第百四話
恐れていた事が、とうとう起きてしまった。
幻想郷の住民達が次々と<黒獣>と化していく様を見て、このままいくとリグルといった自分の知り合いや友達にまで<黒獣>が現れるのではないかと霊夢は心配していたが、その心配は現実となった。今、目の前に<黒獣>と化したリグルが、殺気と邪気をこちらに向けて、どうやって殺してやろうかといっているかのような狂気に満ちた表情を浮かべている。しかも幽香によれば、あのリグルは幻想郷の妖怪の中で五本指の中に入るほどの戦闘能力を持つ幽香を僅か数発で瀕死に追い込んだとの事。これまで様々な姿を持ち、高い戦闘能力を持った<黒獣>と交戦してきたが、あのリグルから放たれている邪気と殺気は今までの<黒獣>のそれを遥かに凌駕している。間違いなく、あのリグルは今まで戦ってきた<黒獣>の中で最強の<黒獣>だ。しかし、まだ戦闘が始まって間もないため、リグルがどのような先方や戦術、攻撃を仕掛けてくるかまったく分かっていない。
「みんな、何をしてくるかわからないわ! 注意しながら戦って頂戴!」
霊夢の呼び声に一同は頷き、<黒獣>リグルを囲むようにそれぞれバラバラに散らばって、戦闘態勢をとった。霊夢もまたその場から飛び上がって空中へ行き、<黒獣>リグルへ視線を向けた後に思考を巡らした。
「さてと……」
本来ならばリグルはあまり大した戦闘能力は持っていない。スペルカードは灯符「ファイヤフライフェノメノン」や、蠢符「ナイトバグトルネード」、隠蟲「永夜蟄居」といったものだが、どれも標準的な弾幕を放つものでしかなかった。しかし今のリグルは<黒獣>と化しており、戦闘能力が大幅に向上している。これらのスペルカードが全く別なものに変化していたとしても別に不思議は話ではないだろう。
(ひとまず、一発仕掛けてみるか!)
そう言って、霊夢は懐から一枚のスペルカードを取り出して構えた。カードは瞬く間に光となって霊夢の両手に集まり、やがて光の珠を作り出す。
「霊符「夢想封印」!!」
霊夢の宣言の直後、霊夢の両手に作られている光の珠は霊夢の手を離れ、七色の輝きを放ちながら、<黒獣>リグルへと突撃した。高速で飛来してきた光の珠に、<黒獣>リグルは驚いたような顔になったが、一瞬で表情を元に戻して、背中から生えた禍々しい模様が走る蝶の翼を大きく広げ、勢いよく羽ばたいた。<黒獣>リグルの前方に強風が発生し、同時に<黒獣>リグルの前に黒い煙のようなものがどこからともなく発生し、<黒獣>リグルの周囲がどす黒く染まった。その中に、霊夢の放った光の珠は吸い込まれるようにして消えていった。
慧音が驚きの声を上げる。
「あれは……なんだ」
アリスが呟くように言う。
「鱗粉……じゃないかしら」
魔理沙が反応する。
「鱗粉? 毒蛾の粉みたいなものか」
「えぇ恐らくは。でも何で鱗粉なんか……」
アリスが魔理沙に説明をする中、霊夢は一瞬戸惑った。いつまで経っても、光の珠が炸裂する音が聞こえてこない。今のスペルカードで放たれた光の珠は、目標に着弾すると炸裂するものなのだが、あの黒い鱗粉の中に飛び込んでから、まったく変化が無い。中で何が起きているというのかと思ったその時、霊紗が戸惑ったような顔を浮かべて近付いて来た。
「どうなっている。何も起こらないぞ」
「私も同じ気持ち。中で何が……」
霊夢が言った直後、黒い霧の中から、霊夢の放ったものと思われる光の珠が飛び出した。一同がそれに驚くと、光の珠は空の彼方へと飛んでいき、やがて爆発四散した。
「なっ……!?」
霊夢は思わず驚きの声を上げてしまった。今空へ飛んでいって、爆発四散したのは間違いなく自分の放った光の珠だ。黒い霧の中で爆発せず、軌道を変えて飛び出し、爆発したのだ。そして光の珠の軌道を変えた黒い霧の方を見てみると、そこには悠然と立ち尽くしている<黒獣>リグルの姿があった。衣服、肌、髪の毛、翼、どこを見ても傷一つ付いていない。どうやら、先程の攻撃でダメージを受けなかったらしい。
「まさか、無傷……!?」
慧音が驚愕したような顔になる。
「霊夢の夢想封印が効かないなんて……!!」
幽香が驚いたような顔になる。
「まさか貴方の攻撃すらもあのようにしてしまうなんて、あの子、もしかしたら貴方の強さを超えてしまっているんじゃないかしら」
幽香の言葉には頷けた。霊符「夢想封印」によって放たれる光の珠は並大抵の運動能力では回避できないくらいの誘導性能を持っている。これまで、あの攻撃を避けられた者はいないため、自分の中では切り札のようなものだった。それを、懐夢の友達であり、懐夢と恋人になろうとしているリグルが、<黒獣>になる事によって無効化した。<黒獣>の力はやはり、博麗の力を上回っている。
だとすればあのリグルは想像以上に危険な相手だ。博麗の力をも上回る力を持つという事は、幻想郷最強の存在である博麗の巫女よりも強く、その気になれば博麗の巫女を倒し、殺してしまえるという事だ。博麗の巫女である自分が倒されれば、幻想郷を守ろうとする存在はいなくなり、<黒服>の幻想郷の破壊計画は遂行されてしまう。そんな事は絶対に許されない。ここで死ぬわけには行かない。何としてでもあのリグルを打ち倒し、<黒服>の野望を打ち砕いて幻想郷に平和を取り戻さなければならない。
「そんなの許さないわ。あの子は異変……異変は解決されなければならないわ」
霊紗が頷き、拳法を使うような姿勢を取る。
「そうだ。私達は負けられない。何としてでもあの娘を止めるぞ」
霊夢は頷き、再度身構えた。そして、頭の中であの現象について思考をめぐらせた。
恐らく、あの鱗粉が原因だ。あの鱗粉には弾の軌道などを逸らす特殊な力がある。それは夢想封印によって放たれる光の弾の軌道すらも変えてしまうほどに強力だ。なんとかあの鱗粉を出さないようにさせなければ、攻撃するのは難しい。ならば接近戦で挑めばいいではないかという話になるが、<黒獣>となったリグルの戦闘能力は幽香を凌いでいる。そんな相手に接近戦を挑もうものならば、瞬く間にやられてしまうだろう。だから下手に接近戦を仕掛けることも出来ない。あの<黒獣>リグルを倒すには、この場にいる全員による遠距離攻撃を仕掛ける必要がある。少なくとも、博麗の巫女である自分一人の力でどうにかできるような相手ではない。
「私一人であいつを止めるのは無理な話よ。みんなの力を貸して頂戴!」
他の者達が霊夢の呼び声に答えると、霊夢は再度<黒獣>リグルへと視線を向けて、もう一度声を出した。
「あいつの翼をどうにかしないといけないわ。あいつの翼から出てる鱗粉のせいで弾が思うように飛んでくれないみたい」
魔理沙が頷く。
「そのようだな。だって霊夢の夢想封印が滅茶苦茶な方向に飛んでいったんだ、私達の弾幕もあんな感じになるんだろうな」
「だからって接近攻撃を仕掛けようとしようものならばさっきまでの私みたいになってしまうかもしれないわ。私だって瀕死だったわけだったし、貴方達があんな目に遭おうものならほぼ百%の確率で死ぬと思うわ」
幽香の言葉に、霊紗が鼻で笑う。
「それはどうかな。私達の力を舐めてもらっては困るよ」
「そうよ。私達だって無力なわけじゃないんだから」
アリスがそう言って、スペルカードを発動させる。
「偵符「シーカードールズ」!!」
アリスの宣言の直後、アリスの周囲に女の子を模した形をした人形が七体ほど出現し、<黒獣>リグルの蝶の翼へ狙いを定めると、その手に光を宿し、レーザー光線として<黒獣>リグルへ照射した。<黒獣>リグルは迫り来るレーザー光線の方へ身体を向けると、翼を広げて羽ばたき、目の前を鱗粉で黒く染めた。レーザー光線は真っ直ぐに鱗粉の中へ飛び込び、鱗粉の中で乱反射し、<黒獣>リグルのいる場所とは全く違う場所に飛び出した。やがて人形はレーザー光線の照射を中止したが、<黒獣>リグルは全くと言っていいほど傷ついていなかった。
攻撃を完全に無効化された事にアリスはごくりと息を呑む。
「なんて事なの。攻撃が通用しないなんて」
魔理沙がアリスに声をかける。
「火力が足りないんだよ! 私の魔法の火力ならどうする事も出来ないはずだ!」
そう言って、魔理沙は高らかにスペルカードを持った手を掲げて、叫ぶ。
「これでも喰らいやがれ!!」
魔理沙の声の直後、その手に持たれていたスペルカードは光となって、もう片方の手に持たれているミニ八卦炉に吸い込まれるようにして消えた。
八卦炉が強い光を宿し始めると、魔理沙はそれを<黒獣>リグルへ向け、スペルカードの名を叫ぶようにして宣言した。
「恋符「マスタースパーク」!!」
魔理沙の声の直後、ミニ八卦炉よりアリスのそれとは比べ物にならないほどの極太のレーザー光線が轟音と暴風と共に飛び出し、空気を揺らしながら<黒獣>リグルのいる地点目掛けて飛んだ。<黒獣>リグルは先ほどよりも大きなレーザー光線の襲来に驚いたような顔を一瞬浮かべると、蝶の翼を素早く羽ばたかせて鱗粉をばらまきながら飛翔。魔理沙の放ったレーザー光線を回避した。目標への攻撃に失敗したことを確認すると、魔理沙はレーザー光線の照射をすぐに中止し、空中へ上ってきた<黒獣>リグルに目を向けて口角を上げる。
「なるほど、なるほど。あまりに高出力の攻撃は乱反射させられないって事か」
霊夢も魔理沙と同意見だった。<黒獣>リグルの鱗粉は光弾やレーザー光線の軌道を大きく捻じ曲げる特性があるようだが、あまりに高出力なものはその軌道をそらすことができないらしい。その基準がどこまでなのかわからないが、少なくとも魔理沙のマスタスパークは捻じ曲げることができないように思える。もしマスタースパークを捻じ曲げることができたのであれば、驚いたような顔を浮かべて空中へ退避する必要はなかったはず。つまり、魔理沙のマスタースパークを当ててしまえば、<黒獣>リグルの鱗粉の防御を打ち破ってダメージを与える事ができる。そしてその時に鱗粉をばらまく羽を破壊してしまえば、鱗粉の防御を喪失させて、遠距離攻撃が通じるように出来るはず。
「そのためには隙を作るか、無防備な状態を作るか……!」
そう言って、<黒獣>リグルへ再度目を向けて、霊夢は驚いた。いつの間にか、<黒獣>リグルが姿を消している。無意識に考えに耽って、<黒獣>リグルへの注目をやめてしまったのが原因らしい。いったい、<黒獣>リグルはどこへ……。
「れ、霊夢! 後ろさだ!」
魔理沙の声が聞こえてきて、霊夢は咄嗟に振り向いた。そこには、今から攻撃を仕掛けてやろうと考えていた<黒獣>リグルの姿があった。<黒獣>リグルは黒い鱗粉をばら撒きながら羽ばたいて、こちらを見つめている。
「しまっ――」
<黒獣>リグルから距離を取ろうと考え、飛翔しようとしたその次の瞬間<黒獣>リグルはガット腕を突き出し霊夢の首元掴んだ。のど元への急な圧迫に霊夢が咳き込み、動きを止めてしまうと、<黒獣>リグルはがっと顔を霊夢の顔に近づけた。
[おまえさえいなくなれば、おまえさえいなくなれば]
懐夢が手に入るとでも言いたいのだろう。<黒獣>は人や妖怪が強い負の感情を抱いたときに発生するもの……リグルはきっと懐夢を手に入れたい独占欲で<黒獣>と化したのだ。そしてその独占欲を邪魔する存在である自分を消そうとしている。――懐夢を自分を物にしたい。その邪魔をする奴は許さない。……そんなものを認める者が、どこにいるというのか。
「残念だけど……懐夢は誰のものでもないわッ!!」
霊夢は咄嗟に右手で拳を握り、目の前の所有欲の<黒獣>の顔を力一杯殴りつけた。ぱぁんという乾いた音が鳴り響き、顔を殴りつけた時の嫌な手応えが手に走った――と思ったその時に、霊夢は驚いた。いつの間にか、拳が目の前の所有欲の<黒獣>の手に包み込まれるようにして押さえつけられている。咄嗟に防いだとでもいうのか。
「このッ……」
包み込む<黒獣>の手を振り払おうとしても、離れない。がっちりと手を抑え込んで、巨石のように動かない。離しなさい――と言おうとした直後、<黒獣>は手を使って器用に一瞬で拳を開き、霊夢の人差し指、中指、薬指を掴んだ。
[かいむをさわるてなんて、こわしてやる]
<黒獣>から聞こえた言葉。最初は意味が分からなかったが、すぐにその意味を理解して、霊夢は顔を蒼褪めさせた。
「あ、あんた、やめ」
ぼきぼきぼきッ。掴まれた指があらぬ方向に曲げられて、固い何かが折れるような嫌な音が手から聞こえてきたと同時に、指を千切られたような痛みが手を、腕に走り回り、霊夢は金切り声に等しい悲鳴を上げる。
「―――――――ッ!!」
普通、指をあらぬ方向に曲げて関節を外すことは容易い事ではない。だが、筋力が人や妖怪の域から脱している<黒獣>からすれば、造作もない事なのだろう。そして、このまま指を放っておいたら、本当に千切られてしまう。右手は術を発動させる時に重要になる利き手なのに、こんな事をされるなんて。これなら、左手で殴っておけばよかった。
「この、この、このっ!!」
右手から全身へ巡る痛みに顔を歪ませながら、霊夢は<黒獣>リグルを引き離そうとしたが、<黒獣>リグルは一向に離れようとしなかった。そればかりか、<黒獣>リグルは首を潰すつもりなのか、首を絞める力が強くなっていっている。息が詰まり、声が出なくなり、意識が霞み始める。
「この……この……」
[おまえさえ、いなくなれば]
首を、絞め潰される。そう思ったその時、突然目の前から<黒獣>リグルは姿を消し、首が自由になって、息が出来るようになった。霊夢は咳き込み、息を整えて、再度目の前に注目したが、やはり<黒獣>リグルの姿は消えていた。一体何が起きたのかと思って、下を見てみたところで、霊夢は驚いた。下の地面に大きなクレーターが作られていて、土煙が待っている。そしてその中央に、傷を負った<黒獣>リグルが倒れ伏しているのだ。
「な、何が……?」
あのやられ方から察するに、どうやら上から吹き飛ばされてあのようなことになったのだろう。すなわち誰かが<黒獣>リグルを上から攻撃したという事だが……。そんな事を考えて、上の方を見て、霊夢はまた驚いてしまった。いつの間にか上空に霊紗が移動してきていて、何かを放ったかのような姿勢をして下を見ている。
「れ、霊紗?」
霊紗は高度を落として霊夢と同じ高さに来ると、心配しているような表情を浮かべて霊夢に寄り添い、霊夢の背中をさすった。
「大丈夫か、霊夢」
霊夢は驚きながら頷いた。霊紗の背中をさする力が程よくて、すぐに息の調子が戻り、霊夢は深呼吸をした。
「大丈夫よ。それよりも今、何が起きたの」
霊紗は霊夢から<黒獣>リグルが離れた理由を話した。霊夢を掴んで<黒獣>リグルの動きが止まっているのを霊紗は隙とし、<黒獣>リグルに気が付かれないように上空へ移動。<黒獣>リグルの真上まで来たところで急降下し、<黒獣>リグルの身体目掛けて発勁を放ち地面へと吹き飛ばした。だから地面にあのようなクレーターが出来、土煙が舞っている。
「なるほど、助けてくれたのは、霊紗だったのね……」
「君は私の大事な孫娘だ。守らなければ、死んだ霊凪に申し訳が立たないし、紫の変革が潰える事になる。君を守るのは懐夢だけではないよ」
「そうだったわね……」
霊紗は霊夢の右手に目を向けた。人差し指、中指、薬指の根元の関節が外れて、あらぬ方向に曲がってしまっている。これでは満足に術を打つ事も出来ないだろうし、何より痛みでろくに動く事すら出来ないかもしれない。治す際には強い痛みが走るだろうが、治さなければ内部で炎症が起きて腫れたり、指が思うように動かなくなる。
「すまない霊夢。右手、治すぞ」
そう言って、きょとんとしている霊夢の右手の三本の指を、霊紗はがっと掴んだ。霊夢の顔が苦痛で歪み、その苦痛を顔から感じ取って、霊紗もまた顔を歪ませたが、霊紗は構わずに、霊夢の右手の三本の指を元の位置へと戻した。
ぐきぐきぐきっという嫌な音が鳴り響き、霊夢はかっと目を開いて悲鳴を上げる。
「ぐぅ――――――――――ッ!!!」
すかさず、霊紗は懐から一枚の札を取り出して、元に戻った霊夢の指に張り付けて、胸の前に手を持ってきて人差し指を立て、宣言するように言った。
「活」
霊紗の宣言の直後、札は柔らかい大きな光となって、霊夢の指に吸い込まれた。苦痛が止んだのか、霊夢は再度深呼吸をして、顔を上げた。先ほどまでの苦痛による歪みの表情は消えて、代わりに落ち着いたような表情が浮かんでいる。
「あ、ありがとう霊紗。あんたも使えたんだっけ、この術」
「これでも元博麗の巫女だからな」
互いに微笑み合った直後、二人の様子を少し離れていたところから見ていた魔理沙、アリス、幽香、慧音、懐夢の三人が二人へ近づき、その中の一人である魔理沙が霊夢へ声をかけた。
「霊夢、無事か!」
やってきた魔理沙の方へ顔を向け、霊夢は頷く。
「なんとかね。霊紗の助けがなかったら危ないところだったわ。っていうか、なんであんた達助けてくれなかったのよ」
幽香が溜息を吐くように言う。
「やったわよ。でも放った光弾とか弾幕は全部鱗粉に邪魔されて届かなかったわ。さっきの貴方たちの周りには鱗粉の壁が出来ていたからね」
アリスが顔を青白くする。
「それにしても、あのリグルは不気味だわ。無言で襲いかかって、無言で霊夢の首を絞めて鱗粉をばら撒いて……」
慧音が頷く。
「あぁ。あんな凶悪なリグルは見た事がない」
霊夢は思わず「は?」と言ってアリスを見つめた。<黒獣>リグルは喋っていたではないか。自分の首を絞めている時も、指を負った時も、ちゃんと声を出して喋っていた。
「何を言ってるのよ。あいつは喋っていたわ」
一同が一斉に首を傾げ、幽香が呆れたような顔をする。
「貴方こそ何を言っているの? リグルはさっきから無言で戦っているわよ」
霊夢は驚き、皆を見回す。
「え、え? あいつは喋ってる……」
懐夢が心配そうな表情を顔に浮かべる。
「霊夢、大丈夫? リグル、喋ってないよ」
「貴方も聞こえていないの」
どうやら誰も<黒獣>リグルの声を聴いていないらしい。話を聞く限りでは、皆は<黒獣>リグルに攻撃を放っていたらしいので、もしかしたらその時の音で聞こえなかっただけかもしれないが……。そう考えたその時、霊紗が懐夢に呼びかけた。
「懐夢、霊夢の傍で霊夢を守れ。あの娘の狙いは、霊夢だ」
「リグルは霊夢を狙ってる?」
「そうだ。これだけの者がいる中、あの娘は霊夢を優先的に攻撃した。そして霊夢を一気に殺害しようとしている。お前の使命は、霊夢を守る事だ。友人なのか恋人なのかわからないが、容赦はするな」
懐夢は一瞬俯いてから、顔を上げて頷き、霊夢の傍に寄り添うようにして、身構え、下を向いた。かと思えば、懐夢はすぐに驚いたような顔になり、声を上げた。
「み、みんな、リグルを見て!」
懐夢の声に、一同は下にいる<黒獣>リグルに視線を向けた。<黒獣>リグルは上空を向いて、敵である自分達を見つめたまま動かなくなっていた。「一体なんだ」と魔理沙が呟くと、霊夢は耳に声が流れ込んでくるのを感じ取った。
[かいむは、わたしのものだ]
<黒獣>リグルの声だ。やはり、皆には聞こえていないらしい。一体なぜかと考え出す前に、次の声が聞こえてくる。
[かいむがすきなのはわたし、かいむがすきなのはわたし、かいむをあいしてるのはわたし]
徐々に声は強くなる。
[かいむは、わたしのものかいむは、わたしのものかいむは、わたしのものかいむは、わたしのものかいむは、わたしのものわたしのものわたしのものわたしのものわたしのものわたしのものわたしのものわたしのものわたしのものわたしのものわたしのものわたしのもの]
雪崩のように連続する異形の声、所有欲の<黒獣>が発する声に背筋が凍り、霊夢は軽く悲鳴を上げて耳を塞いだ。
「嫌ぁ!」
突然悲鳴を上げる霊夢に一同は驚き、懐夢が声をかける。
「れ、霊夢どうしたの!?」
さらにその直後に、魔理沙が下を指さす。
「お、おいお前ら、あれを見ろ!」
魔理沙の声が聞こえて、霊夢は耳から手を放し、魔理沙の言う下を、所有欲の<黒獣>に目を向けた。所有欲の<黒獣>の周りは黒い霧が発生し、すっかり所有欲の<黒獣>の姿を隠してしまっていた。声は聞こえなくなったが、所有欲の<黒獣>に何が起きているのか、見当が全く付かない。
「一体何が……?」
霊夢が呟いた直後、地面に立ち込める黒い霧が突如として爆発し、猛烈な強風が一同に襲い掛かった。台風や竜巻が来た時のような暴風に、一同は大きく後退させられて、顔を手や腕で覆うなどし、<黒獣>リグルから目を逸らした。やがて暴風が収まり、視線を外へ向けたところで、一同は驚いた。辺りが、まるで夜になってしまったかのように暗く染まっているのだ。
一同の中央にいる霊夢が驚愕したような表情を浮かべて、呟く。
「そ、空が暗く……!?」
慧音が辺りを見回しながら、続ける。
「まさか、これも鱗粉の力だというのか……!?」
幽香が驚きの表情を浮かべる。
「驚いたわね……まさかこんな芸当まで出来てしまうなんて」
懐夢が下を向いて、「あっ」という声を上げる。
「みんな、り、リグルが!」
一同は再度地面にいる<黒獣>リグルへ目を向けて、その姿に驚愕した。身にまとっていたドレスはすべて消え去って、<黒獣>リグルは裸になっており、肌は顔と足、左手を除いてどす黒く染まり、赤と紫色の刺々しい模様が走っており、後ろ肩から甲虫のそれを大きく、太くしたような、甲殻を纏った異形の腕が生え、そこから先ほどまでは背中から生えていた蝶の羽が生え、口内と瞳は赤く光り、頭から生える触角の右側の方が、先端に赤い光を宿す、触角ではない、完全なる長い『角』になっていた。そして身体のあちこちに<黒獣>である事を証明する、『黒い花』の紋様が浮かび上がっている。
しかし、その時霊夢は気付いた。リグルの身体に浮かび上がっている模様が、これまで見てきた<黒獣>のそれとは違う形をしている。<黒獣>の身体に浮かび上がる花の模様は、桜の花のような形をしているが、リグルのはまるで水仙の花のような形をしている。一体あれはなんだと思ったその時に、変わり果てた学童の姿を見た慧音が口を覆った。
「あれが、あれが私の教え子のリグルだというのか……」
魔理沙が冷や汗をかく。
「リグルっていうか、完全に化け物だな」
アリスがごくりと息を呑む。
「何よあれ……まるで暴妖魔素の時みたいじゃない。いや、もしかしたらそれ以上……!?」
変わり果てた友人の姿に懐夢が戦慄していると、霊紗がその肩に手を置いた。
「怯えるな、懐夢。あれは<黒獣>だ。容赦をしていい相手ではない」
「わかってます」
続けて、霊夢が一同に声をかけた。
「みんな、気を付けて! 第二回戦の始まりよ。今度こそ、あいつを止める!」