第十三話
霊夢と懐夢急接近!
寺子屋の休学日の昼下がり、慧音は寺子屋で明日の授業の内容を考えていた。
明日は何を学童達に教えよう。歴史にするか、算数にするか、国語にするか。
歴史は自分が好きな事だから、つい口が進んで学童達にはわかりにくい授業になるし、算数はその難易度と面倒くささから学童達に不人気だ。
一方国語は思ったよりも学童達に人気のようで、面白がって受ける学童もそれなりに多い。
中には、国語の授業がない日が何日も続いて、まるで国語に飢えているような学童もいた。
(明日は、国語の授業をやろうか。国語の授業を待ち望んでいる学童も多いようだし)
慧音は明日の授業を決めると、早速その内容を考え出した。
漢字の書き取りと、古典でもやろうか。
漢字はその意味が面白かったりするし、古典には竹取物語、万葉集、枕草子、源氏物語といった面白い物語も多い。
(漢字の書き取りは重要なものであれば何でもいいとして、古典は源氏物語でもやろうか。あれは中々愉快な話だしな)
源氏物語の内容を思い出して、思わず笑ってしまったその時、コンッコンッと寺子屋の入口の戸を叩く音が飛び込んできた。
慧音は授業内容をまとめていた本を閉じると立ち上がり、入口の戸に近付いて開けた。
「どちら様だ……ってお前は」
慧音は驚いた。入口の戸の外にいたのは、霊夢だった。何やら、硬い表情を浮かべている。
「霊夢じゃないか」
霊夢は慧音を見てすまなそうにした。
「ごめんなさい。忙しい中来てしまって」
慧音は首を横に振った。
「いや、別に忙しくはないよ。それよりもどうした?何かあったか?」
霊夢は頷いた。
「ちょっと、あんたに相談したい事があってね」
霊夢の事だ、きっと懐夢の事についてだろう。
懐夢について何か困った事があったに違いない。
「そうか……わかった。聞いてやるから、入って座れ」
招き入れると、霊夢はそれに従って部屋の中に入り込み、畳の上に座った。
慧音は霊夢を招き入れると、早速用件を霊夢に尋ねた。
「それで、相談したい事とはなんだ?懐夢の事か?」
霊夢は頷いた。やはり、思った通りだった。
「なるほど。で、何に困った?」
霊夢は俯いて、口を開いた。
「……寂しいみたいなのよ」
慧音は目を丸くした。
霊夢によれば、懐夢はよく寝言で母を呼ぶらしい。
「これってつまり、母さんが居なくて寂しいって思ってるって事でしょ?」
霊夢に問いかけられると、慧音は顎に手を添えた。
「……なるほど。そっちでもそうなっていたか」
慧音の言葉に霊夢は首を少し傾げた。
慧音の話によれば、寺子屋の休み時間や授業中、他の学童達が少しでも親や家族の話をすると、懐夢は以降元気をなくすとらしい。それは寺子屋の一日の全ての授業を終えるまで、ずっと続くという。
その時の懐夢の表情は見てるこっちまで悲しくなってくるほどのものらしい。
更に酷い時には、教室を飛び出して、物陰で泣いているらしい。
話を一通り聞いて、霊夢は俯いた。
「私の見ていないところでそんな事が……」
慧音は頷いて霊夢の方から視線を逸らして窓の方を見た。
「寂しいだろうな……彼は親から愛されて育ったのだろう?」
霊夢は顔を上げぬまま頷いた。
「あの子の話と、日記を見る限りはね……」
慧音は腕を組んだ。
親を失った悲しみと寂しさは、親から愛されて育った子にほど重く圧し掛かる。
懐夢は今まさにその状態なのだろう。
「彼は私やお前やチルノ達の前では明るく振る舞うが、親の話をされれば途端にその元気を無くして、落ち込む……親に会いたくて、甘えたくて……寂しくて仕方ないのだろうな」
「……痛いほどわかるわ。その寂しさと悲しさともどかしさ……」
霊夢がぼそりと言うと、慧音は首を傾げ、やがて霊夢は顔を上げて慧音を見た。
「ねぇ慧音。どうやったらあの子の寂しさを癒してあげられるかな」
問われて、慧音は驚いた。
……霊夢が、他人の事を気にしている。
あの自分以外の人間や妖怪と全く親しくしようとせず、他人の事を全く考えず、幻想郷の異変以外の厄介事からひたすら逃げたがる薄情者の霊夢が、こんなにも、懐夢の事を気にして、心配している。
今までの霊夢から考えると、驚くべき変化だ……何故だろうか。
何故霊夢はここまで変化を遂げたのだろうか。懐夢と共に過ごしていたからだろうか。
「……霊夢」
慧音に呼ばれて、霊夢はきょとんとした。
「お前は何故そこまで、懐夢の事を考える?以前のお前は、例え同居人が出来ても、何一つ考えたり悩んだりしなかったはずだが」
慧音に言われて霊夢は再び俯き、黙り込んだ。
そして顔を上げないまま、口を開いた。
「……それが何故なのかは話せないけれど、私懐夢の気持ちが痛いほどわかるの。だからこそ、何とかしてあげたいのよ」
霊夢が顔を上げると、その目が慧音の目と合った。
霊夢の目は、嘘を言っていない目だった。
それに霊夢がこう言ったという事は、霊夢はかつて懐夢と同じ思いをした事があるという事の証明にもなっていた。
言ってくれないからいつの事なのかまではわからないが。
「なるほど……なら話は簡単なはずだ」
慧音が笑いかけると、霊夢は不思議そうな目で慧音を見た。
慧音は人差し指を立てて言った。
「お前は彼の気持ちがわかるのだろう?ならばお前が初めて彼と同じ気持ちを抱いた時に他人からしてもらいたかった事を彼にやってやればいいだけさ。当時あっただろう?そういう事」
霊夢はハッとした。心の中の空の曇りが一瞬で晴れ渡ったような気を感じた。
そうだ……それがあったじゃないか。自分と同じ立場にいるのだ、
当時自分がしてもらいたかった事を、寂しさを癒せる方法をしてやれば、彼の寂しさを癒せるかもしれない。
何故言われるまでそれに気付けなかったのだろうか。
「あるわ。寂しくて仕方なかった時にしてもらいたかった事」
慧音は笑った。
「ほら見ろ。それをやってみればいい。きっと、効果があるはずだ」
「そうね。試してみよ……あ、でも……」
自分がしてもらいたかった事を思い出した直後、心の底から不安が込み上げてきた。
慧音に言うやり方、思い出した事は果たして、"本当に彼の望む事"なのだろうか。
それが"本当に彼の寂しさを癒せる方法"なのだろうか。
それがもし、逆効果だったら……。
と、その時それを見たのか、慧音が苦笑しながら話しかけてきた。
「どうした?もしかして不安か?」
霊夢は思わず頷いてしまった。
慧音は苦笑をしたまま霊夢に近付き、その肩をポンポンと手で軽く叩いた。
「大丈夫さ。お前が気持ちを込めれば、彼はそれに答えてくれる」
「そうかしら……?」
慧音は頷いた。
「そうだ。だから、帰ったら懐夢にやってごらんよ。お前が彼と同じ気持ちを抱いていたころに、してもらいたかった事を」
そう言われると、霊夢の心の中の不安は消えて、やる気がわき出てきた。
「そう……よね!わかったわ。帰ったら懐夢にやってみる」
それまで暗い表情を浮かべていた霊夢はようやく笑んだ。
それを見た慧音もまた笑んだ。
「悩みは晴れたか?」
「えぇ!」
「それはよかった。力になれて光栄だ」
霊夢は慧音に礼を言うと、そそくさと立ち上がって寺子屋を出て行った。
その後ろ姿を見て慧音はふと思った。
霊夢はかつての自分と今の懐夢を重ねて見ているのだろう。そして、だからこそどうすればいいか思い付く事が出来た。
(……似ているのだな。霊夢と懐夢は)
もし自分があの時懐夢を引き取ったままだったならば、今回の事に対して何一つとして対応できなかっただろう。懐夢を、寂しいままにしておいただろう。
(いい人に引き取ってもらえたな、懐夢)
慧音は思うと、途中にしておいた授業内容の計画表を再度手にとって、書き込み始めた。
*
霊夢は博麗神社に戻ってきた。
「ただいまー」
玄関口でいつもの声を出すと、いつもの声が返ってきた。
「おかえりー」
靴を脱いで玄関から上がり、本殿を通って居間へ行くと、そこには懐夢が居た。
懐夢は何やら不機嫌な顔をしながらやって来た霊夢を見ていた。
霊夢は懐夢を、首を傾げて見た。何故あんな顔をしているのだろうか。
その時、懐夢が口を開いた。
「霊夢、どこ行ってたの」
霊夢は顔を逸らして答えた。
「ちょっとそこまで野暮用に」
「なら、なんで鍵閉めて行かないの。全部の戸がガラガラと開いてたよ」
懐夢はいよいよ怒った。
「出かける時は例え野暮用でも鍵を閉めて行ってって何度も言ってるじゃない!」
霊夢は両掌を横に振って苦笑した。
「いやいや、すぐに帰ってこれるから鍵を閉める必要ないと思ってね。すぐ終わる野暮用だったし?」
「それでも鍵くらい閉めて行ってよ!出かけてる間に泥棒に入られたらどうするの!大事なもの盗まれちゃってもいいわけ!?」
まるで自分の方が年上のようにがみがみ怒る懐夢に、霊夢はとうとう顰め面して呟いた。
「誰の為に出かけたって思ってるのよ……」
「え?」
霊夢が呟くなり、懐夢はきょとんとして怒るのをやめてしまった。
どうやら、霊夢の呟きが耳に入ってしまったらしい。
「あ、いや。何でもないわ。それよりも、わかったわ。今度からどんな野暮用でも外出の時は鍵を閉めて行くわ。だから貴方、神社の戸の予備の鍵を常に持っておきなさい。もし私が出かけてる時に神社に戻ってきても入れるように。その棚の二段目のところに入ってるから」
霊夢が懐夢の真後ろにある棚を指差すと、懐夢は真後ろの棚の二段目を引き出した。
そこには2本の同じ形の鍵があった。これが、霊夢の言う神社の鍵のようだ。
懐夢は鍵のうち一本を手に取ると、鞄の1つのポケットの中に入れた。
霊夢は懐夢が鍵を持ったのを確認すると、注意を呼びかけた。
「なくすんじゃないわよ。なくしたら、扉壊すしかこの神社に入る方法無くなるから」
懐夢は頷いた。
直後懐夢は何かを思い出したような仕草をして、霊夢に話しかけた。
「あ、そうだ霊夢。ここから紅魔館までどのくらい遠い?」
霊夢は首を傾げた。
「紅魔館?空を飛べばそんな大した距離じゃないけれど……なんで?」
「霊夢が出かけている間にレミリアって子が来たんだ。そのレミリアと話したら、紅魔館に来ないかって言われちゃって」
霊夢は驚いた。懐夢は、かつて紅い霧の異変を起こして幻想郷中を騒がせたあのレミリア・スカーレットと会って話をしたらしい。まぁレミリア自身よく自分目当てで博麗神社にやってくるから、出くわしても何ら不思議ではないのだが。
「そう……貴方レミリアに招待されたのね。でも厄介だわ。ここから紅魔館はさっき言った通り飛べばそんな大した距離じゃないけれど、徒歩で行くとなると相当な距離になるわ。片道で軽く二時間、往復で軽く四時間かかるわね」
霊夢が視線を北の方へ向けて言うと、懐夢は「えぇー!」と大きな声を出した。
「そんな……往復で四時間なんて……」
「っていうか貴方、いつ来いって言われたの?」
がっくりと肩を落とす懐夢に声をかけると、懐夢は俯きながら答えた。
「一週間後の今日……」
霊夢は大きく溜息を吐いた。
また見知らぬところに行くための地図を描いてやらねばならない。
と、その時懐夢が霊夢の様子を感じ取ったのか、掌を上げた。
「あ、大丈夫だよ。今回はレミリアが案内してくれるみたいだから」
「あ、そうなの」
霊夢はほっとした。
レミリアの案内があるならば、地図を描く必要はない。
「それならよかったわ。ところで、貴方レミリアと会って血を吸われなかった?」
懐夢は問われるときょとんとして、首を振った。
懐夢はレミリアに血を吸われていないようだ。
吸血鬼のレミリアの事だから、てっきり懐夢からも血をもらっているのではないかと思っていたが、違っていた。
「そう……あ、そうそう紅魔館の事だけど、紅魔館には変わったのがいっぱいいるから、そこそこ注意しなさいね。紫色の髪の毛で本の虫の喘息持ち魔法使いとか、武器にナイフを使う時間止める能力持つ白髪のメイド長とか、寝てばかりで白髪メイドからいつもナイフ投げられてる門番とか」
霊夢が言うと、懐夢は目を輝かせた。
「そんなに変わった人達がいるの!?すごい!早く会ってみたい!」
話を聞いて紅魔館へ訪れるのを楽しみにし出した懐夢を見て、霊夢はふと思った。
この子はまるで子犬や子猫や生まれたばかりの鳥の雛が餌を欲しがるように、人に会う事を欲している。相手を全く警戒せず、ただ会い、話をしてその者を知る事を欲している。相手を警戒しないと言う時点で、普通ではない。何故このような事をするのだろうか。
……もしかしたらそれは、大切な母と父を、大事な故郷を失った悲しみと寂しさを埋めるためのものなのかもしれない。―――やはりこの子は、まだまだ寂しいのだ。
「……?」
霊夢を見直した懐夢はびっくりしてきょとんとした。
霊夢が、どこか暗く、哀しそうなの表情は変わっていたのだ。
一体どうしたと言うのだろう。何故こんな顔をしているのだろう。
もしかして、出かけた時に何か悪い事にでも出くわしたのだろうか。
「霊夢?どうしたの?どうしてそんな顔をしてるの?」
びっくりして霊夢は我に返った。
声の聞こえてきた方を見てみれば、そこで懐夢がこちらを心配そうに見ていた。
「え?私、なんか変な顔してた?」
「うん。何か嫌な事でもあったの?」
懐夢は頷いた。
霊夢は懐夢の仕草を見ながら心の中で己を叱った。
(いっけな……つい表情に出してしまったわ……懐夢を心配させてどうするのよ……全く)
この子は他人の事をよく見ている子だ。表情の変化などにはかなり聡くて、よくない表情をすると、心配を始めてしまう。余計な心配をさせないためには、自然な表情をしているのが一番だ。
「嫌な事なんて何もなかったわ。心配しなくたって大丈夫よ」
そっと懐夢に近付き、その頭に手を置いて髪の毛をゆっくりと撫でてやると懐夢は安心したような表情を浮かべた。
*
時が過ぎて夕暮れになると、霊夢は懐夢を連れて街へ買い出しに向かった。
普段は霊夢は懐夢に食事の準備をするよう言って一人で買い出しに来るのだが、今日は夕食の準備は帰ったら二人でやろうと言って、懐夢を連れて行く事にした。懐夢は当初は不思議がっていたが、すぐに気乗りしてくれた。
夕暮れになっても街の中は相変わらず賑わっていて、明るかった。
道中、懐夢は霊夢に話しかけた。
「ねぇ霊夢、今日は何食べるの?」
霊夢は懐夢の方を向いた。
「今日は奮発して、牛肉買うわ。牛の肩ロースをね」
懐夢は驚いた。牛肉と言えば、鹿肉や猪肉や豚肉の何倍もの値段がするもので、霊夢が値段の高さを理由に、絶対に手を出そうとしない代物だ。
「牛肉?牛肉ってあの高いお肉でしょ?」
霊夢は頷いた。
「そうだけど買うのよ。高い肉を買って、貴方は寺子屋の授業を、私は異変の解決を、明日も頑張れるようお腹いっぱい食べるのよ」
懐夢はびっくりしてしまった。
まさか霊夢の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。普段あまりお金を使わないようにする霊夢の口から……。
「ほら、びっくりしてないでさっさと行くわよ」
霊夢に声をかけられ、懐夢はハッとすると慌てて霊夢の隣にしっかり付いて行くように歩き出した。
やがて二人は肉が売っている肉屋にやってきた。商品棚には牛肉、豚肉、鶏肉、猪肉、鹿肉などといった様々な肉が置かれていて、その前には値札が置かれていた。
その中には、霊夢が買うと言い出した牛のロース肉もあった。
二人が店にやって来たのを確認したのか、店の店主が二人の元へやって来た。
「おや。博麗さんじゃないか。今日は何の肉を買うんだい?」
霊夢は牛のロース肉を指差した。
「牛ロースを二つ。後は何もいらないわ」
霊夢の注文を聞いた店主は驚いた。
「へぇ~!博麗さん、何かいい事あったのかい?牛肉を買うなんて」
「別に何でもいいでしょ」
霊夢がきっぱり言うと、店主は棚に並ぶ牛のロース肉を二つ取り、近くにあった紙を取って肉を包んだ。
「はい。二つで千五百円だよ」
霊夢は懐から財布を取りだし、店主に千五百円を差し出して、肉を受け取って持ち前の買い物袋に入れると、懐夢を連れて肉屋から離れた。
その後、霊夢は懐夢を連れて八百屋に来た。
「次は八百屋?」
懐夢が声をかけると霊夢は頷いた。
次に必要なのは、玉葱と葱だ。
懐夢にとっては激臭を放つ野菜である。
八百屋の中に入って、葱と玉葱の並ぶ商品棚に近付くと、懐夢は鼻を摘まんだ。
霊夢はその様子に苦笑しながらも玉葱と葱をそれぞれ二つずつ買って買い物袋の中に入れた。
「味噌とかの調味料は神社にあるからいいとして……よし、これで買い物は終了っと」
霊夢は帰るわよと一言言うと、懐夢を連れて賑わう街を抜けて、林道を通り、神社に戻ってきた。
買い物袋を持ったまま懐夢を連れて台所まで来ると、台所の照明を付けて買い物袋をテーブルの上に置いた。
「何作るの?」
尋ねてきた懐夢に、答えた。
「簡単にできる美味しい蒸し料理を作るわ。蒸し鍋を用意して、玉葱を刻んで頂戴」
懐夢は「はーい」と言って棚に上がっている蒸し料理用の鍋を手に取って、テーブルの上に乗せると俎板を取って調理台の上に敷き、先程買った玉葱の皮を剥いて根の部分を切り落とし、刻み始めた。
その最中、霊夢は"ある料理"のレシピを書いたメモを懐から取り出し、諳んじた。
(鍋に酒と味醂をそれぞれ大匙五杯鍋に敷き、鹿肉をその上に置き、更に肉の上に適量の玉葱を散りばめ、砂糖と香辛料を混ぜて甘辛くした味噌を乗せ、そのまま蓋をして三十分蒸す……蒸されることによって鹿肉が柔らかくなり、鹿肉に玉葱の旨味が浸み込んで、更に鹿肉と玉葱から汁が出て酒と味醂に混ざる……)
霊夢は調味料を置いている棚から酒と味醂と予め作っておいた砂糖と香辛料を混ぜた味噌の入った容器を取り出し、メモに書いてある通りに鍋に味醂と酒を入れると更にその中に先程買った牛肉を入れた。本来は鹿肉を使うようだが、牛肉の方が味がよくなるだろう。
「痛……痛ッ……いたたたたたたたたた!」
その時、背後の調理台の方から玉葱が切り刻まれる音と、懐夢の悲鳴が聞こえてきた。
どうやら、玉葱を切る際に起こる目の痛みに悲鳴を上げているようだ。
その数十秒後、懐夢は玉葱を刻むのを終えて、刻まれた玉葱の乗った俎板を霊夢の元へ持ってきた。
「おわった……よ」
霊夢はその顔を見るなり吹き出した。
懐夢の白目が真っ赤になって涙が出ている。完全にやられてしまったようだ。
「ご苦労様。あとは私がやるから、貴方は目を拭いて休んでなさい」
霊夢が俎板を受け取ると、懐夢は頷いて近くの椅子に座って袖で目を抑え始めた。相当痛かったようだ。
「さてと……あとはこれを肉の上にっと」
霊夢は俎板の上に乗っている刻まれた玉葱を手に取ると、牛肉の上に散りばめた。
そして玉葱を全て乗せ終えると、レシピ通りに調理味噌を肉の上に少し垂らすと、鍋をガスコンロ台の上へ移し、コンロの火を付けて中火にすると、鍋に蓋をかけた。
「よし……あとはこのまま二十分蒸すと……」
霊夢は一言呟くと食器棚の方へ向かい、自分の分の食器と懐夢の分の食器を取り出してテーブルに並べると続けて食器棚から二枚の大皿を取り出して同じくテーブルの上に並べた。
後、霊夢は懐夢に声をかけた。
「懐夢、動ける?」
懐夢は頷いて「動ける」と答えてきた。
「じゃあ、炊いておいたお米の入った釜を見て頂戴。私は味噌汁作るから」
指示をすると、懐夢は立ち上がって炊かれた米の入った釜のある方へ向かい、蓋を開けて中を確認した。
「冷めてない?」
「冷めてないー」
米は出かける前に炊いたものだが、その釜は霖之助曰く外の世界の保温釜だ。そんな簡単に炊かれた米は冷めない。
霊夢はそれを確認すると味噌汁専用の鍋を棚を取り出して中に適量の水を入れてガスコンロ台に移し、火を点けて水を煮立て始めた。
そのすぐ後霊夢はテーブルに置いておいた俎板と葱を手に取って調理台の方へ持っていて俎板を置き、その上に葱を置くと冷蔵庫(霖之助から貰ったもの。電源は外の世界に通じているらしい)の方へ向かってその戸を開き、中から人参と豆腐と大根とこんにゃくをそれぞれ一本ずつ取り出すと調理台に置いた。
そしてその後すぐに霊夢は手に包丁を持ち、取り出した具材を切り始めた。
人参と大根は銀杏切に、こんにゃくは切って小さくし、豆腐は刻んでサイコロくらいの大きさにした。
水が煮立った頃、霊夢は味噌汁鍋の中に味噌を入れて溶かし、先程刻んだ具材を入れて蓋をした。
その様子を見て、懐夢はきょとんとして霊夢に話しかけた。
「具材多くない?」
霊夢は懐夢の方を見た。
「さっきも言ったでしょ?今日はお腹いっぱい食べようって。だから具材を多くしたのよ。もしかして不満?」
懐夢は首を横に振った。
「なら気にしないの」
霊夢は言うと視線を二つの鍋の方へ戻した。
やがて、三十分経った。蒸し料理の出来上がる時間だ。同時に味噌汁も煮えた。
霊夢は懐夢を呼ぶと蒸し料理の鍋の蓋を開けた。
ふわり、と蒸気が上がり、続けて味噌による甘く香ばしい匂いが立ち上った。
今回初めて作った料理だが、どうやらうまくいったようだ。
「よかった上手く作れた。どう懐夢?美味しそうでしょ?」
料理の出来栄えに喜び、懐夢の方を見た霊夢は驚いた。
懐夢が、目を丸くして呆然とした様子で鍋の中を見ていたからだ。
「ど、どうしたの懐夢?」
懐夢は視線を鍋の中に向けたまま、口を開けた。
「これ……おかあさんの料理だ……」
言われて霊夢はびくっと反応した。
そう、この料理は愈惟の日記に書き残されていたものだ。愈惟は忘れぽかったのか、自分が考案した料理のレシピを忘れないように日記に記していた。
霊夢は読んでいる途中でそれを見つけて、美味しそうだと思ってメモ用紙に書き写して、今日調理するに至った。
霊夢は懐夢がこれを出されても愈惟の料理だとは気付かないと思っていた。愈惟の考案したものとは気付かずに食べると思っていた。
けれどもそれは呆気なく外れた。
懐夢は料理を見ただけで愈惟の考案したものだと気付いた。
どうやら愈惟は懐夢に相当な回数この料理を振る舞っていたようだ。
そこまで深く考えていなかった。
「ねえ霊夢。どうしておかあさんの料理を作れたの?」
懐夢に顔を近付けられて、霊夢は焦った。
心臓が喉元の辺りまでせりあがってどんどんと大きく鼓動を打っているような錯覚すらも覚えた。
まさか、愈惟の日記を見つけて読んで、書いてあった料理を作ったなどとは言えない。
この子の為に隠し続けている事を、ばらすわけにはいかない。
「へ、へぇ~!これ、懐夢の母さんが作ってた料理でもあったんだ。偶然ってあるものなのねぇ」
霊夢は咄嗟の思い付きで、これは魔理沙がよく作っている料理であると説明した。
懐夢は首を傾げた。
「そう……なの……?」
「えぇ。この前私にレシピをくれてね。試に作ってみようって思ってたのよ。いや~まさかそれが貴方の母さんがよく作っていた料理だなんて、知りもしなかったわ」
「そうなんだ」
懐夢の一言で霊夢はほっとした。
何とか、誤魔化せたようだ。
「さぁ、細かい事を気にするのはやめて、食べましょう」
霊夢はテーブルに鍋を持って行き、二人分の大皿にそれぞれ蒸し焼きになった牛肉を移し、肉を蒸す際に出来た"たれ"を肉にかけた。甘く香ばしい匂いが広がり、それを嗅いだ懐夢はうっとりとした表情を浮かべた。
肉を移すと、白飯と味噌汁をそれぞれの器に盛り、テーブルに座った。
「いただきます」
懐夢は言うと箸を手に取り、早速牛肉に齧り付いた。
牛肉は初めて食べるものであったが、今まで食べてきた猪肉、豚肉、鶏肉といったどの肉と比べても柔らかく、それらを軽く上回る旨味を持っていた。更にその旨味は、玉葱と味噌の甘さ、味噌に含まれる香辛料の辛さが染み込んだ事により、一層引き立っていた。
素直に言えば、とてつもなく、美味しい。
「……美味しい?」
懐夢が牛肉に齧り付きながら、何度も何度も頷くのを見て霊夢は笑った。
目の前の懐夢と同じように牛肉を食べてみると、予想以上に美味しくて、霊夢は吃驚した。
正体不明の妖怪を倒した時の報酬金をはたいてよかったと、改めて思った。
汁を啜り、白飯を食べ進め、やがて肉を食べ終えて、皿に残った"たれ"を白飯にかけて頬張ってみたところ、これもまた美味であった。
「懐夢、お肉の"たれ"、ご飯にかけて食べてみなさい」
懐夢は霊夢に言われるまま"たれ"を白飯にかけ、頬張った。
その次の瞬間、懐夢は目を見開き、そしてにっこりと笑った。
美味しいと感じたのだろう。
「ねぇ霊夢」
その直後、懐夢が改まった様子で話しかけてきた。
「なに?」と返事をしてみると、懐夢は箸を持ったまま話してきた。
「どうしていきなりこんな高いお肉を買って、味噌汁を具だくさんにしようとしたの?」
自分ほどではないが勘の鋭い懐夢の事だ、今日の自分の行為に気付くのではないかと思っていたが、とうとう聞いてきた。何でこんな事をしたのかという理由を。
……とりあえず真意は話さず、答えてみよう。
「理由?それはさっきも言った通り、貴方も私も明日も頑張れるようにって思ったからよ」
答えると懐夢は更に問いかけてきた。
「じゃあそれはなんで?どうしてそんなのを思ったの?いつもの霊夢はそんな事を思ったりしないのに」
懐夢はまた鋭い問いを突き付けてきた。
流石にここまで問いかけられて、真意を話さないわけにはいかないと霊夢は思った。
「……聞きたい?」
懐夢は力強く頷いた。
「……わかったわ。ご飯が食べ終わって、食器を片付けて、お風呂に入って寝る前になったら教えたげる」
霊夢が言うと、懐夢は急いで夕飯を食べ進めた。
*
時刻 八時五十分
霊夢は風呂を入り終え、寝間着を着て寝室前の縁側で佇んでいた。
四月の下旬だからなのか、夜になっても少しだけ温かかった。
そのうち、風呂から上がった懐夢が寝間着姿で霊夢の元へやって来た。
懐夢は湯の始末と火の始末をちゃんと済ませた事を霊夢に伝えると、霊夢の横に座った。
「霊夢」
「わかっているわ」
懐夢に声をかけられ、霊夢は一言答えると懐夢の方を見てぽんぽんと自分の膝を叩いた。
懐夢は霊夢の突然の仕草に首を傾げた。
「……私の膝に座って頂戴」
懐夢は驚いて、少し混乱し始めた。
「遠慮しないの」
再度言うと、懐夢は混乱するのをやめて少し霊夢から視線を逸らした。
やがて懐夢は霊夢の言う事に従って、霊夢に近付き、その膝に座った。
霊夢は、そのまま懐夢をすっぽりと抱いた。
「貴方……寂しいんでしょ?」
霊夢の問いかけに懐夢は首を横に振った。
霊夢は懐夢を揺すった。
「嘘を言わないの。
慧音から聞いたわ。貴方……お友達の母さんや父さんの話を聞くと、辛くてたまらなくなるそうね」
懐夢は小さく驚いたような声を出した。
霊夢は続けた。
「父さんと母さんが居なくて、寂しくて仕方ないんでしょう。貴方の気持ち……私、痛いほどわかるわ」
懐夢は小さく「え?」と言って霊夢の顔を見た。
「前にも話したでしょ?私が母さんを失った日の事。
あの時以降、数年先まで私、母さんがいないのが寂しくて、辛くて、悲しくて仕方なかった。
きっと貴方も今、同じ気持ちでしょう?」
懐夢は、少し考えた後、頷いた。
「やっぱりね……その気持ちを少しでも癒してあげようと思って、私はあぁやった。全部、貴方の為にね」
懐夢は驚いた。
霊夢は更に続けた。
「でも……まだ、寂しいでしょう?母さんと父さんの話を聞くと、辛くなるでしょ?」
懐夢は答えなかった。
霊夢はそんな懐夢に問いを一つかけた。
「貴方、前に言ってたよね?私の匂いが貴方の母さんの匂いによく似てるって」
懐夢は頷いた。
「だからね……もし母さんや父さんの事を思い出して、どうにもならないくらい辛くなって、泣きたくなったら、私に言って頂戴。抱きしめてあげるから、私の匂いに包まれて、そこで泣きなさい。思う存分泣きなさい。そしたら私がよしよししてあげるから」
霊夢はもっとぎゅっと懐夢を抱きしめた。
「私は貴方の親じゃないわ。でもね、貴方の拠り所になってあげる事は出来る。
……貴方はあの時確かに全てを失ってしまったかもしれない。でも、貴方は一人なんかじゃない。
貴方には……私がいるわ。これからは私を頼って。もっともっと、私の事を頼って頂戴」
霊夢は少しぎゅっと懐夢を抱きしめた。
霊夢はしばらく黙った。
そして口を開けると、懐夢に尋ねた。
「……駄目かしら」
懐夢は強く首を横に振って、小さく言った。
「……ありがとう。嬉しい……すごく……うれしい」
その途端、懐夢は霊夢にしがみ付いて、声を押し殺して泣き始めたが、やがて声を大きくして泣いた。
霊夢はしがみついて泣く懐夢を強く抱きしめて、その髪に顔を埋めて、背中をさすった。
そして、思った。
懐夢は、かつての私だ。
親を失って、寂しくて、すぐに泣き出してしまう。
私の時はかまってくれる人も慰めてくれる人もいなかった。
私は孤独だった。あの時の事は、思い出すだけで寒気がする。
頼れる人も、甘えられる人も、かまってくれる人もいない完全な孤独を、懐夢に味わわせたくない。
あんな思いを、させたくはない。
だからこそ、私がこの子の心身の拠り所になってやるのだ。
そうすればいつかきっと、寂しさを克服する事が出来るだろう。
この子を支え、守ってあげなければ。
かつての私の二の舞にしないためにも。
霊夢は懐夢が泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっと懐夢を抱き続けていた。