第百二十五話
凛導は消え去った。
自分の目的のためだけに幻想郷を支配し、博麗の巫女を『人形』に変えていた大賢者、伏見凛導。
そいつの事が許せなくて、八俣遠呂智の時、いや、その時以上の力を使って術を発動させた。
ものすごい大爆発が起きた。多分、身体の中に『花』なんていうものがあるせいもあるんだろう。そして気が付けば、凛導は吹き飛んで、なくなっていた。まさかこんなにあっけなく倒す事が、消し去る事が出来るなんて思ってもおらず、霊夢は気が抜けたような気持ちになった。
――ようやく母の仇を、全ての巫女の仇を取る事に成功した。ようやく、幻想郷を解放する事が出来た。こんなに簡単にできてしまうとは、思ってもみなかったが。
しかし、凛導を倒した直後に、霊夢の身体に異変は起きた。<黒荊>になっていた腕は元に戻ったのだが、頭の中に濁流のように記憶が押し寄せてきている。どうやら、凛導によって封じ込められていた記憶が一気に頭の中に戻って来たらしい。同時に激しい頭痛が起こり、霊夢は溜まらず頭を抑えて、地面へ倒れ込んだ。
そうだ。もっと前から、もっと子供だった時から、幻想郷の事が嫌いで仕方がなかった。母が死んで、無理矢理博麗の巫女に就かされて、妖怪退治をさせられた時、力を振るう度に怖くなった。どんな怪物も、化け物も、妖怪も敵にならない力が自分の中に宿っているのが怖くて、妖怪達を蹴散らすたびに迸る血と肉に何度も吐いた。それら全てを、凛導の手によって忘れさせられていたから、妖怪退治も、博麗の巫女の力を振るう事も怖くなくなっていったのだ。現にそれを思い出したとしても、全く怖くないし、吐き気も来ない。忘れるうちに、どうやら慣れてしまったようだ。……普通の人間ならば耐えられない光景を見る事に。
更に、常に母を殺した幻想郷に強い恨みと憎しみを抱いていた事も、その光景も思い出した。もう、母を殺されたその時からだ、この恨みが心の中に存在したのは。
こんな事を思い出すうちに、霊夢はこれまで博麗の巫女の中で育てられてきた『種』が『花』になるのには、自分の中が最高の環境である事を悟った。だから『種』は『花』になり、<黒獣>を生んだのだ。記憶の中に封印されていた、自分と博麗の巫女達の望みを叶えるために。
「こんなに沢山……忘れさせられていた……」
こんな記憶、博麗の巫女が抱くには拙過ぎる……忘れさせられて当然だ。だけどこんな記憶、抑圧されればされるだけ大きくなり、濃くなるに決まってる。だから、『花』は育った。<黒服>を生み出し、<黒獣>を生み出した。そして自分を『黒花の神女』とかいうものに選び、遥か昔からの計画を遂行し始めた。もう、自分は化け物以外何物でもない。
「うっ……ぐぅ――――ッ!!」
頭痛が収まったかと思えば、今度はいつもの胸痛が襲ってきた。<黒服>によれば、この痛みは『花』が活動する時に起こるモノらしい。そして、痛みの大きさは『花』の成長具合によって大きくなっていくという事らしい……今の痛みは、多分今までの中で最も強い。
「ぐぁあああぁ、ぐっあ、ごぎゃうっ」
激しい眩みと耳鳴り、心臓と胸の痛みで胸を抑えたまま蹲り、脂汗を流しながら悶える。
心と身体の中で『花』が育っている。解放された負の記憶を喰らって、『花』はもっと大きくなって行っている。もう、今までにないくらいに『花』は大きくなっている事だろう。そして、自分は更なる化け物へと変貌していっているに違いない。この痛みは、きっとそれによるものだ。
その時、胸の痛みが一気に増し、霊夢はかっと目を開き、空に向かって叫んだ。
「ぐああああああああッ」
これ以上ないくらいの叫び声が、空へ届いた直後に、まるで、自分を爆心地とした大爆発が起きたような気を、霊夢は感じた。
夢想天生の大爆発によってすべてが吹き飛んだ後の、更なる大爆発。辺りのものはごっそり吹き飛んで、本当に地面だけが残った。
その直後に、胸痛は一気に治まり、霊夢は元通り動いて、呼吸が出来るようになった。
「治まった……か」
起き上がってから自分の姿を見て、霊夢は気付いた。いつの間にか、服の色が変わっている。さっきまではいつもの赤と白の二色だったのに、黒紫一色に染まっている。そして、腕や肩には<黒獣>のそれを更に豪華にしたような禍々しい模様が浮かび上がっている。今の胸痛で、『花』は更に成長し、自分の姿にも変化を与えたようだ。鏡を見たら、さぞかし恐ろしい姿に変わっている事だろう。
「早く……早く何とかして……止めてもらわないと」
一刻も早く皆に殺されなければ。さもなくば、『花』が成長して、手を付けられなくなる。
もしこの幻想郷が滅べば、外の世界も『花』が滅ぼす。そして、<黒獣>だけの世界が、完成する。そんな世界を実現してしまったら、残された懐夢は生きていけない。懐夢が生きていられる世界を、早く確保してもらわなければ……。
そう思って目を閉じたその時、耳の中にひどく聞き慣れた声が届いた。
[霊夢]
目を開き、霊夢は辺りを見回した。
今の声は、懐夢の声だ。もしかして、近くに来ているのだろうか。
その時、階段の下の方から大きな爆発音のような音と衝撃が響いてきた。どうやら、下の方で戦闘が行われているらしい。まさか、懐夢は何かと戦っているのだろうか。この幻想郷で敵になるものと言えば、<黒獣>……懐夢はここまでやってきて、<黒獣>と戦っているのでは。
「懐夢ッ!!」
頭の中に懐夢の顔が、皆無との思い出の数々が駆け巡る。
どうせこれで最期なのだ。最期の時まで、懐夢の事は守ってやらなければ。
あの子は生きなければならない。あの子は、生きて幸せになってもらわなければ。
霊夢は立ち上がり、下の方を目指した。
*
<白獣>の力は恐るべきものだった。一度の攻撃で広範囲に高い貫通力を持つ光槍を放ち、背中から生える異形の手、その蛇の指からも光弾や光槍を吐き出し、<白獣>の元となった懐夢が苦手としていた弾幕を発生させた。一度でも<白獣>の攻撃を受ければ死ぬ――怒涛のような攻撃を放つ<白獣>の姿を見て、そのような事を一同は本能的に感じ取り、何とか被弾しないように弾幕の間を抜けながら、攻撃を続けた。
しかし、強大な力を持つ<白獣>と言えど、多勢に無勢だったのか、一同は<白獣>を押した。
<白獣>の師をしていた紫の統率、かつてこの異変を起こした者達、それを解決するために戦った者達が手を合わせた力は、かつての八俣遠呂智との戦いを彷彿とさせる戦いを見せた。一同から放たれる無数のレーザー光線と光弾、熱弾による豪雨のような弾幕が<白獣>を呑み込み、<白獣>の攻撃手段である蛇の指を破壊し、身体に確実にダメージを与え、<白獣>を弱らせる事を成功させた。
一同の中には一筋の思いがあった。<白獣>という化け物に呑み込まれた懐夢を、元に戻したいという、大きくて強い意志が。
霊夢はここで殺さなければならないが、懐夢の事は生きさせなければならない。懐夢を、霊夢と共に殺すわけにはいかない。懐夢は自らの意志であのような<白獣>となったが、きっと元に戻せば正気に戻るはずだ。霊夢が助けられなくても、せめて懐夢だけは助けてやりたい。
そんな思いを抱いた一同の攻撃を受けて、<白獣>は徐々に弱り、やがて満身創痍となって、立っているのもやっとのように、ふらふらとし始めた。
弱った<白獣>の姿を見て、魔理沙が叫ぶ。
「よし……いい感じに弱ったぞ!」
続けて、早苗が言い放つ。
「みなさん、止めを刺しましょう! それで、<白獣>は懐夢君に戻るはずです!」
一同が早苗の言葉に頷き、それぞれスペルカードの発動を急いだその時だった。
「それは、いかがでしょうか」
突然、耳元に届いた声に一同は驚いて、思わず手を止めた。<白獣>の方を見てみれば、再び背後に『化身』が出現して、不気味な微笑みを浮かべていた。
「この子は自らこの姿になりましたし、本当に<黒獣>と同質の存在であるか定かではありません。もしこの<白獣>を倒したとして、本当に懐夢に戻るかどうか……」
『化身』の言葉を耳にして、一同は思わず手を止める。
しかし、紫だけは手を止めず、スペルカード発動を急いだ。
「皆、気にしないで発動を急ぎなさい! 懐夢はきっと、倒せば元に戻るわ!」
一同は気を取り直し、再び動きを遅くした<白獣>へ狙いを定めた。
そして発動させようとしたその時だった。
「懐夢!!」
酷く聞き慣れた声に、一同は驚いて、階段の上方向へ目を向けたが、そこでもまた驚いた。
自分達よりも上の階段にいたのは、霊夢だった。しかし、霊夢は髪の毛が雪のように白く染まり、左目の周囲に禍々しい紫色の模様が出現し、右目は白目部分が黒くなり、瞳が紅く染まっている異形の目になり、身に纏っていた服はすべて赤から黒紫へ変化していて、露出した肌に、<黒獣>の模様である黒い花の模様と、紫と赤の刺々しく、禍々しい模様がいくつも出ている、異形に姿を変えていた。それは、すぐさま一同に、霊夢の中の『花』が成長させたことを悟らせた。
しかし霊夢は一同を気にせずに、<白獣>となった懐夢に目を向けて、驚いたような表情を浮かべていた。
「そんな、懐夢……」
変革者となり、『人間』に戻るはずだった霊夢。そのあまりの姿に、紫は言葉を失い、更に自分達大賢者の罪深さというものを思い知った。
今までずっと、霊夢を『人間』に戻すために『変革』を起こそうと考えて、計画してきた。しかし、それはあまりに遅すぎたし、何より博麗の巫女である霊夢の事を知らな過ぎた。
霊夢はここまで『花』に蝕まれていた。いや、ひょっとしたら『花』と共鳴し合っていたのかもしれない。それは霊夢が追い詰められれば追いつめられるほどに強くなっていき、最終的にあそこまで『花』と同化し、<黒獣>そのものといえる姿に変わってしまった。これも、凛導の暴挙を放置し、『変革』を急がなかったせいだというのか。
先代の巫女、霊凪と約束したのに。霊夢で管理され尽くされる博麗の巫女を終わらせてあげて頼まれて、絶対にそれを成功させると言ったのに。まさかこんなふうになってしまうなんて。
失敗だ『変革』は。そして、霊夢を『人間』としての博麗の巫女に戻すというのも、失敗だ。
「霊夢……」
もう駄目だ。あのまま放置すれば、きっと霊夢は本当に幻想郷を崩壊させる、『化身』のいう<黒花の神女>になる。そんな事になってしまって、一番辛いのは霊夢……せめて、あの形のまま、終わらせてやらなければ。そして、次代の巫女から、霊夢のような悲劇は起こらない巫女になる。
紫は心の中で決心すると、一同に再度指示を出した。
「みんな、スペルカードを発動させ、一斉射撃! 狙いは……<黒花の神女>、博麗霊夢!!」
紫の声を聞くと、一同は俯いたり、悔しそうなものや、悲しそうな表情を浮かべたりした後に、一斉に顔を上げ、狙いを<白獣>から<黒花の神女>へ変更し、一斉にスペルカードを解き放った。
「スペルカード!!」
一同の高らかな咆哮の直後、この場に集まった、<黒花の神女>と<白獣>、『化身』以外の全ての者に手に光や熱が集まり、それらは無数の光弾、熱弾、極太、複数のレーザー光線となって幻想郷を滅ぼす『花』を宿す<黒花の神女>に向けて発射された。
迫り来る熱弾、光弾、火炎弾、極太のレーザー光線や複数に分かれたレーザー光線、隙間のない熱と光の壁が迫ったが、霊夢は動かないでいた。
これでようやく終わる。ろくでもない人生だったが、これで禍根を残す事なく終わる事が出来る。これだけの攻撃だ、『花』だって耐え切れないはず。これで、『花』も消え去る。
目の前が白一緒に染まる。本当に、悪夢のような一生だった。感情を制御され、記憶を消去され、真っ当な人間として生きる事が出来なかった無意味な生。でも、一概には悪夢と言えない。
だって懐夢という素晴らしい子に出会えたのだから。今の自分があるのはきっと、懐夢のおかげ。
感情を取り戻し、記憶の消去などの効果を薄くしてくれたのも懐夢だ。そして、今まで<黒獣>との戦いや命の危機にはせ参じて、護ってくれたのも、懐夢だ。懐夢には感謝しても、しても、足りない。そして、これで終わりはするけれど、懐夢の生きる世界を残す事が出来る。懐夢が幸せになれる世界を――。
「霊夢」
一瞬、耳元に聞き慣れた声がして、霊夢は正気に返った。目の前が白でなくなっている。いや、白いけれど光や熱じゃない何かが映り込んでいる。
それの正体が、一同の目の前にいた、傷付いた化け物だと気付いて、霊夢は一気に顔を蒼褪めさせた。
「あ、貴方は……?」
腕と脚を覗いた全身が真っ白に染まり、目も光を放つただの球体と化しており、目つきも化け物のそれと同じようなものとなっていたが、見慣れた顔の形と長い髪の毛で、霊夢は目の前にいる化け物が懐夢である事に気付いた。自分の見ていない間に、懐夢は<黒獣>になったのだ。もしかして、自分を襲いに来たのではないのか。懐夢だって自分に邪な感情を抱いていないという保証はない。寧ろ、恨みを沢山買っていたかもしれない。自分が皆にやられる前に、止めを刺しに来たのか。
「か、懐夢……」
か細く言った瞬間、霊夢は、懐夢が今置かれている状況に気付いて戦慄した。時間がゆっくりになってしまったように感じるが、自分の目の前には皆が放った攻撃が迫ってきている。そして間もなく自分のところへ到達しそうなのだが、その、光弾や熱弾といった攻撃と自分の間に、<黒獣>となった懐夢はいる。このままでは、懐夢が――。
「懐夢……そんな、貴方……」
懐夢に少しずつ皆の放った攻撃が迫る。
懐夢は背中から生える異形を大きく広げて、盾を作る。
化け物のそれになっていた目つきは、徐々に懐夢のそれに姿を戻し、私と目を合わせる。
「か、かいむ、あなた、あなたぁっ」
震える声で言うと、懐夢は小さく微笑んで、僅かに唇を動かして、音を伝えた。
れ い む
だ い す き
止めたくて、懐夢に手を伸ばした直後、懐夢の背中に皆の放った攻撃が無慈悲に直撃した。
私は叫んだ。でも、声が出なかった。懐夢の背中に次々と光弾や熱弾、レーザー光線がぶつかっていくけれど、懐夢は壁のようになって動かない。しかも、攻撃を受けるはずの私には一切の衝撃も、痛みも来ない。全部、懐夢が肩代わりしている。肩代わり、されている。
攻撃を受け続けてエネルギーが溜まったのか、やがて、懐夢の背中で爆発が起き、私は後ろの方に圧されて倒れ込んだ。爆発音によって、激しい耳鳴りが起き、音がほとんど聞こえなくなる。それでも私は怯まずに、咄嗟に顔を上げて護ってくれた懐夢を目の中に入れた。
懐夢は燃えていた。全身を炎が包み込んで、燃えている。皆の攻撃を全部受け止めたせいだ。
私が叫ぼうとしたその直後に、懐夢の身体は音も風も衝撃もなく、大爆発。無数の青白い粒子のようなものを撒き散らしながら、私の目の前から消え去った。
懐夢が死んだ。私の目の前で、死んだ。
声にならない絶叫を上げながら、一心不乱に懐夢だった粒子をかき集めようとした。けれども光の粒は私の腕を次々避けて、天に上り、消えた。
もうそこに、あの子はいなかった。消えた。消えてしまった。
いつも私の傍にいて、私と一緒にいてくれた。
私を守るために、強くなって、戦い続けてくれた。
誰にも大好きなんて言われなかった私に大好きって言ってくれた。
私は<黒獣>の主だった。もう幻想郷で生きれなくなった。
懐夢には生きていてもらいたかった。私がいなくなったとしても、懐夢はちゃんと生きていける。
私がいなくなった後で、平和になった幻想郷で穏やかに、幸せに暮らしていける。―-はずだったのに。
あの子には輝かしい未来があったはずなのに。私の目の前で、あの子は命を散らした。あんなに小さいのに、ここまで頑張ってたのに、ずっと、頑張っていたのに。
みんなが……幻想郷が、あの子の未来を奪い去った。
「お前に未来を生きる権利なんかない」。そう言い放って。
生きる権利がない? それはどっち?
あそこまで頑張った小さな子を、殺しておいて、生きる権利がなかったですって?
生きる権利がないのは、あの子じゃなかった。
こんな幻想郷なんか……こんな幻想郷なんか、ぶっ壊れちゃえええええ!!!
私はかつてそう叫んだ。忘れてはいたけれど、そう叫んだのは確か。
ううん、ぶっ壊れちゃえじゃない。
私の中には私と同じ願いを抱くものがある。それのおかげで私の力は誰よりも、何よりも強いんだ。
だから、ぶっ壊れちゃえじゃない。
懐夢のいない未来の幻想郷なんか、必要ない。
母さんも、懐夢も、私の家族を全部奪った幻想郷なんか
ぶっこわしてやる
膝を付いた霊夢はその場で叫んだ。
直後に、霊夢より強力な閃光と暴風が発せられ、一同は山の中腹付近から天志廼の街へまで一気に吹き飛ばされた。
地面に強く激突した痛みに悶えながら、一同の中でも先方となって戦っていた魔理沙は顔を上げて、先程までいた山の方を見たが、そこで唖然とした。
巨大な荊の木が、無数の黒い荊で構成されたとてつもなく巨大な樹が山から生えている。そして、その樹は轟音を立てながら根を伸ばし、その大きさを少しずつ増して行っていた。
魔理沙が唖然としている最中、隣にアリスが並び、声を上げる。
「何よ、あの怪物大樹は……」
妖夢がそれに答える。
「ただの大樹じゃない……無数の荊だ……荊が、集まってあの樹を構成している……」
幽々子が息を呑む。
「西行妖でも、あそこまで大きな樹じゃないわ……あの樹、あそこまで大きくなってどうなるの……?」
紫は顔を上げて、呆然としていた。まさかあんな事になるなんて。
天志廼が、『家』が、博麗の巫女の滅びの意志に呑み込まれてしまうなんて。
こんな事あっていいはずがない。はずがない。はずがない。
気がおかしくなりそうになった直後、布都の叫び声で、紫は我に返った。
「うわわわッ! あの化け物の荊め、天志廼の街を呑み込むつもりだぞ!!」
一同は布都の指差す方向を見つめた。無数の荊の根が、天志廼の民家や施設を吐き、破り、壊し、呑み込みながら伸びて行っている。その光景は、一同にこのままではここも荊に呑み込まれる事を悟らせる。
早苗は青ざめた顔で、叫んだ。
「に、逃げましょう皆さん! ここも、妖怪の山も危険です!!」
その時、紫の懐で音が鳴った。咄嗟に手を伸ばし、音を立てるそれを取り出してみたところ、通信が出来る札だった。大きな霊紗という文字が浮かび上がっている。
紫は札に印を書き加えると、耳元にそれを当てた。札から、霊紗の声が聞こえてきた。
「紫、無事か!?」
「霊紗、無事よ。貴方達は今どこに」
「守矢神社だが……天志廼のある方角から恐ろしいものが見えた。だから今、守矢神社に集まった者達と共に博麗神社へ避難した。西の町の民達も、街の方へ避難した」
霊紗の声に焦りが加わる。
「天志廼にいるならば、今すぐに逃げろ! 博麗神社まで、早く戻るんだ!」
紫は「わかった」と答えて通信を終了。一同に声をかけた。
「皆、とりあえず逃げるわよ! 場所は、博麗神社!」
一同は頷き、街の出口、天門火の方へと走り出した。しかし、その時魔理沙は、リグルが付いてきていない事に気付き、振り返った。案の定、リグルはその場にとどまったまま、顔を下に向けていた。
魔理沙は慌ててリグルに駆け寄り、怒鳴りつける。
「おいリグル! 何やってんだよお前は! 逃げるぞ!!」
リグルは力ない声で、答えた。
「懐夢が……来ない」
「え?」
「私達は、<黒獣>になった後でも、倒されれば、出てこられた。でも、懐夢は出てこない。
懐夢は……死んじゃったの……?」
魔理沙ははっとして、頭の中に『化身』の言葉が蘇ってきたのを感じ取った。
「この子は自らこの姿になりましたし、本当に<黒獣>と同質の存在であるか定かではありません。もしこの<白獣>を倒したとして、本当に懐夢に戻るかどうか……」
今まで、<黒獣>は死ねば元になった者を吐き出すと霊夢から教えてもらっていた。だから、<黒獣>になった者を助け出すには<黒獣>を倒せばいいのだが、懐夢は<黒獣>ではなく、<白獣>と言われる存在になって、自分達と戦い、死んだ。<黒獣>に起きる現象が<白獣>にも適応される物なのか、定かではない。
もし、<白獣>が<黒獣>とは違い、死んだらもとになった者も死ぬ仕組みになっていたのだとすれば、自分達は懐夢の命を奪ってしまった事になる。
いつか、自分はこう言った。懐夢の異変を解決させてやると。
しかし、その後に起きた八俣遠呂智の覚醒も阻止できなかったし、今回にいたっては、その命を奪ってしまった。
魔理沙は拳を握り、歯を食い縛った。
「懐夢は……懐夢は……畜生めぇッ!!」
リグルがとうとう泣き出す。
「こんなのって……こんなのって……懐夢ぅ……!」
まさか、また助けられなかったのか。
そう思い、ふと空を見たその時、魔理沙は気付いた。
……光の粒が、空を舞っている。その色は、<白獣>とかした懐夢が爆発した時に散ったものによく似ている。いや、完全に同じと言ってしまっても支障ないかもしれない。
「こ、これは……」
魔理沙が呟いた直後、光の粒は徐々にその数を増して行き、自分達の真上を覆った。かと思いきや、粒子は徐々に一列に並び、棒のような形になった。魔理沙はその時点でも大いに驚いたが、粒子は開くように動き、空間に裂け目を作った。その形は、紫が使うスキマに酷似していた。
「す、スキマ!?」
魔理沙の声の直後、スキマらしき場所から、何かが真下へと落下し、どさっという音を立てて落ちた。
二人は仰天して落ちてきたものを確認したが、そこでまた、言葉を失った。スキマらしきところから落ちてきたのは、髪の毛が尻のあたりにまで長くなっている、裸身の懐夢だったのだ。
「か、懐夢!?」
魔理沙は死んだはずの懐夢が落ちてきた事に声を上げて、リグルはぱぁと顔を明るくした。
「懐夢!!」
咄嗟に、魔理沙は懐夢の身体を抱き上げて、揺すった。
懐夢は返事を返さなかったが、ちゃんと脈があり、呼吸をしていて、何より暖かい。生きている。
「生きてるぞ!」
リグルの顔は更に明るくなり、嬉し涙と思われる物が頬へと流れた。
「よかった……懐夢……!」
「あぁ、だけどなんで……」
ふと考えようとしたその時、背後からの声が響いた。
「魔理沙、あんたまで何をやってるのよ!」
魔理沙は我に返り、振り返った。アリスと紫が手を振っている。
その時、魔理沙はふと気が付いた。もしかしたら、懐夢ならば……。
魔理沙は咄嗟に笑み、懐夢を背負って立ちあがった。
「ちょっと切り札を見つけただけだ! 今逃げる!」
そう言って、リグルを連れて天志廼の出口へと走り出したその時、アリスと紫の顔が急に蒼くなった。
直後に、アリスが悲鳴のような声を上げた。
「ま、魔理沙、後ろぉ!!」
魔理沙とリグルは咄嗟に振り向いた。向こうにあったはずの荊の根がいつの間にかすぐそこまで来ていて、こちらに向けて飛んできているのが見えた。普段ならばこのまま飛翔して空へ逃げ出す事が出来るが、天志廼に張られている結界のせいで空が飛べない。だから、咄嗟に避ける事も出来ない!
「しまっ……」
やられる! そう思った時に、紫が魔理沙とリグル、荊の根の間に飛び込み、咄嗟にスペルカードを発動させた。
「結界「魅力的な四重結界」ッ!!」
紫の宣言の刹那、紫と根の間に四重に重なった結界が出現し、根を受け止めた――かと思われたが、数えきれないほどの荊が絡み合った根は紫の自慢の結界すら易々と突き破り、紫は後方へ吹っ飛ばされた。しかし、根の動きそのものは大きく逸れて、魔理沙達がいる位置から、左方向の製鉄所へと突っ込んだ。
一方紫は、更に後方にいる藍達の元まで吹っ飛ばされて、地面へ衝突した。
吹っ飛ばされてきた主人に藍は驚き、悲鳴のような声で主人の名を呼びながら駆け寄ったが、紫は地面に倒れ込んだまま答えを返さなかった。
しかし、呼吸をしているのは確認できたため、単純に気絶している事に藍はすぐに気付き、紫の身体を抱きかかえた。その直後に背中に懐夢を抱えた魔理沙と、アリスとリグルがすぐ奥から駆けてきた。
「藍、ここは紫の思い出の地みたいだけど、もう駄目だ。博麗神社まで逃げるぞ!」
「わかっている! もう遅れるなよ!!」
一同は徐々に荊の根に呑み込まれていく街の中を駆け抜けて、天門扉を抜けた。そこでようやく空を飛ぶ力を取り戻すと、一気に上空へ舞い上がり、博麗神社の方角へと急いだ。