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東方幻双夢  作者: クシャルト
完結編 第拾壱章 神女覚醒
118/151

第百十六話

「霊華」


 霊夢、懐夢は紫の言葉に驚いた。紫が、見たことも会ったこともない霊華の名を口にした。

 霊華は驚き、紫の方に目を向ける。


「え、私の名前を知ってる……?」


 紫は恐る恐る霊華に歩み寄り、小さく声をかけた。


「霊華……霊華、貴方なの」


 迫り来る紫に会わせて、霊華は後退する。


「な、なんですか……」


「私……私よ霊華」


「だ、誰なんですか、貴方は」


 構わずに霊華に迫る紫の手を、霊夢は力強く掴んだ。


「紫、何をやってるのよ。霊華が吃驚してるでしょうが」


「だ、だって、霊華、霊華……」


 懐夢が何かに気付いたような表情を浮かべて、紫に声をかける。


「まさか紫師匠、霊華さんの事を知ってるんですか!」


 紫は懐夢に目を向ける。懐夢は続けた。


「霊華さんは記憶喪失なんです。だから一生懸命に記憶を思い出せそうな事を探しているんですが……」


 紫の目が見開かれる。


「記憶……喪失……?」


 霊夢は紫の手を離し、霊華の方へ目を向けた。


「そうよ。あんたにはまだ紹介してなかったけれど、こっちは霊華。来た時から記憶喪失で、住むところがなかったから仕方なく家で養ってやってる。……わけなんだけど」


 霊夢は鋭い目つきで紫を見つめた。


「あんたのその言い草とリアクションから察するに、霊華の事を知ってるみたいね」


 霊華が驚いたような顔になって、紫に歩み寄る。


「私は、霊華って言います。霊夢と言ってるとおり、何も思い出せません。自分が何者だったのか、自分がどこに住んでいたとか、何も知らないんです。だから、それを知っている人を探していました。あの、私の事を御存じなんですか、えっと……」


 紫の口が小さく開く。


「紫。八雲紫」


「紫さん……私を知っているんですよね、紫さん」


 紫は霊華に歩み寄り、その両肩に手を置いた。


「霊華……本当に私の事がわからないの」


「わかりません」


 紫は悲しそうな表情を浮かべて、霊華の肩から手を離した。その様子を横で見ていた霊夢が、紫に話しかける。


「んで、紫。あんた知ってるのよね、霊華の事。それを霊華に教えてやってくれないかしら」


 紫は何も言わずに俯いていた。その顔にはこれまで見た事がないような、影を孕んだ悲しい表情が浮かべられている。……とてもじゃないが、話してくれそうにない。


「……紫。もしかして話したくないとか?」


 霊華が驚いたような顔になって、紫に近付く。


「そんな、教えてください。私は何者だったんですか、私がどこに住んでいたんですか、私の苗字は何なんですか。知っているんでしょう、紫さん!」


 紫は霊華から離れて、霊夢の方へ顔を向けた。表情は、重い影が落ちた悲しいものだ。


「霊夢……来て早々だけど、私には行かなければならないところが出来たわ」


「は、何を言って……」


「ごめんなさい」


 そう言って、紫は自らの右方向にスキマを開き、その中へと飛び込んだ。


「ちょ、ちょっと待ってください紫さん!!」


 霊華が後を追おうとしたその次の瞬間に、紫の開いたスキマは閉じて消えた。霊華は立ち止まり、「あぁ」と小さく声を漏らした。霊夢が思わず呟く。


「逃げられた……!」


 今、明らかに紫は霊華を知っているような言動を見せていた。間違いない、紫こそが、霊華の記憶のカギを握り、霊華の記憶を取り戻させる事が出来るかもしれない人物だ。まさか、霊華の記憶を取り戻せそうな人物がこんなに近くにいたとは思いもよらなかった。

 霊夢は霊華に近付き、その肩に静かに触れた。


「霊華、紫を狙うわよ」


「紫さんを狙う?」


「えぇ。紫は間違いなく、あんたを知ってる。あの人なら……あんたの記憶を取り戻す事が出来るかもしれない」


 霊華が目を見開く。


「それは本当なの」


「えぇ。いけると思うわ」


「でも、紫さんはどこへ行ってしまったの」


 霊夢は妖怪の山の方角を見つめた。紫はスキマを使って時には外の世界にすら行ってしまう事があるから、どこへ消えたのかは想定しきれない。まぁ、今回に限っては幻想郷のどこかへ移動したという事は確かだが、それでもこの広い幻想郷の中から、いつ消えるかわからない蜃気楼や虹のような紫を見つけ出すのは困難を極める。だから、探しに行くのはやめた方がいいだろう。


「紫がどこへ消えたかは考えない方がいいわね。でも今度会った時には……尋問してでも吐き出させるわ。そして、あんたの記憶を取り戻す」


 霊夢は霊華の赤茶色の瞳を見つめた。


「あんただって、取り戻したいでしょう。記憶を」


「取り戻したい。私は、私が何者なのかを早く知りたい」


「そのためには、紫を捕まえて吐かせる必要があるわ。その時になったら、手伝ってくれるかしら」


 霊華は頷いた。


「やってみる。ううん、やるわ」


 霊夢は「そう」と言って、懐夢に目を向けた。


「懐夢、貴方も手伝ってくれるかしら。貴方にとっては師匠を捕まえる事になるだろうけど」


 懐夢は霊夢に近付いて、頷いた。


「大丈夫だよ。ぼくも、霊華さんの記憶を取り戻してあげたいから。そのためなら師匠にも協力してもらわないと」


「わかったわ。懐夢もお願いね。霊華の記憶がどんなものなのか、早く答えを見つけ出しましょう」


 霊夢の言葉に、霊華と懐夢は頷いた。かと思えば、霊華が何かを思い出したような顔になって、霊夢に声をかける。


「あぁそうだ霊夢。この神社に、弓矢って無いかしら」


 霊夢が首を傾げる。


「弓矢?」


「そうそう。何となくだけど、私、弓矢を使っていたような気がするの」


 懐夢が霊華を見上げる。


「弓矢、ですか」


「えぇ。何故なのかはわからないけれど、弓矢を使ってたような気がしてならないのよ。だから弓矢を使えば、何か思い出すんじゃないかって思って」


 さらに、霊華は何かを思い出したような表情を浮かべる。


「あ、弓矢だけじゃないわ。刀……刀も使っていたような気がするの」


 懐夢が何かを考え込むような仕草をした後に、霊華に問う。


「弓矢って事は、霊華さんは狩人でもしていたって事でしょうか」


 霊夢は首を横に振った。今時弓矢は防衛隊の者達でも装備している代物であるから、弓矢が狩人の専用装備とは言えないし、何より、あの紫があそこまで霊華を知っているようなそぶりを見せていた。多分、霊華は狩人ではなく、霊紗も言うように博麗の巫女の関係者に違いない。


「狩人ではないと思うわ。でも、博麗の巫女の関係者である紫があそこまで反応を示してたって事は、あんたはやっぱり博麗の巫女の関係者なのよ。一体何者なのかまではわからないけれどさ」


 霊夢は倉庫の方へ目を向けた。確か、弓矢と刀ならば、宴会に使う道具を仕舞い込んでいる倉庫の中にあったはずだ。……まぁ普段使う事がないから、埃を被っていて、手入れが必要な状態になっているかもしれないが。


「ちょっと待ってて頂戴。倉庫の中を探してみるわ」


 そう言って、霊夢は二人から離れて、倉庫の中へと入り込んだ。やはり夏以外に開ける時がないせいか、埃っぽくて、湿っぽい臭いが鼻の中へと流れ込んでくる上に、薄暗い。そして見渡そうとすればすべての方向に無数の道具が散らばっている。八俣遠呂智を討伐した次の日の宴会が終わった後の、ままだ。


「さてと、弓矢に刀……」


 前に探した時には、道具が少ないところに置いてあったはず。あの時は単に弓矢と刀がある、放っておけばいいかと思っただけだったが、まさか霊華がそれを必要とするとは思ってもみなかった。


「えっと……どこだったかなぁ」


 そう思ってもう一度周囲を見回して、霊夢はあっと言った。……階段箪笥のすぐそばに、大きな弓と矢筒、埃を被った鞘に入れられた刀がかけられている。道具の中を探し漁らなければならないかと思ったが、意外と簡単に見つける事が出来て、霊夢は少し驚いた。


「……割とすぐそばにあったわ」


 霊夢は床に転がる道具を跨ぎながら倉庫の中を歩き、階段箪笥のすぐ傍まで来ると、立てかけられている大弓、矢筒、刀を手に取った。三つはあまり重くなく、持っていて苦にならないくらいだった。


「軽いものなのね」


 呟いた後に、霊夢は倉庫を出て、思い切り深呼吸をした。倉庫の中の空気を吸った後だと、吸い慣れた外の空気すらも美味しいと感じられた。

 その後に、境内の方へ目を向けてみたところ、待っていたはずの霊華と懐夢がこちらに向かってきているのが見えた。寄ってくる二人に、霊夢は声をかける。


「霊華、あったわ!」


 霊夢は二人に駆け寄り、そのうちの霊華に弓、矢筒、刀を見せた。


「ほら、弓矢に刀。これでいいんでしょう」


 霊華は何も言わずに頷き、弓を手に持って、じっくりと眺めた。


「やっぱりそうだわ……この感じ、何だか懐かしい。私は弓矢を使って戦っていたんだわ」


「戦うって……」


 霊華の言葉を聞いて、霊夢は初めて霊華と出会った日の事を思い出した。あの時霊華は空を駆けて、自分の放つスペルカードに似た術を発動させていた。あの時の事から考えるに、霊華が戦闘をかつて戦闘が出来ていたと言うのは間違いないだろう。あの時は術を放っただけだったから、どんな術を使って戦っていたかまではわからなかったが、これではっきりした。


「あんたは弓矢を使ってたのね。それじゃあ、刀の方は」


 霊華は弓を置き、刀を手に取ったが、すぐさま首を傾げた。


「えっと……一本じゃなかった気がする……」


「一本じゃない? って事は二本刀装備してたって事かしら」


 霊夢は懐夢の背中に目を向けた。いつもどおり、刀が携えられている。


「懐夢、霊華にそれを貸してあげてくれないかしら」


 懐夢は「わかった」と頷き、いつも装備している刀を霊華に差し出した。


「霊華さん、これでいいんですか」


 霊華は懐夢から刀を受け取り、両手に刀を装備した。次の瞬間、霊華がハッとしたような顔になる。


「そうそう。こうやって二本刀を持っていたわ。でも……」


「でも?」


 霊華の顔が急に不安そうな表情になった。


「どんな戦いをしていたか……いや、何のために戦ってたのか、思い出せない……」


 霊夢は腕組みをした。


「だから、紫に聞くんでしょうが。あんたの記憶を握ってるのは間違いなく紫なんだから」


 霊華は刀を鞘に戻し、そのうちの一本を懐夢に返した。

 その後すぐに、霊華は小さく口を動かした。


「もしかしたら……戦えば何か思い出すかもしれない」


 霊夢がきょとんとする。


「戦えば、思い出す?」


「えぇ。だから霊夢……次の<黒獣(マモノ)>との戦い、私も行かせてもらえないかしら。ほら、前に霊夢、私の力が見たいとか言ってたじゃない」


 霊夢は霊華の言葉に驚くと同時に、かつて霊華にかけた言葉を思い出した。そういえば、前に霊華の力が見たいと言った気がする。だがそれはあくまでただ見せるだけであって、実際に<黒獣(マモノ)>と戦ってくれという意味で言ったわけではない。


「駄目よ霊華! <黒獣(マモノ)>との戦いは、すごく危険なのよ。あんたが戦ったら、真っ先にやられるわ!」


 霊華が鋭い目つきで言う。


「でも、私は貴方達と会う時に<黒獣(マモノ)>を倒しているんでしょう。

 私にはきっと、<黒獣(マモノ)>を倒せるだけ力が、強さがある。もう、霊夢達だけを生きるか死ぬかの戦いに行かせたくないの」


 霊夢はきょとんとする。


「あんた、戦いたいの」


「えぇ、戦いたい。貴方達と一緒に戦って、貴方達と一緒に異変を終わらせて、自分が何者だったかを知りたい」


 その時、霊夢は気付いた。霊華の瞳は、懐夢が何かを訴える時のそれと非常によく似ていた。強い、決意を示す目の色が、霊華の赤茶色の瞳の中に浮かび上がっている。多分、もう霊華は引き下がるつもりはないのだろう。

 だが、今までの戦いがそうであったように、<黒獣(マモノ)>との戦いは非常に危険なものだ。今までは何とか勝ってきたものの、あれら以上に強い<黒獣(マモノ)>が現れたらどうなるかわからない。ましてや、そこで戦っていた記憶を持たない霊華が行く事になってしまったら、霊華が真っ先にやられるのが目に見えている。今の霊華は、<黒獣(マモノ)>を倒した時の霊華ではないのだ。


「そうだろうけれど、あんた<黒獣(マモノ)>がどれくらいのものか知ってるはずでしょ。もし力の使い方も知らないあんたが<黒獣(マモノ)>と戦ったら、どうなるか……」


「それでも私は戦いたい」


 言っても霊華の訴えは変わらなかった。霊夢はこれ以上言っても無駄だと思い、深い溜息を吐いた。


「仕方ないわね……次の戦いがいつになるかわからないけれど、それまでに考えておくわ」


 霊夢は霊華の弓と刀に目を向けた。


「それ、どうすんの。倉庫にしまう? それともこのまま出しておく?」


「出しておいて頂戴。きっと次の戦いに使うだろうから」


「そう。それじゃ、全部のものに手入れが必要かもね。懐夢、貴方弓の手入れの仕方とかわかる?」


 懐夢は頷いた。


「霊紗師匠から教えてもらったから、わかるよ。刀の手入れの仕方もわかる」


「そう。じゃあ、霊華の弓矢の手入れ、お願いできるかしら」


「任せておいて」


 霊夢は頷き、霊華に目を向けた。

 戦闘になれば、あの時の霊華が目を覚ますのか、それとも今の霊華のままなのか。霊夢の心の中には一抹の不安が渦巻いていた。



              *



 その頃。こちらは紫。紫は、幻想郷の中でも隔離された、天志廼にやってきた。あの少女、霊華が幻想郷に現れている事の真実を確かめるために。

 しかし、やってきて紫は思わず首を傾げた。天志廼の街に、人がいないのだ。いつもは、街のように賑わっているというのに、店屋に数人いる程度で、街に人がいないのだ。

 静まり返っている街の中に降り立ち、紫は辺りを見回す。


「これは一体……」


「天志廼の民ならば、街の復興を手伝うために向かわせた」


 聞きたくないのに聞き慣れてしまった、忌むべき声が聞こえてきて、紫は振り返った。そこにいたのは天志廼に来た目的であり、幻想郷を影から支配している忌まわしき天狐、伏見凛導の姿だった。

 凛導の容姿を見るなり、紫は声を荒げた。


「凛導! どういうつもりなの!!」


 凛導は鋭い目つきで静かに答える。


「崩壊した街に天志廼の民を向かわせた事か。大丈夫だ、今の奴らは街を崩壊させに行ったのではなく、街の民を助けに行ったのだ。街の民を殺したりはせぬ。()()()()()()()()()()な」


 紫はぎりっと歯を食い縛る。


「貴方は……どこまで身勝手なのよ。罪のない人々を大勢殺して……一人の子をあんなに悲しませて……二人の子あそこまで苦しめて……そのうえ……そのうえ……あの子を幻想郷に解き放つなんて」


 凛導は表情を変えずに淡々と言う。


「あの子は記憶を失った状態でこの幻想郷に解き放たれている。幻想郷に何も問題はないはずだ。お前だって、あの子の復活を待ち望んでいたのだろうに」


 紫の表情が揺らぐ。


「そ、それは……」


「それに、あいつは何もかも忘れている。もう一度お前と生活する事だって可能なはずだ。それに、現在の幻想郷は過去のどの時代(とき)よりも整い、平穏だ。あの子が生きるには最適の環境ではないか」


 紫が何かに気付いたような表情になり、目を見開く。


「まさか貴方がこれまで博麗の巫女を犠牲に、幻想郷を支配して来た理由って……!」


 凛導は光のない瞳で空を見上げた。


「そうだ。全てはあの子を……解き放つためであった。そして今、我はそれを成し遂げた。あの子は記憶を失う事によって、元通りのあの子に戻っている。お前の知るあの子にな」


 紫は何も言わずに凛導の声を聞いていた。

 凛導は視線を紫に戻した。


「お前は幻想郷を支配する我を憎んでいたな。我の目的は完遂された。さぁ、我を殺してもいいぞ。もう我は生きている意味など無い」


 紫は拳を握りしめた。


「そうしたらどうなるか、わかっているくせに。貴方は結局あの子だけを見つめていて、他の子には目もくれていないのね」


「それがどうしたというのだ。親が愛する我が子を救おうとして何がいけない。そのために犠牲を強いて、何がいけないというのだ」


「その、犠牲になっている子の事は? 貴方ほどの人が、誰も犠牲にせずに、愛する我が子を救おうとは思えなかったの」


 紫は凛導を怒鳴りつけた。


「知らない間に犠牲されて、理不尽に苦しめられている子の事を、考えなかったの!?」


「知らぬな。我はあの子に生きてもらえればそれでいい」


 紫は自らの髪の毛を掴んだ。


「……そうやって……貴方は……しかも、あの子を人質に取るなんて……狂ってる……」


 凛導は小さく溜息を吐いた。


「そもそも、適合したあいつには問題があった。我はその問題を解決させるために、あぁやっただけだ。現にあいつは我によってまともに生きれているではないか」


「でもそれじゃあ、あの子は……まるであの子自身じゃ生きれないみたいじゃないの」


「ならば、我を殺すか。我を殺せば、あいつはあの子のように元に戻る。出来損ないにな。

 もし我が死ねば、あいつは昨日以上の出来損ないになるだろうな」


「貴方は幻想郷のために頑張るあの子をそんなふうに言うのね。狂ってるわ」


 凛導はしゃんっと錫杖を鳴らした。


「好きに言うがいい。だがどのみちあの子はこの幻想郷へ解き放たれた。あとはあいつが異変を解決させれば終わりだ。

 その後の事はお前達で勝手になんとかすればいい。異変が終われば、我は幻想郷の賢者を降りる」


 紫は歯を食い縛った。


「そう……貴方こそ勝手にすればいいわ。もう貴方には、あの子に会う権利も、無い。かつての貴方も、見る影ないわね」


 凛導は何も言わずに振り返り、山の方へ目を向けた。


「そうだな。ここまでやりたい放題やった我には、あの子に会う権利はないのかもしれないな」


 そう言って、凛導は街の奥の方へと歩き出したが、紫はそれを追わなかった。

 一人その場に残された紫は天志廼の入り口の方へ身体を向けて、拳を握りしめた。


「私は貴方のような事はしない……あの子も……あの子も……一緒に生きさせる……」



              *



 その夜。満月の光が差す、慧音の家の前。


「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ」


 慧音は叫び声をあげて、頭を両手で抑え込んだ。

 街に遺された者達より集めた記憶は、想像以上のものだった。少し記憶を覗こうとするだけで、頭の中に無数の凄惨な映像が、耳の中に無数の雑音、悲鳴、嘆きの声が雪崩のように押し寄せてくる。しかも悲鳴は聞き覚えのある子供達の親の声、凄惨な映像はよく知る者達が繰り広げている。

 これらの記憶を全て消去し、街の人々を健全な状態へと戻さなければならないが、そのためには集めた記憶の深くまで覗き込み、認識しなければならない。しかしそれをしようとすると、頭の中に凄惨な映像が連続し、耳の中が悲鳴と雑音で満たされ、身体は震えて止まらなくなり、腹の奥からは吐き気が突き上げてくる。更に深くまで認識しようとすれば、気が狂いそうになる。


 だが、これだけ凄惨な記憶は、街の人々の中にあってはならない。何としてでも、消さなくてはならない。

 何としてでも、消さなくてはならない。何としてでも、消さなくてはならない。

 消さなくてはならない。

 消さなくてはならない。

 消さなくてはならない。

 消さなくてはならない。

 消さなくてはならない。


 それが自分に課せられた宿命なのだから。


「ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ」


 身体に、心に力を込めて、慧音は術式を展開した。

 しかし、しっかりとした術式を展開したのに、術式がひどく歪んで見える。……いや、歪んでいるのではない。いくつもの映像が連続で目の前に現れて、ひどく視界が淀んでしまっているのだ。まるで、濁流を見つめているような感覚だ。耳には変わらず猛烈な悲鳴と声が鳴り響いていて、その他の音が全く聞こえてこない。


「ぐ、ぐぁぁ、ぐがぁ」


 濁流か、雪崩か、土石流か。どれも当てはまらないような激しい負の映像と声に悲鳴を上げながら、慧音は術式を操作。これまで何度も行ってきた、記憶の消去を、実行した。その時動かした手は、いつもは軽く感じるのだが、今は身体が鉄や石にでもなってしまったかのように重く、鈍く感じられた。

 術が発動すると、慧音を襲っていた土石流のような負の映像と声は止み、慧音は糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。


「終わったか……」


 ここまでひどい記憶を見たのは初めてだ。これだけの数の人と妖怪が死んだのも、これだけの悲鳴や絶望の声を聞いたのも、これが初めてだ。

 沢山死んだ。知り合いも、よくしてくれた人達も、可愛かった子供達も、皆根こそぎ死んでいった。そう思うと、涙が出てきて、目の前がまたかすみ始めた。


「何故だ……何故なんだ」


 何故これだけの人が、子供が犠牲にならなければならなかった。

 いったい誰だ。こんな罪のない人と子供に死刑宣告をしたのは。

 いったい誰だ。こんな罪のない人と子供を殺したのは。

 いったい誰だ。誰のせいなのだ。

 私の可愛い教え子達を殺したのは、誰なんだ。


「誰だ、何故だ、誰だ」


 口の中で何度もつぶやいたその直後、声が聞こえてきた。


[博麗の巫女だ]


 慧音はハッとして、顔を上げて辺りを見回した。


「誰だ」


[こっちだ]


 背後から声が聞こえてきて、慧音は振り返った。

 そこには、自分が立っていた。髪の毛が黒くなっている事と目が紅くなっている事を覗けば、姿形は自分に完全に酷似している。


「お前は……」


[酷い作業をさせられたものだな、私よ。教え子を亡くした後だというのに何たる仕打ちだ]


「そうだな……まったくひどい作業をさせられたとは思うよ。でもこれは私の宿命だから仕方がない」


 目の前の自分は首を横に振る。


[そんな事はない。そもそもだ、なぜこんな事になったかわかるか]


「<黒獣(マモノ)>の異変が起きていたからだ。この異変のせいで出現した<黒獣(マモノ)>に、皆殺されたんだ」


[そうだな。だが、お前は思い付かないのか]


 慧音は首を傾げる。


「何をだ」


[博麗の巫女だ。あいつは元々、この幻想郷を、そしてそこに住まう民を守る存在だ。あいつが指名を怠ったから、街の皆は死んだのだ]


「……霊夢のせいなのか」


 目の前の自分は頷く。


[あぁそうだとも。霊夢がしっかりしなかったから皆が犠牲になったのだ。死んだ皆はさぞかし無念だっただろう。守ってくれるはずの巫女が無能だったばっかりに、死んでしまったのだから]


「無念だろうな……」


 目の前の自分は手を伸ばし、肩に置いた。


[その無念を晴らしたいと思わないか。きっとこのままでは、死んだ皆は無事に成仏しないだろう。私達で博麗の巫女を殺し、皆の無念を晴らすのだ]


「霊夢を、博麗の巫女を殺す……」


[そうだ。そうすればきっと皆も満足して旅立てる。街の皆を守り、時に宥めるのがお前の使命だったはずだ]


 直後、紅い目の慧音の身体はどす黒く染まり始め、やがて完全に真っ黒になって、口と目が赤く輝いている化け物に変化した。口は胸元まで大きく裂けていて、血のように紅い光を放っている。

 慧音は目の前の化け物をじっと見つめていたが、そのうち化け物は口を開いて、言葉を発した。


[さぁひとつになるのだ。ともにしめいをはたそうぞ]


 慧音は口角を上げて頷いた。


「あぁ……待っていてくれ皆……必ず、無念を晴らす」


 化け物はその大きな口で、慧音の身体にかぶりつき、無数の歯で慧音の服を全て破り裂いた後に、ごくりと呑み込んだ。



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