第百一話
懐夢はリグルに連れられて、すっかり暗くなった秋の空を駆けていた。先月まで生温かかった風は冷たくなり、修行を経て尚も寒さに弱い身体を刺すように吹いてくる。正直言えば、飛んでいるのは少し辛く、地面へ降りて進みたかった。だが、寒さに弱いのはリグルも一緒だ。きっとリグルも寒い中であっても自分に見せたいものがあって、博麗神社へ飛んできたのだろう。
リグルの後を追いながら飛んでいるが、今のところ、博麗神社から北の方角へ向かっている。眼下には夕闇に染まった草原と森が見える。
「ねぇリグル、どこまでいくの」
リグルは振り向いて、懐夢と顔を合わせた。
「もうすぐだよ。っていうか、もう着いてる」
懐夢は下を向いた。今のところ、森の真上にいる。
「森の上だけど、ここに何かあるの」
懐夢の問いかけに答えるように、リグルは一気に速度を緩めてその場に停止した。懐夢は驚いて速度を緩めたが、勢いはなかなか緩まず、リグルよりもかなり前に出たところでようやく停止。背後にいるリグルの方へ身体を向けた。
「きゅ、急に止まらないでよ」
リグルはごめんねと苦笑いすると、下を指差した。
「この下にある森が、懐夢に来てもらいたかった目的地。さぁ、中に入ろう」
そう言って、リグルは降下し、森の茂みの中へ消えた。懐夢は慌ててリグルの跡を追い、森の茂みの中に飛び込んだ。葉を散らしながら木の間を抜けて、草地の上に降り立ち、前に目を向けてみれば、そこには後ろで手を組んだリグルが穏やかな顔をして立っていた。
懐夢は何かあるだろうと思って辺りを見回したが、秋を迎えて葉を黄色や赤、茶色に染めた、秋の冷たい風に吹かれて揺れている草木くらいしか見つからず、この前のような蛍のいる水瓶があるわけでもない、はっきりいえば地味な森だった。聞こえてくる音も、風の音だけだ。
「リグル、何なのここ」
首を傾げる懐夢に、リグルが静かに言う。
「ここは新しい私の家がある森。私がこれまで住んできた森以上に沢山の虫達が住んでる賑やかな森」
懐夢はハッとした。リグルが蟲の竜となって住んでいた森を失った後、チルノの家に住む事になったのだ。しかし普通に考えれば、いつまでも他の人の家に住んでいるわけにはいかない。リグルはいつの間にかチルノの家を出て、住処を見つけ出して、そこに住んだのだ。
「なんだリグル、新しい住処を見つけたんだね」
リグルは首を傾げた。
「え、ここ、懐夢が教えてくれた森だよ?」
懐夢は「え?」と言ってきょとんとした。……自分がリグルに住処になりそうな森を教えた事などあっただろうか。もしかしたら忘れているのかもしれない。
「えっと……いつだったっけ? 最近覚える事が多くて、忘れる事も多くて……」
リグルは苦笑いしながら答えた。
「私がチルノの家に住み始めた三日後くらいに、懐夢、私のところに虫が沢山いる森を教えてくれたじゃない」
懐夢は「あっ!」と言って、その時の事を思い出した。そうだ、リグルがチルノの家に住み始めた三日後、幻想郷のあちこちにある様々な森を探し回って、リグルが住んでも問題なさそうなところを見つけ出し教えたのだった。新しい住処になりそうな森を見つけたと告げるとリグルはすごく喜んで、早速移動にかかると言ってそそくさとチルノの家を出て、教えた森にすみ始めたのだ。近頃様々な事があって忘れていたが、この森は確かに自分が見つけ出して、リグルに住処になるぞと提案した森だ。
「そういえばそうだったね。すっかり忘れてた」
頭を掻きながら苦笑いした後、懐夢はリグルへ用件を尋ねた。
「それで、ぼくをここに呼んだ理由って? 今って蛍の季節じゃないよね」
リグルは頷いた。
「そうだよ。蛍の産卵を終えて、沈黙したわ。今日は他の虫達の宴に付き合ってもらいたくて、懐夢を呼んだの」
「他の虫達の宴?」
リグルはそっと目を閉じ、指揮棒を手に持って、音楽の指揮を執るかのような姿勢を取った。
「音色の輩、夜の同胞よ。今宵この場に集える事に感謝する」
誰もいない森にリグルの声が小さく鳴り響く。懐夢からすれば、リグルが何を始める気なのか、全くわからなかったが、特に何も言わずにリグルを見つめ続けた。
リグルは目を開き、そっと微笑んだ。
「今宵、僅かな時間、我リグル・ナイトバグの名に於いて、宴を開催する。数多の同胞よ、歌い、奏で、響かせ!」
リグルが大きな声が森に木霊したその直後、それまで静かだった森が一気に無数の音で満ち始めた。決して雑音などではなく、澄んだ鈴が奏でるような心地の良い音色。だが、この音色には非常に聞き覚えがあった。
(これは……鈴虫の声?)
間違いない。大蛇里にいた時に秋になると母や父と共に聞いた、鈴虫の声だ。いや、鈴虫だけじゃない。耳を澄ませば、蟋蟀と松虫も同じように、森のあちこちで音色を奏でている。三種類の虫達が放つ、それぞれ似ているようで全く違う楽器のような音色が一つの大きくて美しい音楽となって、辺り一面に木霊させている。鈴虫や蟋蟀、松虫の鳴き声はよく聞いているが、こんな演奏会のような透き通っていて美しい音色は聞いた事がない。懐夢はうっとりして、目を閉じた。
「……虫達の、演奏会」
目を開けると、隣にリグルが来ていた。虫達の演奏会に聞き入っているのか、目を閉じてうっとりとしている。
虫達の音色を妨げないように、懐夢は小声でリグルに話しかけた。
「座ろうか」
リグルが頷いてその場に腰を下ろすと、懐夢も同じように腰を下ろし、その場の草地に座り込んだ。そのまましばらく虫達の演奏会に聞き入っていると、懐夢はある事が気になって、リグルに声をかけた。
「これが、リグルがぼくに聞かせたかったもの?」
リグルは頷いて瞼を開き、自らの翡翠色の瞳で懐夢の藍色の瞳を見つめた。
「そうだよ。懐夢にはずっとお礼がしたかったから」
「お礼?」
「懐夢はこうやって私に森を教えてくれたり、元気がない時に慰めてくれたり、傍にいてくれたり、勉強でわからないところがあったら教えてくれたりしてくれたけど、私は全然そのお返しとかしてなかったじゃない」
リグルは夜空を見つめた。
「色んな事をしてくれる懐夢に何もしてない事が私は嫌でさ。だから、そのお礼をしようと思って、こうやって懐夢を虫達の宴に誘ったんだ」
リグルは苦笑いして、懐夢と目を合わせ直した。
「こんな形でしかお礼が出来なくて、ごめんね」
懐夢は首を横に振った。
「そんな事ないよ。こんなに綺麗な蟲の声を聞いたのは初めて。きっとリグルに会わなかったら一生聞けなかったと思う」
懐夢はにっこりと笑った。
「だから、すごく嬉しいよ。ありがとうリグル」
懐夢の笑顔を見るや否、リグルは顔を少し赤くして懐夢から逸らした。いきなり顔を背けられた事に懐夢はきょとんとして、リグルに言った。
「え、リグル?」
リグルは黙っていたが、やがて小声で言った。
「ねぇ懐夢、ちょっと、寄りかからせてもらってもいいかな」
懐夢は少し首を傾げた後、答えた。
「いいけれど」
リグルはちらと懐夢の目を見た後、懐夢の身体に自らの身体を寄りかからせた。リグルの身体が一気に近くなり、肩に少し重みがかかる。ただ、リグルはちゃんと加減して寄りかかっているのか、リグルの体重に押されてしまうような事はなかった。寧ろ、リグルの体温が寒さを感じていた肌を温めてくれて気持ちがいい。頬のあたりにリグルのふさふさとした緑色の髪の毛が当たってくすぐったく、鼻にリグルの持つ蟲と女の子の匂いが複雑に混ざり合った独特の匂いが流れ込んでくる。最初は何だか変な匂いだなと思ったが、今となっては好きな匂いだから悪い気はしない。こうやって身体を付け合うのは母や霊夢とよくやったが、リグルとやるのは今日が初めてだ。
「懐夢は暖かいね」
「リグルだって暖かいよ。ここまで来る時、ちょっと寒かったけれど、リグルのおかげでどうにかなりそう」
リグルが苦笑いする。
「私も寒かったけれど、今日は我慢してたんだ」
「何で我慢なんかしてたの」
リグルは目を前に向けて、うっとりしているかのような顔になった。
「今日は、懐夢に言いたい事があったから」
懐夢は首を傾げる。
「ぼくに言いたい事?」
リグルは頷き、小さな声で言った。
「私ね、好きな人がいるんだ」
懐夢はきょとんとする。
「好きな、人?」
好きな人。それはどういう好きなのか。自分が母や霊夢が好きなのと同じ好きなのか、母と父のような好きなのか。もし後者の方であるならば、それは祝い事だ。愛する人が見つかった、いや、愛する事の出来る人が出来たという事なのだから。
「それは、リグルをお嫁さんにしてくれる人が、出来たって事だよね」
リグルは驚いたように身体をびくりと言わせて、懐夢から目をそむけた。
「いやいや、そこまで考えてない。考えてないけれど、まぁ一緒に暮らせたらなぁって思ってるんだ」
「へぇー。ところでその人ってどんな人? やっぱりかっこよかったりする?」
リグルはか細く言った。
「かっこいいとかそういう問題じゃないんだ。とても暖かくて、優しい人だよ」
懐夢はちょっと考えた。とても暖かくて優しい人と言えば、自分からすれば霊夢、慧音、霊紗、紫が思い当たるが、どの人も女性であって男性ではない。この事から、自分には男性の知り合いが霖之助以外いない事に気付いて、懐夢は少し驚いた。そして同時に、リグルが好きになった男の人がどんな人なのか、思い付く事ができなかった。
「……それって、ぼくでも知ってる人かな」
「あ、うん。知ってるっていえば、知ってるんじゃないかな」
リグルは胸の前で手を組んだ。
「ただ、ちょっと事情というか問題というか、そういうのがあって、まだ好きっていうわけにはいかないんだ。でも私はその人が好きで、好きで仕方ないの」
懐夢は何も言わずに聞いていた。リグルは続けた。
「だからもうさ、好きですって告白しちゃおうって迷ってるんだ」
「迷う? なんで」
「なんでって……私はその人と過ごす今の関係も好きなんだ。でも告白して、もし失敗してしまったら、もうその人と一緒にいる事は出来なくなる。それが結構怖くて……告白できないでいる」
頬に髪の毛を当てられながら、懐夢はリグルの顔を見た。そこにはこれまで見せた事がないような、女の子らしい表情が浮かんでおり、本当にリグルなのかと疑いそうになった。同時に、リグルの表情で懐夢は心がどきっとして、身体が熱くなるのを感じた。
「ねぇ、私はどうしたらいいと思う」
懐夢は困った。好きな人が出来て、その人に好きだと言いたいけれど怖くて言えない時はどうすればいいのかなど、母や父からも教わっていないし、霊夢や霊紗、紫からも教わっていないものだから、全くと言っていいほど何を言ったらいいのかわからない。こんな時に母や父がいてくれれば、何かしらの助言がもらえたかもしれないが……今はもう母も父もいないので、自分が考えるしかない。
懐夢は考えた。もしもリグルの好きな人の立場に自分が立ったなら、リグルからの告白を受けたいと思うだろう。きっとその人も自分と同じようにリグルと比較的長い間接して、仲良くしているはずだ。長い間仲良くしてくれた人から告白を受けたら、余程の事がない限りは受け入れるはず。
「いいんじゃないかな」
リグルは目を懐夢に向ける。
「いいって?」
「告白してもいいんじゃないかって思うよ、ぼくは。だってその人はリグルと長い間過ごしてるんでしょう? きっとその人はリグルからの告白を待ってると思うんだ」
リグルは目を見開いて数秒懐夢を見つめた後、目を逸らした。
懐夢は続けた。
「だから、リグルも正直に言った方がいいと思うよ」
リグルは俯いた。懐夢は蟲達の声を聞くのに集中し始めたのかと思って口を閉じたが、リグルはそれを裏切るように口を開いた。
「……懐夢は強いよね」
「え?」
リグルは薄笑いに近い苦笑いをした。
「懐夢だったらあっさり告白できちゃうんだろうね。強いから。私よりも強いから……」
いきなり話が変わったような気がして、懐夢は戸惑い、リグルに問うた。
「どうしたの急に」
リグルは呟くように言った。
「ねぇ懐夢。懐夢は前と比べて一気に強くなったけれど、それって何のためなの」
懐夢は首を傾げる。
「え、どういう事」
「懐夢はどうして強くなろうと思ったの? 何か理由があるんでしょ」
言われて、懐夢は強くなろうとした要因と、その人の顔を思い出した。……博麗霊夢。突然やって来た自分を、色々あってはいるが養う事を決めてくれて、共に過ごしてくれて、悲しい時に慰めてくれて、全てを失った事で空いた穴を埋める事に必死になってくれて、異変に呑み込まれて死にそうになった自分を命辛々助け出してくれた、姉のような人。自分に残された最後のよりどころ。この力は霊夢を守りたいがために、修行を乗り越えて手に入れた。
「……霊夢を守りたいと思ったから」
リグルは「え?」と言った。懐夢は続けて、どうしてこの力を手にしたかったかを話した。やがて話が終わると、リグルは顔から笑みを消して、瞬きを何度もした。
「霊夢のために、力が欲しいと思ったの」
懐夢は頷いた。
「霊夢はぼくを受け入れてくれて、博麗神社に住ませてくれた。それで、今もこうしてぼくを養い続けてくれてる。そんな霊夢に恩返しがしたくて、修行したんだ」
リグルは何やら茫然としたような顔になった。
「じゃあ……全部霊夢のために……?」
「そうだよ。もう大事な人を誰も失いたくない。だからぼくは強くなったんだ」
その時、懐夢はリグルが唖然としたかのような顔になっている事に気付き、リグルから顔を離して声をかけた。
「リグル、どうしたの」
リグルは口を手で覆った。
「……じゃあ聞くけれど」
「え?」
「……もし懐夢が誰かを好きになるなら、それは霊夢って事?」
懐夢はきょとんとした。確かに霊夢の事は好きだが、多分リグルのような好きではない。寧ろ姉や母のようで好きといった感じだ。……しかしこの気持ちが変わらないとは言い切れない。もしかしたら、一緒にいてくれる霊夢の事をリグルのように好きになる事もあるかもしれない。今現在はそうではないけれど。
「確かに霊夢は好きだけど、リグルみたいに好きってわけじゃ……」
「好きになるよ……なっちゃうよきっと……」
小刻みに震えるリグルに違和感を抱いて、懐夢はもう一度問う。
「どうしたのリグル。何だか様子が変だよ」
リグルは下を向いたまま何も言わなかった。
さっきまでうっとりしているかのような顔をして話をしていたのに、霊夢のために力を得たと教えてからリグルの様子は一気におかしくなった気がする。リグルとは全く関係のない話をしたはずなのに。もしかして、その中にリグルを傷付ける、またはショックを与えるような言葉があったのだろうか。
「ねぇリグル」
もう一度声をかけたその時、森に響き渡る虫の演奏会に紛れて人の声が聞こえてきた。
「あら、そこにいるのは」
女性の声だった。それも、かなり最近聞いたことのある声色だ。いや最近聞いたどころじゃなく、今日の内に聞いたような非常に記憶に新しい声だ。
その声が聞こえてきた方へ目を向けてみれば、暗い闇の中にぽつんと一つの人影があるのが見えた。人影は徐々にこちらに近付いてきて、やがてその正体を見せつけた。
「幽香さん!」
人影の正体は今日の日中に出会った女性、幽香だった。幽香は日が出ているわけでもないのに日傘を差しながら、ゆったりした歩調で近付いてきて、懐夢の目の前まで来たところで立ち止まった。
懐夢とリグルは立ち上がり、幽香と目を合わせて喋り出そうとしたが、それよりも前に幽香が口を開いた。
「懐夢、こんなに暗くなってから何をしてるのかしら。貴方のような子供は家に帰らなきゃいけない時間のはずだけれど」
懐夢は隣にいるリグルをちらと見てから、幽香に言った。
「リグルに誘われてここまで来たんです。そしたらこんなに綺麗な虫の演奏会が始まって」
幽香はふぅんと言ってから、懐夢の隣でそっぽを向いているリグルに目を向けた。
「弱っちい貴方が……ねぇ」
リグルはズボンの裾を掴んだ。幽香はリグルを鼻で笑ってからくるりと傘を回し、辺りを見回しながら、溜め息を吐くように言った。
「虫は花を食い荒らすから、嫌いだわ。懐夢、そう思わない?」
いきなり問われて、懐夢は戸惑った。確かに虫は種類によって綺麗な花を食い荒らしたり、枯れさせてしまう事もある。しかし虫達にとっては花は栄養源の一つの。だから虫は花を食べる事をやめる事は出来ないと言おうとしたその時に、懐夢はある事に気付いてはっとした。幽香は遠回しにリグルに嫌みを言っている。
「ぼくはそうは思いません。それに、そんな言い方はないんじゃないでしょうか」
懐夢が言葉に隠された意味を理解した事に、幽香は吃驚したような顔になって、すぐに笑みを浮かべた。
「なるほど、聡い子ね懐夢は。私は貴方の隣にいるその子が好きじゃないの。その子は花の天敵である虫を司る妖怪で、花を司る妖怪である私と対になる存在だからね」
幽香は蔑むような目でリグルを睨み付ける。リグルは顔を反らしながら横目で幽香を見ているだけだったが、そんなリグルに呆れたのか、幽香は溜め息を吐いた。
「だから、貴方がその子の隣にいるのが気に入らな」
抱き締めようとしたのか、幽香が懐夢へ手を伸ばしたその時、リグルは咄嗟に幽香の手に掴みかかり、止めた。流石に手を止められるとは思っていなかったのか、幽香は一瞬吃驚したよう顔になって、再度蔑んだ目でリグルをぎりっと睨みつけた。
「……何するの」
リグルは鋭い目で幽香を睨み返した。
「懐夢に触らないで」
リグルの手を握る力が強くなり、手に痛みが走り始めた。しかし幽香はものともせず、リグルの手を残った方の手で掴み返して、軽く持ち上げた。あまり重くないリグルの身体は幽香の力に引き上げられて、握り締められる苦痛にリグルの顔が歪む。それでもリグルは幽香を睨みつけるのをやめなかった。
そんなリグルの目を見つめて、幽香は一瞬何かに気付いたような顔になり、すぐに蔑むかのような笑いを浮かべた。
「なるほどねぇ……貴方は」
幽香が次の言葉を発しようとした次の瞬間、懐夢が大声を出してそれを遮った。
「やめてください幽香さん! そんな事、しないでください!」
懐夢の声は森中に響き渡り、それまで演奏会を繰り広げていた虫達は一斉に黙り込んだ。幽香とリグルの目は懐夢へ向けられ、リグルはか細い声で懐夢の名を呼ぶ。
「懐夢……」
懐夢はがっと二人に近付くと、幽香に捕まれているリグルの腕、そしてリグルの腕を掴んでいる幽香の手を力強く握り、無理矢理引き千切るようにもぎ離した。腕を離されたリグルはその場に尻餅をつき、幽香は驚いた目で懐夢を見つめた。懐夢の目には怒りと悲しみが混ざり合ったかのような複雑な色が浮かんでいた。
「リグルが、何をしたっていうんですか」
幽香はふんと鼻で笑った。
「その子はよく私の花畑の花を虫に食べさせようとするのよ。だからこういう事は制止をかけられたくないのだけれど」
懐夢はぎっと歯軋りをした。
「リグルはぼくの一番の友達です。リグルを怪我させたのなら、ぼくは幽香さんを許しません」
懐夢の言葉を聞いて、幽香は驚いたような表情を顔に浮かべる。
「貴方、その子の思いが……」
幽香は言い留まり、苦笑いした。
「なるほど、貴方はあまっちょろいだけじゃなくて、罪作りな子だったのね」
懐夢が軽く首を傾げると、幽香は懐夢の腕を振り払い、くるりと背を向けた。
「まぁいいわ。今日は懐夢、貴方に免じて何もせずに帰ってあげる」
幽香は少しだけ振り向き、横目でリグルを睨んだ。
「早く気付いてもらえるといいわね」
幽香の言葉にリグルが身を縮めると、幽香はふんと笑って森の出口へと歩いていった。もう真っ暗であるせいか、幽香の後ろ姿はすぐに闇の中へ溶け込み、見えなくなった。
大声を出したせいで虫達が黙り混み、静寂を取り戻した森の中、懐夢はリグルに身体も顔も向けず、小さな声で謝った。
「ごめんリグル。虫のみんな、鳴かなくなっちゃった」
ぼーっとしていたリグルははっと我に帰り、首を横に振った。
「だ、大丈夫だよ。それよりも、ありがとう。助けてくれて」
その時、懐夢ははっとある事を思い出し、懐の懐中時計を取り出して、その文字盤に目を向けて驚いた。懐中時計の針は、午後六時を指していた。帰っていなければならない時間まで、十五分しか残っていない。リグルとの話に夢中になっていて、気が付かなかった。
「あの、懐夢」
リグルが声をかけたその直後、懐夢は振り向いて、軽く俯いた。
「ごめんリグル。もう、帰らなきゃいけない」
リグルは驚愕してしまったかのような顔になる。
「え、もう帰っちゃうの」
懐夢は頭を下げた。
「本当にごめん。誘ってくれてありがとうね。また今度、虫の演奏会を聞かせて」
そう言って、懐夢は地面を蹴り上げて宙に舞い上がった。リグルは震える声で懐夢に言う。
「ま、待って懐夢!」
声が届かなかったのか、懐夢はそのまま空へ舞い上がり、博麗神社のある方角へと消えていった。一人静寂の包み込む森に取り残されて、リグルはその場に座り込んだ。
どうして帰っちゃうの。どうして私よりも霊夢なの。どうしていい時に邪魔が入るの。
行かないで。行かないでよ懐夢。私の何がいけなかったの。私だって懐夢の事好きなのに。
ううん、懐夢が好きなのは私だけなのに、どうして私より霊夢なの。どうしたら私のところに来てくれるの。どうして私じゃ駄目なの。
一人にしないで。私、懐夢がいなきゃ駄目なの。
胸の中で懐夢に言いたかった事が泡沫のように弾けている。そして弾けた思いは胸から顔に上がっていき、目まで届いたところで涙となり、ぼろぼろと溢れ出てきた。どんなに我慢しようとしても涙は止まる気配を見せず、目の前がぐにゃぐにゃとぼやけてきた。辛くなって嗚咽が出る。
懐夢に会いたい。幽香がやっていたように懐夢を抱き締めたいし、懐夢に抱き締められたい。懐夢ともっと話がしたい。一緒にいたい。
でも出来ない。懐夢は霊夢の家に住んでる、博麗の子だ。だから自分と一緒に森の中のツリーハウスで暮らす事は出来ない。でも、懐夢と一緒に色んな事をしたい。懐夢と一緒に暮らしたい。懐夢と一緒に……。
「どうすれば、よかったの……」
嗚咽に混ぜて、心の中で思った言葉を呟いたその時だった。
[そんなの、簡単だよ]
リグルは思わず泣くのをやめた。今、どこからか声が聞こえてきた気がする。しかも、毎日聞いているかのような、すごく聞き覚えのある声だった。思わず立ち上がり、辺りを見回す。
「だ、誰?」
周りには自分の住む静かな森が広がっているだけで、どこにも誰もいない。あまりに苦しい思いをしていたせいで、幻聴が聞こえたのだろうか。
「なんなの……」
[こっちだよ]
先程の声が背後から聞こえてきて、リグルは飛び上がるように驚き、慌てて振り返った。そして、そこで言葉を無くした。……背後に立っているのは、他でもない、自分だった。髪の毛の質も、来ている服も、触覚も、身体つきも、顔付も、何もかもが同じ。いや、強いて言えば髪の毛の色が少し黒みがかっていて、目の色が赤いだろうか。そんなもう一人の自分が、顔に不気味な笑みを浮かべて、こっちを眺めている。リグルは目の前の出来事が信じられないような顔をして、か細い声で呟いた。
「あ……あなた……は……?」
紅目のリグルはこくりと首を傾げる。
[わからない? あなただよ。私は貴方だよ]
リグルは首を横に振り、身構える。
「そんなわけないでしょうが! だって私はここにいるもの!」
紅目のリグルは首を横に振る。
[ううんわたしは貴方だよ。貴方の心の中から出てきたんだ。大丈夫だよ、わたしは貴方の味方だよ]
「私の心の中から? わけわかんない事を言わないで!」
紅目のリグルは溜息を吐くように言う。
[わけわかんないなんて、ひどい事を言うなぁ。せっかくあなたを助けに来たっていうのに]
「私を助けに?」
紅目のリグルはひゅっと一歩踏み出し、リグルに一気に近付いた。
[ねぇ私。苦しいよね。すごく苦しいよね]
リグルは吃驚して、紅目のリグルから距離を取ろうとしたが、紅目のリグルはがっと手を伸ばしてリグルの腕を掴んだ。リグルの動きを止まったところで、紅目のリグルはくっ付くくらいに顔を近付ける。
[わたしはわかるんだよ。今あなたがすごく苦しい思いをしてる事を]
リグルはぎょっとして、顔を顰めた。
「何が、何がわかるのよ」
紅目のリグルはにぃっと口角を上げて、顔に笑みを形作った。
[懐夢]
「―――ッ!?」
リグルは目を見開いた。
紅目のリグルは続けた。
[生まれて初めて好きになった人、懐夢。懐夢に思いを伝えられなくて、苦しい。懐夢を独り占めできなくて、辛い]
リグルは青ざめた顔をして、首を横に振った。
「そんな、独り占めなんて……!」
[わたしはあなたなんだよ。だから、あなたの思ってる事なら何でも分かる。あなたが懐夢が大好きなのも、懐夢が欲しいのも]
リグルは必死になって否定を続けた。
「そんなふうに、そんなふうに思ってない!」
紅目のリグルはリグルの頬に手を添えた。
[でも、そんな事は出来ない。霊夢っていう人が懐夢にはいるから。霊夢が邪魔して、懐夢に近付いたりできない。霊夢のいるところに懐夢は住んでいるから、一緒に住めない]
リグルは叫んだ。
「そんな事思ってない!!」
[このままだと、懐夢が霊夢の物になっちゃう。ううん、もう懐夢は霊夢の物になりかけてる。それが怖くて仕方ないんだよね]
リグルは目をぎゅっと閉じて黙った。さっきからこのもう一人の自分は自分が思っている事を、考えた事を次々と当ててくる。しかも止めようとしても止めてくれない。一体、なんだっていうんだ。
[いつまで、そうやって自分を苦しめてるつもりなの、わたし]
リグルは目を開いた。目の前の自分の紅い瞳に姿が映った。
[いつまで苦しい思いをし続けるの。このままじゃ、壊れちゃう]
紅目のリグルは穏やかに微笑んだ。
[わたしはあなたに壊れてほしくない]
リグルは口を力なくぱくぱくさせた。
「あなたの、目的は」
[あなたが壊れちゃうのを防ぐため、あなたを助けるために、出てきたんだよ]
紅目のリグルはそっと笑った。
[もう、自分を抑え込んでいるのはやめようよ。正直になろうよ]
リグルは呟くように言う。
「……正直に……?」
[そうだよ。正直になって、やりたい事をしよう]
もう一人の自分の言葉に、リグルは考えた。自分がやりたい事と言えば、虫達をずっと守っていきたい事、懐夢と一緒に暮らしたい事。懐夢と一緒に幸せになる事、そしてその障害を……。
その事に気付いてリグルはハッとし、紅目のリグルの手を振り払おうとした。しかし紅目のリグルの手は離れず、リグルの頬に付いたままだった。
「いや、いやだ! やめてっ!!」
[どうしてやめるの? それをしないようにしてるから、あなたはこんなになるまで苦しんでるのに。これ以上苦しんだらあなたは壊れちゃう]
リグルは力強く首を横に振った。
「だってそんなことしたら、そんなことしたら、懐夢が、懐夢に」
[ほら、懐夢の事ばかり気にしてる]
紅目のリグルに言われて、リグルは思わず口を覆った。
紅目のリグルは更に顔を近付けた。
[あなたの中は懐夢の事でいっぱい。懐夢の事でいっぱいだから、苦しい]
直後、紅目のリグルの身体はどす黒く染まり始め、やがて完全に真っ黒になって、口と目が赤く輝いている化け物になった。しかも口は頬どころか、首を伝い、胸元まで大きく裂けていて、血のように紅い光を放っている。目の前にいた自分が突如として化け物に変化した光景にリグルのありとあらゆる筋肉が動きを止めて、リグルはその場を動けなくなった。そして目の前の化け物は胸元まで裂けている紅い光を放つ口を黒い涎を垂らしながら大きく開き、声を発した。
[さぁ、すなおになろう。やりたいことをしよう。くるしいのからぬけだそう。
かいむにおもいをつたえて、かいむをてにいれよう。かいむといっしょにしあわせになろう]
素直になっては駄目。やりたい事をやっては駄目。やりたい事をやってしまったら、懐夢が、懐夢が、苦しんで……。
[かいむをしあわせにできるのは、わたしだけ。かいむをあいしてるのは、わたしだけ]
化け物は口を更に大きく開き、中にリグルを入れようと、リグルへ迫り来た。リグルは何とか化け物から逃れようとしたが、目の前の化け物のせいで身体中の筋肉が硬直して、動けない。しかしその中でも口と喉だけは動き、リグルは絞り出すように言った。
「た……すけて……たすけ……て……」
化け物の口が迫り、目の前が真っ赤になったところで、リグルは力を振り絞り、大きな声で叫んだ。
「助けて、懐夢――――――――――――ッ!!!!」
リグルに危機迫る