1話
恋愛に多少縁遠い環境に居たとはいえ、決して鈍くも天然でも無い。
それ故、時々自分に向けられるその視線の意味合いに気付かないわけではなかった。
柔らかな甘さを含んだ中に、確かにある種類の熱と欲を潜ませた瞳。
そんな視線を向けてくる相手に、自分も仄かな淡い想いを抱いているのなら尚の事。
しかし、彼女はそれら全てからそっと目を逸らす。
何も確約されていないから。
そして、自分達の存在が、どこか不確かな者だから。
未だ『帰りたい』という気持ちは、確かに自分の中にあるのだから。
天秤はまだ『帰りたい』に傾いたままであるのだから。
社交界デビューした二藍に、普通ならば彼方此方から縁談のふたつやみっつ来ても可笑しくは無いのだが、それらしき話が無いのはエンデルクとキースという存在故にであった。
『あの』王弟殿下自らエスコートしてくる相手である。自分達がヘタに横槍を入れるには相手が悪い、ということ。
シスコン、ブラコンを(たとえ義理の、であっても)隠そうとしないキース相手に、どこまで穏便に話を進められるのか、ということ。
加えて、彼女の所作の優雅さから『秘された王国』の生き残り説も浮上してきたのだ。
ファリス家の末の姫君は、難攻不落の至上の姫君。
訳のわからない噂がまた一つ、貴族社会の中に広がっていったのだった。
「よろしいのですか?お嬢様」
「はい。でも効き目は個人差があると思いますから、ちゃんと試してから使ってくださいね。赤くなったり、かえって手が荒れたりしたらすぐに使用を止めてください。私が差し上げたとか、気にしないで。却って、悪化しているのに使い続けたら私のほうが困りますから。…約束してくださいね」
「勿論でございます」
浅めの口が大きなビンに詰められた軟膏を嬉しそうに持って帰っていくマーシャに、二藍は苦笑を浮かべる。後でロデオにでも事後報告と監視を頼もうと心に決める。
柘榴が見つけた、アロエに良く似た成分の植物は、それだけでは匂いも刺激も強く、クリームや化粧水の代わりに使うには問題があったのだが、市場に安く出回っている、糸瓜と同種の植物からできた化粧水と合わせると、刺激も匂いも押さえられることが分かった。試しに自分で使ってみると、想像以上の効果が現れ目を見張る。
ただ、どういう化学反応か分からないが、この二つを混ぜると、どろりとしたクリーム状になるのだ。
日本に居た頃使っていたハンドクリームより柔らかく、乳液より固い。しかも、色合いがあまり好ましくは無い。
二藍が使っている場面を見たファミアが、一歩後退する程である。
試しに、と言われ、決死の覚悟で使った彼女は、翌日驚きの声と共に、ぜひ自分にも分けて欲しいと言ってきたのには笑ってしまったが。
「慣れてしまえば、さほど気にはならないけど…売り物にするには難しいわね」
確かに一般の女性が好き好んで『どどめいろ』(と、柘榴が表現した)クリームを使いたがるとは思えない。…まぁ、今のところ売り物にするつもりも無いが、将来的に製品とするのなら、改良点の筆頭だと思う二藍であった。
「ある種の凝固作用だとは思うが…色は兎も角、効き目が俺達にも現れるところが凄いといえば凄いな」
手に掬って、塗りながら紫炎は苦笑を見せる。本体に戻った時毛艶が違うと彼は言う。
「しかし、抽出される液体は、どっちも無色透明なのに、どうして混ぜ合わせるとこんな色になるんだ?」
「化学反応まで聞かないでください」
皮膚が弱い腹部や首筋にもアレルギー症状は現れなかったが、自分達がそうであるからといって、他者がそうとは限らない。
「香りつけも課題ですね。香水が無いわけではないですけど、思った以上に日本人感覚に近いですね」
貴族社会においても、女性も仄かに香る程度にしか香水をつけることはしない。
「下水道文化が発展しているからだろうな。あれはそもそも『臭い消し』的な要素から始まった文化だ。日本の『香』も同じだよな」
「あと、香油の精製にも理由があるらしいです。こちらは機械で行なうのではなく魔法で精製するらしいので…かなり高価なものになるらしいですよ」
義妹から頼まれて、嬉々としてビン一杯の薔薇の香りに似たエランという花の香油を作ってくれたキースは「結構手間がかかるんです」と話してくれた。
とはいえ、天災(笑)魔道師が目の前で瞬時に行なってしまうので、自分達には実感は皆無だが。
「その上、好んで香水に使われる香りの花の香油は、肌に直接つけると刺激が強く、かぶれの元に成り易い、か。豪商への道は果てしなく遠そうだな」
「誰が商人ですかっ!」
ファミアやマーシャを通じて、騎士団や貴族の下働きの女性にクリームが口コミで広がって、ちょっとした小遣い稼ぎになるのは、これから暫くしての事。