢は山を転がり落ちたので、両親が死ぬところを見ていないそうだが、この様子から察するに、両親が死ぬ瞬間の夢を見てしまったらしい。
「なるほどね……貴方が神社に来る前の時の夢を見たわけね……」
懐夢は頷いた。霊夢は胸で泣く懐夢の背中を撫でようと手を差し伸べたが、すぐに懐夢が口を開いた。
「ねぇ霊夢」
「なによ」
「どうし、たら、あの時、おかあさんと、おとうさんは、死なず、に、済んだと、思う」
懐夢の問いかけに、霊夢は困った。慧音によれば懐夢の両親は、妖怪と人間の集団によって殺されたそうだが、自分はその時を見たわけじゃないから、そんな事を言われたところでどう答えればいいのかわかるはずもない。強いていえば、妖怪と人間を蹴散らすだけの力があれば、懐夢の両親は助かっただろう。だがそれは全て過ぎた事だ。今更考えたところで何も変わらない。
「……わからないわ。でもね貴方、過ぎたことを悔やんだって」
「僕、思うんだ」
霊夢は首を傾げた。懐夢は続けた。
「あの時、僕が強かったらお母さんとお父さんを護れたと思うんだ」
「だからどうしたのよ」
懐夢は顔を上げて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で訴えた。
「だから、僕は、強く、なりたい、強くなって、霊夢は、いらない、って、言ったスペルカードも、使えるよう、になって、大事なものを、守って失わない、ようになりたいッ!!」
あまりにいきなり過ぎる懐夢の言葉に、霊夢は驚いて、言葉を失った。しかし、懐夢の言葉が嘘ではない事だけではわかった。眼差しが、懐夢の眼差しがそう訴えているのだ。
「いきなりね……こんな短時間でそんなことを決めたわけ?」
懐夢は首を横に振った。
「神社からした匂いがおかあさんのものじゃないって分かった時から、ずっと思ってたよ。
でも、霊夢に言われてその必要は無いんじゃないかって思った時もあった。けれど今ので、今の夢を見て決意したんだ」
霊夢は「ふぅん」と言った。
「なるほど。貴方がそう思うなら、そうすればいいじゃないの。貴方ならなれるわ。強くて大事なものを守れる存在に。ただ、そういうのは生半可な決意じゃなれないわよ。絶対に諦めず、本気になって打ち込むことね。本気で、駄目元でもいいからスペルカードを撃てるようになりたいって思いなさい。やるしかないって……思いなさい」
ひとまずぶっきらぼうに答えたが、少し気持ちが悪くなった。何故なら今、懐夢に言った言葉は努力嫌いの自分が言えるような言葉ではないからだ。
懐夢は涙を拭いて答えた。
「……わかった……」
「そうしなさい」
直後、霊夢は大きな欠伸を掻いた。それまで来ていなかった眠気が、いきなりどっとやってきた。
「……なんだか眠くなってきたわ」
「……僕もなんだか眠くなってきた」
「ちょっと、私の胸で眠らないで頂戴よ」
懐夢は霊夢の胸から離れて、自分の布団に戻って寝転がり、掛け布団を被って枕に頭を乗せると、ゆっくりと瞳を閉じて呟いた。
「お休み……霊夢」
「えぇ……お休み」
霊夢も同じように布団に寝転がり、掛け布団を被って、ゆっくり瞳を閉じて、眠りに就いた。