第百三話
リグルに連れられて、懐夢は森へとやって来た。昨日の夜と同じ、自分が紹介して、リグルが住処として選んでくれた森だ。まだ日中だからか、鈴虫や蟋蟀達の歌声はなく、風の音と木や歯痒れる音が響いているだけだった。どこかで咲いているのだろう、どこからともなく、金木犀の匂いがする。しかし、この森もリグルの指示ひとつで、虫達の歌声が響き渡る森へと姿を変える。
「ついたね、リグル」
リグルは黙ったまま頷いた。きっと虫達に指示をする準備をしているのだろう。リグルは蟲達に指示をする能力を持っているが、それを何百、何千もの虫達に伝えるのは難しいはずだ。だからこういうふうに何も喋らなくなるに違いない。
「あの蟲の声がまた聴けるなんて、嬉しい」
言っても、リグルは相変わらず黙ったままだった。かと思えば、リグルは閉じていた口をいきなり開いた。
「ねぇ懐夢」
「うん?」
「博麗神社で霊夢と暮らしてて、楽しい?」
突然の問いかけに、懐夢は首を傾げた。
「どうしたの、急に」
「いいから教えてよ。博麗神社で霊夢と暮らしてて、楽しい?」
確かに、霊夢との生活は楽しいと言えるものだ。最初はかなり不安ではあったが、霊夢の友人達はどの人も個性的で接していて面白く、霊夢との話だって楽しいし、霊夢と遠出する事も、身を危険に晒される異変の解決だって、大蛇里に住んでいた時には体験できなかった事だから、時には楽しさを感じる事だってある。それに今は霊華もいるから、尚更生活は楽しいものとなっている。
「楽しいよ。たまに異変に巻き込まれたりはするけれど、大蛇里で暮らしていた時よりも、ずっと楽しい」
リグルは軽く上を向いた。
「でもさ。懐夢は今霊夢と一緒に異変を解決したりしてるよね。そして、今の異変は死んじゃう人が出るくらいに危ない。いつ大きな怪我をするかも、わからない」
「そうだよ。だから尚更、ぼくは霊夢と一緒に異変を解決したいって思う。そんな危険な異変をいつまでも起こしておくわけにはいかないから」
リグルは下を向いた。
「ねぇ懐夢。本来なら貴方だって、異変を解決するために戦う事なんてなかったんだよね」
リグルは振り向いて、懐夢を目を合わせた。
「だから、懐夢が戦う事になったのも、霊夢と一緒に暮らしてたせいだよね」
その時、懐夢は気付いた。リグルの瞳が、何だか濁っているような気がする。いつもは宝石みたいに綺麗な翡翠色の瞳をしていると言うのに、黒が混ざってしまったかのような、少し汚い色になっているような気がしてならない。光の加減かとも思ったが、日が差しているところに立っているのでそれはないはずだ。
「ど、どうしたのリグル」
リグルは笑んで、もう一度下を向いた。
「私ね、ずっと思ってたんだ。懐夢は本当は霊夢と一緒に戦っていいような人じゃないって。どこかで穏やかに暮らしていた方がいい人なんだって。誰かを守るんじゃなくて、誰かに守られながら暮らしていた方が幸せな人なんだって」
リグルは濁った瞳をもう一度こちらに向けて、歩み寄ってきた。
「だからね懐夢。私が、私が一生貴方を守ってあげる」
「な、何を言ってるの」
リグルは急に腕を開き、懐夢の身体に抱き付いた。そしてそのまま一気に体重をかけて、懐夢共々地面へ倒れた。いきなり倒されて、懐夢は軽い悲鳴を上げる。
「な、何をするの」
リグルは懐夢の腕を自らの腕で押さえつけて、起き上がった。そしてそのまま懐夢の腰部へ座り込み、馬乗り状態になる。懐夢は動こうとしたが、両腕と腰を抑えつけられて全く動けなかった。
「懐夢が、霊夢と一緒に暮らしてるのは、間違いなんだよ。だから懐夢は、みんなから、化け物、呼ばわり、されるような力を手に入れて、誰にも、相手に、されなくなりながら、戦う事になっちゃ、った」
「そ、そんな事はないよ……!」
「でも大丈夫だよ、私は、懐夢を化け物だ、なんて、思ったりしない」
懐夢は気付いた。リグルが、全くこちらの話を聞いていない。自分の話を押し付けるように喋っているだけだ。しかも興奮状態になってしまっているのか、吐息が非常に荒く、嗚咽が混ざったような喋り方になっている。いつもの、リグルではない。
リグルは懐夢に話を続ける。
「ねぇ懐夢。それは何でだと思う? 何でだと思う?」
「な、なんで」
リグルは顔をゆっくりと近付けてきた。顔にリグルの息がかかる。
「それはね、私、懐夢が、好きだからなんだよ」
懐夢は目を丸くした。リグルは続ける。
「私ね、ずっと懐夢が、好きだった。誰よりも、好きだった」
リグルの言葉を聞いて、懐夢は昨日の話を思い出した。リグルは自分に好きな人がいると話してくれたが、好きな人については教えてくれなかった。だが今の言葉からして、リグルが好きだという人というのは
……。
「も、もしかして、リグルが好きな人って……」
リグルの顔に喜びの顔が浮かぶ。しかしそれはまるで狂気を孕んだような、普通とは違う喜びの顔だった。
「そうだよ。私が好きな人、私が愛してる人、それはね、懐夢、貴方だよ」
「ぼ……ぼくが……好き……?」
リグルはうんうんと頷く。
「そうそう。懐夢はいつも優しい。懐夢はいつも親切だし、誰かを護ろうと必死になってる。私に、勉強を教えてくれるし、優しくしてくれる。そんな人を好きになるななんて、無理だよぉ」
リグルは懐夢の頬に手を当てた。リグルの手は氷のように冷たく、触れられた瞬間に背筋に悪寒が走り、懐夢は声にならない悲鳴を上げる。
鼻に妙に甘ったるい匂いが流れ込んでくる。リグルが出しているのかどうかはわからないが、かなり臭い。もしもこれがリグルの持つ匂いならば、リグルの匂いは明らかに変わっている。
「そんな懐夢がさ、あんな霊夢の家に住んで、あんな幽香に、可愛がられてるが許せなくてさぁ、特に幽香は、蟲に食われる花の立場のくせに妙に強くてさぁ。だから、始末しちゃったよ」
懐夢が唖然としたような顔になる。
「え……幽香さんを始末した? って事はもしかして」
「ううん大丈夫。殺しはしなかったから。でもあのまま放っておいたら、死んじゃうかもね。でもさ、それを懐夢が気にする必要はないんだよ」
リグルは懐夢の頬を静かに撫でた。
「さぁ懐夢、博麗神社なんか出て、霊夢の子もやめて、私の森のツリーハウスで私と暮らそうよ。一緒に暮らして、大きくなったら夫婦になって、一緒に蛍の舞うところを毎年見て、一緒に虫達の演奏会を毎年聞いて、一緒に街に出かけて……」
リグルの顔に狂気を孕んだ笑みが浮かび、背筋に悪寒が走る。
「あぁそうそう、大きくなったら子供も作らないとねぇ! 大丈夫だよ、私、懐夢との子供ならいくらでも、何人でも産める自信あるから。いっぱい子供作って、いっぱいいっぱい幸せになろうよ!!」
やはりリグルは話を聞いていない。一人で延々と話して、一人で興奮状態になっている。こんなの、リグルじゃない。こんなのがリグルであるはずがない。
今いるリグルは、自分の知っているリグルではない、リグルの姿をした別の何かだ。
「あぁ懐夢……懐夢……誰よりも大好き……誰よりも……愛してる……私だけの懐夢……わたしだけの懐夢……わたしだけのかいむ」
リグルのような何かが恍惚とした表情を浮かべたその時、懐夢はかっと目を開き、リグルの拘束が解けた右手で素早く背中にかけた刀を抜き、逆手に持った。そして、そのままリグルのような何かの左肩に狙いを定めて、刀の刃を食い込ませた。刃はリグルのような何かの左肩から体内へ入り込み、左半身を突き進んでいく。ぞぶぞぶっという肉が裂けるような不気味な音が鳴り、肉を切り裂いている嫌な手応えが手に走る。そして腹のところで刃が止まり、懐夢は叫びながら力を込め、刀を上に動かした。
「ああああああああッ!!」
ずばんっ、という肉が引き裂かれる音と共に刀の刃が体内より現れ、身を斬られたリグルのような何かからは血しぶきが飛んだ。しかし、その時の血を見て、懐夢はごくりと息を呑んだ。リグルのような何かから弾けた血は赤くなく、まるで書道で使う墨のように黒かった。その『黒い血』が、今自分に襲い掛かってきているリグルがリグルではない事を確信付かせた。そしてリグルのような何かは突然切られた事と、その痛みで茫然としたまま動かなくなっている。
「は……なれ……ろぉぉぉッ!!」
懐夢はリグルのような何かの腹部に両足を付けて、そのまま力を込めて蹴り上げた。リグルのような何かの身体は黒い血を撒き散らしながら打ち上げられて、懐夢から離れた位置にどしゃっという音を立てて落ちた。懐夢は素早く起き上がり、懐から霊夢が使っている物と同じ札を取り出して、刀と合わせて身構えた。
「何なんだ……お前は何なんだ」
リグルのような何かは地面に倒れたまま動かなかった。まさか、殺してしまったかと思ったその時、リグルのような何かはむくりと身体を起こし、『黒い血』を身体から垂らしながら、立ち上がった。
「かいむ。なんてことをするの。わたし、かいむのことすきなんだよ」
懐夢は首を横に振る。
「お前がリグルなわけない! リグルは……本物のリグルはどこに!?」
「だから、リグルはわたしだよ。かいむがすきなリグルは、わたしだよ」
何回も同じ事をリグルに似た何かはほざく。リグルに似た姿をしているが、あれは決してリグルなんかじゃない。もしもあれがリグルなのだとすれば、あれだけの傷を追っておきながら何ともなさそうにしてる事も、本来ならば紅いはずの血が黒くなっている事も説明が付かない。
「なのに、なのに、こうげきするなんて、ひどい、ひどい、ひどい」
その時、懐夢はリグルのような何かの顔を見て気付いた。リグルのような何かの顔に、模様が現れている。赤と紫、黒で構成された、禍々しくて刺々しい、見覚えのある模様。そしてその模様を持つ者は、一種類しかこの幻想郷にしか存在していない。
(<黒獣>……!!)
間違いない。あそこにいるのは、今まで話していたのはリグルの<黒獣>だ。霊夢によれば、負の感情が高まった際に人、妖怪問わず変異して生まれるのが、<黒獣>。リグルはいつの間にか、負の感情を高ぶらせて、<黒獣>になっていたのだ。<黒獣>は元になった人や妖怪を中に呑み込んでいるから、本物のリグルは、あの<黒獣>の中だ。
「<黒獣>め……リグルを返して!!」
「だから、リグルはわたしっていってる」
リグルの<黒獣>が一歩踏み出したその時、後方から大きな声が聞こえてきた。
「懐夢ッ!!」
何度も聞いた声に、懐夢は咄嗟に背後を振り向いた。少し暗い森の木の間に、人影がいくつか見えたが、その人影はかなりの速度でこちらに接近してきて、やがてその正体を明かした。日と影の正体は、霊夢、魔理沙、アリス、幽香、慧音、霊紗の六人だった。
「霊夢、霊紗師匠に慧音先生!」
六人はすぐに懐夢に元へ駆けつけ、やがて地面へ降りたかと思えば、先頭を飛んでいた霊夢が真っ先に駆け寄ってきた。
「懐夢! 怪我はない!?」
「ぼくは大丈夫。それよりも、リグルが……!」
慧音が目の前のリグルに声をかける。
「リグル……一体何故幽香をあんな目に!」
懐夢は首を横に振った。
「違うんです慧音先生! 今のリグルは、今のリグルは<黒獣>なんです!」
慧音が「なんだと!?」と言って驚き、来る途中に霊夢から<黒獣>の事を聞いていた幽香が眉を寄せる。
「なるほどねぇ……だからあんなに強かったわけか。本来の力じゃない力で叩きのめしてくれたなんて、馬鹿にしてくれるわ!」
同じく<黒獣>の話を聞いたアリスが身構える。
「<黒獣>……すごい邪気を放ってる……」
霊紗が目を細める。
「あれが<黒獣>? 普通の妖怪と見分けがつかないが……」
直後、<黒獣>はぎりっと歯を食い縛った。
「かいむにちかづくな……かいむは……かいむは……」
<黒獣>は叫ぶように大きな声を出した。
「かいむはわたしのものだぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
<黒獣>の叫び声の直後、<黒獣>から黒くて強い光が放たれ、七人は思わず目を腕で覆った。そして黒い閃光が止んで、<黒獣>が見えるようになると、七人は驚いた。<黒獣>はフリルが沢山付き、肩と腕、首が露出した黒いドレスを身に纏い、深緑色だった髪の毛が黒く染まり、目が紅くなり、背中からは目や棘といった禍々しい模様の描かれた、蝶のそれに似た羽が生えているなど、姿を大きく変えていた。そして露出した肌には、赤と紫で構成された禍々しい紋様、<黒獣>である事を証明する『黒い花』の模様が浮かび上がっていた。
大きく姿を変えたリグルの<黒獣>に、霊夢が身構える。
「リグル……あの時からもう既に<黒獣>だったのね」
悍ましい姿になった学童に、慧音が顔を顰める。
「何という事だ……これも、ちゃんと指導できなかった私のせいなのか……」
魔理沙が首を横に振る。
「そんなわけないだろ。多分、あいつには魔が差したんだ」
霊紗が懐夢の傍に寄る。
「わかっているな、懐夢。お前の指名は霊夢を守る事だ」
「わかっています霊紗師匠。ですが、一つだけお願いがあります」
霊紗が懐夢へ顔を向ける。
「なんだ」
懐夢は目の前のリグルの<黒獣>を見ながら、静かに言った。
「……あの<黒獣>の中にいるリグルは、ぼくの大事な人です。だから、あの中からリグルを助け出してください!」
霊紗は懐夢の頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと懐夢の頭を撫でてから、力強く言った。
「いいだろう。やってやる」
続けて、霊紗は霊夢に話しかけた。
「霊夢、私も手を貸そう。とりあえずお前達には、私が歴代最強の巫女だという事を教えなければならないのでな」
霊夢がにぃっと口角を上げる。
「……見せて頂戴、お祖母ちゃんの力」
「お祖母ちゃん言うな」
直後、隣に幽香が並ぶ。
「霊夢、私も今回は手を貸すわよ。あの子があんなふうになってるのは、ひどく気に入らないわ」
「それは私も同じところよ」
霊夢は<黒獣>リグルに視線を戻し、身構えた。
「行くわよ……<黒獣>リグル!」